海軍本部雑用ロシナンテに任務を言い渡す 1


【コビー艦編】

1
目が覚めたら全てが終わっていた。
 いや、まるで全てが終わるのを待っているかのように目が覚めたといった方がいいだろうか。
 白い病室のベッドの上でドレスローザの奪還、ドンキホーテ・ドフラミンゴのインペルダウン収監。そして、それを為した男の名を聞いた。
 彼が生きていることに感謝を捧げ、そして詳細に聞いた事柄に涙があふれた。後悔と、苦痛と、そして抑えきれない愛おしさ。無理を言って取り寄せた彼の手配書を枕の裏に隠した。十三年間の昏睡状態は随分と自分を弱らせていたが、数ヶ月の地獄のようなリハビリでようやく歩けるまでに回復した。
 これからどうしたらいいのだろう。
 ベッドに腰掛けていると、かつかつと廊下に聞き慣れた靴音が聞こえる。

「起きているのか、ロシナンテ」

 いつの間にか大将から元帥になっていて、そしていつの間にか大目付という肩書きになっていた養父は随分と老け込んでしまっていた。その理由の一端に、自分の事があったのだろうと思ってしまうのは、自意識過剰だろうか。

「おはようございます、センゴクさん」
「起きれるのか。……おれが死んだ後もこのままだったら、おれと一緒に生命維持装置を外すよう遺言しようとしてたんだぞ、ロシナンテ」
「いやもう、本当に、ご心配をおかけしました」

深々と頭を下げるほかに無かった。
耳にたこができるほど、彼は小言を言い募る。耳には痛かったが、それでも小言ばかり言う養父が何処か嬉しそうで、ロシナンテはたまらない気分になる。
 優しく厳しく、情にあつい養父。
眠ったまま一生このままかも知れないと言われていた植物人間を、彼はずっと見守っていたのだろう。幼い頃、母が病死したときの、あの何も出来ぬやるせなさを知っているからこそ、ロシナンテには彼の気持ちが痛いほど分かる。目が覚めたという報を聞いて文字通り跳んできた養父の目に二筋堪えきれぬ涙が落ちたのをロシナンテははっきりと見ている。

──この、馬鹿息子が……!

 何かを言おうとして、何を言えば良いか分からなかった。ロシナンテが何かを言う前に、呻くように罵られて、裏腹に割れ物を触るように頬を滑った指先が震えていた。
この人から、あまりに大きく暖かな愛をもらっていたことを今更に身にしみる。点滴からの栄養だけで生き延び、骨と皮ばかりになった尖った体を、センゴクは包み込むように抱きしめた。その体があまりに小さく感じて、嗚咽が止まらなかったのを昨日のことのように覚えている。

「退院許可が下りたぞ」
「本当ですか!」

 飛び上がるロシナンテに、センゴクはにやりと笑う。その手にある書類を受け取って、ロシナンテは目を細めた。

「海軍入隊書類、持ってきてくださったんですね」
「ああ。昏睡状態3年目に海軍は除隊されているのでな。再任用とはいえ、雑用からだ。士官学校は免除してやろう」
「うへえ……。せっかく左官まで昇進できたのに」

 口をへの字にした自分に、センゴクはけらけらと笑う。

「ところで、今から新世界に出航するんだが、お前どうする」

 優しい養父に、ロシナンテは諸手を挙げて喜んだ。もうベッドには飽き飽きだった。

◆◇◆

まずはG-5支部まで乗せてもらうぞ、と言って養父に案内されたのはまだ若い少年の域を出ないピンク色の髪の将校とその部下の率いる軍艦だった。

「すまんなァ、コビー大佐、ヘルメッポ少佐」
「いえ!お安い御用です!」
「人手が足りねェところに雑用入れてくれるってんなら、願ったり叶ったりですよ、ひぇっひぇっ」

凛とした返事をするコビー大佐と、その横につきながら斜に構えた笑い声を上げるサングラスのヘルメッポ少佐。大差に至ってはこの年でロシナンテがかつて至った階級よりも上だ。二人ともよほどの実力なのだろうと思う。

「ヘルメッポさん、またそんなこと言って」

焦るコビー大佐に、ヘルメッポ少佐はへらへらと笑う。
なるほどなぁ、とロシナンテは二人の関係に感心しながらきっちりと踵を合わせて敬礼した。永遠にも思える長い間、海軍式の敬礼をしてこなかった。忘れているかと思ったが、骨の髄まで叩き込まれた作法をロシナンテの体は忘れていなかった。
ちょっとだけ懐かしさに胸が熱くなったのはロシナンテだけの秘密だ。

「海軍本部雑用のロシナンテです。なんでもこきつかってください。大佐、少佐」

二人は毒気の抜けた顔で顔を見合わせ、ロシナンテに合わせて敬礼を返す。

「海軍本部大佐コビーです!」
「海軍本部少佐、ヘルメッポだ。言ったからにはこきつかうからな!」
「もう、ヘルメッポさんったら!」

二人は挨拶を終えるとコートを翻して艦橋へと戻っていく。正義が青空に眩しく輝く。

「ははは、頑張れロシナンテ」
「おれの砲弾磨きの腕みせてやりますよ」

コビー艦に乗り込めばすぐに新兵たちに囲まれながら船出の準備に取り掛かる。
ああ、海はいい。
海兵の血が騒ぐ中、ロシナンテは海軍本部を出立した。

◆◇◆

「海軍本部雑用ロシナンテです。よろしくお願いします!」

無事コビー艦は風を掴み、カモメを膨らませて海原を進む。懐かしきマリージョアの軍港を離れ、気候域を出るまでのわずかな時間の間にロシナンテは航海の仲間となるコビー艦のクルーに名乗りを挙げた。
コビー艦のクルーは一部のベテランを除き殆どが若手のクルーで構成されており、溌剌とした雰囲気がある。出航の時点で良い艦だと感じていたが、それは間違いなかったらしい。

「本当に雑用なんスか?」

島の気候海域を抜けるまでは皆しばし気が抜ける。新兵から二等兵に上がったばかりらしいまだ少年の雰囲気の抜けない海兵数人に艦内を案内されながらロシナンテは質問責めに苦笑しながら答えていった。
自分は26の歳から13年昏睡している。自覚は薄いが、39歳の新兵などなかなか見るものではない。世界徴兵の時代とはいえだ。
おれもこの子たちの立場なら質問攻めにしちゃうかもなァ…!と思うからこそ、無碍にもできなかった。
そもそも彼らは雑用身分の自分からすれば上官である。

「雑用です」
「本当に!? さっきトップスルにロープが引っ掛かってたのあっという間に治してましたよね? 少佐も大佐も気づく前に」
「ああ、あそこは見落としがちになるから。トップスルと、あとメインマストの当て枕の抑えロープも」

