桜色グラスワンダー
作成日時: 2024-04-20 21:54:43
公開終了: -
トレーナー室から見える、ソメイヨシノからはらはらと花弁が舞う。
ここ数日の暖かさで、すでに半分ほど葉桜になっている。
朧の月明かりに、ピンクが映える。
「今年は、グラスと花見に行けなかったなあ……」
独りごちる。
担当で愛バのグラスワンダーとは、毎年2人きりで花見に行っていたが、今年は忙しくてまだ行けていない。
平年より早い開花となったこともあって、例年より早く散り始めているのは御覧の通り。
「いや、まだ全部散ったわけじゃないし、頑張るか!」
気合を入れ直すと、作業途中のPCに目を向ける。
まだまだ仕事は終わらないが、なんとか一段落を付けて、彼女と一時でもお出かけしたい。
グラスだって楽しみにしているのは、知っているから。
そこに。
コン、コンと。
静かな深夜のトレーナー室に、響くノックの音。
「はーい。どうぞ」
……誰だろうか。
怪談の季節にはまだ早いので、お化けは勘弁してほしいものだ。
「お邪魔します、トレーナーさん」
そこにいたのは。
今し方考えていた、小さなお盆を手に持った、グラスだった。
「いらっしゃい、どうしたの? こんな深夜に」
そろそろ、寮では就寝時刻のはずだ。
当然、外出できる時間はとうに過ぎている。
「美浦寮長のヒシアマ先輩は、寛容ですから。それよりも差し入れです。どうぞ」
コトリ、と。
彼女の手にあったお皿を、ローテーブルに乗せる。
湯気を立てて、置かれるホットケーキ。
「お茶、淹れますね」
いつものように、慣れた手つきで緑茶を淹れてくれるグラス。
甘い香気が、こちらの鼻腔をくすぐる。
腹の虫が、「ぐぅ」と音を立てた。
「丁度、良かったですね。お仕事に根を詰めるのも良いですが、少しは御休憩なさってください」
彼女に促されるままに、椅子から腰を上げると、ホットケーキの前のソファに座り直す。
微笑みながら、緑茶を運んでくるグラス。
湯呑をホットケーキの隣に置くと、するりとこちらの隣に座った。
「どうぞ、召し上がれ」
2段重ねのホットケーキには、バターと蜂蜜がたっぷりとかかっている。
狐色に焼けたそれは、僅かに桃色がかっていて、刻まれた何かの葉っぱが混ぜ込まれていた。
そして、添えられた粒あん。
――ピンク?
フォークを持つ手が、一瞬止まる。
戸惑いが、顔に出ていたのだろう。
グラスが、手を口に当てて、くすくすと笑う。
「驚きましたでしょう?」
「ああ、驚いたよ。どうやってピンクにしたの?」
フォークで小さくちぎって、口に運ぶ。
じんわりとした甘さと共に、鼻に抜ける卵と牛乳の匂い。
そして、桜の甘やかな香り。
「そのホットケーキのピンクは、桜の葉の塩漬けの戻し水を、焼くときに混ぜたからです。その刻んだ葉っぱは、桜の葉の塩漬けですね」
「この、桜の香りは?」
……それだけで、こんなに桜の香りがするだろうか?
すると、グラスがその春先の独活のような白い指で、ホットケーキの蜂蜜を掬うと。
そのまま、こちらの口に含ませてきた。
「わかりますか?」
こくこく、と頷く。
蜂蜜が主張するのは、上品な甘さと桜の香り。
指を、引き抜くグラス。
「蜂蜜は、山桜の蜂蜜を使いました。だから、桜の匂いがしますでしょう?」
「うん」
彼女の言葉に、相槌を打つ。
正直、大胆なグラスの行動に、ドキドキが収まらない。
まだ、舌先に彼女の味が残っている気がする。
「うふふ」
指に残った蜂蜜を、舐め取るグラス。
なんでもない仕草のはずなのに、なぜかとても色気を感じる。
凝視していると。
「あら、私ばかり見ていますと、パンケーキが冷めてしまいますよ」
からかうような彼女の声に、思い出したようにホットケーキを口に入れる。
2枚目は、添えられた粒あんとともに。
気が付くと、きれいさっぱり食べてしまっていた。
「御馳走様」
「はい、お粗末様でした」
緑茶を啜る。
ニコニコと、そんなこちらの様子を見ているだけのグラス。
開けたままだった窓から、桜の花びらが吹き寄せた。
「あっ」
緑茶の上に、ふわりと浮かぶそれ。
「茶柱ならぬ、桜舟ですね」
水面に映る、グラスの瞳が揺れる。
……いや、その理由はわかってはいるのだ。
「ごめん」
「……トレーナーさんがお忙しいことは、重々承知していますから。だから、一緒に桜の香りだけでも楽しみたくて、夜食を持ってきたんです」
彼女の頭を、こちらの胸に抱き寄せて、ギュッと抱き締める。
へにゃ、と萎れたウマ耳が、胸に擦れる。
いつの間にか、尻尾がこちらの腰に巻き付けられた。
「ゴールデンウィークには休めると思うから、そうしたら北海道に行こうか。あっちなら、まだ桜も咲いているし」
ピクリ、とウマ耳が動く。
手応え、あり。
さらに、畳みかける。
「温泉に行って、ゆっくりするのも良いよね。泊まりで、さ」
腰に巻き付けられた尻尾が、パタパタと動く。
グラスの髪を、ゆっくりと梳く。
グリグリ、と頭を押し付けられる。
「2人きりで、ですか?」
「2人きりで」
顔をこちらの胸に押し付けているせいで、くぐもった声。
「一緒に、桜並木を歩いてくれますか?」
「うん。一緒に歩こう」
抱き締める彼女の力が、強くなる。
「一緒に、桜の木の下で私の作ったお弁当を食べてくれますか?」
「ああ、楽しみにしてる」
顔を上げる、グラス。
「一緒に、桜の見える露天風呂に入ってくれますか?」
「それは……」
「入って、くれますよね?」
一見、穏やかな笑顔でこちらを上目遣いで見上げる彼女。
だが、底知れない圧を感じる。
結局、頷くことしか、できなかった。
「ふふ。嬉しいです」
「ゆーびきーりげーんまーん」とすっかり機嫌の治ったグラスが、指を絡めてくる。
絹のような、きめ細かい肌の感触。
彼女のやわやわとした小指が、こちらの小指を交わる。
「嘘ついたら針千本、――はトレーナーさんにしたくないので――、嘘ついたらキス千回、さーれる。指切った」
それと同時に、ポンとこちらの胸を押して、グラスが離れる。
僅かな、桜のコロンの残り香。
そして、グラスの温もりの痕。
「……グラスにキスされるなら、嘘でも良いかもしれないな」
「トレーナーさん」
二の腕を掴まれると、強めに抓られる。
それから、耳元で囁かれた。
蠱惑的に、煽情的に、甘美に、妖艶に。
「嘘、つきませんでしたら、もっと凄いこと、してあげますから」
頬に、柔らかい感触。
「楽しみに、していてください」
――情けないことに。
――魅力に溺れて、立ち上がることがすぐにできなかった。
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