ウマ娘-stellar record-


まえがき(注意事項)
続きものだよ! ↓これまでのお話
第0話_cleared for take-off
1.part301>>33
第1話_Clibming to Japanese 2000 Guineas
1.part301>>164
2.part303>>80
3.part304>>56
第2話_ Clear direct Tokyo Yushun
1.part307>>137

05_がらんどうの英雄/Clear direct Tokyo Yushun

『ね、トレーナーさん。知ってます? ブルーインパルスがまっすぐ飛ぶ意味』
『……あー、この間のアレか? ソーシャルディスタンスを表してるってどっかで見たけど』
『それもあるかもしれませんけど……実は直線飛行には、敬意とか最敬礼の意味合いがあるんですって。曲芸だけがウリの飛行機じゃないんですよ? インターネッツで調べたから間違いありません』
『若い子がインターネッツなんて言葉使わないの』
 何故か自分ごとのように、ふんすと胸を張る彼女。その頭をちょいと小突いて、動かないでと念押しする。
 いくら名誉ある中央のトレーナーとはいえ、担当の子に髪留めを付ける練習などしたこともない。まして大舞台の直前につけてください、などと頼まれて、素直にハイそうですかと言えるのは、よほど手先と己に自信がある奴だけだ。
 ブルーインパルス──空自の飛行機部隊が医療従事者への敬意と慰労を兼ね、東京の空を舞ったのは一昨日のこと。興奮気味に語られるそれは記憶にも新しいが、それで直面している危難がどうにかなるわけでもない。下手に触ろうものならメイクさんの努力を台無しにしてしまいそうで、自然と手には力が篭ってしまう。
『ただ一直線に飛ぶだけでも、そこには色んな気持ちが込められてるんです。もちろん、それを見上げる人も同じように、思い思いのものを抱えていて。たくさんの人の思いを乗せて飛ぶ翼の、その航跡が飛行機雲なんだとしたら、とっても綺麗なものだと思いませんか?』
『いい解釈だな、それ。……あ、ごめん、ズレたかもしれない』
『むう。意外とぶきっちょなんですね、トレーナーさん』
 これくらい余裕たっぷりにできるようになってくださいよう、なんて揶揄ってくる彼女の態度は、緊張しているこちらを慮ってのものか。相変わらずマイペースというか、俺のほうが気負っているような気がしてくるのだから堪らない。
 美しく手入れされた黒髪に、紅白の髪飾りはよく映える。チームの証であるそれを、担当ウマ娘に手ずから付けるというのは、双方にとって大きな意味合いを持つものだ。信頼の形それそのものを預けている、と言っても決して過言ではない。
 ふんふん、と鼻歌を歌いながら、鏡を見て髪飾りの位置を調整する彼女。その姿がいつにもまして上機嫌に見えるのは、恐らく気のせいではないのだろう。
『……見た人の夢を叶える、だったっけ』
『? 何か言いました?』
『さっきの話の続きだよ。飛行機雲は幸せを呼び込む、見た人の願いを実現させる──昔からある言い伝えだ。きみの名前にも、きっと同じ意味が込められてる』
『ふふん、そうですとも。わたしはみんなの願いを叶えるウマ娘ですからね』
 茶目っ気たっぷりにそんなことを言って、彼女はまたも胸を張る。パフォーマンスが多分に含まれているとはいえ、そこには紛れもない本心が在ることも、トレーナーとして理解しているつもりだ。
『トレーナーさんの思いも、今受け取りましたから。みんなの願いを叶えるために、まっすぐ飛んで、一番で帰ってきます。よそ見は厳禁ですよ?』
『おう。今まででいちばんのフライトを期待してるよ』
 出発しんこー、発車おーらーい、といつものように口に出し、最後にくるりと一回転。彼女にとって、準備と呼べるものはせいぜいがその程度だ。特段思い詰めることもなければ、必要以上に気合いを入れることもない。
 常に自然体で勝負に臨めること、それこそが彼女の真の強み。大舞台で100パーセントのパフォーマンスを発揮しようと思うのなら、メンタルの状態は想像以上に重要だ。緊張し、空回りするあまりに本来の実力が出せないなど、何より走る本人が一番辛いに違いないのだから。
『──それじゃあ。行ってらっしゃい、コントレイル』
『はい、行ってきます!』
 とん、と肩を押せば、それだけで彼女は振り返らずに駆け出していく。パドックへと向かう足取りはどこまでも、羽が生えたように軽やかだった。