マリンフォードの船大工たちは優秀だが、やはり癖というものがある。いくつか見落としがちなロープの緩みをさっさと直したのはまだ若い海兵の目には熟練の技に写ったらしい。
気恥ずかしくなりながらもそう悪い気はしない。
士官学校で血反吐を吐くような思いをしながら叩き込まれた操船技術はまだロシナンテの中にちゃんと根付いているのが嬉しかった。

「元々船乗りなんですか?」
「まァ…ブランク長いんだけどなァ」
「出航準備の時甲板長が褒めてましたよ!」
「そりゃ嬉しいぜ」

一つ一つ答えている途中で、ずるっと足を滑らせる。ちょうど後部デッキの側だったので、ミズンシュラウズに絡まって釣り下がる。やってしまった、と思うより先に海兵たちの驚きの声が上がる。

「「ロシナンテさーん!!!」」
「すまん、おれはドジっ子なんだ……助けてくれ」
「その歳で!?」
「おっ、おっさんって言うな…!心はまだ20代なんだ!」

気のいい海兵たちに驚きながらも助けられて立ち上がる。
ついでに目についた動策の結び目が間違っているのを直す。

「えっこれ違うんですか?」
「違うだろ?」
「それとそれどこが違うんです?」
「あー、間違いやすいけどここのヒッチはローリングヒッチだと良くなくてな……。民間船とか海賊船なら問題ねェよ」

結び目をもう一度解き、今度はゆっくりと結んで見せて直してやると海兵たちの目が輝く。
くすぐったく思いながらも悪い気はしない。

「ロシナンテさんすげェ!」
「へへ、そうか? あ、でもそろそろマリージョアの海域を抜ける。持ち場に戻ろうぜ」
「はーい!」

穂を膨らませる風が変わるので指摘をすれば、若い海兵たちは素直にばたばたと持ち場にかけて行く。
それを見送って、さて自分はどうしようかと思案していると、背後からくつくつと楽しげな笑い声が聞こえた。

「ちゃんと覚えてるじゃないか、ロシナンテ」

黙って見守っていたはずの養父だが、口を出さずにはいられなかったらしい。
覚えているよりもシワの増えた目元を細めて笑っている。

「……言わないでくださいね!」
「ああ、お前が士官学校時代の教本をひっくり返して勉強し直していたことは彼らには言わん言わん」
「センゴクさん!」

気恥ずかしさに思わず声を張る。
唐突にふらりと足元が覚束なくなった。
ドジとは違う浮遊感にハッとする間も無く、頼り甲斐のある腕がロシナンテを抱き止めた。飛び降りてきてくれたらしい。顔を上げると、少し険しい顔がロシナンテを案じていた。

「…無茶をするな」
「へへ……ドジっちゃいました」
「……」

センゴクはため息をつき、ロシナンテは悪戯がバレた子どもの顔で笑う。

「大丈夫ですよ。センゴクさん」
「……ならいい。G-5までは頼んだぞ。ヒッチとボンドの違いくらいはわかるくらいにしてやれ」
「イエッサー!」

センゴクの腕を離れて敬礼を返す。
かくして海軍本部雑用ロシナンテの初航海は幕を開けた。

◆◇◆

新世界の航海は島と島を渡ることでさえ命がけになる。それは海軍艦とて例外ではない。
そのため、海軍では基本的に緊急時以外は艦橋に設えられた数多くのエターナルポースを利用して島の気候海域をなるべく出ないように航行する。必要があれば都度島に寄って海賊への牽制を行う。
時には商船代わりにはならなくとも軽く島民の御用聞きなんかもする。どうしても移島する必要がある民間人を乗せて航行するなんてこともあるものだった。
その道筋を極めるのが航海士の腕の見せ所であり、実際に決断する艦長の実力の見極めになる。
 その点でコビー艦はなかなかに腕のいい航海士がいるらしい。
 今まで乗った艦と比べてもかなりの速さでG-5支部まで艦は進んでいる。あと5日も無く到着するだろう。

キュッ、キュッと乾いたぼろ布で砲丸を磨いては棚に戻しながらロシナンテはぼんやりとしていた。

「……三十億かァ……」
 
何につけても思い出すことではあるが、今日の朝にニュースクーから飛び込んできたニュースで艦は沸いた。センゴクの隣で朝ご飯をゆっくりと咀嚼していたロシナンテがびっくりして椅子ごとひっくり返るくらいにどっと沸いた。
客分である大目付がいなかったらもしかしたらもうちょっと盛り上がっていたかもしれないが、なんだか好意的な盛り上がり方にみえたのはロシナンテの気のせいだろうか。

ニュースクーが運んだのは"死の外科医"トラファルガー・ローとその同盟相手ユースタス"キャプテン"キッドと麦わらのルフィによるカイドウ・ビックマムの撃破。
そして更新された手配書と懸賞金。
十三年近く眠っていた自分に叩き付けられるには動乱過ぎる情報にくらくらする。

「うわァ~~~~!! ル──」
「ばーかッ! 声がでけェ!」
「でもヘルメッポさん!!!」
「ダメ!」

コビー大佐がしっかりとめがねをかけ直して見つめていた手配書は、麦わらのルフィのものだった。感極まったのか何か喝采のようなものを上げようとしたのをヘルメッポ少佐が後頭部をたたき落とす勢いで黙らせる。
クルーたちは馴れているのか優しさなのか見ない振りをしている。

「……ロー」

吹き飛ばされて床を滑ってきたその一枚の手配書をロシナンテはこっそりと懐にしまい込んだ。

そんな朝のできごとでぼんやりとしてたのが良くなかったのだろうか。つるりと磨いていた砲丸が手元を離れる。

「…ドジった!」

間一髪で砲丸を足の甲に落とすのは免れたが、ごろごろと波に揺られて倉庫から出て行ってしまう。あーあーと見送っても戻ってくるはずもなく、頭を搔きながら砲丸磨きの当番だった相手に手を振る。相手は快く送り出してくれた。

「悪ィ、取ってくる」
「気をつけてください!」

 転がった砲丸を追いかけるが、波に揺られるせいでなかなか砲丸は止まらない。
追いついたのは艦でも船尾の角にあるリネン室──今は人の居ない場所だった。
やれやれと砲丸を持ち上げたところで、ロシナンテの耳がひそひそと囁く声を拾う。

「……あんなところで大声だすやつがあるか」
「だ、だって……ヘルメッポさん」

 ヘルメッポ少佐と話をしているのはコビー大佐だろう。

「大目付がいたンだぞ!」
「大目付はそんなこと気にしませんよ」
「分かんねェだろうが! 連れてきたあのでけェ雑用だって本当に雑用なのかなんて──」
「ヘルメッポさん」
「っ……だってよ……」

まさか自分の話題になるとはつゆ知らず、思わず離れようとした足が止まる。
気まずい沈黙が二人の間に流れる。彼らは知らないかもしれないが、自分もずいぶんと気まずかった。

