34.水底に沈むもの


 
 格納庫には人の気配が殆ど無かった。当然だ、今はそれどころではないのだから。
父の死後、僕が会社を何とか延命させている間にその数を減らしてしまった社員達も皆、兄さんの指示に従い忙しなく動いている。人手は明らかに足りていない。それは数ヶ月、兄の代理を務めた間にも痛感した事だ。不用心だとは思うが、それでも現状多くの者が出払わざるを得ない状況なのだろう。

 コックピットで一人膝を抱える。パイロットスーツは着用していない。人目に付かぬように主電源は落としてあるから、少し肌寒く感じる。目の前に広がる薄暗がりは、僕が日頃、怪物を押し込めている心の底に似た景色だと思った。

さっきから着信音がなり続けてる。それが耳障りでバイブに切り替えた。カミルにフェルシー、それから、これは__。いや、もう全部どうでもいいな。
それでも止まない振動が鬱陶しくて、苛々したから終いには電源を切った。
最後に入っていた兄からの着信を見て、僅かに指が止まったが、今は誰とも話したくない。
あなたとも__。
今のあなたと話したところで益体も無い。魔女の悪い魔法に掛かり、意のままに操られる男との会話など、なんの役にも立たないだろうから。
これでもう邪魔は入らない。静かな水底の奥深く、身も心も沈み込む。


 夢、または幻のような、束の間の幸せだった。
それが突然終わりを告げて、僕に残されたのは、優しく微笑んでくれた彼の記憶と爪痕だけ。痛みと喜びをこの心と身体に傷痕として色鮮やかに残したまま、ボブは消えた。
愛する兄は、いつものように全てを独りで抱え込み、銀髪の魔女に誑かされたまま__。
あんなに澄んで美しかった青い瞳は濁りきり、悪い魔女の後を追い縋るばかりだ。

目の前からふっつりと、光が消えてしまった。
その瞬間、未来も一緒に解(ほど)けて消えた。忽然と。

まただ。またしても僕は__。彼を止めることが出来なかった。その手を取って捕らえることが出来なかった。
ボブと兄さん。必死で掴んだ指の隙間から、二度もすり抜けていってしまったその笑顔を思い浮かべながら、抱えた膝を引き寄せた。
操縦席の上で背を丸めて顔を伏せる。
そうやって澱んだ時の狭間に沈み込み、僕は一人考えている。

さぁ、これからどうしよう、か__。
情報の渦に翻弄され、身動き出来ないままに溺れてしまった。今の僕は溺死直後の屍だ。

 父さんを殺したのは、兄さん__しかしそれを口にしたのはシャディクで__。
最終的にフロント管理社の手により連行されていった彼は、兄との激戦の中、自らの罪を肯定した。この一件どころか、プラント・クエタのテロから始まる一連の事件の主犯格と見て間違いない。だが、そうであるなら余計にその口から出た言葉など、信用出来ないじゃないか。

それでも__。
兄さんは言った。『自分の罪は自分のものだ』と。
彼らの通信を聞いた僕は、何度も自分の耳を疑った。否定したい、首肯したくない、反駁材料を色々と頭の中で探し回ったが、残念ながらその言葉の意味は肯定であると、最後には認めざるを得なかった。

ならば兄さんは何故父さんを__。あんなに好いてる父さんを。僕の目には時折盲目的なまでに映った、兄の父への思慕。そんな兄さんが理由もなく父さんを手に掛けるわけがない。平手で叩かれようと拳で殴られようと、一切手を上げ返すことはしなかった。反抗の一つすらして来なかった兄さんにかぎって。

いったい何があったのだ、兄さんと父さんの間に__。

いや、兄さんは父さんを嘲弄したシャディクに対して激昂してた。
兄さんの父さんへの思慕は消えてない。
『うまく立ち回れば父親は死ななかった』この言葉の意味は__。
兄さんは、父さんに対して害意を持ってたわけじゃない。
父さんとの間に起こった何らかの衝突は、きっと『事故』に近い形の偶発的なものだったんだ。

父さんを利用し謀ったと豪語したシャディク。テロリストを誘導したのも、当社の旧型機を彼らに流し、疑いの目がジェタークへ向くように仕向けたのも自分だと、彼はそう言い放った。
ならば、彼が作為的に兄と父を衝突させたのか?

