人斬りの性


「すまぬ、正雪。突然だが、もう我らは顔を合わせないほうが良いだろう。」

長屋で鍋を囲んでいたところでの、突然の耳を疑う告白に、正雪は時が止まったように眉一つ動かせなかった。話を続ける伊織。

「早合点するな。貴殿の言動に気分を害したことなど、これまで毛程どころか一度もない。ただこの頃、俺は貴殿を…斬りとうて堪らんのだ。その白塗り化粧と見紛うような面貌(めんぼう)と、風になびく白頭(はくとう)を目に入れるたびに、[切り捨てたのち、その身から滴る血で「紅化粧」の如く染め上げられた姿]を夢想してしまっている。――『生まれついての白装束』に鮮血の赤の彩りは、さぞ映えるだろう。――などとな。
どれほど鍛錬で流す汗と共に拭い去ろうと、恐らく貴殿と交友が続く限り、けしてこれは消え失せんだろう。己が口にしていることが正気の沙汰でないのは重々承知だ。俺とてこのような六でもない欲にまかせて、”友”を手にかけたくはない。――礼儀知らず極まりない日雇い浪人――として、軽蔑してくれて一向に構わん。さりとていずれ、このままでは斯様な夢想と形容する類いのままでは済まなくなる日も遠くはないだろう。この煩悩がいつ何時、俺の理性で抑え込めておけぬほどの ”大事 ”になるか、自分でも判らんのだ。その ”いつ何時 ”は明日かもしれぬし、今夜、魔が差した時やもしれんのだ。」

正雪は未だ、自らを「血に渇く人斬り」と嘲り、語り続ける目の前の青年を静かに見つめたままだ。

「カヤが居ぬ日を見計らい、こうして二人のみで会食する頃合を用意した。最初に誘うのが絶縁の申し出の場というのは気が重いことこの上ないが、許してほしい。…もしセイバーがこの場に立ち会っていたら、――辛気臭い空気で飯が不味くなる――と叱り飛ばされたかもしれんな。」

そう言って苦笑する伊織。
それを聞き終わるや立ち上がり、近くにあった灯りの火を消し、羽織と袴を脱ぎ、すたすたと歩み寄って膝を折り、伊織の懐へと倒れ込む正雪。伊織は正雪が徒手なのは判っており、抵抗らしい抵抗もしなかったが、慣れぬ状況と来る日も荒事を片付けてきた「職業病」とも呼べる習慣で、隣に置いていた刀へ無意識に手を触れてしまっていた。憚りの気があるのか、正雪は少し小声で話し始めた。

「…伊織殿の自制だけで足りぬのなら、私がその妖刀を封じる為の鞘となろう。僥倖とでも表せば良いのか。私は生まれてこの方、誰かと床を共にしたことがない。いわゆる ”男っ気のない女 ”でな。要は生娘だ。刀と筆と弁を振るうしか能がない、生きるに障りない限りは女であることを蔑ろにしてきたこの身だ。とはいえ、剣術では貴殿にはとても敵わぬな。ああ、もしも ”事 ”に至れば私は、貴殿の ”剣 ”によって血を流されてしまう事になるのか。それが今宵かもしれぬわけか。文字どおりの ”流血沙汰 ”だぞ。なるほど、これは ”大事 ”だな。」

「何を言い出すのだ正雪。」

「貴殿の内なる鬼が懐の大きな『偉丈夫』なのであれば或いは、それきりで勘弁してくれるやもしれぬぞ。一度では駄目というなら二度でも、三度でも…、それでも足りぬというなら渇く度に満たす役目を請け合おう。
それにそうすることで、どの道いなくなる ”友 ”の代わりに、そのうち連れ合いがふと湧いて出るかもしれぬぞ、伊織殿。いや、カヤ殿のお小言のたねが一つ減るゆえ、『一石二鳥』だな。此の身を抱いてやるだけで悩みが二つは無くなるのだ。どうだ、貴殿にとって大いに得であろう。」

漸く伊織へ顔を向ける正雪。らしい灯かりもなく、伊織にとって夜目の頼りとなるのは障子より漏れ出る月明かりのみだが、その淡々した声調とは打って変わって、正雪の顔が頬から耳までまるで茹で蛸のように真っ赤であったことは視認できた。
成人したおなごの ”あやし方 ”など全く心得のない伊織は、自身の胴体ほどしか無さそうなその双肩に手を置いて応えてやるでもなく、ただただ聞き手に回るしかないのであった。目が合ったのを察し、伊織の胸を借りて再び顔を伏せながら、先程より少し大きな声量で絞り出す正雪。