「大丈夫です。あの人は」

リネン室できっぱりと声がする。ロシナンテが想定するよりずっとはっきりとした肯定にロシナンテが驚く。コビー大佐は続ける。

「ぼくとヘルメッポさんの他にもう一つ、深い感情の"声"があったんです。……深くて優しい、誰かを心から案じる声だった…。初めは誰か分からなかったけど今は分かります。ね、ロシナンテさん」

開かれたリネン室の扉の中には、ぎょっとした顔のヘルメッポ少佐と、したり顔のコビー大佐がいた。ヘルメッポ少佐は気づいていなかったのだろう、気まずそうに顎を搔きながら顔を逸らす。

「ヘルメッポさんだって分かってるでしょ?」
「……」

ヘルメッポ少佐が眉を下げてぐっと息を詰める声がする。何か言ってやろうと思う前に、どこかからヘルメッポを呼ぶ声がする。

「……呼ばれてるから行く」

踵を返して去って行ってしまった少佐を引き留め損ねたコビー大佐が申し訳なさそうな顔でロシナンテを見上げた。

「…ヘルメッポさんがすみません」
「おれのほうこそ立ち聞きしてすみません。ドジっちまって」
「いえ、ぼくは気づいていたので…」

気取られないようにしていたはずだが、補足されているような気がしていたので驚きは少なかった。

「その年ですごい見聞色の覇気ですね、大佐」

思わず褒めると、コビー大佐ははにかんで照れる。
コビー大佐の噂はリハビリの最中で聞き知っていたが、噂以上に鋭敏な見聞色の使い手らしい。だが将校に成り上がるにはあどけない少年らしさが残っている。腹芸の似合わないまっすぐさがあった。
 なにしろ、彼の手の中には大事に抱きしめられた麦わらのルフィの新規手配書が抱えられている。

「まァ、海軍将校が賞金首の手配書を宝物みたいにもってたら、不安になりますね」
「えっ、あっ……! いやそのこれは……」
「ははっ、冗談ですよ!」

笑って彼の桃色の髪をかき混ぜると、彼はきょとんとしたあとにふふっと含み笑った。上官に対して失礼な気もしたが、彼が気にしていないので今だけは気にしないことにする。

「……昔のおれならきっと不穏分子として上層部に進言したかもしれないが、今は……少し気持ちが分かりますから」
「……やっぱりあなたの声だったんですね。ルフィさんに会ったことが?」
「いやーははは、麦わらには感謝してるけど、直接は会ったことねェんです。海賊だって好きじゃねェし」
「……もしかして」

言いつのるコビー大佐に首を振って答えを遮る。敬礼をして踵を返した。

「砲丸みがきに戻ります、大佐」
「あ、待ってください!」

すとんと廊下を転がったものの、今度は砲丸を抱えたまま起き上がって足早に下がる。
なので、ロシナンテの耳にはコビー大佐が呟いた言葉は聞こえなかった。

「……なんだか不思議な人だな。嬉しそうだった気がするんだけど、それだけじゃないような……」

◆◇◆

コビー大佐と別れ、砲丸磨きに従事する。
その昼過ぎに休憩を言い渡され、ロシナンテと同じ班の他数名は諸手をあげて喜んだ。

「ロシナンテさん、キャビンでトランプしません?」
「行く、一服してからな」
「帆を燃やさないでくださいね!」
「燃えてんのはおれだけだよ」
「それもそれで。人がいるときに喫ってくれよ」

げらげらと笑う海兵に手を振って別れ、ロシナンテはいそいそと船尾の回廊に足を向ける。
驚くべきことにこの艦では喫煙所が設えらている。甲板で煙草を吸っている海兵が少ないなァと思えば喫煙所を案内されてロシナンテはぎょっとするほど驚いた。
ロシナンテが"死ぬ前"は下士官から艦長に至るまで大体の海兵はあらゆる場所で煙草を燻らせていた。紙巻き葉巻の区別はあれど、大体が吸っていて、凪で停滞した日などは艦橋が煙で充満して火事かと大騒ぎになった記憶もある。
海賊船でそんなことを気にするものは居なかったのでドンキホーテ海賊団でも気兼ねはしなかった。
十三年という月日の長さを感じたものである。
すごい健康的!
本部の酒保で買い付けた安い煙草をポケットから取り出して喫煙所になっている船尾回廊に回って、ロシナンテはあっと立ち止まった。

「あ……」

金色の長い髪をまとめた青年将校が回廊の端で肩身が狭そうに身を屈めて煙草を燻らせていた。
ロシナンテを見上げてぎくりと肩をすくめ、きょときょとと周りを見回して慌てて胸を張る。

「ヘルメッポ少佐」
「雑用のおっさんかよ」
「おっさん……! おれァ心は二十代なんだ……!」

そりゃあおっさんだが……!とがっくりと肩を落とすロシナンテに、ヘルメッポはひぇっひぇっと笑う。灰皿に灰を落としに近づく。

「…ご一緒しても?」
「コビーに言わなきゃいいよ」
「あれ、禁煙中ですか」
「通算5回目の。明日から六回目の禁煙だ」
「そりゃ頑張ってください」

ヘルメッポの口元が変な形に歪む。何かを言い出そうとして、言いにくそうに言いよどんでいる。
ロシナンテの視線からは、サングラスの下の垂れ目がうろうろとさまよっているのが見えた。眉がへにゃっと情けなく八の字を書いている。

(腹芸が下手なのはこの子もかァ。サングラスがいるなこりゃ)

彼が口を開くのを待つ。なんだか懐かしい気がするのは、素直じゃないのに素直なあの子を思い出すからだろうか。
ヘルメッポの煙草がちりちりと巻紙を焼く。ちらり、とサングラスの下の視線がロシナンテを横目で見上げて、ぎょっと見開かれる。

「ぎゃあ! 燃えてる~~~~!!!」
「あッっつァ!!」

互いに肩で息をする。ロシナンテは灰皿の横に置かれたバケツの水でびしょ濡れである。
燃えたスカーフはあとで繕っておこうとポケットにしまった。

「なッ、なんなんだあんた……」
「おれはドジっ子なんだ」

真面目に応えると、ヘルメッポ少佐はがっくりと肩を落とした。それから口をとがらせる。

「……悪かったよ」
「へ?」
「疑うようなこと言って。再任用、なんだろ」
「聞いたのか」
「事情までは聞いてないけどよ。世界徴兵の雑用にしては海軍式に馴れすぎてたから変だと思ったんだ。敬礼とか……。本部とか政府からきた監査とかのやつかと…、目を付けられててもおかしくねェし…」