 学園では軽いノリで過ごしてきたように見えたシャディク。兄との仲は特段良くも悪くもなく、普通に見えた。
だが、あの場での彼は別人のようだった。レギュレーションを外してきた彼には、兄に対する明確な殺意があった。

『お前が上手く立ち回れば』『お前が戻らなければ』『お前が付いていながら』『お前達が』シャディクは宇宙と地球の格差がどうとか御託を並べていたが、その言葉の端々には兄さん個人に対する嫌悪や憎悪を感じた。いや、もっと複雑な感情だ。期待を寄せ、裏切られたという激しい怒りや、怨恨染みた何かのような__。

兄さんのポケットから出て来た白いハンカチ。その端には小さくグラスレーの社章があった。たぶん、シャディクか、取り巻きの女達の持ち物だ。
それを、何故兄が持っている?
シャディクと兄さんは、何時かの時点では協力関係にあった?
その後に、何かの理由で仲違いした?
シャディクと兄さんの間に何があったんだ?
第一兄さんは学園から姿を消した後、何故地球に降りようなどと考えたんだ?

分からない。考えるほどに、頭が混乱する。

シャディクは戦闘の中、何度かミオリネの名を口にした。
『お前がそんなだからミオリネは!』
シャディクがミオリネに心を寄せていたのは、多くは無いがそれなりの者が知ってる。素っ気ない態度で接されていたことも。
兄さんは地球から戻って来たことをシャディクに詰め寄られてた。
という事はシャディクの計画では、父さんと兄さんの双方を討ち合わせ、共に邪魔者として消すつもりだった?
そのシャディクの予想に反して帰還しホルダーに返り咲いた兄さん。シャディクは、兄がミオリネと手を組む事が気に食わなかったのだろうか?

『ミオリネは手を汚すことになった』だと…? 巫山戯るな…ミオリネの傍に居たばかりに…あいつの無謀な振る舞いのせいで穢されたのは、兄さんの方じゃないか。
ジェタークの誇りを意図的に傷付けたのは、シャディク、お前だろうが。
しかしあれだけの事件に関わってきたんだ、極刑は免れまい。せいぜい獄中で吠え面をかくといい。 

 ゼネリ姓ではあるものの、元々はアーシア出身とも噂されるシャディク。
僕が知らぬ間に、地球に根を張ろうとしていた兄さん。
騒動が起こる度、関係者として常に関わり、いつもその影をチラつかせるのは…迷惑を撒き散らし、何度も地球行きを強行しようとしていたミオリネだ。

何故か、騒動の中心にはいつもミオリネがいる。

そして、三者の接点は__。
そう、地球だ。
何故、誰も彼も皆、地球にそうも固執する__?

三者は当初、密かに手を取り合っていた?
シャディクは自分から掛かりに行ったのだろうが、兄さんは違う。
あいつらの張った糸巣の罠に絡められ、毒牙に掛かり、陰で糸引くあいつの操り人形となって__。

シャディクのミオリネに対する想いや思惑の全貌は知らないが、手枷足枷がついているであろう今はどうでもいい。
だが、少なくとも兄さんに関しては、意図せず一連の件に巻き込まれ、彼の言うところの『自分の罪』、つまり父さんとの件で揺すられ、魔女の手の内に堕ちた、と考えるのが自然なのではなかろうか?

青い宝石のような瞳を、すっかり曇らせてしまった兄さん。
兄さんが酷く怯えていた何か。それは『父さんとの間に起こった偶発的な衝突』に関する事だったんだ。それをあいつらに揺すられ、あんなに震えて、怯えきって__。

……兄さんの馬鹿……僕を頼らずミオリネなんかを頼りにするから__。
あいつを縋ったばかりに…そんなんだから、一時が万事こんな事になるんじゃないか。
父さんとの事だって…僕に一言相談してくれれば…
助けてって、辛いって、一言でも言ってくれれば…宇宙の果てだろうが、地球の裏だろうが、僕は全てを捨てて、あなたを助けに行ったのに。
あなたを守るためならば、何でもしたのに…出来たのに…



