桜色グラスワンダー


トレーナー室から見える、ソメイヨシノからはらはらと花弁が舞う。
ここ数日の暖かさで、すでに半分ほど葉桜になっている。
朧の月明かりに、ピンクが映える。

「今年は、グラスと花見に行けなかったなあ……」

独りごちる。
担当で愛バのグラスワンダーとは、毎年2人きりで花見に行っていたが、今年は忙しくてまだ行けていない。
平年より早い開花となったこともあって、例年より早く散り始めているのは御覧の通り。

「いや、まだ全部散ったわけじゃないし、頑張るか!」

気合を入れ直すと、作業途中のPCに目を向ける。
まだまだ仕事は終わらないが、なんとか一段落を付けて、彼女と一時でもお出かけしたい。
グラスだって楽しみにしているのは、知っているから。

そこに。
コン、コンと。
静かな深夜のトレーナー室に、響くノックの音。

「はーい。どうぞ」

……誰だろうか。
怪談の季節にはまだ早いので、お化けは勘弁してほしいものだ。

「お邪魔します、トレーナーさん」

そこにいたのは。
今し方考えていた、小さなお盆を手に持った、グラスだった。

「いらっしゃい、どうしたの? こんな深夜に」

そろそろ、寮では就寝時刻のはずだ。
当然、外出できる時間はとうに過ぎている。

「美浦寮長のヒシアマ先輩は、寛容ですから。それよりも差し入れです。どうぞ」

コトリ、と。
彼女の手にあったお皿を、ローテーブルに乗せる。
湯気を立てて、置かれるホットケーキ。

「お茶、淹れますね」

いつものように、慣れた手つきで緑茶を淹れてくれるグラス。
甘い香気が、こちらの鼻腔をくすぐる。
腹の虫が、「ぐぅ」と音を立てた。

「丁度、良かったですね。お仕事に根を詰めるのも良いですが、少しは御休憩なさってください」

彼女に促されるままに、椅子から腰を上げると、ホットケーキの前のソファに座り直す。
微笑みながら、緑茶を運んでくるグラス。
湯呑をホットケーキの隣に置くと、するりとこちらの隣に座った。

「どうぞ、召し上がれ」

2段重ねのホットケーキには、バターと蜂蜜がたっぷりとかかっている。
狐色に焼けたそれは、僅かに桃色がかっていて、刻まれた何かの葉っぱが混ぜ込まれていた。
そして、添えられた粒あん。

――ピンク?

フォークを持つ手が、一瞬止まる。
戸惑いが、顔に出ていたのだろう。
グラスが、手を口に当てて、くすくすと笑う。

「驚きましたでしょう?」

「ああ、驚いたよ。どうやってピンクにしたの?」

フォークで小さくちぎって、口に運ぶ。
じんわりとした甘さと共に、鼻に抜ける卵と牛乳の匂い。
そして、桜の甘やかな香り。

「そのホットケーキのピンクは、桜の葉の塩漬けの戻し水を、焼くときに混ぜたからです。その刻んだ葉っぱは、桜の葉の塩漬けですね」

「この、桜の香りは?」

……それだけで、こんなに桜の香りがするだろうか?
すると、グラスがその春先の独活のような白い指で、ホットケーキの蜂蜜を掬うと。
そのまま、こちらの口に含ませてきた。

「わかりますか?」

こくこく、と頷く。
蜂蜜が主張するのは、上品な甘さと桜の香り。
指を、引き抜くグラス。

「蜂蜜は、山桜の蜂蜜を使いました。だから、桜の匂いがしますでしょう?」

「うん」

彼女の言葉に、相槌を打つ。
正直、大胆なグラスの行動に、ドキドキが収まらない。
まだ、舌先に彼女の味が残っている気がする。

「うふふ」

指に残った蜂蜜を、舐め取るグラス。
なんでもない仕草のはずなのに、なぜかとても色気を感じる。
凝視していると。

「あら、私ばかり見ていますと、パンケーキが冷めてしまいますよ」

からかうような彼女の声に、思い出したようにホットケーキを口に入れる。
2枚目は、添えられた粒あんとともに。
気が付くと、きれいさっぱり食べてしまっていた。

「御馳走様」

「はい、お粗末様でした」

緑茶を啜る。
ニコニコと、そんなこちらの様子を見ているだけのグラス。
開けたままだった窓から、桜の花びらが吹き寄せた。

「あっ」

緑茶の上に、ふわりと浮かぶそれ。

「茶柱ならぬ、桜舟ですね」

水面に映る、グラスの瞳が揺れる。
……いや、その理由はわかってはいるのだ。

「ごめん」

「……トレーナーさんがお忙しいことは、重々承知していますから。だから、一緒に桜の香りだけでも楽しみたくて、夜食を持ってきたんです」

彼女の頭を、こちらの胸に抱き寄せて、ギュッと抱き締める。
へにゃ、と萎れたウマ耳が、胸に擦れる。
いつの間にか、尻尾がこちらの腰に巻き付けられた。

「ゴールデンウィークには休めると思うから、そうしたら北海道に行こうか。あっちなら、まだ桜も咲いているし」

ピクリ、とウマ耳が動く。
手応え、あり。
さらに、畳みかける。

「温泉に行って、ゆっくりするのも良いよね。泊まりで、さ」

腰に巻き付けられた尻尾が、パタパタと動く。
グラスの髪を、ゆっくりと梳く。
グリグリ、と頭を押し付けられる。

「2人きりで、ですか?」

「2人きりで」

顔をこちらの胸に押し付けているせいで、くぐもった声。

「一緒に、桜並木を歩いてくれますか?」

「うん。一緒に歩こう」

抱き締める彼女の力が、強くなる。

「一緒に、桜の木の下で私の作ったお弁当を食べてくれますか?」

「ああ、楽しみにしてる」

顔を上げる、グラス。

「一緒に、桜の見える露天風呂に入ってくれますか?」

「それは……」

「入って、くれますよね?」

一見、穏やかな笑顔でこちらを上目遣いで見上げる彼女。
だが、底知れない圧を感じる。
結局、頷くことしか、できなかった。

「ふふ。嬉しいです」

「ゆーびきーりげーんまーん」とすっかり機嫌の治ったグラスが、指を絡めてくる。
絹のような、きめ細かい肌の感触。
彼女のやわやわとした小指が、こちらの小指を交わる。

「嘘ついたら針千本、――はトレーナーさんにしたくないので――、嘘ついたらキス千回、さーれる。指切った」

それと同時に、ポンとこちらの胸を押して、グラスが離れる。
僅かな、桜のコロンの残り香。
そして、グラスの温もりの痕。

「……グラスにキスされるなら、嘘でも良いかもしれないな」

「トレーナーさん」

二の腕を掴まれると、強めに抓られる。
それから、耳元で囁かれた。
蠱惑的に、煽情的に、甘美に、妖艶に。

「嘘、つきませんでしたら、もっと凄いこと、してあげますから」

頬に、柔らかい感触。

「楽しみに、していてください」

――情けないことに。
――魅力に溺れて、立ち上がることがすぐにできなかった。
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