バクトレウマ娘化SSその3


 結局、秋川理事長の案は却下され、代わりにと秋川理事長一押しのウマ娘に関する本を送ると言われたが、まさか段ボール箱が複数個で届くとは思わなかった。配達員の困惑と諦めの入り混じった表情と、同時にトレセン学園の職員になるための資料を届けに来た郵便配達員の同情するような顔は記憶からそうそう消えてはくれないだろう。
 閑話休題。時が経ち、ある年の暮れが近付いてきた頃、秋川理事長から一本の電話があった。その内容は、「レース場の警備の人手が足りなくなることが見込まれるため応援として来てもらえないか」というものだった。
 普段ならばレース場は担当の警備会社による警備体制が敷かれ、臨時で雇い入れを行うなどあるわけもない。だが、今年は違った。より正確に言えば、今年の有馬記念は誰にとっても特別だった。何しろ、オグリキャップが今回の有馬記念を以てトゥインクルシリーズを引退することを発表したからだ。
 オグリキャップ、オグリキャップ、オグリキャップ……トレセン学園に訪問した日からレース場に足を運ぶようになったが、レース場でその名前を聞かないレースは一度としてなかった。GⅠはもちろん、GⅡ、GⅢ、オープン、そしてメイクデビューでも。観客も警備員も、誰しもがオグリキャップの名を口にする光景は不思議なものだった。そう、不思議だった。
 オグリキャップが出走するレースを直接見たならば、この疑問は晴れるだろうか。動画サイトに投稿されている中継映像からではわからなかったそれが。増え続けていく観客の盛り上がり具合から見ても、秋川理事長の予想でも、当日は相当な混雑が予測される。いち観客として観に行ったとして、まともに観戦できるわけもない。それならば、警備の応援としてレース場にいるほうがいくらかマシだろうか。打算的かつ怠慢ではあるが、僕の疑問を晴らすためにはこの選択肢しか残されていないようにも思う。きっと僕の思うよりも大きなことが起こるような、そんな予感を抱きながら僕は秋川理事長へ応援として警備に参加したいという旨のメールを送信した。
 そうして、きたる有馬記念の日、僕は施設の警備ではなく、秋川理事長の警護として中山レース場で彼女の隣を歩いていた。
「あの……秋川理事長?なぜ僕はこちらへ?施設警備の応援として遣わされるものと思っていたのですが……」
「うむ!それはだな、最初は警備の応援へ参加してもらおうと思っていたのだが方々から止められてな!だが、機転ッ!!それならば以前提案したように、わたしの警護として来てもらい共にレース観戦をしようと思ったのだ!」
「……駿川理事長秘書の沙汰はどうでしたか?」
「当然、許可ッ!──紆余曲折はあったがな!」
 いつぞやの秋川理事長の提案を却下した時の駿川理事長秘書の困った顔が思い浮かぶ。そういえば彼女の姿を見ていないが、別の場所で忙しくしているのだろうか。わっはっは、と笑う秋川理事長だが、以前に聞いたそれよりもやや覇気がなく、目元の隈も隠しきれていない。今日に至るまで、どのような苦労があったのだろうか。思い当たることも、諫める言葉も、部外者である僕でさえいくらでも思いついたが、口にすることはためらわれた。僕は秋川理事長の秘書ではなく、背景はどうあれ今はただの警護に過ぎない。そして、彼女は全てのウマ娘のためにと突き進む人物であることは疑いようもないのだから。
「許可が出たのであれば、僕から言うことはありませんね。それで、秋川理事長。今はどちらへ向かっておられるのですか?」
「あぁ、まだ言っていなかったか。挨拶ッ!そして激励ッ!これからレースに出走するウマ娘諸君の手助けになればと思ってな!」
「激励ですか。そうですね、あれだけの人の多さです。大きく調子を崩してしまう子もいるかもしれませんから、良いことだと思います。それで秋川理事長、何人に挨拶に向かわれるご予定ですか?移動時間も含めておおよその面会可能な時間を逆算いたします」
「無論ッ!全員だ!」
 思わず足を止め、秋川理事長を見る。有馬記念の予定時刻まで時間は多くは残されていない。出走者全員に会うとなれば、移動は駆け足になり、言葉を交わす時間も少なくなるだろう。そんなことを考えた僕に、秋川理事長はむっとした顔をした。
「愚問ッ!!以前話したように、わたしはあらゆるウマ娘を支えたいと考えている!そこに例外はない!」
「……大変失礼いたしました。浅慮でありました、申し訳ありません」
