番犬と先生(前編)


 ──反射。
 錆び付いた身体を染み付いた技術が動かした。
 ……理解できなかった。少年にはその現実が。
 何故自分は近接格闘術を振い、眼前の大人を地面に叩きつけたのか。何故眼前の大人が自分に向かって殴りかかってきたのか。

「……すみません、反射的に。ですが、なんのつもりですか」

 自分が耐えきれなくなって殴るならわかる。眼前の鬱陶しい存在に苛立っていたところだ。手が出ても仕方ない。だが同時に、こうなることはあり得ないと少年の中の信用が告げている。先生は決して愚かな存在ではないと。自分が拒絶していたことが理由であるならば、この大人はそのような手に走るほど器量が小さいわけではない。ホシノやノノミを通して自分を理解しようとする。

 だから謝罪した。手を差し伸べた、そして訳を聞いた。

 "君は私を拒絶している"
「だからって殴ります? あなたが? 何の冗談です?」
 "でも殴りかかった。そして私は這いつくばっている"

 そうなると、殴りかかったのは先生の意志だ。そして反撃されることも想定の内ということ。だが少年は知っている。この男は何の因果か怪我をしづらいのだと。エデン条約のどさくさで負傷したと風の噂で聞いたが、それ以外には特に何も聞いていない。

「……あんた、弾丸が外れるようななんか使ってたろ。何で俺如きに地面舐めさせてられてる」

 自然、少年の仮面は外れていた。
 敬愛する者を模した物腰は何処かへ行った。

 "あれは置いてきたよ。君を知るのには、ちょっと邪魔だからね"

 伸ばされた手を掴み、先生は立ち上がる。そんな便利なものを置いてきたのは、少年を知る為だと語る。苦笑するように言われても、少年には何のことやらさっぱり。それに──

「漫画や小説の読み過ぎだ。殴り合いなんてものはただの暴力、スポーツじゃない。理解したいってんなら──」

 そこまで言いかけて、この気に入らない大人に何を言っているんだと口を閉じた。だが少年の本音でもある。暴力はスポーツではない。故に相互理解の手段にはなり得ない。そんな野蛮な方法などしなくても、人と人とは会話ができる。それで済ませればいいだけのこと。
 閉口した少年に凛として向き合った先生は、小さく告げる。

 "私は正直、君が羨ましい"
 "アビドスの番犬と呼ばれた程、心のままに噛み裂かんとしていた君が"
 "私も脇腹を撃たれて死にかけたことがあるけど、無理矢理動いて思ったよ。君のように立つのはとても難しいって"

 何を言ってるんだこの大人は。
 訳がわからない。自分を何故羨む──? 何もできない男の何が羨ましい? 少年にはまるで理解できない。だがどうやら嘘は言っていない。

「役立たずの野良犬の間違いだろ。あと腹撃たれた件はヒフミ助けに行った時の話だろ? なんて言うか……痩せ我慢はするもんじゃない。俺はノノミに泣かれたことある。やめとけ」

 だが、結局そこは答えられなかった。
 だからその先のことだけは答えた。特に痩せ我慢は、やるとロクなことにならないのだと。
 それを聞いて案の定と言わんばかりの顔をしたのは刹那、先生は再び少年に問う。

 "奇跡を起こす姿は、子供達の為になるのかな? "
「自分を疑うのか、あんたが?」
 "うん、情けない話だけどね"
 "──特に彼女を、見てからさ"
「……向こう側のシロコ」
 "私は彼女の先生じゃない。だから正直、どんな顔でどんなことを言えばいいのか、私はわからない"
「んなもん、会って顔見てりゃすぐ浮かぶだろ。困った生徒見てたらいつもみたいに勝手に頑張って、どうせなんかあって解決する」