 と、いうのが、わずか1分かそこら前までの話。
 靴音を響かせて地下バ道を抜けていく彼女の姿は、あっという間に見えなくなって。それを見送った今、俺がすべきことといえばとっとと地上に戻ることだけだ。
 レースが始まるまではまだ数刻あるとはいえ、関係者への挨拶やら何やらをしていればすぐに時間は過ぎる。いつまでも地下でのんびりとしていては、色々な繋がりを作るチャンスをフイにしかねない。
 まして今日はダービー、トゥインクル・シリーズが最も盛り上がる1日だ。いくら無観客での開催といっても、関係者席や貴賓席に入る人々なら話は別である。この機を逃せば会えるチャンスは有マだけ、となるような人材も、一体いくらいるかわかったものではない。
 父親の名前を出すのは気が引けるが、繋がりを作ることが彼女のためになるのであれば話は別だ。誰であれ、何であれ、使えるものはすべて使わなければ、ベストを尽くしたとはとても言えないのだから。
 そんなわけで。くるりと踵を返し、パドックとは逆方向の通用口へと向かおうとする俺であったのだが。
「お? なんだ、こんなところにいたのか息子。どこ見ても居ないもんだから、夏風邪でも引いて寝込んだのかと思ったぞ」
「……なんですかその格好……」
 どうやら。上に行けるのは、もう少し先の話になるらしい。
 がらんごろん、という特徴的な音を鳴らして現れたその姿に、思考が固まることしばし。絞り出した言葉は地下バ道に反響し、必要以上に大きく響く。
 当然のごとく関係者以外立ち入り禁止の場所に入り込み、世間話のテンションで声をかけてくるアラタさん。それ自体はもうそれでいいというか、彼女がそういうモノだと思えばそれだけで済む。先達相手に怪異みたいな扱いをしていることには一抹の申し訳なさもあるが、元はと言えば本人の行いが元凶なのだから仕方がない。
 だから。今俺が瞠目しているのは、彼女の存在そのものではなく。
「そらお前、ダービーに寝巻きで来るわけにもいかんだろ。私だってウマ娘の端くれだからな、正装してくるくらいの分別はあるぞ」
「初めて見ましたよ、甚平を正装とか言い張ってる人」
 大真面目にそんな言葉を返すアラタさんの目には、およそ一片の曇りもない。本心からこれが一張羅です、と訴えてくるのだから、まさかこき下ろすわけにもいかないだろう。
 彼女が着込んでいるそれは、渋い赤色に黒の差し色が入った甚平。和装といえば確かに和装だが、その種類は明らかに男物の普段着だ。ダービーよりも夏祭りのほうがよほど似合っているし、風呂上がりに将棋でも指していると言われれば納得してしまうレベルである。よくよく見れば確かに良い生地を使っていることが見て取れるが、それで見た目の印象がどうこうなるわけでもない。
「バカお前、この服がいくらするか知ってんのか? ゲタだって特注品なんだからな、ほらこれ」
「……なんですか、これ。蹄鉄でも入ってます?」
「お、ご明察。現役時代からの特注品でね、これだけでえらく値が張るんだぜ? 値段聞けば目玉飛び出るぞ」
 これみよがしに動かされるその度ごとに、やかましい音を掻き鳴らす例の下駄。鬼太郎もびっくりの音量でがらごろと響くその音は、なるほど現役時代であればさぞ目立ったことだろう。
 蹄鉄と下駄を組み合わせるという発想はともかく、音を聞く限りかなりの重量があることは疑いようもない。この足音がレース中に聞こえてこようものなら、それだけでぞわりとした恐怖を覚えてしまうこと請け合いだ。
「まさかとは思いますけど、現役時代もこの格好で走ってたんですか?」
「だからそう言ってるだろ。あとは指貫グローブでもすりゃ完璧だよ関口君」
「それはもう走るより小説書いてくださいよ」
 そこまで行くとウマ娘というかうぶめではないか。微妙に語感が似てなくもないのがまた腹立たしい。
 だらだらと話しているうちに、気付けば相手のペースに嵌められている。売り言葉に買い言葉というわけではないが、この人と会話をしているとどうにも脱線してしまいがちだ。話すほどにドツボにハマってくれるのだから、向こうからすれば面白くて仕方ないに違いない。