「いや……こちらこそすまなかった。上に立つものがこれではいかんな。冷静、冷静……」
 頭を下げる僕を制した秋川理事長が目を閉じて自身に言い聞かせるように呟く。彼女は遍く人々に分け隔てなく接する人物であることは明白だ。それを見落としていたのは僕の落ち度に他ならない。だが今は反省をするよりも、行動しなくては。
「出走者全員にお会いするならば急がねばなりません。移動は駆け足になりますが、よろしいでしょうか?」
「勿論ッ!」
 そうして僕たちは有馬記念の出走者たちに会いに行き、秋川理事長が激励を送り、僕も直接話を交わしたのだが――警護が外を見張らずに何をしているのかとも思うが、秋川理事長に背中から押し込まれてはどうしようもなかった――、皆そわそわと落ち着かない様子だった。今日の中山レース場はやはり異質だ。観客、運営、出走者、そして僕たちでさえも、例外なく皆が浮ついているように思えた。だが、その中でも、また違った様子の出走者が何人かいた。特に印象的だったのが、ヤエノムテキ、メジロライアン、メジロアルダン、そしてオグリキャップだった。
 まずヤエノムテキだが……会えなかった。控室の前に彼女のトレーナーが陣取り、面会を断られたのだ。レースに集中させたいから、ということだけ告げた彼女は扉の前からけして離れようとはせず、僕たちは時間が押していたこともありそのまま移動することになった。次の出走者へ向かう途中に一度だけ振り返って見たときも彼女は変わらず扉の前に立ち、無表情のままでこちらを見つめていたが、どことなく申し訳なさそうにしているように感じられた。
 メジロライアンは、落ち着かない様子であることは他の出走者と変わらないのだが、レース場の雰囲気にというより、対戦相手のことに気を取られているようだった。己に自信がなく、誰かと自身を比較しては気後れしている。確かに今回の有馬記念に出走するウマ娘たちはみな強豪だ。しかし、今までの競争成績はけして卑下するほどのものとは思えなかったし、この異質な空気感を意に介さないある種の図太さもある。自信をもてるようになれば、きっと良い競技者となるだろうと思った。
 そんなメジロライアンのトレーナーは、爽やかなボディビルダーという言葉から連想されるものをすべて備えたような人物だった。筋肉を愛し、筋肉を信じ、はじける笑顔を振りまき、そして時々ポージングをする。……本当にトレーナーなのだろうか。だが、秋川理事長と親し気に会話するのを見るに、やはりトレーナーなのだろう。もしかしたら、僕のように別の業種の人間がトレーナーとしてスカウトされる、ということは別段珍しいことでもないのかもしれない。
「初めましてだな!俺はメジロライアンの担当トレーナーだ。君のことは理事長さんから聞いているよ」
 挨拶を返し、握手を交わす。しっかりと握られた彼の手から、彼の筋肉の重厚さが伝わってくるようだった。
「ふむふむ、君もなかなかのマッスルを持っているようだね。どうだい、俺と一緒にマッスルを極めてみないか!?」
 ポージングと爽やかな笑顔とともに勧誘が飛んでくる。しかし、僕はトレーナー業と並行してボディビルディングができるほど器用とは思えないし、今の職業においても、これ以上筋肉量を増やすメリットも少ない。それにしても、握手しただけで相手の筋肉量が分かるものなのだろうか?そう疑問に思い、断りを入れつつも質問してみることにした。
「俺には『マッスルスキャン』があるからな!それに、握手した時の君の筋肉が教えてくれたのもある!しかし、残念だな……君の全身に秘められたマッスルをぜひとも磨き上げて、共に素晴らしいマッスルを目指したかったんだが……」
 はじめは快活に答えてくれたが、言葉のトーンが落ちていくのと連動するように姿勢が低くなり、最後には所謂体育すわりの格好になってしまった。見上げるほどの長身と圧倒的な筋肉をもつ彼が、いつの間にか萎んでしまって、このまま小さくなって消えてしまうのではないかと錯覚すら覚えてしまう。慌てて僕と秋川理事長とメジロライアンの三人でなだめて復調したが、昼と夜が行きかうような変わりように目を回しそうだ。オーバーリアクションというよりは、何事にも全力ということだろう。彼がボディビルダーとトレーナーを兼ねることができる理由を垣間見たように思えた。
「残念ではあるが、仕方ない。無理強いはできないからね。だが、君のようなマッスルの持ち主がトレーナーになるというのはとても楽しみだ!きっと良いトレーナーになるだろう!」