(よう…調子はどうだ…決心はついたのか?)
またお前か…邪魔だ、引っ込め。静かにしてくれ。混乱してる頭が余計に働かなくなる。

(…だから、だよ……そろそろ俺と代われよ…大事な兄さんなんだろう? 取り返したいんだろう?)
ああ、そうだよ…命に代えても守りたい兄さんだ。傷だらけになって強がって、あんなに震えて苦しんでる兄さんなんて、もうみたくない。この手でぎゅって抱き締めて、大丈夫だから怖がらないでって、言ってあげたい。

(……俺だって同じ気持ちだよ…今ならまだ間に合うぞ…兄さんを悪い魔女から取り戻そうぜ。お前の駄目なところはな、兄相手だからってすぐに遠慮するところだよ。だから上手くいかないんだ。今度は手枷足枷をきっちり付けて、自由を奪って守ってやろうぜ。俺達の前から逃げ出せないように、もう俺達以外に頼ることが出来ないように。ちゃんとしっかり縛り付けてやるんだよ)
そんなの、だめだよ…兄さんが可哀想だ…

(…魔女に囚われ、罪に囚われ苦しめられる、今の兄さんは可哀想じゃないのかよ…? このまま罪の意識に苛まれ、魔女の下でボロ雑巾に成り果てる…そんな兄の姿がお前はみたいのか?)
そんなの…みたいわけないだろ…でも、僕じゃ、僕の力じゃ…きっとあの人は捕まえられない

(だから何度も言ってるだろう…? 俺が力を貸してやる、って。 なあ、もういいだろ…そろそろ頃合いだ…いい加減に俺と代われよ……)
僕は眉根を寄せる。抱え込んだ膝に顔を埋めて、さらに体を小さく丸め込む。

……誘惑に負けそうだ。
もう僕は、この闇に、薄暗い水底に解けて消えてもいいだろうか?
コイツに、この身を預けてしまってもいいだろうか?


 ミオリネの温室前で水星女に毒づいたあの日。僕の中の、想いの怪物に焚き付けられた僕は、閉門チャイムの音と共に暴れ回る思考の奔流に慌てて蓋をした。それで僕の中の怪物も、悍ましい考えも、危険物は全て閉じ込められた筈だった。

なのに。あの後__、薄ら寒い闇に馴染む森の中で、もう一人の僕が耳元で囁いた。

でも__、生まれたての無垢なあの子が、心強い存在であることは間違いないだろ。
もし。
もしもこの先__、
いざという時が来たのなら。君は…
お前は、その心を、抑え込む事が出来るのか__?

僕は両手で耳を塞いで、激しく頭を振って、その言葉を遮った。
引っ込めよ。お前は僕の中の悪魔だ。表に出てきちゃいけない存在だ。

それなのに、最近抑えが利かない。いつも奴を閉じ込めている昏い水底の檻は、僕の心がグラグラ揺れてるせいで、鍵が壊れてしまったのか、掛け忘れてしまったか。檻自体が拉げてしまったのか。
耳元へ出てきてはその首をにゅっと伸ばし、甘い言葉で誘いをかける。
『我慢することはない、そろそろ俺を解放しろ』と。『助けになってやるから、俺と代われ』と__。そんな風に、何度も何度も囁きかける。

耳元どころか、今は頭の中から声がするんだ。自分の声と重なるように。
靄にすっぽり覆われて、自分の声が遠退いて。同時に心や体が遠くなる。操縦桿を奪われたみたいに。その感覚に、言い知れない恐怖を感じて叫びたくなる。
だけど近頃は、その言葉に思わず頷きたくなる瞬間もあって。

兄は僕を避けて回り、悪い魔女の前で深く首を垂れては跪き、その手の甲にキスを落として服従を誓う。
このような事態に陥った今となっては、もう、何が正解なのか分からない。

兄の心と身体を、その愛を、この手の内に取り戻したい。
もう一度、兄さんをこの腕の中に、胸の内に抱き締めたい。
僕の中で今にも暴発しそうなこの気持ちは、この願いは__。

いるかどうかも分からない、頼りなげな宇宙の神に祈るのではなく、確かな存在としてここにいる、この怪物に、僕自身を擲つことで叶うのではないか? そんな風にすら思えてくる。
いっそのこと、無力な僕より、やたら自信ありげなコイツにこの身を任せてしまった方が、良い結果を得られるのではないだろうか?

