29.グエル・ジェターク


 
 フラつく頭を両手で抱え、細く長い息を口から吐いた。Tシャツ類まで全てを脱ぎさったせいで、上半身は冷え切っている。
再び立ち上がるまでには時間が掛かった。覚束ない足取りで、ふらふらと洗面所へ向かった。鏡の前に両手をついて覗き込む。真っ青な顔のボブがいた。いや、これはグエル・ジェタークか__?

 冷たい水を頭から被ると、頭の奥がジンジンとした。ガシガシと乱暴にタオルで拭いた後、もう一度、鏡を正面から睨み付ける。
そうだ、これはボブじゃない。しっかりと思い出せ。俺は、お前は__。グエル・ジェタークだ。
心の何処かがまだそれを拒否しようとしているのか、悲鳴を上げるように手足はガクガクと震えたままだ。その震えをどうにか抑えようと自分の手首を強く握った。
まだ何も始まっちゃいない。これから会社を背負って立たねばならぬと言うのに、今からこんな弱気でどうするんだ。

止まれ、とまれ、止まれっ、とまれッ__!!!
強く圧された手首が鬱血し、ドクドクと脈打つ音が体に響く。同時に始まった耳鳴りが低い音から高い音へと変わる。耳の奥で微かな声が聞こえた。

…グ…エル……か…? 
…やっと……見つけた…ずいぶん、探したん…だ、ぞ?

ハッとして顔を上げた。鏡の中、背後の暗がりに父さんが、立っていた。
息を呑んで思わず立ち竦む。
父さんは、地獄のようなあの日の姿そのままだ。パイロットスーツを、ヘルメットのシールド内を血に染めて、下半身は__。黒く潰れて何も見えない。いや、何もない。そこには何も見えなかった。
体が一気に硬直する。止めようとした震えは尚いっそう酷くなり、瞬く間に全身へと広がった。俺は声を震わせながら、しかしどうにか自分で平静を保とうと思い、努めて静かに呼び掛ける。

「父さん__、その足、どうしたんだ……足はどこだ? 教えてくれ。俺が拾ってくるから、どこへでも行くから。俺、ちゃんと拾いに行くから…」
『…………』
「__見つからない、のか…?」
『…………』
「…駄目、なのか…? 」
『…………』
『……もう…助からないのかっ……?」
『…………』
「父さんッ!!!! ごめん、父さんッ、俺がっ、俺がよそ見ばっかしてたからっ!!! 父さんの言うこと、ちゃんと聞かなかったから!!!!」
『…………』
「何でもいい、何か言ってくれ!!!罵声でも、恨み言でも、何でも良い、怒ってくれ、叱ってくれ、叩いてくれ!!! いや、いっそのこと、その手で俺を__」
『…………』
「……なあ、何とか言ってくれよっ、父さんッ!!!」
俺はガクガク震える足で何とか踏ん張り、両手を広げて訴える。
父さん__、あなたの声が聞きたいんだ、もう一度だけでも。その声が聞きたいんだ。
『…………』
「……頼むよ…何か言ってくれよ……父さん……」

父さんは一言も発しない。あの時の、引き攣り笑いになりかけた、何ものかを浮かべながら瞬きもせず、暗がりに立ったまま、鏡越しに俺をじっと見凝めるばかり。それでも__。
もう一度父さんに会えたことが嬉しくて。目を背けたくなるような痛ましい姿をしていると言うのに、この瞳を閉じることが出来ない。これが現実であるはずもないとは分かっている。それでも俺は__どこかで嬉しいと、そう感じてしまう。
そんな自分が、卑怯で、勝手で、都合の良い幻覚をみるこの自分が、とても悍ましいものに思えて。恐ろしい化け物のように思えて、憎くて、憎くて、仕方が無かった。

父さんの右腕が、す、と上がる。その指先は、静かに俺を指差した。

……? 何だ__? 何が言いたい?
何でもいい、父さんの意思が聞けるなら、なんでもいいから聞かせてくれ。指示が欲しい。指針がほしい。一人で立つのは不安なんだ、本当は。一人で決めるのは、やはり怖い。
鏡の中で父さんの口が動いた。
言葉は、声は、聞こえない。それでも。その口の動きで、意味が分かった__。

(……見つけたぞ…グエル……)

