バクトレウマ娘化SSその1


 元々、身体を動かすことは嫌いではなかった。そしておおよそのことはそれなりにこなせる才能があった。そしてそれを求められる環境でもあった。だがそれは幸運だったと言える。幼少のころから、不可思議な体験が多く、辛くも災いのようなものから逃れる度に幸運に感謝をしていた。
『我が家は古くより続く名家であり、その家に生まれた男児であるからには──。』
 ひと昔前の厳格な爺さまそのもののような祖父に幼少より稽古を受け、高校を卒業した後、実家を離れ親族のコネで入れられた会社でしごかれて、体力を維持するためだと朝のランニングを言いつけられた。ただランニングを続けるだけでは味気なかったから、定期的にルートを変更したり、食べられる野草を探して林に足を踏み入れることを始めた。おかげで近辺の地理には詳しくなったし、外での読書にもってこいな場所や、あるいは野草の群生地などの「おいしい」スポットも見つけた。
 その日も、野草を摘むついでに近場の小さな神社で参拝をしようと思っていた。神社の横手の林から境内に入ると、拝殿に人がうずくまっているのが見えた。すわ浮浪者の類かと思ったが、頭頂部に特徴的な耳、そして鮮やかなジャージ。──ウマ娘だ。そしてジャージの柄から見るに中央トレセン学園のウマ娘だろう。
 朝のジョギング中にトレセン生とすれ違うことはよくあることで、小休憩のつもりが眠り込んでしまっている彼女達を見かけることもままあることだった。だがこの神社は小さな山の中にあり、坂道や階段を用いたトレーニングとして利用できそうではあるが、主要な通りから外れているためか、朝方に彼女たちの姿を見かけることは稀であった。
 あまり動かないあたり、おおかた小休憩のつもりで夢の世界に誘われたクチだろう。寝かせたままにして遅刻されてはこちらも気分が悪い。寝覚めの悪いウマ娘の癇癪は中々肝が冷えるが仕方ない。起こすべく近寄れば、様子がおかしいことに気づいた。脚を抑えて、震えているように見える。近づくにつれ、嗚咽していることがわかった。
 声をかけて事情を聴けば、近々行われるレースへの追い込みとして坂道でのトレーニングを行っていたときに脚を痛めた。中央に留まれる最後のチャンスになるかもしれないのに、このままでは退学しなくてはならない。信じて送り出してくれた家族を裏切ってしまった。なんと報告したらいいかわからない。会わせる顔がない。ルームメイトともぎくしゃくしてる。いつも口論になってしまう。謝りたい。でも切り出せない。
 自嘲を含むかのような笑みを張り付けて訥々と話しているうちに涙声に変わり、ついには堰を切るように言葉があふれてきた。初対面の男である僕に対してここまで話すからには、よほど追い詰められていたのだろう。だが、彼女の慟哭は、僕にはよくわからなかった。
 僕の家族は、僕が何かを成し遂げることよりは、与えられる役割をこなせるかどうかを重視しているように思えた。たまたまその対象が僕だっただけで、何かが違えば、別の誰かが今の僕と同じように過ごしていただろう。
 学校では、友人と言える人たちの大半は、おおよそ家の繋がりで昔から付き合いがあったから関わりをもっていただけであったようにも思う。中には変わった奴もいたけれど、あれは特殊なかけ合わせが幾重にも重なった特殊なものだろう。
 だから、彼女の嘆きに対して僕は、ただ黙って泣き止むのを待つことしかできなかった。「大丈夫だ」なんて言葉をかけられるほど、僕は優れた人間ではなかった。
 彼女が落ち着いたのを見計らい、痛めたという脚を診せてもらった。応急手当は得意だったから、症状が分かれば対処はできると思った。ふくらはぎの肉離れだった。
 彼女自身、予想はできていたのだろう。寂れているくせに水の流れている手水舎で冷やしたタオルで処置をしながら、おそらくは肉離れだろうと伝えても彼女は動揺したようには見えず、ただ、静かに涙を流すだけだった。 スマホを持っていないという彼女に代わり、救急車の要請とトレセン学園への連絡を行った。電話での話が終わっても、彼女は暗い顔でうつむいたままだった。救急車が来るまで時間はまだある。
「……なぁ、君」
 気付けば彼女と目線が合うようにしゃがみ込み、声をかけていた。彼女がこちらに目を向ける。