 そもそもの話。彼女とのんびり雑談に興じている時間なんて、今の俺には無いはずなのである。
「それで、何か用ですか? 何もないなら挨拶しに行きたいんですが」
「おいおい、そりゃないだろ少年。こっちはお前に面会希望だって人がいるから、わざわざ探してまで引き合わせようとしてたってのに。普段ならまず会えないぞ? それこそお前が探してる、ダービーでしか会えないような御仁だ」
「面会希望、って──」
 なんですかそれ、と。そう続けなかったのは、何も突然の話に面食らっているわけではなく。
 もっと単純に、その会話に割って入ってくる、新しい人物がいたからだ。
「マツカゼさん、こちらにいらしたのですね。隣の方は……あら、これはまあ」
 耳元に届くのんびりとした声は、今まで聞いた誰のものでもなくて。アラタさんの言葉の意味がどういうことか、一拍遅れてようやく理解する。
「こんにちは、コントレイルのトレーナーさん。……で、良かったのでしたっけ。ね、マツカゼさん?」
「良かったですよ、それで。こちら、例の息子さんです」
「あら、それもこの方ですか。てっきり違う人だとばかり……いつ聞いたかしら、そのお話。わたしお話してる場に居た?」
「居たよ」
 居なかったら分からないでしょう、などと呆れながら話すアラタさんに、あらあらうふふと返す背の高いマダム。いつも煙に撒く側の彼女がツッコミに回っているのは新鮮ではあるが、それはそうとこの女性が何者なのかがまるで分からない。アラタさんを手玉に取れる、という時点で、只者でないことに間違いはないのだが。
「あら。ごめんなさい、勝手に盛り上がってしまって。わたしはヒカリといいます。苗字は……そうね、小西、とかで良いかしら」
 たった今思いついたような口ぶりで、己の名前を口にする“ヒカリさん”。それもそのはず、ウマ娘である彼女に苗字など、本来存在しないはずなのだ。もちろん彼女も、それを十二分に分かった上で口に出している。
 コートにも似た長丈の黒ジャケットを腰上のベルトで絞った姿は、熟練の女優と言われても納得できるほどだ。毛先までよく整えられた尻尾が、機嫌の良さを表すようにゆらゆら揺れる。黒い毛の中に白いものが混じっているのは、芦毛というよりも加齢によるものか。
「無敗の皐月賞バで、ダービーもダントツ一番人気になるウマ娘のトレーナーさんとお話をする機会なんて、そうそう無いことでしょう? せっかくダービーを観に来たのだし、たまにはそんなことをしてみたくって。こうしてマツカゼさんに無理を言って、機会を設けてもらったわけなのです」
「はあ」
 はあ、じゃないが。さりとて、それ以外に答える術がないのだから、生返事をするより他に仕方がない。
 アラタさん、もといマツカゼさんに視線を飛ばすものの、そこにあるのはいつもの調子とは似ても似つかない神妙な表情だけ。どうやら必要なこと以外はまるで喋らない構えらしい、と見切りをつけて、視線を目の前の彼女に引き戻す。
 ヒカリさん──柔らかい物腰の彼女が、何者かどうかはさておくとして。この人が会いたいと思ったのは紛れもなく俺自身、コントレイルのトレーナーなのだ。何を尋ねられるにせよ、気を引き締めるに越したことはない。
 洋画から飛び出してきたかのような見た目とは裏腹に、あくまでものんびりとした語り口を崩さないヒカリさん。近寄りがたさなど口ぶりからは微塵も感じないはずのなのに、その立ち居振る舞いには独特の圧がある。他の誰とも違う空気を発する彼女を前に、ごくりと唾を呑み下す。
「それじゃ、とりあえず何か食べながら話しましょうか。マツカゼさん、美味しい屋台を教えてちょうだいな。三冠祈願のお弁当とかないのかしら?」
「ダービーの時点でそれ出せるやつ、未来人じゃなきゃ相当ですよ」
 ああ、真っ当な突っ込みもできるんだこの人。俺との会話の時も、もう少しそうしてくれるとありがたいのだが。