ピクリと眉が反応した。
どういう意味だ__? 父さんは、俺との再会を、喜んで、くれているのか?
その人差し指が差し示す先。それをこの目がゆっくり辿る。
これは違う、と、途中でそう気が付いた。
父さんの指は、正確には俺ではなく、訴えかけるように大きく広げた俺の腕の方を、指し示しているようだった。
わなわなと震え続ける己の両腕に視線を落とす。
それをゆっくりとひっくり返し、手のひらを、自分の方へと向けてみる。

肉色をしているはずの手のひらは、ドロドロとした、ぬるぬるとした液体で、真っ赤に、隙間なく、びっちりと染まっていた。それは、バケツ一杯の血の海に両手を突っ込んだように、厚く、隈なく、緋色よりややどす黒い、深紅の赤でみっしりと__。それが糊のようにべったりと張り付いていて。
皮膚の表面が、これでは呼吸が出来ないと苦しがっているのが分かった。
両手首からボタボタと、ぬめつく雫が落ちて、血痕を作り、血溜まりを広げ、足元に落ちて跳ね返り、それが俺の体をよりいっそう真っ赤に染め抜いて__。

「 ぁ、ぁ…あっ、ぁあああああああああ!!!!!!!」
口から素っ頓狂な絶叫があがる。

とす、と微かな音がした。辺りに自分の絶叫が響き渡る中、聞こえる筈のない音が耳元で聞こえた。途端に肩が重くなった。恐る恐る鏡の中に視線を戻す。さっきまで隅の暗がりに立っていた父さんが、俺の真後ろに立っている。折り重なるように。息や言葉を吐けば、耳に直接それが触れるであろう近くに。俺の肩に掛けられた両手の指先は乾きかけている。どす黒い色に変わりつつある暗い赤色だった。その赤く黒ずんだ指先が、血の滲んだスーツの腕が、ゆっくりと、確実に、俺の肩に回されていく。まるで慈しむように柔らかく、優しい動きで少しずつ、少しずつ抱き絞められていく。
引き攣り笑いのような形で固まったままの口の端が、少しだけ上がった気がした。

(…これからは…ずっと一緒だ……)

「あ゙ぁぁぁぁっ、ぁあああぁぁあああっ!!!!!!!!」
跳び出す絶叫に身を任せるように、腕を無茶苦茶に振り回した。その優しい腕を振り払おうと。血飛沫が跳び、仄暗い壁一面に凄惨な斑が出来る。暴れ回った筆の跡が飛び散る。赤く、激しく、色鮮やかに描かれていく。

やめてくれ父さんっ!! 父さんの気持ちは嬉しい、俺だってあなたのことが大好きだ。
でもっ__!!!
この血塗れの腕ではラウダの肩は抱けない。この真っ赤な指先じゃ藍色の髪を撫でられない。こんな穢れた腕じゃ!身体じゃ!ラウダに触れないんだ__!!
だから、だからっ!!お願いだから、放してくれ、赦してくれっ!!
どうか、やめてくれっ!!こんなこと!!!

 滅茶苦茶に振り回した腕が、洗面台の上の小物にぶち当たる。歯ブラシやらコップやら、何かのチューブなんかが派手な音を立てながら辺りに散乱した。ふと視界の端にハンドソープのボトルが入り、目に留まった。几帳面なラウダが常備している薬用の瓶だった。

藁をも縋る思いでそれに飛びつく。汚れた腕を、穢れた体を、血に塗れた手のひらを洗い流してくれるんじゃないかと思った。
容器が潰れる勢いで何度も押した。洗い流した。取れない。押す。押す。押した。
泡立つ白に祈りながら洗い流す。赤い。真っ赤だ。取れない。押す。流す。取れていない。押す、流す、取れないっ!!押しては流す。 取れていない。
取れない、取れないっ!! 取れやしないッ!!!
何度やってもべったりとした感触が、感覚が、この手に残る、色が残る。赤が、赤が、赤が目に焼き付いて。悲鳴が口を衝いて吐き出される。必死になって容器を押した。
出ない。出ない。出ない。なぜ出てこない__? どうして出てこない?

