チリ婦人とドッペル婦人 part5 後編


「チリちゃんが、無かったことに?ど、どういうことやねんな!?」

教師の寮で確認した時よりもさらにぼやけた、ポピーの横に写っていたはずのドッペルの姿。

髪の毛があったはずの場所にうっすらと残る緑色のシミを除いては、背景のバトルコートの壁と見分けがつかなくなっている。

「オマエは我々の世界に馴染みすぎたんだろう。

その代償として、『ジョウト地方に生を受けたパルデア四天王のチリ』という概念そのものが、A――すなわち元いた世界から消えようとしているのだよ!」

写真を見ようとジニアを取り囲んだ他の面々も、にわかにざわついた。

「って事は……チリちゃん死ぬん……!?」

「死ぬ方がいくらかマシだろう。誰かには悼んでもらえるんだからな」

生唾をのむドッペルに、ジニアの返答が突きつけられる。

「こちらの世界にこのまま滞在すれば、オマエはひっそりと消え失せる。

Aの時の流れからも。そして、Aに住まう全ての人間の記憶からも」

「は?」

ドッペルの顔が青ざめた。

「衣服のボタンが外れたとしよう。おまけに、そのボタンを何処かに紛失してしまった。衣服に換えはない。オマエならどうする?」

「……似たボタンを糸で縫いつけてごまかすわ」

「その通り。それと同じ理屈さ。

代わりの部品や要素で修正された時の流れは、失くしたボタンの事などどうでもよくなる。

Aの世界は『チリという人物など初めからいなかった世界』へと速やかに修復される事だろう。

そして、本来付いていたボタン――すなわち元の世界から零れおちたオマエを認識する者など誰もいなくなるんだよ。」

大げさに両腕を広げたジニアだが、面もちは至って真剣である。

ポピーの顔も蒼白になり、アオキは歯がゆそうに額をかかえ、腕組みしたハッサクは、何やら考えこむように一点を見つめている。

「……ミス・ドッペルゲンガー。アナタはどうしたいとお考えで?」

「お、おん?」

「元いた場所に帰りたいのか。それとも、こちらの住人として余生を全うするか」

「……ウチは……」

ジニアの背後に立つハッサクに顔を向けたまま、ドッペルはしばし瞳を揺らして逡巡した。

「奇遇だな、ハッサク……先生。我も同じ事を問おうとしていた。Aのチリ。そしてリップ、キハダ。お前らはどうする。帰還するか否か」

「そりゃあ帰りたいさ!チリさんが無事だと、わたしの仲間たちに伝えなければ!」

「それに、見た目は皆クリソツなのに、中身は知らない人たちみたいでムズムズしちゃうもの」

2人は即答した。しかしドッペルは、うつむいたまま微動だにしない。

「ポピーに……また嫌われてまうかも」

「大丈夫です!仲直りしたんでしょう?

ポピーなんか、こちらのチリさんを何度どやしたか分かりませんもの!

それでもチリさんは、何だかんだでポピーにも懐いてきますし。ケンカだって、案外そんなものかも知れませんわね!」

座席に立ったこちらのポピーが、腰に手をやりふんぞり返った。

「ポピーさんの言う通り!そんなものです!

……恥ずかしながら自分も、一度だけトップと大ゲンカしまして。一日中ムシし合ってたんです。

しかし、帰る途中の廊下でバッタリと出会ったとたん、どちらからともなく号泣して手を取りあいました。それで、ひとしきり泣いたらスッキリ!あとは笑顔でまた明日!それでケンカは終わりました!」

「……ポピー、アオキ。決めるのは彼女です。どんな選択をしようと、わたくし達はアナタの意思を尊重しますよミス・ゲンガー……いいえ、チリ」

Aのオモダカを思い出させる、しっとりとした声と力強い微笑み。うつむいたまま、ジニアから静かに置かれた目の前の写真を凝視し、ドッペル――Aのチリは口を開いた。

「……ウチは、チリちゃんは」

Bのチリの脳裏を、様々な記憶が去来する。

面接にハキハキと答えるネモの眩しさ。
ジムチャレンジに挑むハルトの姿。
無気力なサラリーマンの代わりにハッサクを呼ぶ自分。朝焼けに映えるリーグの頂上。
アカデミーの広場で一進一退の勝負を繰り広げる2人のチャンピオン。

そして、ポピーと擦り合わせた頬の感触。

Aのチリは顔を上げた。

「……チリちゃんは帰る!」

実験室の静寂を、凛としたコガネ訛りが破った。

「チリちゃんらの世界もジムチャレンジの真っ最中や。長いこと穴あけるなんか出来ひんし!

