【晴晋】晋作太夫ルートif 06. 切開


 高杉が急いで自室に戻ろうとしなくなったのは、ここ最近のことだ。それは半ば、そうなるように俺が彼を抱き潰すようになったからでもあり、彼自身が何がしか、例えばその帰り道で、突つかれでもしたのもあるのだろう。
 そうでなくては言葉すら交わせないと、その内面に踏み込めないと、これまで気付かなかった己に反吐が出る。それまでに蓄積された、その傷みを思えばこそ。

 短く刻まれる息とともに、くったりと肢体が敷布に沈んでいく。茫として空に泳いでいた紅の瞳は薄く開かれたまま、ゆらゆらと揺れて焦点を曖昧にしている。
 こうでもしなければ高杉と共に朝も迎えられない、など、ほぼ言い訳だ。実際にそうではあっても、供物のように捧げられた身体に幾度となくのめり込んでしまっている。冷ややかに向けられていた視線でさえ、覚束なく振れれば縋りつかれていると勘違いするさまだ。そうであればいいのだが、これはそんなに生温い男ではない。
 沸かした湯に手拭いを浸し、きつく絞る。サーヴァントであれば不要な始末であっても、せめてこの場が心地よいと高杉が感じられればいい。そんな下心で始めた世話も、慣れればむしろ俺の方が喜びを感じ始めていた。
 後始末の用意と共にベッドの脇に戻った俺は、高杉の顔を覗き込んだ途端、思考を停止させられることになった。
「う、うぅ……ぅ、ふ、ぅーーー、ぅ」
 か細い呻き声とともに、はらはらと雫が落ちて、高杉の頬がしとどに濡れていく。しっとりと頬を満たす静けさは、春の雨に落ちる花々を思わせた。
「おい、高杉、どうした?」
 呼びかけても返事はない。恐らく高杉自身も意識はないのだろう。ただひたひたと流れるだけの涙を、俺は拭うことも、止めることも許されていない。
 いっそ触れてしまえたら。そう思う一方で、その約定すら破れば、二度と高杉が来ることはないという確信だけがあった。
 
「ん……ふぁ、あ」
 朝もまだ早いなか、気の抜けた欠伸が聞こえてくる。書に目を落としていた俺は、身を起こした高杉を視認してすぐに、湯呑みを手渡しにベッドへと歩を進めていった。
 ぬるめの湯を口に含んで、ほう、と高杉が息をつく。空の湯呑みはサイドテーブルに避け、高杉の意識をこちらに向けさせる。いい加減、腹を括って切り出さなければならないと、誰よりも俺が理解していた。
「このように呼びつけられるのは……俺に抱かれるのは、嫌か?」
「嫌ならわざわざ来てない。
 ……ああ、なるほど。ようやく僕の身体に飽きたか。なんだ、案外保ったな」
「そうではない!今までも、これからも、お前に飽きなどするものか。
 そうではなくて、だ。あのように泣かれては、さすがに」
「……何の話だ?」
 心底わからないとばかりに、高杉の瞳が怪訝を露わに眇められた。その様子にとぼけたさまはない。あの痛々しい泣き顔の名残など一切感じさせないまま、張り付いた冷淡さがただ先を促してくる。
「覚えていないのか」
「悪い夢でも見てたんじゃないか?それで泣き出すのも滑稽だが、あれだけグズグズに崩された後だ。そういうこともあるだろうさ」
「だが、」
「だいたい、いつも僕をひいひい泣かせてるのは信玄公だろうが。今更泣き顔ひとつ気にしてどうする」
 文句も多分に、俺へとジト目が向けられる。高杉のこういった明け透けな物言いは気遣いのなさゆえではなく、俺を言いくるめるための手管なのだと、かつては欠片も理解せず、ただ気圧されていた。その間もずっと、彼は俺を観察していたというのにだ。
「気にして何が悪い。抱いた相手の涙ひとつ拭うことすら許さないのはお前だ」
「何だそれ。信玄公は身体だけの関係でもお優しいんだな」
「高杉、いい加減にしろ。仮にも俺に優しくされたくないのなら、心配を誘うような素振りはするな」
「は?……なんだって?」 
 瞬間、場が凍りついた。能面のような冷たさだけをたたえていた高杉の顔は、今では引きつり、笑みさえ浮かんで見える。
 見覚えのある顔だった。あの夜の高杉が俺を見上げて晒した表情だ。それが怒りだとわかるほど、あの俺は彼を知らなかった。
「改めて問うが。なぜ、お前は俺に抱かれに来る?それこそ『わざわざ』だ」
「信玄公に抱かれるのは嫌じゃない。手慣れてるだけあって肉欲も満たされる。それで君は喜ぶし、僕だってまあ、楽しんでる」
「楽しめているように見えたことはないがな」
「ッチ……はぁーーー何なんだ、やけに突っかかって!君とわざわざ喧嘩をするつもりはない。そんなに親しい仲でもないしな。いい、もう戻る」
 苛立ちも露わに、高杉はベッドから立ち上がろうとした。その腕を引いて、無理も承知で抱き寄せる。暴れられる覚悟すらしていたが、彼は意外にも大人しく腕の中におさまってくれていた。
 力の差など、これまでの交合で嫌というほど覚え込まされたのだろう。観念したと告げるように、高杉の身体から次第に強ばりが抜けていく。腕こそ回してこないが、頬がこてりと肩に寄せられて、甘えられていると錯覚しそうになる。
「求められ、嫌でなければ誰とでも、と?」
「どうだろうな。……少なくとも信玄公ならいい、と思ったんじゃないか」
 逸らされた顔からはこちらを伺うような気配は感じられない。諦めのこもった声色だけが、その身のうちの逡巡を伝えてくる。まだ迷う余地があると判ぜられるからこそ、俺も諦めるわけにはいかないのだ。
「俺は、お前だから抱きたいんだがな」
「はは……口がうまいな、信玄公」
「できればお前もそうであってほしい」
「無理を言う」
 毒にも薬にもならない応酬を交わしながら、時間だけが過ぎていく。ここで腕をほどけば高杉は何事もなかったかのように帰っていくのだろう。放さないまま夜を迎えたら、少しは何かが変わるのだろうか。
 傷は見えた。膿のかたちも。後は如何するか、だ。
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