それでも、最後の理性を手放せないのは、漠然とした不安があるからだ。
果たして僕が僕を完全に手放してしまったら、兄を手にするのは本当に僕なのだろうか?
彼を手にするのは、僕では無くてコイツでしかないんじゃないか。
そんな疑心に駆られるから、最後の手綱までは思い切って手放すことが出来ないのだ。

 愛人の子という生まれのせいなのか。僕に興味を持たなかった母の影響からなのか。元々僕に備わる特性なのか。何に起因するのかは知らないが、僕の奥底は捩じくれている。いや、完全に捩じ切れている。
生きる都合上__。違うな、それより何より、兄に嫌われたくなかったから、僕はそれを必死で隠して生きてきた。奥底に蓋をして、深い水底に沈め、それをおくびにも見せないように秘めたまま、この18年近くを生きてきた。
冷静沈着で理性的? 聞いてあきれる。捻じ曲がった僕の本性を外に晒したくなかったから。大失態を演じて兄さんとの関係が壊れてしまうことが怖かったから。それを抑え込むのに必死で、表の事象は後回し。必然的にそうなっただけのこと。

そんな僕の底で生まれ育ったコイツは、愛に飢えた子供のままで、一度掴んだ温もりを決して放すまいと、がっちり噛み付き、喰らい付き、しがみ付いて離れない、悍ましい怪物だ。兄の愛を手放すまいとするあまりに、形振り構わず暴走し、緊縛・呪縛の一切を厭わず愛を貪る、容赦のない化け物だ。

屈服させたい、支配したい、生涯俺のものだとその身体に彫り込んで、心にも深く刻み込んで。手足を斬り落としてでも傍に置いて。止まない言葉と愛撫を重ね、快楽漬けに引き摺り込んで、息が出来ないくらいに愛してやって。耽溺の海の底に深く沈めて。断ち切れないほどの縄の数で縛り付け、簀巻きにしたまま、永遠の時の中で愛でてやりたい。

そんな恐ろしい言葉を吐くコイツに、僕は深く共感してしまう。この悍ましい言葉達が、怪物から出たものなのか、僕の奥底の本心なのか。今はもう分からない。
コイツは、この怪物は__。本当のところは僕自身なのかも知れない。
そうならば、もう。勢いに任せて君と一緒に暴れたって良いんじゃないかと思えてくる。僕自身が君ならば__。


 僕は石のように沈黙した。どのくらいの間だっただろう。分からない。その果てに僕は怪物に語り掛けた。

……分かった…いいよ…兄さんを取り戻すためだ、君に協力する……
(やっと決心がついたか! ならば、交代しろ! 今すぐにだ! 今度はお前が沈め! 凍るような水底へ!)

怪物は鉄檻の隙間から勢いよくこちらへ腕を伸ばし、この腕を掴んで檻を沈めた水の底へ引き摺り込もうとする。そのイヤに長い爪の先が腕を掠めた瞬間、僕の腕はそれを躱し、手綱の鎖を力任せに引っ張った。

錆びた首枷が首に食い込み、怪物は口から泡の塊を吐き出した。


……誰が代わると言った?
…僕は協力すると言ったんだ。
君も兄さんが欲しいんだろ?
僕も君も、兄さんを深く愛する者同士じゃないか。だから、これからは…仲良くやっていくんだよ? …ねぇ、この言葉の意味…ちゃんと理解してくれたかい?


見くびるなよ、僕の中の化け物め。僕の主人はあくまで僕だ。君に呑まれてなどやるもんか。こうなったらもう、僕の方からお前を丸ごと呑み込んでやる。兄さんに近付くために。そういう事に決めたんだ。
僕は、僕を放り出したのではない。兄を諦めたのでもない。戦略的に歩み寄る事を決めたんだ。