# # #

 5月31日の府中は、ここ数日よりは幾分か過ごしやすかった。
 なぜかといえば単純で、晴れというよりも曇りに近しい天気だからだ。直射日光はなく薄曇りで、なおかつバ場状態は良、まさにレースのためにあつらえられたような良環境といっていい。
 本来であれば、すし詰めになった何万人単位の熱気が立ち込めているのだろうけれど、今回に限ってはそれもない。涼やかな風が届けるのは、環境音の他には刻一刻と流れる時間だけだ。
 そう。時間の流れは平等だ。どれほど思い詰めようと、緊張で震えていようと、決戦の時は刻一刻と近付いてくる。どのみち避けられないものであるのなら、そのことにあれこれ思い悩むのは無駄というものだろう。
 展開の予想はした。コンディションのチェックも、バ場状態の確認も万全だ。人事を尽くしたのであれば、これ以上余計なことを考えて消耗するのはエネルギーの浪費でしかない。ただ穏やかに心を落ち着けて、その時が来るまで待っていればいい。
 ──真実、そんなふうに考えることができたから。レースが始まろうと、わたしの心には焦りも動揺もなかった。
『──大外から18番、ウインカーネリアン行きました! 中団コルテジア2番手につけて、内5番コントレイル3番手! 13番ディープボンド、6番ヴェルトライゼンデ──』
 ゲートが開いた瞬間、大外から弾かれたように飛び出していったピンクの帽子。その背中を見やりながら、思い描いていた前目内側の席を確保する。やむなく後ろに下がった皐月賞とは対照的な、狙い通りのベストポジションだ。
 サリオスもスタートは良好、ただし外枠が災いしたのか中に入れていないらしい。先行するわたしと合わせて、ちょうど皐月とは立ち位置が入れ替わった形、ということになるだろうか。もちろん気を抜いて良いわけはないけれど、ひとつ懸念事項が減ったのもまた事実だ。
 唸る風切り音を切り裂いて、警報器だかクラクションだかの音が耳に飛び込んでくる。そんな情報を拾い上げているということは、それだけペースに余裕があるということか。
 1コーナーを抜け、向正面へ。ちらりと周囲の顔色を伺っても、やはり皆一様に余裕のある顔つきのままだ。先頭で逃げている彼女がスピードを緩めているおかげか、この大舞台は全体的にスローでの進行になっている。
 この調子でいけば、勝負どころは最終盤、直線での攻防がほぼすべてになる。脚を温存できるのはこちらとしても望むところだけれど、一方でそれを望まないタイプのウマ娘も中にはいるはずだ。そんな彼女たちにとって、このじりじりとした駆け引きは、どうにかしてひっくり返したいものに違いない。
 そう。この状況を変える一手があるとすれば、それは。
『──その外から14番、マイラプソディがポジションを上げていきました! 前半の1,000メートル1分1秒7、このペースを嫌ったか! 離れた外から14番マイラプソディが一気に先頭グループに並びかけていきます──』
 やっぱり、来た。
 完成した隊列を乱すように、外側からわたしを抜き去っていく影。一気に先頭に立つ姿を視界に収めつつ、「その展開」になった場合のシナリオに頭を切り替える。
