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 全て曹操の言った通りにことは運んだ。王忠は中郎将を拝し、元々率いていた千人の兵士に加えて二千の手勢を任された。
 彼らもまた浮浪の民であり、出身などはまちまちの混成軍だった。
 雑軍を率いる王忠はやはりここでも冷たい目に晒された。
 王忠は気にする風もなく振る舞う。手持ち無沙汰で、元の民のところへ行こうかとも思ったが気が進まないでいた。辛酸の記憶をやたらともてあそびたくなかったのだった。
 無為の日々を過ごしていた。
 そんな風に気を揉む王忠をいやに執拗に刺す視線があった。王忠は鋭く察知する。
 恨みと羨みと蔑みの、ないまぜになった不快そのもののような眼差しをひしと感じ取っていた。
 王忠にはその主が何となくわかる。しかし追及はしたくなかった。
 それもまた飢えの旅路の産物である。向き合うにはまだ早い、と王忠は決め込んで目を瞑り耳を塞いでいた。
 決して視線の主がこちらに近づくことはなかった。が、彼が王忠の背後から消えることもまたなかった。
 登庁していてもしなくても、毎日どこかしらでその視線は王忠をさす。気付けばなくなっているときもあれば、そうやって安心しているといつの間にか視線が後頭部にあることもある。
 王忠は嗤う。暇なものだ、と。そう思うなら大声で言ってやればいいものを、王忠はこの圧力を楽しんでいる節さえあった。まだやるのか、付き合ってやるよ、という不敵かつ意味不明な挑戦心が王忠を奇行に走らせていたのだった。
 そんな無意味な意地の張り合いに決着がつかぬうち、軍議に招集された。建安元年(196年)の末のことである。

「張繍を討つ」

 そう曹操は揚言した。群臣はどよめく。王忠は欠伸をかみ殺していた。

「袁術は呂布と対峙し、袁本初は公孫瓚とせめぎ合っている。いま、新興勢力の張繍を攻撃するにはまたとない機会である」

 曹操の言葉に反対する者はいなかった。
 王忠もまた黙っていたが、あの者の影を感じずにはいられないでいた。
 汝南への出征は王忠にも声がかかった。曹操の子、曹丕の護衛を命じられた。まだ齢10歳、出征するころは11歳になる子供であった。曹操の本隊に従軍するという。
 王忠は曹操の下へ行き、面会を求めた。

「嫌か」

 曹操は第一声に言う。王忠は目を逸らすでもなく、黙す。
 曹操は小さくため息をつく。不満なら聞かぬぞ、帰れ、と手を挙げようとしたその時に王忠は声を上げた。

「あまりにお若い」
「……ああ、丕のことか」
「公子はまだ十を数えるばかりです」
「それでいいのだ」

 曹操は吐き捨てる。王忠の、この、妙な間が気に食わなかった。
 王忠はまたちょっと黙る。

「……分かりました。我が君の仰せのままに」
「それでいい。それだけか」
「いえ、もう一つ」

 曹操の顔色はやはり動かない。いや動くが、内心とは連動しないのだ。王忠は鈍い男であるから、そんなことはつゆ程も知らない。

「『婁』という者は、軍中にいますか」
「ああ、いる」

 曹操はすぐ見当がついた。―――婁圭。王忠の踏み散らした相手で、曹操の旧知で、今や曹操の参謀であった。
 といっても、食客的な立ち位置である。実権も官職も持たせていない。

「いるが、どの婁だ」

 敢えてとぼけてみる。王忠がどんな反応を示すのか、一つ見てやろうと思ってのことだった。
 その実、意地悪をしたいだけであるが。

「南陽から逃れて来た『婁』です」
「ああ、婁圭。我が友だ。なんだ、顔見知りか」
「はい」

 嘘はついていないな、と王忠は思った。私は彼を知っている。いや待て、知っているだけで顔は知らぬのではないか、顔見知りではないな、などとどうでもよい事を一々考えていた。だから微妙な間が生まれるのだ。
 この時も曹操は王忠の間延びに苛立ちを覚えていた。

「子伯がどうしたというのか」

 子伯。婁圭のアザナだ。王忠は口だけ動かして応えた。

「いえ、いるということがわかればよいのです」
「そうか。……その婁圭、今回の張繍征伐の発案者だ」

 思わず曹操はいらぬことを言う。王忠に伝えても詮無い事であるのに。
 しかし王忠の顔は少し明るくなった。なるほど、婁圭は南陽に依った正真正銘の群雄。その地理に詳しいのはもちろん、張繍に駆逐された私怨もあることだろう。張繍討伐を進言するのも頷ける。
 想像に容易だなと王忠は内心で嗤う。婁圭《やつ》は、張繍への復讐のために曹操を操っているつもりである。きっと心の内で曹操を嘲笑い、王忠《このわたし》を侮蔑し、張繍を誹謗していることだろう。曹操はもちろん、曹操軍を通して天子でさえも我が手中だ、と高笑いしているのだ。なんという高慢、なんという愚考。

「策は策に過ぎず、進言は進言に過ぎません」
「ほお」
「誹謗もまた誹謗たることしかできず、その実はご明察ください」
「お前が何を言いたいのか、何となくわかった」

 王忠は全て理解していたのか、と曹操は舌を巻いた。
 私が婁圭と王忠の因縁をすべて知っていること、婁圭がしきりに王忠を讒訴していること、私がそれに耳を貸さないこと。全て察した上で、私の下に念押しにきたのか。
 いやいや違う、こんな奴が、と曹操は思い直す。私の真意を察するほどの賢人とは思えない。偶然の二文字で片付くことだ。
 曹操は王忠に武勇を期待していた。仮にも一群雄の婁圭を、飢民兵を率いて打ち破ったその勇武。それを恃みにして息子《そうひ》の護衛に任じた。知恵ばたらきは期待していない。功名心も邪魔だ。粛然と、言い換えれば作業的・事務的にその武勇を護衛として振るってほしい。中途半端な鋭さは寧ろ邪魔だ。

「心配はしなくてよい。お前は丕の護衛に集中していればいいのだ」

 曹操の思考は早い。王忠のように間は作らず、爽快に話す。
 王忠を帰してから、曹操はまた王忠の処遇を考えた。いずれ機会が来たらある程度の役目を任せてやろうと思い至ったが、深くは考えなかった。持病の片頭痛のせいである。
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