ヘルメッポ少佐がぼそぼそと言い訳する。それがひどく気まずそうで、ロシナンテは思わず吹き出した。

「コビー大佐が心配だったんだろ? 見てれば分かるよ」
「そんなんじゃねェよ!」
「大丈夫だって! 艦に極秘で監察に入るときは雑用じゃなくてそれなりに階級つけて入るよ。雑用じゃ自由に動けねェし。准尉あたりをよく使ったかなァ」
「は?」
「……おっと、これはあんまり言っちゃいけないやつだ」

 ごまかしにウインクをして煙草を吸い込む。ぐっと肺が変な風に軋んだ。

「……っゲホッ、ゲホゲホゲホッ!」
「お、おい……!」

むせかえる自分の背中を叩くヘルメッポ少佐に甘えて呼吸を整える。

「そ、それもドジか?」
「……ドジった」

ヘルメッポ少佐の視線がいぶかしげな顔になる。

「久しぶりに吸ったからかなァ」
「じゃあもう吸うのやめとけよ、おっさん」
「おっさんって言わないでくれるか!?」

ひえっひえっ、っと今度は素直に明るい笑い声が響いた。

「おっさん、おれと違って真面目そうだからすぐ雑用から昇進しそうだなァ」

もう彼の中で自分はおっさんらしい。ロシナンテはがっくり肩を落としながらも、まぁいいかと切り替えた。彼なりの親しみだろう。

「いやァ、コビー大佐とヘルメッポ少佐には及びませんって」
「コビーはそうかもだけどさ。おれはまだまだだよ。あいつに全然追いつけねェ」

ふっ、とヘルメッポは細い煙を吐く。遠くを見る目はロシナンテの知らないものだった。

「……いい友達なんだな」

そんなんじゃねェ…とヘルメッポ少佐が口を尖らせる。強く否定しないのが面白い。
後輩にもそういう奴らがいたなァと思い出す。互いに切磋琢磨して上を目指していく、腹の底を見せ合った戦友だった。彼らの姿がヘルメッポ少佐とコビー大佐に重なって見える。
彼らはずっと正義を背負って駆け抜けている。
ロシナンテは含み笑いながら、目を細めた。

13年。

眠り続けていた間に、次代の海兵はすくすくと育ち、前を向いて駆け抜けている。起きてから今まで自分はそれを後ろから眺めているだけだった。
ヘルメッポ少佐と話して初めてそのことに気づく自分に呆れる。

「……」

フゥーと咽せないようふかしただけの煙を空に流してロシナンテは回廊の壁に長身を預けた。

「……そっか」

自分がこの時代の客人のような気持ちではいられない。
今ここに、ドンキホーテ・ロシナンテは生きているのだから。


◇◆◇

2

運良く巡ってきた静養日は夏島の気候海域のど真ん中。しかも眩いばかりの晴天だった。昨夜掠めたサイクロンが嘘のようだ。
コビー艦はなんとか転覆せずにサイクロンの端を切り抜け、後処理に追われて泥のように眠った次の日の静養日は最高だった。今日も業務がありろくに寝れず、休めない海兵たちにはずるい!とブーイングを食らったが、こればっかりはロシナンテが決めたことではないので、同じ静養日組の海兵たちと悠々と休んでいる。
これくらい出来ずしてなにが海軍本部の海兵だ、おれだって三日連続二十四時間一睡もできなかった航海あるし、という左官の意識がちょっとだけ顔を出したのは否めない。
むろん彼らもこれが処女航海という海兵はほとんどいなかったし、一夜眠れないことなどざらにある本部海兵だ。
時の運である。

「新世界の洗礼をまた受けるとはなァ……」

極寒の北の海などこの偉大なる航路後半のに比べれば凪の浅瀬だ。ちゃぷちゃぷの水遊びだ。この海を海軍本部の精鋭揃いの軍艦で渡るより、北の海を病人の子ども(かなり反抗的)を抱えて一人で小舟で航海する方が安全ですらある。
昨夜のサイクロンで一人もクルーを海の藻屑にさせなかっただけ万々歳だった。
抜けるような青空と潮風の心地よい後部甲板の回廊に続く階段に腰掛ける。

「タバコ……は、ヘルメッポ少佐に止められたしなァ」

十三年の寝たきり生活からリハビリを経て尋常でない回復を遂げたとはいえ、肺に煙は刺激が強かったらしく、あのあと何回か喫煙所で出会したヘルメッポ少佐から嗜められるついでに飴玉をもらった。
かさり、と飴玉を取り出すときに紙の感触が手をくすぐり、ロシナンテは目を細めた。
そのままポケットから飴を舐めているとふと頭上から影が降り、厳しい声がかかる。

「コラっ! サボりかロシナンテ!」
「ぎゃあっ! ちっ、違いますよ!センゴクさん!今日は静養日です!」

驚いた拍子に階段からすっ転ぶ。飴を噛み砕いた挙げ句丸ごと胃に滑り込んで悲鳴が上がる。詰まらせなかっただけ御の字だ。
ケラケラと笑われながら腕を引かれて起こされた。

「それくらい知っとるわ」
「…人が悪いんだから…」

艦橋から肩を回しながら看板に降りてきたらしいセンゴクは慌てたロシナンテにいたずらが成功したことに満足そうに笑っている。
時折左右に首を回す様子は随分と肩が凝っているようだった。手にはお気に入りのおかきがある。食うか、と袋を渡されてありがたく幾つか口に放り込んだ。
ぼりぼりとおかきを噛み砕く音が響く。

「センゴクさんは一休みですか」
「半隠居の老人でもやらんといかん事が多い。まったく……」

ため息は重く、ロシナンテはその重さに十三年の月日を感じる。どうしようもない月日を感じるたびに、ロシナンテの胸はずきりと痛んだ。
それを拭い去るように、おかきを飲み込んだロシナンテはセンゴクを呼ぶ。

「センゴクさん」
「ん?」
「こっち座ってください。肩でも叩きますよ」
「…………」
「えっ、嫌ですか?」 
「……いや。……嫌じゃないさ。頼む」

珍しく素直に驚いた顔は直ぐにはにかんだ微笑みに変わる。センゴクは将校コートを脱いでロシナンテの前の階段に腰掛けた。

「うわ、固ェ!ちょっとセンゴクさん、硬くなりすぎてません?」
「しばらく現場に出ないとこの有様なんだ。あ゛ー、そこそこ。上達したな、ロシナンテ?」
「そうですか?そりゃよかった」

肩たたきのテクニックはリハビリ中に盗んだものだ。地獄のようなリハビリにもメリットがあったものだと嬉しく思う。
まだロシナンテが海兵であった頃、嫌、海兵になるよりも前に彼の庇護下にあった時、全力で彼の肩を揉みほぐそうとしてヘトヘトになった思い出が蘇る。

「……懐かしいなァ」

ぽつり、とセンゴクの口から海兵としての角の取れた声が溢れる。大きな背中が、強張りを解いて丸くなった。
海軍将校“仏”のセンゴクが、ただのどこにでもいる、ロシナンテのもう一人の父に変わる。
その背中がほんの少しだけ小さく見えてロシナンテは彼の背に降り積もった月日を思う。彼の重荷を分けてもらえる海軍将校になるどころか、重荷を背負わせてしまった。
それでもなお、ロシナンテにとっては大きく広い背中だ。