 先生にも先生なりの悩みがある。子供だけでは届かない最後の一手を埋めるのが自分であるが、それをさも自分の功績のように語られる事は、その子供たちの為になるのか。シャーレの先生が解決した、シャーレの先生が協力して……そういった言葉は、本当に嚮導者として相応しいのか。
 だが、それはそういうものだし、お前はそういう奴なのだから、そんなふうに毎度毎度解決するのだろうと。これからも、これまでも、そうなのだからと。少年は見たままを伝える。どうせお前がまたアビドスの生徒を救うのだと。

 "どうかな。私一人がいれば何とかなる事態なんて、たかが知れてると思うよ。私も足してなんとかなる事態なら、違うけどね"

 ……大人の認識は違う。
 自分一人でなんとかできる、ということはつまり、その程度の物に過ぎない。たった一人でどうにかなってしまうならば、それはその主役の為の舞台だ。身近な大人は青春の物語において、確かに存在感があるかもしれない。だがそれら全て、主役ではないのだ。同じ画角に映る役者の一人に過ぎない。

 "みんなの力が、想いがあったから、事態が好転する。……あんまりこう言うのもあれだけど、その逆もまた然り"

 一人の役者が踊ったところでソロステージだ。それを青春だと言われて出されたなら、殴られても文句は言えないだろう。どんな演劇も、全てが一つになって完成する。芝居の良し悪し、物語の良し悪し、役者そのもの良し悪し……様々な物が重なって最終的な評価が現れる。
 だからたった一人でなんとかなる、ということはあり得ない。そんなものは、根本的に生まれるべきではない。

 "私も、君と同じく足掻いて吠える一人に過ぎない"

 一人でできることなど、たかが知れている。だから先生は己に期待しない。常に全力を尽くして主役の補佐をするだけ。たまに自分がメインステージに立つことも必要だが、物語全体の主役には決してならない。

「……子供の力じゃどうしようもない時に、なんとかできる。そんなあんたも足掻いて吠える一人だと?」
 "ああ。私はそう考えてる"

 子供と大人が沈黙する。
 決定的な視点の違い。客観か主観か。当事者である少年は常に主観だが、コミニュティに必要とされて現れる大人は客観だ。それは相入れぬという形ではない。
 根本的な、生き方の違いだ。

 "私はね、君から認められる『先生』になりたいんだ"
「──流れ者は生徒じゃない。正式に連邦生徒会に提出した書類にも存在しない、キヴォトスの戸籍も無い俺が、あんたの生徒の枠に入れるわけない」
 "君はアビドス校の一員だ"
 "純然たる事実として、君はアビドスの生徒に正式に認められた一員なんだ"
 "そんな君を、生徒の定義に当て嵌まらないからって放っておいたら、私は私を許せない"

 ──言葉には続けなかったが、そんなことをしてしまえば、黒服たちからも失望され、『障害物』として排除されるだろう。それどころからホシノに殺される方が先か、あるいは向こう側のシロコに八つ裂きにされるのが先か……決して命が惜しいからという理由ではないが、ともかく先生には見捨てる理由は存在しない。

 "……しかし困ったことに、私には君の先生となることを認めさせる実績が無い"
「一つだけ言わせろ。あんた、俺に沿うつもりで自虐してるならやめろ。それはあんたが救ったホシノを、あんたたちが守ったシロコを、そしてあんたを信じた生徒たち全てを侮辱する行為だ」
 "いやそうじゃない。純粋に、君の先生として相応しいだけの行いをしていないという話だよ"
「紛らわしい言い方するんじゃねえ」
 "ごめんごめん。でもそうだろ? "
「どういう定義でそういう答えに行ったんだよ。興味無いけど教えてくれ。論理的に意味わかんねえ」

 頭イったか? と言外に告げながらの怪訝な表情。帰ってくるのは笑顔と尊敬。吐き気がする。そんな視線を向けられている現実に。いつまでも見下してきやがってと。

 "昔はホシノが背中を預けるほどの君だ。アビドスの問題に光を入れたところで、それだけじゃ決して認められない"
 "ホシノに信じてもらえたのは、大人として子供の為に戦ったから。その前の貯金なんて些細な物だ。その点に関しては、君も認めてくれてるんだろう。信用ある大人として"
 "でも、信用はあっても信頼は無い。違うかい? "
 "なら、簡単だ。戦う男に認められる方法は、その男に実力を証明することだけ。そうだよね"