 スローペースで流れた場合に、こうした戦法で勝負に出るウマ娘がいることは予測済みだ。具体的に誰が、というわけではないけれど、それをやりそうなヒトにはあらかじめ目星をつけていた。そのうちの一人が展開を掻き乱しにきた場合にどうするか、その場合の立ち回りも勿論頭に入れている。
 中盤で捲っていくウマ娘の姿がターフビジョンに映ろうものなら、本来は観客席から大歓声が起こっているはずだ。走っていてもなお聞こえて来るほどのそれがないのは有難いというべきか、物悲しいというべきか。いずれにせよ、展開を動かされた側の17人にとって、対応を迫られる事象であることは言うまでもない。
 戦い方を修正するか、それともこのまま押し切るか。誰も彼もが黙したまま、各々の思考がぶつかり合って火花を散らす。目に見えてヒリついていく戦場の空気に、緊張感のボルテージが数段跳ね上がる。
 一人がペースを上げたところで、引っかかって暴走するようなウマ娘はダービーの舞台にはいない。けれど、予想外の展開と釣り上げられたレースのスピードに、処理能力が圧迫されるのもまた事実だ。極限状態での焦りは容易にリズムを狂わせ、結果として余計に体力を消耗する羽目になる。
 故に。この局面でわたしに求められるのはただひとつ、焦らないこと。用意してきたプラン通りに動く、ただそれのみを貫徹すること。もっといいやり方を求めて揺れ動けば、それこそ相手の思う壺だ。
「────」
 1秒だけ思考を手放し、肺の酸素を入れ替える。意識も視界も問題なし、これ以上ないほどのクリアさを保っている。勝負は最終直線での一騎打ちではなく、ここからの動きを含めたロングスパート合戦に変更された──結局のところ、重要なのはその事実だけだ。切れ味ではなく総合力での勝負になるのなら、わたしとしてはむしろ願ったり叶ったりではある。
「……は、っ──」
 深く、深く、意識の深奥まで沈み込む。レースとはすなわち己との対話だ。より効率的に身体を動かそうとすれば、必然的に不要なものは削ぎ落とされる。無駄な思考も、余計な感情も、そこに立ち入る余地はない。
 不必要なものは捨象される。本当に必要なものが残る。言うなればそれは、自分自身の根幹に立ち返る作業と言ってもいい。そこには競争相手すら存在しない、たったひとりの世界があるだけだ。
 からっぽの世界。がらんどうの空間。足音も風音もなく、視界には誰ひとりとして映っていない。凪いだ湖面にも似たターフの上を、わたしは独りで走り続けている。

 否。ひとり、ではなかった。

 視界の先で、ふわりと靡く長い髪。わたしと同じか、ともすればそれ以上に小さな躰は、しかし圧倒的な速さで湖面を駆け抜けていく。
 数多の願い、数多の祈り。それらすべてを背負った姿にどれほど焦がれようと、その影を踏むことすらも叶わない。
 ──けれど。確かに、近づいている。
 皐月賞の時に見た、決して追いつけない後ろ姿。その背中は僅かに、けれど確実に大きくなっている。
 追い求めるのは、遠く彼方に在(いま)す星。その輝きが増すほどに、終着点に近づいているのが分かる。この身を灼く光が強まるその度ごとに、彼女が到達した地点へと引き上げられていく。
 あの場所までたどり着こうものなら、間違いなく無事ではいられない。それは推察ですらない、誰が見ても分かる事実そのものだ。近づくだけでこの有様なのだから、きっと燃え滓すらも残らないだろう。