僕の顔をした怪物は、その憎々しい顔を歪めながら金色の瞳をギラつかせる。
残念だったな、脅しをかけたって僕には利かない。お前は僕自身なのだから。

僕は鍵の落ちた檻の扉をゆっくり開く。錆びた鉄扉が、ギィ、と耳障りな音を立てる。
爛々と光る金色がこちらを睥睨しているが無駄だ。お前の脅しはもう飽きた。
手の内で不快にザラつく鎖を引いて、化け物を引き寄せる。
今度は僕の方からその耳元に囁きかけた。『一緒にやろう』と。

僕は僕を手放すことはしない。だが、僕の、君の、この欲望やその強い劣情は、きっと力に変わるだろう。だから協力してやる。お前と僕とは今から共犯だ。
さぁ、一緒にやるんだよ。
『兄さんを取り戻す』たった一つの、何より大切な目的のため。

僕はもう一度手綱の鎖を強く引く。錆びた鎖が軋む。それは仄暗い水底で、悲鳴のような音をあげた。


 結局のところ、あいつがフィクサーのように暗躍するんだ。舞台の袖から見えない糸を張り巡らせては、それを引いて登場人物を派手に動かす。気付いた時には首に糸が回って、どうにも身動き出来なくなって__。
あの手この手で餌をチラつかせ、人心を惑わせ篭絡し、不要になった邪魔者を切り捨てるため、今度は新旧の手下同士を蟲毒のように戦わせ__。
まるで蟻地獄か毒蜘蛛の巣だ…。掛かった者は駒として、良いように操られ争わされて、挙句の果てには捨てられる。

侍るシャディクを鬱陶しいと退けて、次は水星女を捨てる為に兄さんを利用して。哀れな水星女を弾除けとしてフル活用し使い捨てた後は、今度は兄さんを十字架で苦しめながら、対外的な盾として使い潰して穢すつもりか?

銀髪の小娘。悪魔のような魔女め。こちらの心が凍りつくような鋭い視線は誰に似た?
人心を惑わせ、意のままに操り、心を蝕み、蜘蛛の糸に絡め取られた者は、身も心も削り取られて消耗し、やがて破滅に追いやられる。
きっと、兄さんだって__。このままじゃ…そう遠からぬ内に心も体も壊される…。そんなの嫌だ、許せない。

 お前の罪状はそれだけに留まらない。兄と父の事に加え、学園の件もある。お前がガンダムを地球に持ち込み要らぬ刺激を与えたせいで__。
そのせいでペトラは__。
あいつのせいだ。あいつがガンダムなんて持ち出さなければ。地球で騒ぎを起こさなければ。
そもそも地球に降りるなどと言い出さなければ、こんな事にはならなかった。暴動を治める? あいつのした事はその真逆じゃないか、あいつのせいで学園は報復テロを受けたんだ。

 カミルから受けた最後の連絡を思い出す。攻撃を受けた建物で、瓦礫の下敷きとなった彼女は今、集中治療室で隔離された状態だとの言葉に、僕の心は砕けて散った。その後は全ての情報を遮断した。見ての通りだ。彼女は一命を取り留めるかどうかも分からない。痛々しい姿を想像し、心が烈しく痛んだ。

 彼女は、ペトラは__。兄が失踪した事で弱り切り、今にも崩れ落ちそうな僕の心を、懸命に支えてくれた。何度も叱咤激励してくれた。時に姉のように、厳しく叱ってくれもした。

 消息を絶ったまま、父さんの葬儀にも顔を見せなかった兄さん。葬儀の後、僕は酷く落ち込んだ。
周囲は父を失った悲しみに暮れているのだと思ったらしく、様々に声を掛けてくれた。それが理由の一つでもあったのだけど。ごめん、本当の理由は違うんだ。

父さんには感謝してる、母さんに捨てられた僕を拾ってくれたこと。食べさせてくれたこと。兄さんと同じように教育を与え、育ててくれたこと。何より僕に兄さんを与えてくれたこと。
でもね、僕があの環境に生み落とされた事の次第の一端は、あなたにある。
それにあなたは僕の大好きな兄さんに、直ぐに手を上げようとする。
僕の父さんに対する胸懐は、長じていく毎に複雑なものになっていった。