 要するに。
 先生は少年を偉大な先駆者であると、自分にはできないことをやり続ける偉人であると定めたわけだ。
 そんな者に認められるには、言葉や実績では不足。その者へと挑戦し、自らの意志と覚悟と実力を証明し、勝利することだけだ。
 アズサとサオリがそうであったように、根本的に異なる者に自らの存在を届かせるならば、戦うしかない。それを以て決闘と言うのだろう。

「はぁ──ったく、あんたはいつも……」

 全くよく出来た大人だ。
 子供であっても自分より上だと認識できる。その上で自らを下として挑戦まで選択する。まるで絵本の聖人が切り取られて空間に糊付けされているかのよう。だがそれは一人の人間が必死になってそうやっているから、現実に根付いて他者から認められる。
 だからこそ騙され続けたホシノが信じていいと判断したし、少年も信用はしていいと判断した。

 ……だが。

「最低なんだよ、そういうセリフの出る神経がァッ!」

 咆哮──ついで衝撃。
 頬にめり込んだ拳。フェイントさえない殴打、それは純粋に先生の動体視力と身体能力では反応できない速度であるということだ。ここに至るまでの事件を鑑みて、Rabbit小隊やヴァルキューレなどに訓練は付けてもらったがそれだけ。どれだけ何をしようと、心一つで鬼となり、そして自らを崩壊させるまで突き進んだ存在に挑むならば、『その程度』は付け焼き刃にもならない。数学の域を超えていないが故に。

 燃え滓になったとて、その熱が消えてないならば、燃え滓は自らを火種として尽きるまで燃え盛ることが可能だ。果てがどうあろうとも。少年はそういう生き物だ。

 憎悪と嫌悪が入り混じり、赫怒に歪んだ瞳がギロリと先生を見下ろす。純然たる実力と経験差を証明するような現実を認識した途端、一切の縛り無く少年は心底に溜まった感情を吐き出していく。

「鍛えて同じになったつもりか? 挑戦すると言えば俺より下になったつもりか? ムカつくんだよ、そういうの。見下しやがって、ふざけんなよデスクワーカー。まともに銃を撃ったこともないくせに」

 軽蔑と共に放たれる言葉が、少年の中で肥大化する混沌を表していく。

 "……っ"

 痛みを堪えて立ち上がる。シッテムの箱はアビドス校の屋上入り口に放置してあるから、一切の攻撃が等しく通用する。大人だというのに、目の前の子供にいざ暴力を振るわれて本当の痛みが襲ってくると恐怖の一つや二つが沸いてくる。本当に憎み、嫌い、怒っている。生の感情を全開にし、心のままに在るそれは、気を抜けば命さえも奪われてしまいそうだ。

 "実は、私も色々言いたいこととかあってね"
 "──最後まで付き合ってもらうよ"

 されど、そんなものが挑戦をやめる理由にはならない。拳を構える。──SRTとヴァルキューレ仕込みのCQC。頭と身体に叩き込んでいる。

「一つ言っておくぞ、先生」

 少年もまた構えながら不敵に笑う。

「俺が誰の技で鍛えられ、誰の背中で学び、そして誰の戦場を歩いてきたと思っている」

 お前如きの時間と努力は、決して己に届くことはない。そう宣言して、互い同時に歩き出す。そして間合いが触れた刹那。

 ──戦闘という概念は成立せずに、蹂躙劇だけが成立した。

 付け焼き刃の技術と無いよりマシの経験を武器に、必死になって拳を繰り出す先生。しかし少年はそれらを的確に捌き潰す。徒手空拳の戦いとはこうだと言わんばかりに攻撃を返し、その差を文字通り叩き込む。当て付けのように拳には拳が、脚には脚が、掴みには掴みが返され、先生が繰り出す攻撃の全てを、より研かれた技術で否定していく。