 それでも。それでもわたしは、そこに立たなければいけないのだ。

 己自身の意志ではない何かに押されて、わたしは扉に手を伸ばす。溶け落ちていく手が、腕が、本当にそれでいいのかと訊いている。触れそうで触れられない距離にある何かを掴もうとして、わたしの指だったものは虚しく空を切る。
 いいのか、なんて。そんなこと、今更問うまでもない。
 だって、そのために。そのためだけに、わたしは。

⬜︎ ⬜︎ ⬜︎

「そう。もうそこまで『掴んで』いるのですね、あの子」
「……はい?」
 決して柔和な表情は崩さず、しかし瞳には真剣な色を宿したままで。レースを見ていたヒカリさんが、唐突にそんな言葉をこぼす。文脈もへったくれもないそれは、まさしく不意打ちという他にない。
 感想というよりも、それは想定外の事実を前にした感心にほど近い。ここまでとは思わなかった、と言わんばかりの驚きが、言葉の裏からありありと見て取れる。
「領域(ゾーン)──簡単に言やぁ、レース中における超集中状態みたいなもんだ。おまえも聞いたことくらいはあるだろ」
「……そういえば、前に先生が言っていたような気はしますけど。でも、あくまでごくごく低い可能性の話で、それに頼るようじゃやっていけない、って──」
 呆けている俺を見かねたのか、あるいは最初から二の句を継ぐ予定だったのか。補足説明をするアラタさんに、記憶の隅で埃を被っていた知識を引っ張り出す。
 雑談の中で一度出た程度のそれは、取り立てて付箋をつけていたわけでもない。むしろ、今この場で思い出せたのが不思議なくらいに、曖昧模糊とした知識でしかないものだ。
 領域。時代を代表するウマ娘、隔絶した実力を持つ一者のみに触れることが許される、レースの深奥。その次元に足を踏み入れたウマ娘は、文字通り別格の走りを見せると聞く。一方で、そんなものを目指して練習するほどバ鹿らしいこともない、なんて話も、確か先生はしていたはずだ。
「ふふ。さすがはハットマンさん、よくご存知なのね。確かに、意図的にその境地に辿り着けるウマ娘は、歴史上で見ても数える程度しかいないでしょう。でもね、それに頼れば何とでもなるような、魔法の力ってわけでもないの」
 毛ほどの理解もしていない俺を前にしても、穏やかな声は変わることがない。相変わらず雲を掴むような内容だが、さりとて荒唐無稽な話ではないことくらいは俺にも分かる。
「領域とは結局のところ、『自分の肉体を十全に扱える状態』でしかありません。感覚は研ぎ澄まされ、普段使っていなかった力が使えるようになるけれど、それはあくまで己の肉体のフルスペックを発揮しているだけ。未知の次元から無尽蔵の力を汲み上げるような、御伽噺の類のチカラではないわ。言うなれば、そうねえ……北斗神拳とか、あのあたりかしら」
 大真面目な顔でそんなことを言うあたり、冗談でも何でもないらしい。実際にその説明で理解が進んでいるのだから、持ち出した例えは適切と言わざるを得ないだろう。
 どれほど優れた人間であろうと、普通に生活している人間がその能力の100%を発揮することは叶わない。腕力であれ、思考速度であれ、人間の体には生来、過剰出力による自壊を防ぐための安全装置が備わっている。そのリミッターが外れるのは、そうしなければならない場合、すなわち生命の危機に瀕したときだけだ。