「…本当に」

彼もまた自分と同じ遠い日の記憶を思い出しているのだろうか。

「今お前に背中に乗られたら潰れるな」
「ドジってすっ転んでセンゴクさんの鳩尾に頭から突っ込んだの思い出しました」
「あれは痛かった…、背が伸びていた頃だから余計に」
「本当ですか?」
「武装色で庇わなかったのを褒めて欲しいところだな」
「それはガープさんにやられました」
「なに?知らんぞ」
「大泣きしてたらセンゴクには秘密にしとくれって、アイス奢ってもらったんで。もう時効です」
「時効なんぞあるかア!」

ははは、と笑い声が重なる。

「ロシナンテ」
「はい」
「…いい顔になったじゃないか」
「ええ、おれは今ちゃんと生きてるんだなァって実感しまして。なら、おれのできることを生きてるうちにやらないとなって」
「そうか…」

センゴクは後ろ手に手を伸ばし、くしゃりとロシナンテの髪をかき混ぜた。

「精一杯、お前のやりたいように生きろ」
「はい」

さて、とセンゴクは将校コートを肩に担いで立ち上がる。
仕事に戻るのだろうか、と見上げていたロシナンテに養父はにんまりと意地の悪い笑みを浮かべて振り返る。

「ひぇ…」

その顔はあまり見たいものではない。なんでそういう顔ばかりガープ中将とよく似ているのだろう。
ゼファー先生はよオし!見所あるから叩きのめしてやろう!って顔はしなかった!
反射的に及び腰になる自分の肩をがっしりと分厚い手が押さえつける。

「丁度いいな」
「……ひい」
「ちょっと付き合え。訓練をつけてやろう」
「ひぇ…」
「ひぇ、とはなんだ。ロシナンテ!」
「はい!ありがとうございます!!!」

よし、いい天気だから前甲板だな!
うきうきしながら肩を回すセンゴクにロシナンテはとぼとぼと連行されていく。

──それでも何故だろう。

いつの間にか、ロシナンテもまた口元を緩めてウキウキとした顔をしていた。

◇◆◇

まずは初めの型から行くぞ。お互い能力はなしだ」
「はい!」

将校コートを主砲台にかけたセンゴクが腰を落とす。海軍本部式の近接戦闘型の訓練らしい。
なんだなんだと手が空いたクルーが集まり、目を輝かせたりわっと盛り上がったりしている。気恥ずかしいが、元海軍大将とのマンツーマン訓練などそうそうお目にかかれるものではないのだから彼らの気持ちはよく分かった。年かさの海兵に至っては賭け事をしてるような気がする。

「何してんだ……?」
「センゴク大目付もガープ中将とにてるんだね……」
「ええ……?」

艦橋から顔をだしたヘルメッポとコビーが褒めているのか貶しているのか判然としない会話をしていた。
センゴクは気にもとめずにゆっくりと正拳に突く。その拳がずずッとなめらかに武装色の覇気を纏った。
流れるようなお手本のような型に、無性に懐かしくなりながらロシナンテもそれに応じて武装色の覇気を込めた手刀で避ける。
キンッとおよそ人の鳴らす音では無い高い音が前甲板に響いた。
続いて身を翻したロシナンテの回し打ちをセンゴクが肘で受ける。

「左手の覇気が遅いぞ!」
「はいッ!」

センゴクの前蹴りを両手で受け止めて下がる。
センゴクが打てばロシナンテが受け、ロシナンテが打てばセンゴクが躱す。それぞれその瞬間だけ覇気を込めて攻撃し、防御する。流れるような攻防一体の型を一通り終えると、ロシナンテはもうすっかり休日気分が抜けていた。
途中からはセンゴクの指摘に返事をする余裕もなく、型と共に覇気を操る。

「よし、肩慣らしはこれくらいか」
「はー、ッはい……」

数回で荒い呼吸を整えたロシナンテにセンゴクは苦笑した。センゴクに至っては指摘をする余裕をもっている上に、息の一つも乱れていない。

「リハビリで地獄をみたというのは嘘じゃ無かったようだな」
「もう嘘はつきませんよ……。でも、やっぱり鈍りましたね……」
「スタミナ以外は変わってないと思うぞ」
「それ昔から弱かったって言ってます?」
「言っとらん言っとらん」

センゴクは楽しげに肩を回して再び腰を落とす。

「能力は使えるか?」
「五分程度なら。長時間はちょっと負担が……」
「無理にならない程度にしろ。そうだな、三分」
「はい。よろしくお願いします」
「遠慮せずかかってこい」

センゴクは近くで呆然と攻防を見つめていた若い海兵に三分の計測を頼む。
ロシナンテは一呼吸おき、自らの体を叩く。

──"凪(カーム)"
 
囁く声が、能力の発動と共に消える。
そのままリーチを生かして鞭のように足を回す。生み出された衝撃波はセンゴクの覇気に阻まれた。
そのまま剃でセンゴクの無防備な背中側に回る。
背中から彼の腕をひねり上げようと手を伸ばす。
その間に、靴音どころか衣擦れの音、空気を動かす音さえもしなかった。
ナギナギの実の無音人間であるロシナンテは、全くの"無音"で動くことができる。

すなわち、ロシナンテは完全なサイレント・キリングの使い手であった。
しかし、センゴクはそのことを百も承知している。

「ふむ」

腕に伸ばされたロシナンテの腕を逆手につかむと、フンッと勢いよくマストに投げる。
あわやとコビーが手すりに足をかけたが、ロシナンテはメインマストにぶつかる前に空中で"踏みとどまって"、逆に空中からギロチンのように覇気を込めたかかと落としをセンゴクの頭上に振り下ろした。
センゴクは両手をクロスしてそれを受け止める。
音も無く覇気のぶつかる火花が散る。

「足癖が悪くなったな!」

笑うセンゴクに今度は足を捕まれて甲板に投げられる。叩き付けられなかったのはセンゴクの慈悲と、甲板を割らない為だ。
受け身を取ったロシナンテは、思わず口元を緩ませて応えた。

(これでも数年海賊してたもんで!)
「ばかもん、聞こえんわ! ほれ、掛かってこんか。私は一歩も動いとらんぞ」

ドジった! と慌てるロシナンテだが、センゴクに手招かれて顔つきを変える。
リーチを生かしたロシナンテのサイレント・キリングをセンゴクはことごとくいなしていく。
永遠にも思える短い三分が終わったあと、ロシナンテは息も絶え絶えになっていた。
「よォし、終了!」
「あ…ありがとうございました…ァ!」