このままじゃ俺は__。

縋りついた白い泡は、底をついてしまったのだと気付いた俺は、哭き喚く。
空になったそれを苛立ち紛れに撥ね飛ばした。ボトルは壁に激しく当たった後で跳ね返り、俺の斜め後ろでもう一度跳ね、父さんの立つ位置に落ちるとカラカラと転がった。

 父さんの姿がふっと消える。薄っすら笑みを浮かべているように見えた、張り付く様な表情も一緒に。壁一面を汚した血痕も、足元に広がった血溜まりも、この腕に纏わり付く泥濘も、手のひらを染め抜く惨い赤も。みんな、みんな。その音を境にふっ、と消え失せた。
後には静けさと、物が散乱した洗面所の暗がりだけが残った。

 こめかみを冷たい汗が幾筋も伝っていた。ジンジンと指先が痛む。手のひらを上げ、恐る恐る引っくり返そうとして。そこでギュッと瞳を瞑ってしまった。

もしこれが、さっきと同じ色をしていたら、俺は__。

上がった息を落ち着けるように、数度吸っては吐いてを繰り返し、意を決して薄目を開けた。返した手のひらを見凝めてみる。それは肉の色をしていた。ただ、温度を感じなくなるまで冷たくなり、真っ赤に腫れ上がるほどあかぎれて傷んでいた。
しかし、そんな事は気にもならなかった。もっと衝撃的で、重大で、深刻な痛みにより、そんな些細なものはすぐに吞み込まれた。
恐怖で震えが止まらない。言い逃れの出来ない、紛れもない事実。

俺が、殺した、父さんを__。

その痛みによって、この胸は八つ裂きに、いや、散り散りになるほど引き裂かれた。
この肉色をした指先が真実の姿なのか、腕までずぶ濡れになるほど血塗れであった、さっきの光景の方が正しい姿なのか、俺にはもう分からない。何もかも分からなかった。

 ただ一つ、分かることは、もう叱ってくれる人はいないという事だけだ。激を飛ばしてくれる人もいない。命令も、指示も同じ。これからは一切何も出やしない。
自分でやらなきゃ__。自分で立たなきゃ__。
己を叱りつけるように、両手のひらで自分の頬を強く叩いた。何度も何度も打った。

だって、そうだろ。
お前が、お前こそが、グエル・ジェタークなんだから。
お前が父を、殺めたのだから__。


 汗みどろになった作業服とTシャツを洗濯機に適当に放り込み、オルコットが見繕ってくれたオーバーサイズの上下に着替えると、寝室のベッドにもう一度腰を下ろす。膝の上で両手を固く握った。
まだ現実感がない。心は不安で身動きならないほど固く縛られているのに、変にふわふわと浮遊もしている、足元は依然グラグラしたままだ。それでも、このままにしておくわけにはいかなかった。

 地下室の奥深く、幽閉されていた記憶の鍵を開ける。深い闇がみえた。霞がかかる記憶を、手探りで掴み取る。俺の形をした黒い闇色をした影。嫌がって暴れるその影を握り込んで。恐る恐る手繰り寄せた。

『俺はお前の親じゃない 自分の事は自分で決めろ』とそう言っていたオルコットは軌道エレベーターの麓まで道案内してくれた上に、『シーシアの血で染まったその作業着で、ゲートが通れると思うのか?』と、道中に衣類の用立てまでしてくれた。サイズの合わないブカブカのブーツが使えるようにと厚手の靴下まで揃えてくれた。おまけに軌道エレベーターの乗り方、料金、詳細なフロアガイドまで、手書きでびっしり緻密なメモを描いて渡してくれた。ついでに捕虜の身ゆえに、何の手持ちも無かった俺に、片道分の旅費まで握らせる。
なんでテロリストの一味なのにそこまでしてくれるの__? と、胸中は疑問だらけであったのだが、こちらも心に余裕など無く、先を急いでいたので口にはしなかった。
丁重に礼だけ言って、軌道エレベーターの袂でお別れした。


 俺はそのお陰ですんなり宇宙へ上がることが出来たのだった。だが、フロント本社へ向かおうとする連絡通路を通行中に、ざわめきの中、その言葉を聞いてしまった。

「おい、知ってるか」
「急に振るなよ、何の事だ?」
「この間の襲撃テロで亡くなった、ジェターク社のCEOの話」

その言葉に俺は唇を噛み、視線を落とす。

「いや、ニュースくらいは目を通してるけれど、詳しくはやってないよな。あれ緘口令出てるだろ?」
「ちょうどそこに停泊してた自社艦からさ、自分が出るって息巻いて、部下差し置いて出撃したんだとよ」
「へぇ、そうか。凄いよなあ。普通出ないよなぁ、だって代表だろ?」
「CEO自らお出ましなんて、向こうも思って無かったろうよ」
「エリートだって聞いてたけど、余程腕にも自信があったんだな」
「でも、ダメだった。やっぱ人間寄る年波にゃ勝てないのかね」