 火事場のバ鹿力。それを意図的に引き出すのが領域の本質だとすれば、なるほど別次元の走りを魅せるのも頷ける。一人だけ規格違いのエンジンを積んで走っているのだから、必然パフォーマンスは他と隔絶したものになるはずだ。
 だが。その例え話が適切なら、看過できない問題が生じることになる。
「でも──それは本来、打ち破ってはいけない壁のはずです。肉体の安全を度外視したパフォーマンスなんて、そう長続きするとは思えない。脚だけじゃない、全身に深刻な負担がかかる」
「そりゃ、未完成のまま領域に踏み込んだ場合はそうなるだろうな。中途半端に出力だけ上がってるもんだから、そりゃ目も当てられない状況になる。おまえも覚えがあるだろ? ダービーでの燃え尽き症候群ってやつにさ」
 俺の疑問に答えるように、隣から口が挟まれる。アラタさんの横槍に頷いたヒカリさんは、その続きを引き取って口を開く。
「本来の“領域”とは、肉体の動かし方を真に理解するものです。この状況下でどう身体を動かすのが最も適切か、周囲の情報を余すことなく五感で拾い上げ、肉体に命令し、寸分違わず実行させる。常に正解を叩き出す処理能力と、それを実行に移せるだけの肉体の出力、ふたつが揃うことで初めて領域は領域足り得る。の、だけれど──」
「ほら、ダービーってのはどいつもこいつも必死だろ? だから本来届かないはずの場所まで、ものの弾みで手が届いちまう。結果、肉体の出力だけ上がった、不完全な形で領域に踏み込んじまうのさ。当然身体の使い方がなってないから、そのままオシャカになるってわけだ。これがダービーで燃え尽きるやつの正体だよ」
 パス回しのようにかわるがわる告げられた言葉に、根拠と言えるものは何もない。突き詰めたところで感覚でしかないそれは、その気になれば妄言と一蹴してしまうこともできるはずだ。
 だというのに。眼前に立つ彼女らの存在感が、そう切り捨てることを許さない。
 今の話は紛れもない真実であり、断言できるだけの経験をしてきたのだと。氏素性も不明な2人のウマ娘は、そう信じさせるだけのオーラを纏っている。まるで他ならぬ自分たちが、その感覚を知っているのだとでもいうように。
「だったら、彼女は。……コントレイルは、どうなるんですか。あの子も同じように、燃え尽きてしまう定めだと?」
「いいや、そうでもない。というか、今回の話で一番重要なのはそこなんだよ」
 ごくりと唾を飲み下し、鉛のような舌を動かして問いかける。決死の覚悟で放った質問に対して、返ってきたのはしかし、想定から最も遠い答えだった。
「あと一歩、いいえ、半歩くらいかしら? ほんのひと押しがあれば、あの子は領域に完全な形で踏み込めます。ダービーの時点でここまで辿り着いているなんて、歴代で見てもそうはいないでしょうね。わたしとしては、領域の前段階の時点で、あそこまでの走りをしていることに驚いているのだけれど」
「それは──あの子の走りが、既に別次元に引き上げられている、という意味ですか」
「引き上げられてる、か。ま、合ってるっちゃ合ってるんだが。どっちかっつーと、むしろ逆? 的な? 視点によっちゃ合ってるけど、そう言うのは微妙に正しくない、的な?」
 妙に歯切れの悪い答えに、得心がいかず首を傾げる。禅問答じみた答えに少なからず自覚的なのか、アラタさんはがしがしと頭を掻く。
「要は、さ。あの子のあれ、自分を引き上げてるんじゃなくて」
 結局のところ、答えはシンプルなんだよ、と。改まったように、そんな前置きをひとつして。