能力を使わない組手も終え、ギブアップしたロシナンテが長い手足を伸ばしてバタンと倒れる。
だらだらと汗を流して空を見上げているロシナンテを、センゴクは満足そうに見下ろして、観客と化していたクルーに声をかけた。

「誰か他にやりたいやつはおるか?」
「はいはいはいッ!僕やります!」
「あっ!おいコビー!……お、おれも次……」
「はっはっは、二人まとめてでもいいぞ」

ヘルメッポの手を引いてコビーが艦橋からワクワクした顔で飛び出していった。
汗を拭う気力も失せたロシナンテを見兼ね、順番待ちをしている海兵たちが水を持ってくる。

「お疲れ様!」 
「ロシナンテさん凄いな!」
「おー、ありがとな。センゴクさんのスタミナどうなってんだか…」
「音がしなかったのってロシナンテさん能力者?」
「おれはナギナギの実の無音人間。“安眠”においておれの右に出るものはいねェ!」

宣言すると、海兵たちはどっと笑う。

「そりゃあいいな!」
「嵐の夜にかけてくれよ」
「……嵐が来たときに眠ってていいならな」

けらけら笑う陽気な海兵たちにロシナンテは苦笑して請け負った。
ふと、どうでもいいよ!と言い返す幼い声を思い出す。無音人間ジョークはあの子にはウケなかった。もう少しジョークの勉強でもしていたら、少しでも笑顔にしてやれただろうか。
あの子の笑顔をロシナンテは知らない。
海兵と聞いて、どう思っただろう。
ドフラミンゴをどうして止めてくれたのだろう。
強い潮風がようやく乾いたロシナンテの金色の前髪を荒らしていく。

──でも、おれァお前に合わせる顔なんてねェし、それにおれは……。

快晴の空。水平線に伸び上る積乱雲は崩れかけている。
また新世界の荒波が立つだろう。

◆◇◆

3

「緊急!緊急!!後方から何かがすごい勢いで近づいてます!あれは…!?怪物!?ばけもの!?人!?何?えっ、魚雷!?」

見張り台の海兵の困惑の声が艦隊に響いた。新世界に慣れた海兵のひっくり返った警告に甲板掃除をしていたロシナンテは思わずメインマストを見上げる。
彼が遠眼鏡で見つめているのは後方だ。
一緒に甲板を掃除していた相手と顔を見合わせる。
なんだなんだと甲板のハッチから幾人かがモグラのように顔を覗かせた。

「泳いでる!? まさか……!まさか、嘘だろ!」
「は?」
「新世界を?何言ってんだ、お前疲れてるんだよ!」
「いや、違うあれは──!!」

海兵の大声が轟く。

「ガープ中将だァ〜〜〜!!!」

一瞬惚けた海兵たちだが、どやどやと肩をすくめて元の作業に帰っていく。
ロシナンテもなーんだ、と一瞬戦闘体勢に入った体を緩めた。

「なーんだ、ガープ中将か」
「ガープ中将なら泳ぐよ、新世界くれェ」
「ガープ中将か〜」
「あの人なら偉大なる航路を泳いで一周できるって信じてんだおれァ」

ハッチから顔を出していた海兵も下に戻り、ロシナンテもまた腰をかがめてモップをかけ始める。

……いや?

ロシナンテははたと我に帰る。それは近くの海兵たちも同じだったようで、コビー艦は仲良く揺れる。

「「「ガープ中将ォ!?!?!?」」」

タラップも縄梯子も使わずに水を蹴り上げて手すりをつかむ大柄な英雄は、濡れたコートを絞り、犬の帽子を脱ぐとパニックに陥っている海兵たちをギロリと睨みつけた。

「なんじゃ!人のことを怪物だの魚雷なんぞいいおって!マリンフォードから泳いで追いかけてきただけじゃろうが!」

憤然と胸を張る海軍の“英雄”に、ロシナンテはあっけに取られて心中をつぶやく。

「すげェ、昔っから何も衰えてねェ…!」

その声を聞き咎めたガープがギロリとロシナンテのいる方を睨む。ぎくりと肩をすくめたロシナンテをガープが認める。
ロシナンテがロシナンテであることを認識した瞬間、ガープの顔が愕然と驚愕に染まる。

「…まさか、ロシナンテか!?」

ロシナンテが頷くよりも早く、ガープの両手がロシナンテの肩に置かれた。厚いてのひらがそのままロシナンテを押さえつけてじっと目が合う。

「貴様、生きとったのか……」

本当に知らなかったのだろう、ガープの声には驚嘆と喜びが溢れていた。

センゴクのやつ、わしにまで黙っとったか」
「いや、そのそれは……」

やはりセンゴクは自分が生きていることをどこにも漏らさなかったらしい。今自分が“生きている”ことで薄々察してはいたが、その徹底ぶりに舌を巻く。
ロシナンテが何もいえずにいると、艦橋から慌てたコビー大佐の声が振ってくる。

「ガープ中将!? どうしたんですか!?」
「おォ、コビー。センゴクおるじゃろ、あいつに渡さんといかん書類を渡しに来たんじゃ。渡したら帰るわい」
「伝書バット使わなかったんですか?」
「機密らしいんじゃと。おつるちゃんから直接手渡せと言われとる」

ガープが懐から取り出したカモメの模様が刻印され、ナンバー錠の付いた防水ケースを振り回す。文書を入れる物だが、ロシナンテの知っているよりも機能性や機密性が上がっているらしい。
コビー大佐の後ろから顔をだしたセンゴクはガープを見ても驚いた様子はなく、むしろ呆れた様子でおかきをかじる。

「なんだ。騒がしいと思えば、わざわざガープを使ったのか」
「ほれ」
「投げるな、重要書類だぞ」
「お前に渡っとるんじゃからええわい」

ぽんっと放り投げられたケースをセンゴクが受け取る。苦言を呈するがそこまで気にしてはいない。

「返事を書く間待っとれ」
「えー」
「黙って待て。艦を壊すなよ」

ビシリと指を突きつけ、センゴクはさっさと船室に戻っていく。よほど急ぎの文書だったらしい。
船室に戻るセンゴクの顔はロシナンテにもわかるほど険しいものだった。


コビーやヘルメッポがガープに駆け寄って話しかけていた。コビーはきらきらとした顔で、ヘルメッポは辟易とした顔を繕っているがそれでも嬉しそうな顔を隠しきれていない。
彼らの話を聞くガープは、いつもの豪放磊落さを保ちながら、どこか穏やかな顔をしていた。部下や弟子というよりは、孫を見る目に近いような気がする。

(あんな顔をする人だったんだなァ……)

よく見ればロシナンテの知っている頃より皺が増え、髪も真っ白になっている。豪放磊落な英雄のままだと思っていた自分の認識を修正した。
二人がガープの秘蔵っ子だという噂はあながち間違いではなかったらしい。船員たちもガープとは付き合いが長い船員が多いのか、口々に挨拶をしている。
ロシナンテはそれを横目に見ながら、こっそりとハッチから下へ降りようとする。