 先ほど見せたよりも弾けるような笑顔をした彼と再度握手を交わして、退室する前に顔を向ければ、彼はメジロライアンとともに、爽やかな微笑みとポージングをもって見送ってくれた。同好の士というものは往々にして互いを高めあえる存在となるが、それが担当するウマ娘ともなれば、いっそう熱意が入るものなのだろう。彼らのような関係性を手本にすることができたらいいと思う。
 メジロアルダンはメジロライアンとは対照的に、非常に落ち着いていた。あるいは、凪いでいた、と表現するべきかもしれない。静謐な教会堂に飾られた淡いステンドグラスを眺めているような、そんな印象を受けた。足元の弱さが祟り休養を挟みがちな彼女であるが、走れない時の時間を取り返すような走りにはいつも驚かされた。だが、期間はやや開いているとはいえ秋の天皇賞から有馬記念への出走だ。それに、先の天皇賞ではレコードを更新したヤエノムテキと同タイムのアタマ差だった。脚への負担はかなりのものだっただろう。部外者の身ではあるが、どうしてもこの後のことを考えてしまう。
「お気遣い、ありがとうございます。ですが、ご心配には及びませんよ」
 顔に出ていただろうか。はっとして思わずメジロアルダンのトレーナーに顔を向けて、己の浅はかさに気づいた。これから出走する競技者に対して、なんと軽率で、かつ無礼極まりないことであろうか!
 謝罪する僕に対し、二人はそれでも変わらぬ様子だった。
「アルダンさんの今までのことを思えば、今日の有馬記念出走後のことを不安視するのもわからないではありません」
 先ほど、メジロアルダンをステンドグラスと表現したが、こちらはまるで金剛力士像のようであった。怒りを内に秘める吽形のごとく、圧倒的な存在感を放っていた。
「ですが、アルダンさんは乗り越えてみせますよ。そしてそのために、私がいるのですから。」
「ふふ、ありがとうございます。ええ、この有馬記念できっと輝いてみせます。――どうか見逃さないようにお願いしますね?」
 お互いに全幅の信頼を寄せていることをうかがえるやり取りをしながらも、メジロアルダンの悪戯っぽい笑みとともに投げかけられた言葉に怯んでしまった。見た目から判断するよりも、愉快な人物なのかもしれない。
「ところで、その……私を見ても驚かれないんですね。皆さん、初対面ではたいそう驚かれるのですが……」
 おずおず、として問うてくるメジロアルダンのトレーナーに、メジロアルダンは一瞬意外そうな表情をしたように見えたが、気のせいだっただろうか。とはいえ、確かに彼の容貌はかなり特殊であると言える。彼ほどの強面はそうそういないだろう。けれど、これでも僕は様々な容姿の人とかかわってきたことがあるつもりだ。
 だから、今更容姿が恐ろしげであるからといって何があるわけでもないし、それに、見た目だけで判断すればしっぺ返しを食らうのは今しがた経験したばかりだ。あまり何度も経験したいものでもない、と説明すれば、彼は呆気にとられたような顔をして、メジロアルダンと顔を見合わせてから互いにくすりと笑った。
「ふふふ、そうですか……あなたのことは、秋川理事長やたづなさんから何度か伺っています。話の続きはトレセン学園でいたしましょう。あなたがトレーナーとして学園に来る日をお待ちしております」
 二人の礼に見送られながら控室を辞する。彼ら二人をステンドグラスと金剛力士像と評したが、相反するようでいて存外しっくりくるような、そんな二人だった。見た目だけで判断するべきではないとはよく言うが、しかし彼らほど極端な例もそういないだろうとも思う。それにしても、彼は意図してゆっくりとした口調で話しているように思うが、そのせいで声のトーンが落ち、体躯も相まってさらに威圧感を増しているということに、果たして気が付いているのだろうか。いや、しかし、僕が言うべきことでもないのかもしれない。
 そしてオグリキャップは、他の出走者が気迫をみなぎらせていたりするのに対し、どこかぼんやりとして、具合が悪そうにすら見えた。なんと声を掛けたらいいのだろうか。無理はしないでくれ?その程度の言葉を口に出すくらいならトレーナーになどなるべきではないだろう。
「これからトレーナーになるかもしれないってのに、そんな顔はいけないな」
 入室した際に秋川理事長と話していた男性から声をかけられた。そんなにわかりやすく顔に出ていただろうか?