僕は、僕を初めて抱きしめ愛してくれた兄さんのことが、何より大事で、誰より大好きだったんだ。

あんなに慕っていた父さんとの、最期の別れにすら立ち会わないなんて__。
もしかして兄さんは…もう、ひょっとすると…きっと、どこかで…そんな悪い考えが、何度も頭を低回し、しまいに離れなくなってしまった。塞ぎ込んだ僕は、食事も喉を通らなくなった。眠ることも出来なくなった。

そんな僕の尻を叩くように、『大丈夫です! あなたが確りと此処を守ってさえいれば、先輩は必ず戻って来ます。あなたを灯台にして、宇宙の海から戻ります!』って、そんな風に言い切って。
何度も僕を励ましてくれたのが、ペトラだった。
『だから、その足でしっかり立つんです!! ラウダ先輩がグエル先輩の居場所を守るんですよ! 先輩が安心して帰って来れるこの場所を、このジェタークを、今度はあなたが守るんです! そんな萎びた辛気臭い顔をしていたら、兄さんの目印にも成れませんよ!』って。
『ほら、ちゃんと食べる! ちゃんと寝る! 今まで散々守って貰ってきたんでしょう!? ならば、今こそ踏ん張る時です、グエル先輩のために! 先輩が迷子にならずにちゃんとあなたの元に戻って来れるように!!』

そう言って、挫けそうになる背中を何度強く押されてきたか分らない。
そして、その言葉は真実だった。
ボブは、兄さんは、宇宙の大海原の片隅で、ちゃんと僕を見つけてくれた。僕の元に戻って来てくれた。僕は、心の底からペトラに感謝したんだ。

情けない話だが、このような事態になってみて、初めて自分の中で頼れる姉のようなペトラの存在が大きかったことが分かった。支えられ、助けられていたのだということを、ハッキリと知覚した。そのペトラは今も目を覚まさない。

許さない__。全部お前のせいだ。これも、それも、あれも__、みんな。兄さんのことも、父さんの件も、ペトラのことも。僕から愛する者を全て取り上げ、奪い取ったお前は横暴な暴君だ。冷酷で残酷な悪い魔女だ。
そんな奴のすぐ傍に、愛する兄が居るだなんて、どうして許すことが出来ようか。
僕の大事な人達を傷付け、穢した。それが何より許せない。
やはりお前は駆逐すべき存在だ。

罪の意識を俎上に載せられ、恐喝でも受けたのだろう。魔女の軍門に降り、その意のままに操られるばかりの可哀想な兄さん。
父さんと兄さんを討ち合わせ、その心を完膚なきまで打ちのめし、修復出来ぬ程深く抉って傷付けて__。
ジェタークを貶め、壊滅状態へと導いておきながら、その一方で手を差し伸べるような真似をして。この上、まだ兄さんをボロ雑巾のように扱き使おうってのか?

兄さんの奥底を深く抉り傷付けた罪、僕らを散々に苦しめた罪。ペトラを傷付けた罪も。父さんのことも。
全部、全部だ__。このまま捨て置けるもんか。
僕らが受けた恥辱や屈辱、ジェタークが押し付けられた汚名や悪評も__、この雪辱の全てを果たす。

天があいつに罰を下さぬと言うのなら、僕が代わりにあいつに鉄槌を下し、落とし前を付けさせる。
そして……、魔女に囚われ心を傷物にされて、物も考えられられぬまま、魔女に取り縋るばかりの哀れな兄さんを、神様や英雄ではなかった等身大の兄さんを。今度こそ、この手で掴んで取り戻す。
それこそが、今の僕がこの命を使って出来る最善策だ。

そうだろう__? それしかないだろ。

大丈夫__、今まではこの手を彼に伸ばすこと、最初から諦めていたところがあった。
けれど、今の僕には君がいる。君が傍に居てくれるから、僕はもう諦めない。
伸ばした指先で撫でた目の前のコンソールは、少しだけひんやりとした温度だった。


 手元のスイッチを操作する。コックピットハッチがゆっくりと開いていく。
時間の感覚が分からない。数時間だったのか半日だったのか、それとも数日だったのか__。
ただ、外の世界はやけに眩しく感じられた。抱え込んでいた足を解放し、膝をグッと収縮させる。
座席を思い切り蹴った。コックピットから跳び出した身体は思ったより軽いと感じた。

僕は、心を決めた。


行こう、シュバルゼッテ__。
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