オルコットに渡されたボストンバックの持ち手を、この手は無意識にギュッと握り締めていた。

「かなり癖のある人だったっけ?」
「俺、一度外回り営業で話した事あるけど、癖があるなんてもんじゃないぞ。こっちの肩が思わずビクついちまうほど声はデカいし、口調の荒さも尋常じゃない。常に怒鳴られ続けてるようなもんだ。こっちの説明聞く前から吠え始めるし、矢鱈噛み付かれるから下手な事は言えないし、もう内心ヒヤヒヤよ。ワンマンもワンマン、強引過ぎる野心家、ありゃぁ強烈な印象だったな。少なくとも敵には回したくない、何されるか分かったもんじゃない。上司にもしたくないタイプだ…勿論、契約なんか取れねぇよ、速攻断られた、取りつく島も無しだ」
「そうか、それは災難だったな……でもさ、そんな感じだからこそ、あそこまで会社デカく出来たんだろうな」
「おうよ、あそこのMS、質は文句なしに良いからな。機動力もまぁ、そこそこにはあるし、何より丈夫で長く使える。ここ重要だよな」
「想定外に丈夫で長く使えちまったからこそ、旧型機を悪用されちまったんだろうな」
「それそれ、それに激昂して『俺が出る!』って飛び出ちまったって話だぜ」

父さんが__?

「泣ける話だな、よっぽど自社製品のこと、好きだったんだろうな」
「そう、まぁ…何だかんだで惜しい人を失くしたとは思うよ。くせ者だけど、モノ作りに関しては右に出る会社、御三家以外は中々無いんじゃねぇか?」
「ウチの警備担当も、これからはMSの選定に苦労するだろう…ってボヤいてた。グラスレー社のは質は高いが少し癖があるだろ? ペイル社のはそもそも価格設定がさ」
「となると、やっぱ安定のブリオン社になるか? 突出した特徴はないが数は出てる、パーツの交換修理に苦労したりはないんじゃねぇかな?」

父さんが、自ら__?
あの人らしい話だと思った。
デスルターだと? 旧型機だがテロリスト如きの手に渡る筈がない、一体誰が!!?
我が社のMSを悪用するなど!! 断じて許せんっ!!!
たぶん、そんな事を吠えながら__。

まるっきり、似たもの同士の親子じゃねえか
俺と同じ理由で 同じように憤慨して 同じように飛び出して そして__
父さんは__
同じ気持ちだったのに 同じ怒りだったのに それを、俺は__俺は__
 
グループ関連会社の商社マンだと思しき彼らの会話は、途中で酷い耳鳴りに掻き消された。
倒れたのはその直後だったんだと思う。
 
俺は父さんの気持ちを知って、
自分の犯した罪の大きさを改めて知って、きっとそれに耐えられなくなったのだ。
そして、自分にとって都合の悪い記憶の全てに蓋をして、
地球生まれの孤児、ボブとして、転生した__、つもりになった。

そう言う事なのだろう。
 
 ラウダやカテドラルに怪しまれた前の職場。フォルドの夜明けにジャックされた輸送船、カシュタンカ。艦船リストを当たっても出てくる筈も無い。
居所を掴まれるのを恐れた俺は、わざとグループとは関係のないルートで就職先や艦船を探したのだから。
艦長にもお世話になった。みんな気さくで良い人ばかりだった。あの人たちは、無事でいるだろうか__。


 傍らの窓から見える樹木をぼんやりと眺める。今回は中々上手く剪定出来たんじゃないだろうか? とまで考えて、慌ててボブからグエルへと思考を戻す。
そうだ、裏庭が一望できるこの眺めは、小さい頃から毎日見てきた馴染みの景色。特にこの窓と隣の俺の部屋の窓から見える風景は、幼い俺達兄弟のお気に入りだったじゃないか__。
今更のように思い出す。

その時だった。静まりかえった部屋の向こうで、ピロンと開錠の音が聞こえた。
その音にこの肩が怯えるように大きく跳ねた。
「ただいまボブ」との声が、向こうで小さく聞こえる。

今日に限って帰りがやけに早い。

ラウダ__。
何を話そう、何から話そう、俺はお前に、何て声を掛ければいい?

駄目だ、まだ全然……頭の整理がついてない。
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