32.失えないもの


 
 兄さんが学園へと一旦戻り、懐かしい制服姿で再び病室に現れた時、僕は数日前に交わしたやり取りとその意図を、汲んでくれたものと思い喜んだ。
彼はベッドサイドの椅子に腰掛けると、青く澄み渡る瞳を真っ直ぐこちらに向けて、静かに切り出した。
決闘を受ける事になった。相手はスレッタとエアリアルだ。これが最後になると思う。ホルダーを奪還し、ミオリネの会社との提携を視野に入れている。会社の立て直しのためにも、この決闘はどうしても負けられない戦いだ。真剣な眼差しでそう言った。

 代表を二人体制でやっていく。そのつもりになり、兄は制服に再び袖を通したのだろう。軟弱な僕が情けなく伸びてる間に、兄なりに会社の将来を熟考してくれていたのだ。
先を見据えた上で受けた、勝たねばならぬ戦い。それはジェタークにとっての背水の陣。そんな風に感じた僕は、心が奮い立った。透かさず協力させてほしいと、兄の手を取り強く握った。心理的な効果もあったのだろうか。心身ともにメキメキと回復し、数日後には『もう自分は大丈夫ですからっ!』と、医師やスタッフの制止を振り切るようにして退院し、学園へと足を向けた。


 これが最後となるであろう決闘__。数月振りの搭乗、そしてMSの操縦であったせいか、出鼻から調子が振るわずハラハラする場面が続いた。しかし、兄は一度は拒絶したダリルバルデのAIと息の合った動きで共闘し、熾烈な戦いの果てに辛くも勝利をものにした。

 ジェターク勢は、総立ちで喜びと興奮に沸き立っている。その歓声の中、彼らと同じように、この胸には歓喜が渦巻いている。
感無量で目頭を押さえながら、僕は兄への信望をさらに強める。それと同時に、勝手に湧きあがろうとする僅かな羨望を抑え込んだ。
ちっぽけな自分と偉大な兄。その歴然たる差には、毎回愕然とさせられる。懸命に追いかけようとも、この差は少しも埋まらない。
やはりこの手をいくら伸ばしても、あなたには届かないのではなかろうか。向こう見ずで、命知らずなところがあって、危ない橋を確認もせずに渡りがちな兄さん。その腕を捕って必死で止めたいと願っても、僕の実力じゃその願いは叶わないのでは。そんな思いが頭を擡げる。己への失望感がじわじわと胸の内を染めてゆく。絶望感に似た虚ろな何か、それを同時に感じている。

信じていた、あなたなら水星女を下せるって__。
やはり、僕では、あなたには__。

 小さく唇を噛みながら、様々な思いや感情が胸の内を目まぐるしく駆け巡った時、突如耳元に通信音声が入ってきた。ミオリネと水星女のやり取りだ。それを聞き、何某かの工作が施された気配を察した。子供のように泣き叫ぶ水星女の絶叫が耳元でこだましている。
僕は兄の映るモニターにチラリと目を遣る。息苦しいのか、ヘルメットを脱ぎ捨てるように取り外そうとしている。大きく上下する肩。ゼイゼイと息を切らしながら額の汗を拭う、そのまなこの下には、色濃い隈が出来ている。
兄さんにも彼女達のやり取りは聞こえているはずだ。だが、大きく驚く素振りや感情を高ぶらせる様子はない。仰向けに崩れ落ちた水星女のガンダム。茫然自失のような状態でそちらに目を向けていた兄は、勝利を喜ぶ風でも無く、暫くすると静かに視線を下げた。
その表情は酷く辛そうなものに見えた。苦しげな、またはどこかバツの悪そうな、実に不可解なものに感じられた。

なんだ、この違和感は?
兄さんは、この決闘について、他に何か知っているのか__?