 突き出した拳をいなし、首元に肘打ちを叩き込む。倒れ込んだ隙を狙って振り下ろされる少年の脚。急ぎ転がり避けて、立ち上がって攻撃に移ろうとした時にはもう踏み込まれている。鳩尾に入る拳、下がった胴をカチ上げる膝蹴りに、追撃の回し蹴り。
 劣等感を刺激する相手、無力な現実を突き付ける相手。そんな奴を無駄とわかっても磨いた技術で、手も足も出ないほどに圧倒している。その事実が気分を良くし、いつになく饒舌にしていく。

「言いたいことがあるとか吐かしてたな、お前。言えよ、教えろよ、その為に殴りかかってきたんだろ? 本心から向き合いたいから。──まぁ聞く気もねぇけどなぁ!」

 そして饒舌になって出てくる言葉が、滾る戦意のボルテージを上げ、より熾烈な攻撃をかつてのように繰り出す。手足は一切の狂いなく追従し、忌まわしい相手を痛め付ける。一つ一つの動作は流れるように、攻守走がシームレスに移行する。
 蹴られ殴られ投げ飛ばされて。だが先生は立ち上がり、がむしゃらに挑み続ける。それはいつかの少年が諦めずに戦い続けたように。そしてまた叩きのめされる。
 自然と笑みまで溢れてくる。楽しいから、気が晴れるから。

「ちょうどいい機会だ、俺も言わせてくれよ。あんたが目障りなんだ。見るだけでこっちの無力感を刺激してきやがる。何かするだけで現実を突きつけてきやがる」
 "だから、叩きのめすと? "
「あぁ。あんたを潰せば、多少はスッキリするだろうよ! 思ってたさ、ずっとこうしてやりたいって! あんたをぶちのめして、俺の価値を取り戻すってな!」
 "君の価値は、私に奪われるものなんかじゃない! "
「アリを気にして歩く奴なんていないように、あんたが踏み潰しても気付かないような、ちっぽけな価値だ! 奪ってることに気付いてないんだよ!」
 "そんなことはない! 誰も踏み潰せないくらい強くて、君の周りの人たちにとって、アビドスにとって大切なものだ! 私が踏み潰せるようなものであっていいはずがない! 私より強いものをどうやって踏み砕ける! "

 舌戦ですらない。ただお互いに言いたいことを好き勝手に喋っているだけ。それが会話のように見えている程度で、蹂躙劇の現実は何も変わらない。何度も何度も地を舐めさせられて、それでもと立ち上がってまた挑む。それを支えるのは無限の活力。
 しかしその活力に支えられて紡がれた言葉は、少年の更なる憎悪を引き出した。

「アビドスに必要なのはあんただろうが! ノノミも、セリカも、アヤネも、ホシノも、シロコも! みんな俺よりあんたを選ぶ!」
 "そんなことはあり得ない! あの子たちは私よりも君を選んでいる! これまでもこれからもだ! "
「──勝者の余裕のつもりか? いつもシロコの視線の先にいる男が何を言うかと思えば……俺を惨めにするのがそんなに楽しいか? あぁ!?」

 ──お前がそれを言うのか。
 そう感じた途端、言ってはならぬと理解はしていた箍が外れた。

「たった一人が抜けた程度で壊れるクソみたいな組織。そのたった一人が用立てた男は、随分と生徒思いなんだなぁ! 感激するぜホントによ!」

 先生の表情が怒りに歪む。
 自分のことはどうでもいい、それを言う権利が彼にはある。だが、キヴォトスの中で必死になって踏ん張り続けている彼女たちを侮辱する言葉は、耐え難かった。

 "今も踏ん張っている彼女たちをそう言うか! "
「はっ、怒ったかよ! ──どんだけ高尚な理想やら何やらがあろうが、全部一人に押し付けて、逃げられたら大慌てでそれらしく振る舞ってるだけのマヌケじゃねぇか! 一人が消えて不可能になるくらいなら、アビドスのように砂に呑まれて滅んでりゃいい!」