「……子守歌でも、歌おうか」
 ぽかん、とした表情がだんだんと困惑と警戒を含んだそれへと変わっていく。言いたいであろう言葉が何かはよくわかる。『お前は何を言っているんだ』だろう。僕だって自身に問いたいくらいだが、しかし、吐いた唾は呑めない。そして、このまま何も言わずに救急隊に引き渡してさようなら、というのは、きっと良くない。根拠があるわけではないが、強くそう思った。
「君は、最近は眠れているか?」
「……ううん。ずっと、レースのことで頭がいっぱいで、眠っている暇なんてないって、こっそり夜中に走り込みに行ったりしてたの。こんなことになって、多分、罰が当たったんだ」
 我ながら突飛な会話の入りではあったが、こちらに話してくれている。自嘲気味なのは、変人の戯言に付き合ってくれているのか、あるいは、自棄になってきているのか。涙と隈ですこし腫れぼったい目元からは、まだ何も読み取れなかった。
「君の『レースで勝ちたい』という想いは肯定されて然るべきものだ。だが、夜に眠ることを良しとせず、奔走し続けていると、そのうち"魔物"が出てくる」
「"魔物"?」
「そう、"魔物"だ。」
 僕はカウンセラーではない。今だって、僕がなんとなく思い浮かんだイメージとも言えないものを脚色してそれっぽく語っているだけだ。
「出てくるといっても、直接襲い掛かってくるわけじゃない。代わりに、心を惑わしてくる。不安、恐怖、怒り、あるいは幻覚や幻聴。目を付けられると、そのうち夢の中にまで入ってくる。そして、僕たちを破滅させようとしたり、意のままに操ろうとしてくる」
「その"魔物"からは、逃げられないの?」
「完全に逃げ切ることは難しいだろうな。一度逃げても、奴らはまたやってくるだろう。だが、対抗する手段や解決するためのやり方がないわけではない」
「……それが、眠ること?」
「少し違うな。眠ることはもちろん大事だが、それが全てというわけでもない」
 僕の話に興味を持ってくれているらしいのは幸いだった。家族やルームメイトのことを口にしていたあたり、元来人の好い子なんだろう。まったくもって都合が良い。
「一番わかりやすくて確実な解決方法は、"魔物"を存在が保てなくなるまで叩き潰すことだ」
「えっ……えっ?"魔物"って殴ったりできるものなの?」
「もちろんだとも。存在するということはつまり物理的な干渉が可能ということだからな。ただ、殴り合いができるような状況になることは中々ないだろうし、挑んだとしても返り討ちにあう可能性は高いだろう」
「それじゃあ、やっぱりどうしようもないんじゃないの?」
「もし君が、その"魔物"に対して一人で挑もうとしてるなら、残酷な終わりを迎えるだろうな」
 またうつむいた彼女の顔に陰が差す。
「一人ではどうしようもない、そんな"魔物"に対抗するにはどうするか?答えは単純だ。『他者と団結、ないし協力しあうこと』」
「……それだけ?」
「そう、それだけ。」
「でも──」
「今の君は、一人だけで戦っている。」
 彼女の話をさえぎって畳みかける。
「レースに勝つため、家族の期待に応えるため、そして友達と仲直りするため。志は立派だ。だが、志だけでどうにかできるわけがないことは、君自身、よく理解しているはずだ」
「……」
「力が足りないなら力自慢を。身体が傷ついたなら医者を。専門知識がないなら学者を。調査の必要があるなら探偵を。一人でできることには限界がある。だから人は手を取り合うんだ。君は、何が必要だ?足を治せる医者か?トレーニングメニューを考案できるトレーナーか?それとも、相談できる相手?……僕はそのどれでもないけれど、ひとつだけ君にしてあげられることがある」
「……それは、何?」
 彼女が顔をあげてこちらを見つめてくる。僕は、一呼吸をおいて言い切る。
「──君を、寝かしつけること」
 しっかりと彼女の目を見据える。目を逸らすわけにはいかない。言いくるめるなら、最後までやり遂げなくてはいけない。
「ぷっ、ふふふ、あははは!」
 堪え切れない、といったふうに彼女が笑いだした。いきなり笑いだすものだから、どうすれば良いかわからない。話のまとめ方としてはやはり苦しかっただろうか?