面接を待っとる子らが山ほどおんねん!

はよ帰って、ドオーらのコンディションも整えたらなあかん、それに……」

まくし立てていた口がピタリと止まり、Aのチリの頬を、一筋の涙がつたっていく。

「それに……ポピーに会いたい……!写真……かえさなあかんねん……!アオキさんにも、ハッサクさんにも、総大将にも会いたい……!」

一言ずつ放たれるとともに、涙の筋を増やしつつ、彼女は子供のようにすすり泣いた。

「大丈夫……大丈夫ですよ、ミス・ゲンガー」

オモダカが席を立ち、対面の彼女に寄ってきた。

「きっと上手く行きます。わたくしの予言って、よく当たるんですよ?」

真っ赤に泣き腫らした彼女の耳に顔を寄せ、両肩を手繰り寄せたオモダカ。

2人の健気な姿に、Bアオキも目を押さえながら震えている。Aチリが泣き止むのを待ち、ジニアが号令をかけた。

「……長々とすまなかったな、諸君。次の実験(ミサ)をもって、この講義は終了だ」

「驚きましたね。アホのアナタに『謝る』という選択肢があったとは」

「オマエたちにだけではない。その……この講義を見続けてくれている、全ての者たちへの言葉だ!」

「はあ……」

ジニアの要領を得ない返しに、ハッサクは珍しく言葉を濁した。

「ヒヒッ。これでよし」

鼻を鳴らしたジニアが、再び手にしたペットボトルを傾けた。
蒸発した事でやや減った金ダライの中が人工水で満たされていく。

「それでは、最後の実験(ミサ)と行こうか!」

講義始めの大仰さとは違い、頼もしそうにも見える精悍な顔つきで号令を上げたジニア。

「本来ならばリップの人格を変化させて講義は終了。そのまま経過を観察する予定だった。

ところが、そうはいかなくなってしまったようだ。

第1に実験(ミサ)の余波がキハダにまでおよび……

第2に、人格の交換が他の時空にまで影響を与える事が判明し……

第3に、チリの写真が示した『被験者のオリジナルが元いた世界から消滅する可能性』……」

幸いというべきか、ジニアは普段のマッドな好奇心よりも、人としての筋や良心を選択したらしかった。

「このまま放置しておけば、Aの世界に通じる抜け道は完全に閉ざされる。

そうなれば、チリやリップ、キハダは3人そろってこちら側の住人となってしまうだろう。

それではフトゥーとの約束を反故にしてしまう事を意味する」

そこで声を止めたジニアは、オモダカたちの席に近づき、先ほど取り出した2枚目の紙をピラピラと指先で掲げた。

「……これはフトゥーから預かったメッセージだ。

講義が済みしだい、トップと四天王に見せろと。ランチでも食いながら後で読むといい」

三つ折りにした紙をオモダカの手元に放り、教壇にUターンしたジニア。

「さて。フトゥーいわく、これは全くの勘らしいのだが……」

手元に残された1枚目――実験の手順やアドバイスについて書かれた紙を睨みながら、ジニアの講釈はあと少しだけ続く。

「元の世界に帰還するための絶対条件は『願うこと』だけではない。

もう1つの条件がある。それは、同じ人物が表裏一体である事だ。その場においてな」

「表裏」

「一体?」

「(`・ω・´)……ソレハ イッタイ?」

メンバーから分担して放たれた疑問符。
ついでにチリからも放たれた、ダジャレともつかない問いかけ。

「要するに。平行世界へ移動したい者どもが、一秒の狂いもなく、全く同じタイミングでその場に居合わせる必要があるという事だ」

心当たりは?と、したり顔で席を見渡すジニアの言葉に、聡明なポピーの頭脳が答えを導きだした。

「ここ――オレンジ(グレープ)アカデミーに戻る前、もう一度キタカミに降りたった時……