 腹の底に隠れていた悍ましい本音までぶちまけていく。
 愛する場所を救わず、愛する友の嘆きも聞かず、無関心を貫いて消えるものには目もくれず、その果てにクーデターを起こされるなどの無様を晒した支配層。
 そんなもの壊れろ、消えろ、朽ち果てろ。まとめて滅んで砂の下で干涸びていろ。二度と現れるな。埋もれて忘却されてしまえ。アビドスを食い物にした下衆共も、彼女たちを弄んだ屑共も、何もしなかった自称善良な一般市民共も、まとめて錆びて逝けばいい。──最初から、彼にとってアビドスだけが全てなのだから。

 "どうしてそんなことが言える! そんなに憎いのか!? 彼女たちが! "
 "だとしても違うだろう! 償う機会は与えられるべきだ! 君も少しくらいはそう思ってるだろ! "
「ユメ先輩とホシノを、アビドスのみんなを苦しめた連中の謝罪も償いもいるか! 事情だってわかりたくもないッ、言い訳はもっと聞きたくないッ、人柄だって理解する気もないッ。あんな奴ら、十把一絡げにアビドスを見捨てやがった塵だろう!」
 "そこが本音かっ! 本当に君は根っからのアビドス生だな! 安心するよっ! "

 ポロッと漏れ出た本音を聞いて、返って安心する。
 ──そうだよな、そりゃそうだよなという納得。ホシノが落ち着いてるし、普段の少年も何も言わないからそれなりに消化してると思っていたが、腹の底では数年分の憎悪が渦巻いている。普段は上手にやり込めるが、何かの箍が外れたのなら、こうして表出するのが当然だ。健全な人間の心理、ある意味では子供っぽい部分の発露で笑みさえ溢れる。

「生徒? ふざけんな! ヘイローもない奴が生徒なんかになれるかよ!」

 だが見出した僅かな隙を逃さぬと反撃に転ずるも勢いを増した猛攻に飲み込まれ、ただ痛みだけが与えられる。──強い、そして上手い。自分よりも遥かに。

「どうした! こんなもんか! こんなもんなのかあんたは! えぇ!? 生徒が信頼を置くシャーレの先生は目の前のガキに手も足も出ねぇのか! 無様だな! 口だけかよ! 大人ならこれくらい巻き返してみろや!」

 叩きのめされれば叩きのめされる程、彼我の実力差と経験差を突き付けられる。「それなりにできるようになった」と訓練を担当してくれた生徒たちは褒めてくれたが、いざ実戦になってみれば何の役にも立たない。それどころか打ちのめされ、なまじ理解できる分、技量の差を直視させられる。

「出来ねえよな! 俺とあんたじゃ実力に差があり過ぎる。潜った修羅場も違う……教えてやるよクソ野郎、弱っちいんだよお前は! そんなもんで鍛えてきたとでも言うのか? 冗談、チャンバラごっこだったら一人でやってろ!」

 ──本音を言えば、少しくらいは自信があった。先生だって人の子だ、鍛えた成果が出たらそりゃ嬉しいし増長もする。少年とは勝負にならないにしろ、不意打ち込みで一回くらいは入れられると思っていた。
 しかしどうだ? 現実は。錆び付いた身体に眠る技術に一方的に蹂躙され、不意打ちは染み付いた反射行動一つで潰された。拳を当ててもそれを返されるのであれば、一撃を入れたとすら表現できない。
 なるほど、少年はこういう感覚だったのか。会得した技術は現実の前には無力で、努力が報われることなんてない。ひたすらに己は劣等だと突き付けられ、無力であると刷り込まれる。

「シャーレだ連邦生徒会だカイザーだ黒服だボケカス死ねぇ! どいつもこいつもムカつくんだよクソッタレが!」

 ならばそんなものを飲み続け、それでもなお足を動かして、勝ち目など無いとしても勝負を挑んだ者は、本人がどう思っていようが絶対的強者であることに変わりない。

「てめえ俺のこと理解したいとか言ってたなぁ? 今どんな気持ちだよ先生! 何をやっても自分以上の力にねじ伏せられていく感覚は! どうなんだって聞いてんだよ!」
 "最悪だ、反吐が出る──! "
 "努力は無意味、時間は無駄、冗談じゃない。二度と味わいたくないね……! "
「そいつは結構、ならたんと噛み締めろ。口の中から離れないくらいになぁ!」

