ヴィルシーナが自分の胸をトレーナーに押し付ける話


 ────スキンシップで、胸を押し付けて、彼にアピールしちゃおう。

 トレーナーさんとのお出かけの最中、私は、そんな文言を思い出した。
 それは先日、所用でシュヴァルの部屋に行った時、ベッドの下から出て来た雑誌に書いてあったこと。
 確か、『彼氏の喜ばせ方』とかいう内容だったかしら。
 あの子も年頃なのね……と感慨深く思いながら、そっと机の上に置いてあげたのを覚えている。
 ちらりと、隣を歩く彼を見やる。

「どうかした、ヴィルシーナ?」
「……いえ、なんでもないわ」

 優しく微笑みながら首を傾げるトレーナーさん。
 私は何故かどきりとしてしまって、すぐにふいっと目を逸らしてしまう。
 ……恥ずかしながら、私はあまり男性と関わった経験が少ない。
 小さい頃から妹達のお世話に、レースクラブ、そして様々な習い事ばかりしていた。
 勿論それは幸せな日々だったと思っているし、後悔なんて何一つしていない。
 ただ、パパ以外の男性と、二人でお出かけするくらいの仲になることは、初めてだったわけで。

 彼も、胸を押し付けられたら嬉しいのかしら────なんとなく、そう思ってしまった。

 一般的に大きい胸、というのは女性の魅力の象徴ではある。
 あまり気分の良いものではなかったが、私や妹達のそういう部分に熱視線を向ける男性も、いるにはいる。
 ただ、真面目と堅物が服を着て歩いているようなトレーナーさんは、どう思っているんだろう。
 私を、私の胸を、魅力的だと思ってくれているのだろうか。
 それが、無性に、気になってしまった。

「……服なんて掴んで、何かあった?」
「えっ?」

 一瞬、トレーナーさんが何を言っているのか、理解出来なかった。
 不思議そうな顔をする彼の視線の先を見てみれば、袖の端っこをちまっと摘まんでいる指先。
 それは紛れもなく、私の手だった。
 かあっと、燃えるように顔が熱くなってしまう。

「こっ、これは……!」

 慌てて手を離そうとして────頭の奥の冷静な部分が、それを制した。
 今が、確かめるチャンスなのでは、と自分に問いかける声が脳裏に響く。
 そうだ、もうすでに扉に手をかけてしまった、扉を叩いてしまった。
 ここまで来てしまったのなら、その扉を開けない方が、失礼というものだろう。
 ……それにこれは、トレーナーさんに喜んでもらうため、なんだから。

「わっ……!」

 私は、掴んだ裾を、軽く引っ張った。
 軽くといってもそれはウマ娘の力基準、トレーナーさんは驚きの声を上げて、少しだけバランスを崩す。
 その隙を見逃さず、私は彼の腕を全身で包み込むように、ぎゅっと抱き着いた。
 想像ていたよりもずっと太くて、大きくて、硬い、彼の雄々しいもの。
 それを挟み込むように歪む自身の胸の膨らみを見て────急に、すごい、恥ずかしくなってきた。

 わっ、私、もしかしてとんでもなく、大胆なことをしてるんじゃ……?

 自身を省みた刹那、先ほどを越える勢いで、頬が熱く燃え上がる。
 心臓の鼓動が大きく響いて、腕を通して、トレーナーさんに伝わってしまいそうなほど。
 そのことが恥ずかしくて、更に頬の熱量は高くなって、心臓の音色は大きくなっていく。
 ああ、なんて悪循環。
 私はこんなドキドキしているのに、トレーナーさんは何の声も、反応も返してくれない。
 ……嬉しくないのかしら、ドキドキしているのは、私だけなのかしら。
 落胆にも似た想いを持ちながら、私は恐る恐る、彼の顔を見た。

「…………っ」
「……トレーナーさん?」
「……ヴィッ、ヴィルシーナ、ちょっとこれは近いんじゃないかな、その、色々、当たってるし、さ」

 トレーナーさんは、頬を赤くしながら目を逸らし、頬をかいていた。
 純粋で真っ直ぐな瞳は、目のやりどころに困っているかの如く、ゆらゆらと彷徨っている。
 普段は穏やかで、落ち着いたトレーナーさんは、明らかな動揺を表に出していた。

「……へえ?」

 口角が上がり、口元が歪む。
 尻尾がしゅるりと彼の足を捕らえて、その逃げ道を塞いだ。
 そっか、そうなのね。
 普段は、女性としての私なんかに興味無さそうなトレーナーさんも、こういうのには弱いのね。
 ともすれば軽蔑してしまいそうな事実なのに、何故か私の心は────密かに、歓喜していた。