ドッペルさんを戻す試みが上手く行かなかったのは、A線のポピーたちが池にいなかったから……!」

「そうか!今いる自分たちが、いわば鏡写しである必要があると……!」

アオキも内容のキモを理解したらしい。

「皆さん思い出してください、キハダさんの言った言葉を!
Aの世界でも、ジムリーダーを含め全員がここに集まっていると!」

「あ、ああ。校長先生から連絡があって、正午に実験室に集まれと指示があった。

チリさんが消えてから、わたしたちの世界で1週間目だ」

アオキのギョロっとした目を向けられたキハダは、無意識に知りえる情報を話していた。

「リップは、テラスタル結晶を使った実験だってオモダカちゃんから聞いたのよね。

チリちゃんがドロンした謎の正体が分かるかもって。

それで、入り口を開けたら白いスモークがガンガンに炊かれてて……」

「中に入って霧をかき分けて進んでいたら、とつぜん霧がなくなったんだ。
そして気がつくとリップと黒板の前に立っていた。というワケだ」

「1週間目……チリちゃんがこっちに来てからと、ちょうど同じ日数や……」

「それに、お2人も白い霧を見たと……

もしかするとAのジニア先生も、わたくしたちが見たのと同じ実験を行っているのかも!」

「それはありえるな。それにキハダたちの言葉から、A世界とB世界に時差はない事も分かった」

Aチリとオモダカの反応を受けて、ジニアの両手を擦るクセが発動した。

「つまり、人物や状況、時刻までもが表裏一体。最後の実験(ミサ)が失敗する危険は極めて0に等しい!」

満面の笑みを浮かべたジニアが、教壇に3人を手招きした。

「Aのキハダ、リップ。短い時間だったがお別れだ。オマエたちの人格修復をもって最後の実験(ミサ)とする!」

黒板の前に並び立ったリップとキハダ、Aチリの3人は、テラスタル結晶の入った金ダライを見下ろしている。

「ワタシたちは帰れるんだな!」

「そうだ。……だが、Aのチリ。オマエを帰すのは現時点では不可能だろう。

先ほども言ったが結晶が小さすぎる。そのうえ、人格を宿すための入れ物が2人揃ってこちらの世界にいるのでは話にならない」

Aチリは苦そうにうつむいた。

「……しかし、元の世界を垣間みることぐらいは可能だと我は推測する。

いわば精神だけの状態となってな。宙をたゆたいながら、つかの間の再会でも楽しんでくるがいい」

「チリちゃん、モーマンタイだから安心して。アナタが生きてるって事、戻ったらみんなに拡散しとくから」

Aリップの手がカッターシャツの両肩にそっと置かれ、Aチリの顔が今度は力強く縦に動いた。

「では3人とも。タライに両手を浸し、目をつぶれ!部屋を漆黒に染めろ!」

人数が増えたとて、手順は1度目と同じ。

瞑想する3人。

ふー、と息を吐いて立ち上がったハッサクが、入り口そばのスイッチをパチンと消した。

カーテンが引かれたままの実験室は、一瞬で暗くなった。闇に浮かぶ七色の結晶と、その光に照らされた3人の顔を除いて。

「なりたい自分、行きたい場所……己の理想を思い描け……」

ジニアのカウンセリングも、すっかり堂に入っている。

リップを待ってる1000万人のファンのためにも……

チリさんが生きている事を、一刻も早く伝えるためにも……

ポピーの顔見たい……皆に会いたい……

元の世界に戻りたい!

3人の願いが一致して1つの大きな祈りとなった、その時。

教壇から湿気が上がり始めた。だが、今は誰1人たじろがない。
ポピーの小さな咳払いと、Bチリが「ホオオ……」という嘆息を上げる以外は、部屋の全員が固唾をのんで結晶に見入っている。