「すごく真剣な顔して、何て言うのかと思ったら、『寝かしつける』なんて!ふ、ふふっ」
「……ひどいな。これでも真面目なつもりだったんだが」
「ふふっ、ごめんなさい。でも、"魔物"の話から、こうつながるとは思わなくて。……ふふふ──」
 しまった。呆れられたり怒らせてしまうことは想定していたけれど、単純に面白がられるのは想定外だった。次はどうするか。何も考えていない。だが、笑ってくれるなら、それでいいような気もする。もう流れに任せてしまおう。後は野となれ山となれ、だ。僕は、彼女が笑い終わるまで待ってから話しかけた。
「……そんなに面白かったか?」
「さっき謝ったじゃない、いじわる。──なんだか、笑ったのが久しぶりな感じで。ああ、私、まだ笑えるんだなって思ったら、なんか安心したみたい」
「そうか。まぁ、お気に召したならなにより、だな」
「ねぇ、お願いしてもいい?」
「うん?何をだ?」
「子守歌。それと──」
 ん。と彼女が両手を伸ばしてくる。なんだろうか?
「──おんぶ、してほしいなって」
「……うん?」
 子守歌はまだわかる。先ほど僕が言ったことだから。おんぶ?なぜ?どういうことだろう、まるでわからない。
「……むぅ、なぜか聞いても?」
「この神社ってさ、通りから来ようと思っても山の中で道が狭くて階段もあるから、救急車はここまで来れないでしょう?」
「そうだろうな。だから多分、救急隊の人は、担架をもってここまで来ることになるだろうな」
「でも、さっきも言ったようにここは山の中で坂道ばっかりだし、ここまで登ってきて私を担架に乗せてまた下りるのは大変だと思うの。だから、私をおんぶして一緒に下りてもらえないかなって」
 なるほど、救急隊にここまで往復させるのは忍びない、ということか。本当に人の好い子だ。まともに動けないのだから、ここで救急隊を待っていたとして誰が彼女を責めるだろうか。しかし、まだ疑問は残る。
「言い分は分かった。しかし、なぜ僕に?あまり動くべきではないだろうというのもあるが、初対面の男に頼むようなことではないだろう?」
「あれ、だめだった?」
「いいや、単純に疑問なんだ。子守歌だの"魔物"だの、我ながら怪しい男と思われても不思議はないと思っていたから」
「もしかして、笑ったのけっこう気にしてる?うーーーん、理由かぁ……なんとなくだけど、あなたなら大丈夫かなーって思ったから、かな」
「……それだけ?」
「うん、それだけ、かな。強いて言えば、そうだなぁ、初対面の女の子に子守歌を聞かせようとしたり、いきなり"魔物"の話をしたりするような面白い人なら大丈夫だと思ったから、かな!」
 悪戯っぽい笑顔を彼女は見せる。これが彼女の素なんだろうか。つい先ほどまでの暗い顔を吹き飛ばそうとするかのような笑顔だった。
「……意地悪だな」
「さっきのお返し!でも、あなたなら大丈夫だと思ったのは本当。ね、いいでしょう?」
「信頼が重いな。……あぁ、かまわないとも。君をおぶって、子守歌を歌いながらこの山を下りる。それでいいんだな?」
「はい、それでお願いしまーす!それで、何を歌ってくれるの?」
「そうだな、レパートリーはいくつかあるけれど、希望はあるか?子守歌以外の童謡でも構わないが」
「なら……『ふるさと』、でお願いします」
「……そうか、わかった。では、行こう。背中に乗れるか?」
 リクエストを告げたときの彼女の遠くを見るような目に、気付かないふりをして背を向ける。ぎこちなくおぶさってくる重さを感じながら、リクエストの理由を考えようとして、止めた。僕はトレーナーではない。ましてや、教師でも、相談員でもない。ただの行きずりの他人でしかない。
 『ふるさと』を歌いながら神社から立ち去り、歩みを進めるうちに彼女が顔をうずめる後襟が少しずつ濡れていくのを感じながら、救急車が待つであろう麓を目指した。結局のところ、僕にできることなどたかが知れていて、彼女が本当にしてほしかったこともわからないまま、二度と会うことはないのだろう。
「君の目覚めが、どうか有意なものでありますように」
 足を止め、一言だけ呟いて、なんとなしに見上げる。視界は木の枝と葉に遮られ、空を見ることは叶わなかった。視線を戻し、子守歌とともにまた歩き始める。麓に着くまでは、まだ少しかかりそうだった。
 あとから振り返ってみれば、この日が、いわゆる『運命の転換点』というやつだったのだろう。
お知らせ
実務でも趣味でも役に立つ多機能Webツールサイト【無限ツールズ】で、日常をちょっと便利にしちゃいましょう!
無限ツールズ

 
writening