いや、あの兄さんが八百長紛いの事を良しとする筈はない。ダリルバルデにとっての苦しい初戦となった決闘が頭をよぎる。父さんと僕とが共犯で施した小細工に激昂し、自分だけの戦いだと言い切り立ち向かった、失踪前の兄の姿が見えた。
改めて、モニター越しに映る短髪の兄に目を向ける。きっと偶々そう見えただけの事。
だがなんだろう、この妙な胸のざわつきは。画面に映る今の兄は、かつての兄とは何か、どこかが違う気がする。
物静かになった、のか__? 髪を短く切り揃えたせいだろうか、妙に大人びて見える。いや、妙に落ち着いた雰囲気なのは病室でもそうだった。肩で風を切る、かつてのらしさが無い。

その挙動や表情に、なにか分からぬ不審と不安を感じたのは確かだが、僕は慌ててそれを振り払った。現状はそれどころではない。後味の良いものでは無かったが、とにかく勝った。今は、その事実だけで充分だ。


 その日の晩のことだった。勝利の興奮が冷めやらぬジェターク寮。祝勝会がお開きとなった後も寮生達の気勢は衰えず、集った面々は深夜になってやっと個々の部屋へと戻っていった。食堂には僕ら二人だけが、後仕舞いと今後の方針の擦り会わせのため残っていた。

僕は改めて、病室でのやり取りを切り出した。これからの事__。CEOの業務について、時間や日にち配分を二人でどう割り振るか。それをまずは決めねば話が始まらない。しかし、兄の返答は僕の予想を覆す、想定外のものだった。彼は言った。
『お前がそれを気に病む必要はない、代表には、自分一人が収まるつもりだ』と。
落ち着き払った声でそう言ったのだ。その言葉に僕は再び憤る。話が違う。

「どういう事だよ!? 病室で言ったよね、二人でこなせば遅れはしても、揃って卒業出来るだろうって__」
「お前にこれ以上、負担を掛けるわけにはいかん」
兄さんは俯き加減のまま、僕と目を合わせようとすらしない。最近は視線が合うこともめっきり減ってしまった。
「…どうして僕を避けるんだ? 」
「避けてなんて、ない」
「じゃあ、最近あまり触ってくれないのは、どうしてなんだ?」
「別に、そんなことは__」
「ボブだった時はあんなに毎日触ってくれたのに」
「それは……」
「僕のこと、嫌いなの?」
「違う」
「じゃあ、抱いてもいい?」
「…兄弟でそういうことするのは、抵抗がある」
「今更何言ってんだよ、ボブになれば良いだけだ」
「思い出してしまった以上、そういうわけには__」
「ぐだぐだと。言い訳ばかりじゃないか、触ってよ、前みたいに、昔みたいに!」
手首を返してチラリと自分の手のひらに視線を遣った後で、兄さんは嚙み殺すように呟いた。
「すまん、今は無理だ__」
「どうして? 最近の兄さん、なんか少しおかしいよ」
「…………」
「……僕が…、兄さんと違って…妾の子、だからか__?」
「違う!……そんなんじゃない!」
「じゃあ! 触ってよ、今すぐに!!」

兄さんの顔が悲しげに歪む。眉間に皺を寄せた後、制服のポケットに片手を突っ込み何かを取り出す__かと思われた瞬間、それは兄の足元にひらりと落ちた。
青く縁取られた白いハンカチ__?
端に小さな刺繍がある。見覚えのある紋様。少々形状は違うが、グラスレーの社章じゃないか?
怪訝に思った僕はそれを凝視する。それを兄の手が覆って拾う。その手は小さく震えていた。兄さんは拾った白いハンカチで、自分の手のひらを拭っている。
震える指先で、丁寧に、念入りに__。

「__ねえ、兄さん。いったい何をしているの?」
「汚れてるから……」

その言葉に思わず反応する。心の底が苛ついた。自分の事を指摘されたように思った。兄さんはそんなこと言わないし、思ってなどいない。そう頭では理解している。それでも、度重なる不安の種、兄さんの不審な行動、高まる不信感、それらがごっちゃになって感情が今にも爆発しそうになった。

「僕は!! あなたとって、そんなに穢らわしい存在なのか__!?」
「ラウダッ__それ以上言うなっ、本気で怒るぞ!!」
兄さんは大きく声を荒げた後、しまった、という顔をして視線を下げて押し黙る。


 カミル・ケーシンクは寮の食堂で開かれた祝勝会に軽く顔を出した後、格納庫で決闘後の最終的な後仕舞いに追われていた。
チーフ・メカニックともなると、学生とは言えども色々と決断を迫られる場面も多く、それなりの責任も伴う。それに充足感を覚える性質の自分は、苦痛だとは思ったことはない。格納庫の最終確認と戸締りは日々の日課となっている。普段通りの生活だが、今日は少しばかり気分が良かった。寮内の雰囲気も回復基調にある。失踪していたグエルが無事に戻ったからだ。