「ロシナンテ!」
「はい!!」

ハッチを開けた瞬間に怒鳴りつけられ、思わず足を滑らせてハッチに頭から突っ込む。甲板下の船員が目の前に現れた逆さの男にぎょっとした顔をしたが、ロシナンテだとわかるとすぐに苦笑して仕事に戻る。
そのままにゅっと芋を抜くように吊り上げられる。

「相変わらずドジじゃのう」
「ドジっ子なんです」

片腕で吊り上げられ、ロシナンテははは、と空笑いをこぼした。


◇◆◇

薄暗い船室。船窓からはうねる海面が見えている。

「──そうか」

センゴクは一人、宛てがわれている客船室にて文書を紐解いていた。
ふー、と溢れる深い息は無念とも安堵ともとれるもので、表情は影って見えない。
手にあるのは一枚の紙切れ。
並ぶ小さな文字の中に“ドンキホーテ”と読めた。

「……どうしてだ、ロシナンテ」

眉間を指でほぐしながら、彼は椅子に背を預けて天井を見上げる。

「……なぜ言わなかった」

鎮痛な面持ちのまま、その手にある紙を机にばらりと投げるように置く。散らばった文書はいくつかの書式が混ざっている。
報告書、情報文書──カルテの写し。

センゴクの表情は暗いまま。
書き留めた返事を筒に詰めた。

◇◆◇


「死んだと思うとったんじゃ。茶ぐらい付き合わんか!」
「わかりました!」

有無を言わさず食堂室に引っ立てられ、ロシナンテは身を固くさせながら茶を啜り込む。熱いよ、と供された茶が想像より熱く、思わず吹き出しながらひっくり返る。

「あっつィ!!」
「ぶわっはっはっは!! 変わらんのう!」
「うう……、ガープ中将もお変わりな……」

よろよろと席に戻りながら返事をしかけ、ふと先ほどのコビー大佐とヘルメッポ少佐に対するガープを思い出す。

「いや、ちょっと優しくなりましたか?」
「おーおー、言うてくれるわ。泣き虫ロシナンテが」
「泣いてませんが!?」

ごん、と拳骨を落とされて痛みにうめく。

「初対面で『ぼくわるいこだから食べられちゃう』とか言うて勝手に泣いたんじゃろ。お陰でセンゴクに叱られたわ。わしなんもしとらんのに」
「いやァ、ははは、その節は本当にご迷惑を」
「生きとるだけでいい子じゃろうが」

ぼそりと溢れたガープの呟きに、やはり昔との変化を感じる。痛みの滲んだ視線がロシナンテを通り越してどこかを見ている。

「…ガープさん?」
「─貴様が元気そうでよかったわい」

大きな手が今度は拳骨ではなく手のひらでロシナンテの頭をかき混ぜる。首の骨が折れそうになるほどの勢いに目を回しながら、ロシナンテの頬も緩む。

「ガープさんも。一目会えてよかった」

ガープはそれには応えず、ロシナンテの背中を強く叩いた。


夕暮れに近くなったころにガープは再び泳いで帰ることになった。コビー大佐たちが引き留めていたが、急ぎの用事らしい。

「それじゃあわしは帰る!!」
「やったー!お疲れ様でした!」
「今日は忙しかったですけど、今度は稽古つけてくださいね!」

嬉しそうに見送るヘルメッポと、名残を惜しむコビー。ヘルメッポに拳骨を落としてから、同じく見送りにきていたセンゴクをちらりと見る。

「センゴク」
「なにも言うな、わかってる」
「……ふん、たまにはわがままくらい言えばええと思うぞ」

センゴクは一瞬驚いた顔をした後、肩をすくめて手を振る。
海軍の英雄は短いため息をつき、そのまま背を向けて海に飛び込んでいった。

最敬礼で見送ったロシナンテたちは肩の力を抜く。

「明日の朝にはG-5に着くのになァ」
「ガープ中将はお忙しいなあ……」
「ちょっとくらい休ませてあげればいいのに」

どやどやと話しながら、船員たちが仕事に戻っていく。ロシナンテもそれに混ざりながらもう水平線に消えようとしている、子どもの頃からよく世話になった人を見送った。


ここはグランドラインの海の上。
だれにも盗聴される危険のない場所で、ぷるぷると電伝虫が鳴る。

『はい、洗濯』
「せんべい!わしじゃ!」
『ガープかい? どうしたんだい、こんな機密通信使って』
「センゴクんとこの“養子”の件、聞いとったか!?」
『あぁ“一人目”の方かい? あたしゃ知ってたよ。というか、あんたに例の件依頼したのあたしだろう』
「え〜〜!!!なんじゃ、わしだけ除け者か!! わしこの件の功労者なのに!」
『知らない方がうまく行くだろアンタは。その言い分だと気付いたんだね』
「コビーとヘルメッポの艦にセンゴクが乗っとるっちゅうから報告書と書類渡してこいっちゅーたのおつるちゃんじゃろうが!!」
『任務終わったんならさっさと戻っておいで。こっちは人手が足りないんだ』
「わし!!中将!!それなりにえらいんじゃけど!」
『あたしも中将だよ。……ひとめ会えたかい?』
「……元気そうじゃったよ。センゴクのやつが嬉しそうでなァ」
『ならよかった。──酷なことをさせてすまないね。だが、会えないまま別れが来るときだってある』
「わかっとる。……ありがとう、おつるちゃん」

ガープは電伝虫を懐の防水袋に仕舞い込んで、再び泳ぎ出す。
彼にかかれば、日が昇るころには本部に着くだろう。

◇◆◇

4

「G-5支部が見えましたよ、センゴクさん。午前中に着いて良かったですね」
「うむ。そうだな」

遠くG-5支部のある島が見える。ロシナンテがセンゴクに報告に走ると、センゴクは重々しく頷いた。
海軍支部の船渠にはいくつか修理中の軍艦が見えた。
数週間前のパンクハザードでの戦闘の痕跡は未だ癒えているとは言いがたいようだった。

「ロシナンテさーん!」
「今行く! …では」
「ああ。我々はここでコビー艦をおりるぞ。──しっかりな」
「はい」

軽く敬礼をして踵を返す。基地への着港準備に伴ってにわかに艦上は騒がしくなる。ロシナンテもこれ幸いと雑用として砲門を閉じたり、錨を降ろす準備に取りかかる。港には幾人かまだ包帯の残った海兵が着港の連絡を受けて手伝いに来ている。
艦長であるコビーが威勢の良い指示を上げる。