 殴られる、蹴られる、投げられる、避けられる。剥き出しの激情のままに動く二人の戦況は一方的。
 だが徒手空拳であっても対キヴォトス一般生徒を想定して磨き上げていたのだ、その全てを外の人間に使ったが最後少年独自の理論によって組み立てられた人体破壊術となってしまう。結果的に言えば、少年はある程度手を抜いていた。だが手を抜いてなお先生は手も足も出ない現実が、優越感を与える。
 いっそここで、完璧なる敗北を叩き付けてやるか……意は定まった。先生を打ち倒すのだと、全力を引き出して。

 途端──

「が、ァ……ッ!?」

 諦めぬと突き出した拳が、遂に少年に突き刺さった。疲弊し、技のキレも落ちた先生の拳が当たるわけがない。先ほどまでのように適切な対応と、当てつけのような上位互換を見せつけられて終わる。それが必然だったのに。

 "当たっ、た? "

 受け身さえ取れない、防ぐことも避けることもできない──直撃。無様に転がる少年を見て、当てた先生さえわざと手を抜いたのかと勘繰るような、本当に当たるはずのない状況での被弾。
 ならばこれは……

(──こんなところで)
 "まさか……"

 それが意味するもの──戦闘可能時間の限界。

 一度崩壊した少年の肉体は、長時間の戦闘には耐えられない。先生の挑戦は戦闘として成立していなかったし、人体破壊術にならないようにセーフをかけていた。だから本人も誤解する程に、全盛期と変わらぬ頻度での技術使用を可能としていた。
 だが、遂に限界を迎えた。起き上がる身体は鉛のように重く、思考の速度と比較すれば亀の歩みより遅い。

 "どうする"

 流石に先生も拳を下ろして問う。自分の都合で付き合わせているのだ。いくら最後まで付き合ってもらう、とは言ってもそれは両者が十全であるのが前提。これ以上の戦闘行為は少年にとって一切利にならない。故に決定権は向こうにあるとしての発言だった。
 だが少年は答えない。
 硬い表情のまま沈黙するのみ。外面に漏れている内心は皆無。

 正直先生としてはここで切り上げたかった。湧き上がる気力で気にならなかったが、いざ落ち着いてみれば痛みやら疲労やらで身体中が悲鳴を上げ、限界という言葉が間近に迫っている。随分と遠慮無く打ちのめされた以上は、流石にさっさと病院行きたい。あともう誰かに見られても誤魔化せないし。
 想定が『一発当てたら全力出されて即負け』『一矢報いることさえできれば戦ったことない奴にしては上出来』だったのだ。まさかこうなるなんて考えてなかった。思ったよりも長く戦ったし、思ったよりも耐えたし、思ったよりも殴られた。
 何度も何度も挑んで、その果てに認められれば良かった。だが現実は何やら奇妙な方向に行ってしまった。

 この姿、アビドスの誰かに見られたらどうなることやら。
 自分から叩きつけた手袋だ。その結果負った傷の責任は全て自分に帰結するが、何も知らなければ戦闘技術を体得した相手が素人を一方的になぶっただけ。説明すれば納得が得られるだろうが、だからってその一瞬でも彼女たちに少年よりも優先させたくない。彼に己よりも優先されているのだと言った手前、嘘にはしたくない。

 つまるところ。
 先生にとっては、降参宣言みたいなものだった。
 しかし沈黙は続き、硬直も続き、互いに見つめ合うだけ。気まずさを覚え出した頃、先生が言葉を続けようとして。

「二人とも、何を……してるの……?」

 中々戻ってこない二人を心配したシロコが。
 屋上の扉を、開けてしまっていた──
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