やはりあいつは支え甲斐がある。人望と、人目を引く華やかさも。あいつがトレードマークとなっている腕組み姿で皆の輪の中に立つと、それだけで場が沸き立つ。視界の内にいるだけで、寮内の空気が活気付くのが、手に取るように分かるのだ。
彼の事を深く知らぬ者達からは羨望を受ける立場の御曹司。そんな身分や肩書を、揶揄したり、遠巻きにして眉を顰める者もいる、逆に必要以上に偶像視する向きもある。敗北を許されない英雄や無欠のアイドル、または信仰の対象であるかのように。
いずれの視線もグエルにとっては鬱陶しく、疎ましいものだっただろう。それらを振り払うように肩で風を切ってきた彼が、父親との確執や度重なる敗北により突然ふっつり姿を消してしまった時は、心底驚いた、と言うよりは、到頭来てしまったか__との気持ちが強かったかも知れない。

数か月もの間姿を消し、その間に色々あった。現CEOが急逝するというジェタークにとっての大激震に加え、学園へのテロもあった。彼の父親の人物像については色々思うところがあるとは言え、かの一件は残念でならなかった。それでもこうやって、何事もなく再びグエルと顔を合わせられたことは、奇跡に近い僥倖と言うより他はない。俺達ジェターク寮生は、総員が彼の無事を知り、心の底から安堵した。

だが自分は今、一つだけ気掛りを抱えている。妙に物静かな雰囲気になって戻って来た彼の小さな変化を眺めるにつけ、ふと違和感を感じる時があるのだ。
グエルの心の傷は失踪当時のまま、未だ癒えてはいないのではないか?
そんな風に思う場面が度々ある。

プライドの高いグエルのケアをするのは中々に難しい。やり過ぎると臍を曲げてしまう。微妙な匙加減が必要なのだ。
MSの微調整や最適化と同じだな__。
そう感じた自分の思考が仕事に偏り過ぎていて、フッと笑いが込み上げる。

 片手に格納庫の鍵をぶら提げながら、肩に手をやり軽く首を回す。手帳の入った端末による電子錠での施錠のセキュリティ強化に加え、物理的な錠前による施錠は、親父からの助言に従った。
親父の若い時分なら分かろうものの、この時代においてメカニックともあろうものが、最後にはこんなアナログな手段に頼るのか? と笑ったが、現在はほとんど使用されていないことから、逆に安全性が高いと力説された。なるほど、ロストテクノロジーと言うわけか。

 数月前に起こったプラント・クエタ襲撃及びジェターク社CEOの突然の訃報。ヴィム・ジェターク氏の最期は、部下を差し置いて単騎突入の上での戦死だと囁かれているが、何が真実であるのかは未だに分からない。亡骸すら手元にない状態での葬儀だった。
なので、その内ひょっこり戻ってくるのではないかという気すらしてくる。彼の息子と同じように。

そこからジェターク社はMSの横流しを疑われ窮地に追いやられた時期もあった。証拠不十分であったらしく、最近になってやっとそういった悪評も薄れてきたところだ。
『学生寮の格納庫とは言え、お前が管理するその場所で万が一、備品はまだしも、装備や最悪モビルスーツの盗難を疑われ兼ねないような事が起これば、今度こそジェターク・ヘビー・マシーナリーを吹き飛ばしかねない。念には念を入れろ、チーフを任されているのだろ? そこのところをよく自覚しろ』
端末越しにそうまで言われてしまっては、従うしかあるまい。
果たしてこの錠前に効果があるのか、無いのか。大いに疑問ではあるのだが__。

 やれやれ、今日もまた遅くなってしまったな__そう思いながら今度は軽く腕を回し、暗い夜道を寮へと戻る。自室へ戻るために寮内の廊下を横切ろうとした時、少し離れた食堂から声が聞こえた。

まだ誰か残ってるのか__?
それにしても。今の声は__。
少し棘のあるものだった。そう、軽く言い争うような…男の声だ。

祝勝会は異様なまでの盛り上がり方だった。まさか、飲酒による喧嘩でもあるまいな、退学沙汰になるぞ。いや、グエルやラウダの睨みが利いてる場で、滅多なことは無いとは思うが。
一応念の為に寄ってみるか。
カミルは歩みを止め、そちらへと足を向けた。