「ふふっ、トレーナー、さん♪」
「ちょっ、まっ……!」

 抱き締める力の強弱を変えてみたり、擦りつけるよう身動ぎしてみたり、胸の当てる箇所を少し変えてみたり。
 感触をちょっとずつ変化させるように調整して、トレーナーさんを慣れさせないようにする。
 その甲斐あってか、彼は可愛らしく、慌てながら表情をコロコロ変化させて、私を決して飽きさせない。
 勿論、私だって恥ずかしいのだけれど、それ以上に彼の反応が好ましくて、嬉しくて、胸が躍ってしまうのだ。
 そしてふと、私は思いついた、思いついてしまった。

「……っ、ヴィッ、ヴィルシーナ、本当に、急にどうしたんだ?」

 私は一旦、パッと身体を離した。
 僅かに残るトレーナーさんの温もりが冷え込んでいくことに、名残惜しさを感じながらも、彼を見つめる。
 彼は顔を真っ赤に染めながらも、安堵のため息をついて、困惑の表情で私を見ていた。
 私は優越感というか、背徳感というか、イケない気持ちになりながらも、正面から一歩、また一歩と彼に近づく。
 無防備な彼は、ただきょとんとした表情で、油断しきった身体を晒していた。

 正面からむぎゅっと押し付ければ、トレーナーさんはもっと、喜んでくれるんじゃないか。

 すでに目的と欲望と行動が錯綜してしまっていることには、私自身も気づいている。
 しかし、芽生えてしまったこの衝動を抑えることが出来ずに、私は彼の胸の中に、飛び込んだ。
 それが────地獄の窯に身投げをするような行為であると、気づかぬまま。
 ぽすんと、彼の胸の上に頭を寄せる。
 私と同じようにドキドキ鳴り響く心臓の音が、聞こえて来た。
 それをなんか嬉しいなと、思っていた、その時。
 鼻先から、少し汗臭くて、柑橘系の香水の香りが混じった、トレーナーさんの匂いが入り込んだ。

「…………っ!」

 匂いを嗅いだ瞬間、全身に甘い痺れが走って、身体がびくりと震えてから、かくんと力が抜けた。
 自分の身体を支えることが出来なくなって、トレーナーさんの身体にしがみついてしまう。
 がっしりとしいて、大きな胸板。
 触れただけで、それなりに鍛えていることが分かる、逞しい身体つき。
 それを感じとってしまうと、何故か動悸が激しくなって、呼吸が乱れてしまう。

「ヴィルシーナ!? 大丈夫か!?」

 トレーナーさんは慌てた様子で、私の背中に手を回して、身体を支えてくれる。
 それは、私のためを思った、献身的な行為。
 しかし今だけは、私に一番、してはいけない行為であった。

「ふぁ……んんっ……」

 トレーナーさんの太くて大きい腕に抱きしめられて。
 トレーナーさんの広くてがっしりとした胸に寄せられて。
 トレーナーさんの匂いを色濃く感じさせられて。

 ダメッ……身体が……勝手に……受け入れてる……抵抗できなくなってる……!

 気が付けば、甘える猫のように、すりすりと顔を擦りつけている。
 私の腕はトレーナーさんを背に回り、尻尾は興奮した犬のように大きく揺れ動いてしまっている。
 足にも力がまるで入らず、その身を捧げるように、彼に身体を預けてしまっていた。

「気分が悪いのか!? 病院に行くか!?」
「ひゃっ……あっ……うぅんっ……!」

 心配そうな顔を浮かべるトレーナーさんが、私の背中を優しくさすった。
 撫でるような優しい手つきなのに、背筋にはぞくぞくと甘い寒気が走る。
 身体がピンっとなって、変な声が漏れて、でもどこか気持ち良くて、拒否することが出来なかった。
 彼のごつごつとした手が上下するごとに、私の身体をびくびくと反応してしまう。
 こんなの、おかしい。
 こんなはずじゃ、なかったのに。
 しかし、ここまでの醜態を晒してしまっては、認めざるを得なかった。
 
 喜ばせるどころか、心配させて、あろうことが────私が喜んでしまっている、と。

 でも、まだ、諦めはしない。
 私は『女王』になるべきウマ娘で、何よりも『お姉ちゃん』だから、決して諦めるなんて、してあげないわ。
 蕩けきった顔をなんとか上げて、崩され切った身体を立て直し、弛みきった頭の螺子を締め直す。
 出来る限りの力を込めて、トレーナーさんをきっと睨みつけた。
 ……彼の感触と、匂いと、背中を撫でる手に、すぐに融けてしまいそうになるけれど。

「って……ない……」
「……ヴィルシーナ?」
「まだ…………ない……からぁ……!」
「顔真っ赤だし、息もすごい熱いし、目も潤んでるけど、本当に大丈夫なのか?」
「身体は屈しても……心が堕ちるまではッ……まだッ……負けてない……ッからァ~~……♡」
「何を言ってるんだ!?」

 ────数十分後、なんとか正気を取り戻した私は、トレーナーさんに平謝りをした。
 でも、あの時の温もりが、あの時の残り香が、あの時の感触が、脳に染み付いて、離れなくて。

 ……週に何度か、こっそり抱き締めてもらっている。

 妹達にも決して言えない、私達の、秘密である。
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