「帆を畳んでください! 艦を港に付けます。ヘルメッポさん、主砲見ててくださいね」
「イエッサー!」

渡り綱に上る海兵に巻き方を指示し、ロシナンテもさっさと港の海兵に重いロープを投げ渡す。ロープを渡って港に降り港のボラードにロープを巻き付けて繋留するのを手伝った。幾度かひっくり返ったが、手際よく出来た方だろう。
港の海兵と協力してタラップを架ければ完了だ。幾度となく繰り返した着港作業を終えれば、ほっと皆の肩の力が抜けた。基地に艦を止めさえすれば海兵の航海はおしまいだ。
ロシナンテもほっと息を吐いた。
新世界の航海ではどうしても本当に気を抜く余裕はない。
ロシナンテもまた久しぶりの偉大なる航路の航海でやはり体が重くなっているのを感じた。滲む汗を拭っていると、艦橋からコビーの声がした。

「みなさん、お疲れ様です! 出航は明日の朝になりますので、今日はゆっくりしてください。ぼくとヘルメッポさんは基地長に挨拶してきます!」
「ええ、おれもォ?」
「来てくださいよ!」

本当に仲の良い二人は月歩でおりていく。甲板から見上げれば雨は降っていないが雲のかかった薄曇りだった。


コビー大佐とヘルメッポ少佐が挨拶を終え、船員達にG-5支部に間借りした宿所を伝える。
片手に収まるボンサックを担いだ海兵たちがどやどやと降りていく。
 噂通りの荒くれのG-5支部の海兵の扱いに慣れたベテラン海兵があしらっている。彼は元々ガープ艦の甲板長だったらしいのでさもありなんというべきだろう。
センゴクも既に艦を降りる準備を整えていた。
ロシナンテは知り合った友人たちに別れを告げてセンゴクの荷物を共に持って艦橋に向かう。
額を付き合わせて着港許可書や停泊、宿泊許可の書類をまとめていたコビー大佐とヘルメッポ少佐が振り返る。

「センゴク大目付、ロシナンテさん!」
「急に二人も乗り込んでしまってすまなかったな。コビー大佐、ヘルメッポ少佐」
「いえ、むしろロシナンテさんが来てくださって助かりました。ぼくが若輩すぎて、目の届かないところが多くて……」
「ガープ中将のところから来てくれた伍長たちが助けてくれてはいるんだが」

コビー大佐とヘルメッポ少佐がよく似た表情で頭を搔く。

「そうだな。……さて、どうだった、ロシナンテ。艦内査定の結果は」

センゴクの視線を受け、ロシナンテはにやりと笑ってカツンとかかとを合わせて敬礼をした。

「はッ! 海軍本部雑用ロシナンテ、報告します」

コビー大佐とヘルメッポ少佐がぎょっとした顔でロシナンテを見つめる。

「大まかには文句なし! と言いたいところですが、本人の言うとおり、下士官に気の緩みが見られます。基本のボンドとヒッチはこの航海の中でたたき込みましたが、ボーラインが危うい海兵がいてどうするんですかね。通常時の業務負担、非常時の指示系統は問題なし。清掃も最低ラインはクリア。厨房の食材管理もまあ問題ないと言えるでしょう」
「えっ、ええっ!?」
「新兵の総則暗唱は、五人中二人しかできなかったのはいただけませんね。上級士官もいくつか解答できなかった規則がありました」

目を白黒させている二人に、つらつらと畳み掛ける。

「船底のバラスト変えたのいつです? 藻が生えてきてるから不衛生ライン一歩手前。そろそろ申請して交換した方がいい。横帆の一部に破れのこりが二箇所残存。火薬の樽一つが湿気ったまま残ってた。この間のサイクロン後の点検の見落としですね。二重チェックが機能してない」
「うっ……!」

コビー大佐が反射的にうめき、メモをとりだして書きつける。ヘルメッポはあんぐりと口を開けてつらつらと述べられる監査項目を聞いていた。

「ですが、船員同士の関係性は概ね良好。今まで見た中でもトップクラスに良く、連帯感も向上心もある。これは個人的意見ですが、雑用として働いていて一番働きやすい鑑でした」
「は、はあ……」
「以下、細かい項目は報告書にまとめてますので、確認後1ヶ月以内に改善案を海軍本部監査室へ提出ください。以上報告終了!」

再度踵を合わせ、手を下ろす。センゴクは笑いを噛み殺した顔でぽかんとした二人を眺め、ロシナンテもまた思わず笑いを堪えきれずに顔を背けた。
くつくつと笑うロシナンテとセンゴクにようやく我に帰ったヘルメッポがロシナンテを指差す。

「ど、どういうことだ!?おっさん雑用じゃねェのかァ!?」
「雑用だぜ。ちょっと任務頼まれてただけで。あー、久しぶりの監査任務、緊張したぜ」

敬礼を崩して肩を回す。

「…えええ〜〜!!?」
「もうちょっとおんなじ海兵でも警戒しような〜、特にコビー大佐。少佐も警戒解くのが早いぞ」
「だっておっさんドジだしさァ!雑用だと監査はしにくいって……!」
「しにくかったぞ〜」

喚くヘルメッポ少佐に、呆然とするコビー大佐。
あまり手厳しいことは書いていないので安心して欲しいところだが、他の船員から話を聞いたところ自分がはじめての監査だったらしい。初めてなら、そんな顔にもなるだろう。

「どうでしたか? センゴクさん」
「概ね私の意見と同じだ、しっかりやったな。腕は衰えていないようだ」
「よかったァ……」

センゴクが満足げに頷き、ロシナンテはほっと胸を撫で下ろした。
自分のテストも兼ねていたのは薄々察していたが、センゴクの基準はクリアできたらしいことに安堵する。

「アンタ、何もんなんだ」

ヘルメッポが驚き疲れた顔で、ずれたサングラスからロシナンテを見つめていた。

ロシナンテは肩をすくめた。

「海軍本部雑用のロシナンテだぜ?」
「昔から、私の耳や目の代わりを務めてくれた。私は潜入工作員としてはお前以上の海兵を知らんよ」
「センゴクさん……!」

珍しく手放しに褒められて、ロシナンテの頬が熱くなる。

「ドジっ子だがな」
「センゴクさん……」

からかい混じりのおまけにがっくりと肩を落とす。ド城っ子なのはもう生来なのだ。
センゴクはこほんと空咳をして笑みをしまい直し、厳しい上官の顔で二人を労った。

「明日はヤマカジ中将の艦と合流だろう。私が話をつけておくからもうあとはゆっくり休みなさい。改善案の書類も急がなくていい。体を休めることだ」
「「はっ!」」
「私たちは基地長に挨拶をしてから宿舎に行くぞ」
「はい」

艦橋から追い立てるようにして二人を宿舎に向かわせる。艦橋にいる限りずっと仕事をしていそうな真面目な二人にはこの方がいいのだろう。
センゴクに続いてタラップを降りる。
丁度風の吹いてきた正午に近い時刻。
港で大目付を迎える基地長から、懐かしい葉巻の匂いがした。
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