 一度は仕舞い込もうと決めた記憶。それを、こうもしつこく穿り返されるのは正直キツイ。ボブだろうが、俺だろうが関係ない。目の前のラウダは俺がグエルであると、つまりは兄だと知りながら、今まで通りの深い関係を求めてくる。
言い寄られているのだ、弟に__。
ボブになれだとか、おかしな屁理屈まで捏ねられて。

もう、勘弁してくれ__。
お前のことが嫌いなわけないだろ。
汚らわしいなどと微塵も思った事はない。お前は俺の希望だ。願いを込めた流星だ。俺がたった一つだけ放すまいと握り込んだ、決して失いたくない煌めく宝石だ。

それなのに__。俺は血に染まったこの手で。腕で。ラウダを抱いてしまった。穢れた体でお前に抱かれ、その身を穢してしまった。
その事実に気が付いた時、俺がどんなに自責の念に駆られ絶望したか、お前に分かるか__?

『兄さんは僕のヒーローで、神様なんだ』
はにかむ様に笑って言った、幼いラウダの声が聞こえる。

違う。違うんだ__。
俺は、俺は……、お前を穢したんだ。

嗚呼、俺は__。
俺の大事な宝物を、キラキラ光る宝石を自らの手で穢した。
この手で、この身体で、ラウダを穢してしまった__。

研ぎ澄まされたように繊細な、それでいて温かな色をした、大好きな淡い茶色の瞳。
何かの間違いで、誰かが壊してしまわぬように。
心理的にも、物理的にも、圧を振るってきた。
ラウダを腐す者の言葉や暴力、その全てから庇おうと、守ろうと、懸命に遠ざけてきた。
線の細い、儚げなラウダが誰かに虐められようもんなら、俺は真っ先に殴りかかった。
いつだって、どこにいたって、離れていようが、隣にいようが、お前のことは俺が守る。
初めて会ったあの日にそう決意したから。
それなのに、固く自分と約束したのに__。

兄として失格だ。
いや、そんな甘いもんじゃない。最低だ、最悪だ、人間として失格だ。
ラウダの出生を嗤う者、ラウダを大事にしない者、ラウダを傷付ける者、そんな一切合切を、見下し、唾棄し、嫌悪の念を向けてきた。
それなのに__。

愛する家族の血がこびり付いた腕で抱き、血に染まった指先で彼を撫で、返り血を浴びた身体を重ね、愛する弟の身を貶めてきたのは__他の誰でもなくて、自分だった。
ラウダの一番の守護者だと自負してきたのに、俺はあの日を境に、その足を掴んで無理やり奈落へ引き摺り込む、悪魔のしもべに成り下がってた。

だから分かるだろう、いや分からなくともいいから、引いてくれ。これ以上は俺の心が張り裂けそうだ。俺が、俺の罪に気付いた以上、触れる事は許されない。その心にも身体にも__。
どうか分かってくれ、ラウダ__。


「…すまない……言葉が足りなかった……」
険しい表情で俯いたまま、暫く沈黙を続けていた兄さんが絞り出した声は、掠れていた。
「……穢れてるのは、」
不意に食堂のドアがノックされた。
「はい」
兄さんは慌ててポケットにハンカチを突っ込むと、そちらに踵を返す。
「…………」

僕は拳を強く握った。
何かがおかしい、絶対に__。
記憶を取り戻した兄さんは、以前の兄さんじゃ無い。彼はまだ、何か僕に隠してる。何かに酷く怯えている。
それなのに、少しも僕を頼ってくれない。

歯がゆい。自分の無力さが、嫌になるほど__、もどかしい。


 カミルは両開きの扉を数度ノックする。「はい」と短く返答があった。
「誰か残ってるのか? 明日だって、どの学年も座学はあるぞ、もうそろそろ部屋に戻った方が__」
そう言いながら扉を押して開けるのと、グエルがこちらを振り返るのは同時だった。その隣でラウダがこちらに背を向けて立っている。

立ち話、にしては妙な雰囲気だと感じた。
「なんだ、お前達だったのか。祝勝会の後片付け、まだ終わらないのか? 一緒に手伝った方がいいか?」
「いや、いいんだ。今終わったところだ。お前の方こそ、昨日は寝ずにAIの調整をしてくれたんだってな、さっき後輩から聞いた。ギリギリだったが、勝てたのはお前のおかげだ。すまないな、今日は早めに休んでくれ」
「気にするな。メカニックの仕事なんて徹夜仕事がメインだ。夏季休暇には親父の見習いとして一緒に回るんだが、明朝までに仕上げろとか、数時間で調整しろとか、実際の現場はもっとハードだぞ」
軽く話を振りながら、慎重に様子を伺う。こちらに背を向けたラウダは俯いたまま。両手の拳を握り黙している。