「“降ろしてる”んだよ、アレは。あの子にとっての『正解』、■■■■■■■■■をな」

# # #

 何の冗談だ、と思った。
 完璧とは言えないまでも、道中は順調に進んできた。そも、後ろからレースをせざるを得なかったという状況なら、皐月賞のコントレイルとまるきり同様だ。
 彼女が出来て私に出来ない道理はないし、第一そんな言い訳は許されない。大外を回って最終直線に持ち出した時点で、勝利をもぎ取れるだけの算段はあった。事実、坂を駆け上がるその瞬間まで、前を走る小さな背中は射程圏内だったのだ。
 世代の頂点まで、倒すべき敵はただひとり。皐月賞以降、最大の敵だけを見据えて、ここまで研鑽を重ねてきた。捲土重来を期すために、無敗のジュニアチャンプとしての意地も、挑戦者としての反骨心も、すべてを薪として焚べてきた。
 だというのに。あれは、何だ。
『まるで■■■■■■■■■と同じような脚を繰り出さんというコントレイル! 先頭はここでコントレイルに変わるか!? さらに外から12番のサリオス来るか、今度は千切り捨てられるか──!』
 坂の途中、ある地点を境にして、明らかに変化した脚色。踏みしめたはずの影はするりと抜け出て、あっという間に突き放される。かつてデッドヒートを演じたはずの相手はしかし、異次元の実力をもって私を捩じ伏せにかかる。
 ただ相手が全力を振り絞っているのなら、仕方がないと思えただろう。私の実力が足りなかった、言ってしまえばそれだけのこと。そこに言い訳が差し挟まる余地などなく、結果は完敗の二文字で方がつく。
 けれど。アレは、断じてそんなものではない。
 追い縋ったその瞬間、わずかに見えた彼女の表情。その瞳も、その口元も、看過するには不自然に過ぎる。皐月での追い比べでは見逃していた、あるいは表出しなかった異常が、圧倒的な彼我の実力差とともに叩きつけられる。
「はっ……、はあ……ッ──!」
 3バ身差の2着でゴール板を駆け抜けた瞬間、汗が滝のように噴き出してくる。それは決して、肉体の疲労のみによるものではない。
 『このダービーは、コントレイルのためにあった』──響き渡る勝利者宣言を背に、彼女は無人のスタンドに深く一礼する。センセーショナルな一幕はここぞとばかりに切り取られ、1時間後には誰もが知るところとなっているだろう。久方ぶりの無敗二冠バの誕生は、この暗く落ち込んだ世界にとって間違いなく吉報なのだから。
 だから、誰も気付かない。彼女の、異質とも言えるその有り様に。

 ──その瞳には、何も映っていなかった。

 ラストスパートの瞬間に垣間見た表情には、ライバルの姿など欠片も映っておらず。それどころか、ダービーを勝つという意志そのものすら、穴が空いたようにぽっかりと抜け落ちている。無論、自分自身がダービーを勝った喜びも、そこには微塵も存在していない。
 どれほど高性能な機械でも、それそのものに意志と呼べるものは宿らない。誰かが目的を設定し、エネルギーを供給しなければ、それは動くことすら不可能になる。これはそういう次元の話らしいと、冷静な思考が結論を下している。
 ウマ娘の形をした、からっぽの自動人形。私がついぞ勝ち得なかったのは、どうやらそういうモノらしかった。

# # #

新しい投稿が一件あります。

Contrail_Team.M

[写真-8件 画像を読み込み中です…]

ウマいね!42020件

5月31日。#日本ダービー……優勝です!!!

世代の頂点に立った実感は、まだあんまりないけれど…色々な方からお祝いのメッセージをいただいて、ようやく実感しはじめたところです✉️
無敗二冠達成の瞬間、見ていてくれましたか?もしみなさんに喜んでいただけたのなら、わたしにとってこれ以上の喜びはありません。

ここまで来たら、目指すは無敗三冠一直線!!世界が大変な状況になっている今こそ、トゥインクル・シリーズを最高に盛り上げてみせます!!
これからも、変わらない応援をよろしくお願いします!!

#クラシック三冠 #ウイニングライブ #東京優駿
#たくさんのメッセージありがとうございます
#画面の向こうのあなたにも届きますように

あとがき
それは、憧れと言うには、あまりにも。

次回は夏休み編! あのキャラとかあのキャラも出てくるよ! 続きは……そのうち!
お知らせ
実務でも趣味でも役に立つ多機能Webツールサイト【無限ツールズ】で、日常をちょっと便利にしちゃいましょう!
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