みるみるぼやけていく七色の光。
そして、結晶の薄明かりでも視認できるほど濃厚な霧に包まれた直後、3人は直立不動になってうつむいた。

『また白い霧が……よかった…目を覚ましたようです……』

闇に沈んでいたAチリの意識は、聞き覚えのある声で覚醒した。

『キハダ先生!リップさんも!急に様子がおかしくなったので心配したのですよ!』

『ハッサク先生!校長先生も!みんな聞いてくれ!チリさんは生きている!!』

『な、なんと!それは事実ですか!?』

1人は精神が無事に帰還したのであろうキハダ。もう1人の暑苦しい声は、A世界のハッサクのものである。

カメラのピントが合わさるように、Aチリの視界が鮮明になってきた。

『はい!ピンピンしていました!……でも、その、なんと言えばいいか……』

最初にAチリが捉えたのは、バツが悪そうに頬を掻くキハダ。そして席から立ち上がったまま、今にも泣き出しそうなハッサク。

『AとBが実験で、えっと……』

『平行世界?って言うらしいわ。アンビリーバブルだけど、リップたちはそこに行ってチリちゃんに会ってきたの』

Aチリの視界は、自身の背丈の倍ほどの高さに浮かびながら、室内の様子を最後尾から見下ろしている。

Aの実験室には、四天王とオモダカはもちろん、クラベルをはじめアカデミーの教師、そしてパルデアリーグ中のジムリーダーが勢ぞろいしていた。

『ジニア先生の読みは、本当に正しかったようですね……』

そう言いながら、入り口の前でメガネを整えた直立不動のクラベル。

『ぼく達とは違う、もう1つの世界……。ハルトさんとお友達のお話を聞いてピンと来ちゃいまして』

二ヘラと微笑んだジニアの手元には、Bでの実験と同じく、大きな金ダライにテラスタル結晶。

『お友達……ペパーさんのお母さんに会った時も、さっきみたいに白い霧が?』

ジニアの問いに、最前列のハルトがコクコクと頷いたのを見て、こちらの世界では無傷の窓際に立つレホールが不敵にほくそ笑む。

『ククク。ブライアとかいう生活主任が言っていた内容は本当だったようだな』

『……てらす池を見てると、不思議な事が起きるってヤツかい?』

口を挟んだライムも、特別講師に行ったおりに伝え聞いていたらしい。

『唐突なオカルト話で寝耳にパチリス……誰か通訳たのむ〜』

『正直、マユツバにしか思えないけどね』

『超常現象をオカルトだって舐めちゃいけないよ』

ナンジャモとグルーシャを真顔で制したライムに、『その通り』とレホールの笑みが濃くなった。

『リップだってオッタマゲだったわ。
でも、チリちゃんは元気で、リップたちの世界へ必死に戻ろうとしてるのは本当なの』

『そして、肝心なのは「願い」らしい!チリさんが戻ってこられるように皆で祈ろうじゃないか!!』

『い、祈るとは?どこで?』

『てらす池です!あそこには願いごとを叶える力があるそうで!!』

ハッサクはキョトンとしながらキハダを見つめた。

『……やっぱりポピーのせいです』

Aチリの視線が、反射的にオモダカの膝の上を見た。実験室の一同も同じく。

『ポピーは、いけない子です……
池でチリちゃんにひどいこと言ったから、神さまがポピーにバチを当てたんですわ……!』

『大丈夫です。わたくしが保証します。リップさん達の言葉を信じましょう』

太ももに座ったまま胸元に顔をうずめたポピーを、物憂げなオモダカが言葉少なに励ます。

2人の健気な姿に、ハッサクは目を押さえて『ううぅ……』と唸りだした。

Aチリの胸に突き刺さるポピーの泣き声。

ポピー!チリちゃんここにおるで!と手を伸ばそうにも、Aチリの全身は棒のように固まったまま動けない。

『待つんだハッさん!まだ早い!アヴァンギャルドになるのは同僚と再会してからでも遅くはなかろう!』

コルサにたしなめられ、『わ、わがっでいまずども!』と、鼻をぐしゃりと鳴らして席に座り直したハッサク。

そのタイミングと入れ替わるように、隣の机にいたアオキがすくっと立ち上がった。

『……みなさんご存知でしょうか。行方不明者は、8日目になると一気に発見率が下がるらしいです』

か細い声を聞き漏らすまいと、身を乗り出す一同。

『チリさんが居なくなってから、今日で7日目……リップさん達の話……自分も信じがたいですが、わずかでも可能性があれば賭けてみる価値はあるかと』

いかがでしょう?と隣のオモダカに向き直ったアオキ。

Aチリの生存を知るキハダとリップは、拳を握りしめてオモダカからの返答を待った。

『……いいでしょう。

チリが失踪した時刻――午後10時20分に、ジムリーダーならびに四天王はキタカミ地方のてらす池に集合です』

キハダの顔が希望にパッと晴れた。リップも目を閉じ、ホッと胸を撫でている。

『ただし。試すのは今夜1度きりにしましょう。

この1週間、チリの行方に関する情報あつめや度重なる招集で、ジムチャレンジの運営にも支障が出はじめています。

もし、今夜チリが戻らなかった場合。その時は……』

声を止めたオモダカは、潤んだ瞳で見上げてくるポピーを一瞥し、

『……その時は、しかるべき機関に捜査を任せましょう』

オモダカは、言葉を選んだらしかった。

『みなさん異議は?』

沈黙の実験室。オモダカに異議なしの証である。

『では、一度空港で落ち合いましょう。空港への集合は午後9時。それまで各自の持ち場で業務につとめてください』

席を立ち、そう言い残したオモダカが教室を去ったのを合図に、一同もまばらに解散し始めた。

そして、ジニアやクラベルも含めた全員が去ったころ。

リップの催促で自身も席を立ったキハダは、深く息を吸い込んで、がらんどうの部屋中を大声で揺らした。

『チリさあああん!!今夜の10時20分!!これが最後のチャンスだああ!!忘れるなああ!!今夜の10時!20分!てらす池だぞおお!』

隣で耳に両手を当てたリップが『うるさあああい!!』と抗議している。Aチリの意識はそこで途切れた。
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