「__何か、あったのか?」
「何でもない。今後の方針について、ラウダと少し話し合っていただけだ」
カミルはグエルの方にちらりと視線を投げた後、ラウダに直接問いかける。
「ラウダ、お前はどうなんだ、何かあるのか?」
「……いや…兄さんの…言う通りだ……」
妙に小さな声だと思った。押し殺すような声の響きは、感情を抑え込もうとしているようにも思える。カミルは言葉に迷い、少し言い淀んだ末に口を開く。
「お前達、本当に大丈夫なのか__? グエルも、それにラウダも__」
「大丈夫だ、心配を掛けてしまってすまない。もう休んでくれ」
グエルは間髪置かずにそう切り返す。
つまり、これ以上踏み込むことを、目の前の二人は望んでいない。その意思だけはハッキリと感じた。そこまで言われてこれ以上首を突っ込むのは、野暮というより迷惑だろう。カミルは小さく首を横に振り、この場を後にすることに決めた。
「じゃあ、まあ言葉に甘えるが…。二人とも、無理はするなよ__?」
「ああ、いつもすまない」
「みずくさいことを言うな。中等部からの仲だろう? 何かあったら必ず言ってくれ」

そう言葉を残して食堂を後にする。ぎこちない空気感。特に気掛りなのはラウダの方だ。最後までこちらに背を向けたまま、強く握られた拳は少し白くなっていた。
決闘前にグエルから寮生達に共有された、地球寮への嫌がらせに目を光らせてほしいとの要請を思い出す。
最近、何処も彼処もギスギスしている。向こうの様子も気には掛かる。時間に余裕がある日を見つけて、地球寮の方にも軽く声を掛けてみるか__。


 カミルの足音が遠ざかり聞こえなくなると、僕は我慢出来ずに言葉を荒げた。
「遠ざけないでよ!!支えさせてよ、今まで通り、あなたの傍で!!」
「すまない、お前には散々苦労を掛けた。だから__キチンとけじめを付けたいんだ、今度こそ。これは、俺の我が儘だ」
「…何を言ってるんだよ…僕らは家族じゃないか、兄弟じゃないか。支え合うのは当たり前だろ! 少しの間ではあったけれど、僕だって代理でCEOを務めて来たんだ、きっと役に立てる事だって__」
「……それに関しては心配ない。ミオリネが、バックアップしてくれると言っている」
僕はその言葉に驚き、立ち竦む。限界まで瞳を見開いた。
「ミオリネ__?」

決闘で得た彼女との婚約は、あくまで会社同士の価値を高めるビジネスパートナーとしての契約で、体裁的なものだと思っていた。
取り乱した水星女の、泣きじゃくる子供のような声が蘇る。
決闘後の兄さんの辛そうな表情は、勝利者のする顔じゃなかった。
婚約者として振る舞ってきた水星女を、見るも無残に突き放したミオリネの冷酷な声。
それが今の兄の言葉に重なった。

やはり、何かあったのか__?
僕が病院で情けなく臥せっている間に、あいつと何か、裏工作の算段でもしたのだろうか?
だとしても…まさか、長年兄さんの斜め後ろで控えて来たこの僕よりも、あいつの手を取り握るのか?
あいつの方に、縋るのか__?
あんなに兄さんから逃げ回って、地球へ行くだとか、騒ぎ立てては面子を潰し、散々僕らやジェタークのことを、虚仮にしてきたというのに。そんな事も忘れてしまったのか? この人は__。

 その言葉にクラクラと眩暈がする。目の前が急に暗くなった。愕然として硬直し、押し黙った僕を少し眺めて、兄さんは了承の意だと受け取ったのか、後は一方的に安心させるような言葉を選んで装飾のように並べ連ねて、これからの方針などを、くどくど説明し始めた。

しかし、もう僕の頭は彼の言葉を受け付けない。耳に水が溜まった後のように、ぼんやりとした音の塊にしか聞こえない。
何一つとして耳に入っては来なかった。
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