「憤らず、最後まで聞いてほしい。あの日、盈月の儀の終幕にて貴殿に救われたこの命だが、もう私には以前の『泰平』への宿願も、生きる矜持も、幕府打倒を打ち立てるほどの熱意も残ってはいない。今ここに在るは、託された願いも全う出来ず何も成し得なかった器であり、空同然の女身ただ一つなのだ。人並みに生きれる体にされたとて、何を拠所(よりどころ)にこれからを生きろというのだ。この身からもうこれより、生きている理由を奪わないでほしい。頼んでもいないのに救っておきながら果ては、――己が殺してしまうゆえ以後関わるな――などと、恩を返す機会すら私から取り上げるのか…!」

すすり泣きの声が屋内に響く。正雪の両手は伊織の着流しの正面生地を拳が作られるほど強く握られている。顔は伊織の胸に依然埋もれたまま、涙を流しては布地が吸いあげるを繰り返す。伊織は童の時分の妹がぐずりだした時の事を思い起こし、久方ぶりの手つきながらもそっと正雪の頭を撫でてやる。どれほど要したか正雪が落ち着き始めた頃、伊織が静かに口を開く。

「俺は恩返しなど求めようなどと”はな”から思ってはおらん。まして体で返すなどと。俺は腐っても武士の端くれ。そのような―――」

鼻をすする音がぱたりと止む。

「…カヤ殿の言うとおり。貴殿はどこまでも鈍い男なのだな。剣技の鋭さとはまるで真逆だ。色恋話に疎い私でも言い切れる。こと女においてはどこまでも鈍(なまくら)だ。」

正雪が伊織をどすんと押し倒す。影で表情が見えぬ暗闇の中、わずかな光を集めた碧の瞳が伊織を見下ろしていた。

「一度は消えて当然と諦めた命。奪われるにしろ失うにしろ、それならば私は、伊織殿の傍らが良い。殺されて死ぬならば、貴殿に斬られて死にたく思う。抑えが利かなくなったならばその時は斬れ。だがその刹那までは、私を傍に置いてくれ。独りにしないでほしい…。」

正雪の馬乗りなど物ともせず伊織は上体を起こす。幾度も英霊たちと鍔迫り合いをした男だけあって凄まじい膂力だ。両手首を抑え込まれ身動きが取れない正雪。形成は瞬く間に逆転してしまった。今度は自身が仰向けにさせられ、長い髪は畳に広がる。覆いかぶさる態勢のまま、伊織は正雪に告げた。

「俺とて男だ。欲望を解き放てと言われればやぶさかではなくなるのだぞ。ここは俺の寝床で、住んでいるのも俺だけだ。昨今の風聞でこの長屋には夜、人一人近づかん。一度始めたら泣こうが喚こうが、朝まで誰も助けなど来ないだろう。聡い貴殿のことだ。それを承知の上での物言いなのだな。」

自分より大きい者との対峙は、小柄な正雪にとっては稽古にせよ実戦にせよ日常茶飯事なことではあったが。何より今は身を守るための帯刀などしていない。一人の男に一人の女として無防備に身体を差し出すという「未知の領域」は恐怖を助長させた。なにしろ見下ろしてくるその眼光は、<正雪の了承の意>という主人が下す狩猟の合図を今か今かと待ち受ける獣のように映ったからである。

だがここまで来ては引き返せない。今ここで拒めば、他者を思いやってやれる伊織のことだ。このような「気の迷い」の余地が今後生じぬよう努め通そうとするのは火を見るより明らかである。これを逃せば、彼の者の熱を感じ取れる望みある機会は二度と来ないだろう。正雪にはそのような直観に近い確信があった。成り行きとはいえ、この思い人本人の意思で直接触れられ、組み伏せられ、改めて自身の女の部分を再認識させられておいて、これ以降それと無縁となる。そのような生殺しを課せられるほうが、この間際の正雪にとっては何よりも苦痛であり恐ろしかった。
伊織の呼吸が僅かに荒々しくなってきたのを察知する。これほど間近で実感したのは刃を交わした時以来…いや、それ以上である。相手の吐息そのものを目で、耳で、鼻で、そして肌で感じ取れた。伊織の手汗が、掴まれている正雪の手首を湿らせる。それらに煽られるように自身も高揚を始めているのが分かった。身体は未だ強張ってはいたが、決死の思いで言葉を振り絞る。

「好きにしてほしい。貴殿の鬼が鎮まるまで。」




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