「初めましてだな、俺がオグリキャップの担当トレーナーだ。理事長やたづなさんから、お前さんのことは聞いているよ。」
 自己紹介とともに差し出された手を握り返す。鷹揚とした態度と、先の言葉もあり、彼の前では僕の思考などすべて読まれてしまっているのではないかとさえ思えてしまう。
「トレーナーとは人を見る仕事だ。多かれ少なかれ、相手が何を考えているかなんとなくわかるものだ。お前さんは顔に出るからわかりやすい方だな。でも嬉しいよ」
 嬉しい?どういうことだろうか。
「どんな言葉をかけたらいいかわからないんだろう?裏を返せば、どんな言葉を選ぶべきか考えてくれているわけだ。これからトレーナーになる者として、オグリのために心を砕いてくれるというのは、オグリのトレーナーとしても、トレーナーの先輩としても嬉しいのさ」
「いえ、僕はそんな──」
「積もる話もあるが、それはまた今度にしよう。出走者全員に会うなら時間の猶予は多くはないからな」僕の言葉をさえぎるようにしながら彼は言葉を続ける。
「先輩からひとつアドバイスだ。お前さんがトレーナーになったなら、担当したウマ娘のことは、自信をもって送り出してやれ」
「送り出す…ですか?」
「そうだ。一度パドックに出てしまえば、そこから先はレースを走る者だけの世界だ。俺たちにできることはほとんどない。だからこそ、彼女達が全力を尽くせるよう、俺たちが背中を押してあげるんだ」
 少し考える。悲痛な面持ちで送り出されて全力を出せるのか?不安が混じる言葉を聞かされて前を見据えられるか?当然、否だ。であれば、どう声をかけるのか?
「……オグリキャップ君」
「ああ」
 僕は右手を差し出した。僕はトレーナーではない。けれど、今ここで彼女を送り出すのならば、これがきっと一番良いだろう。
「……行ってらっしゃい」
「ああ。行ってきます」
 オグリキャップはやわらかく笑って僕の手を握り返してくれた。その時に、何か得体のしれないものを感じた気がして、呆気に取られてしまう。
「勝つよ。オグリは」声を懸けられた方へ顔を向ければ、オグリキャップの隣に立った彼女のトレーナーが僕に頷いてみせる。「なぜならこの子は、オグリキャップだからな。──さあ、もう行くといい。トレセン学園で会えるのを楽しみにしている。理事長もお気をつけて」
「うむ、健闘を祈る!それでは!」
 僕は呆気にとられたまま退室することになってしまった。まだ挨拶を終えてない面々がいる都合上急がねばならないことも確かではあるのだが、それにしても、オグリキャップから握り返された時のあの感覚はなんだったのだろう。ざわつくような、何かが起こりそうな予感を覚えるが、今は後回しでいいだろう。答えはレースで示される。誰もがそう考えているに違いなかった。
 そうして僕たちが出走者たちへの挨拶を終え、レースを観戦するための関係者席へ人の波をかき分けてたどり着くとちょうど出走者全員がゲートから飛び出したところだった。
 レースの始まりと同時に轟音とも言える歓声が巻き起こる。思わず耳をふさぎたくなるが、まずは知りたいことがあった。僕は駿川理事長秘書へ叫んだ。
「場内放送は聞いていましたが、ヤエノムテキ君に何があったんですか」
 駿川理事長秘書はこの騒音の中でもよく通る声でやや困惑したように答えてくれた。
「それが、入場が行われている途中で急にヤエノムテキさんが走り出してしまって」
 どう説明したものか困っている、という表情をしながらも彼女は見たままを教えてくれたが、聞いたところで疑問が払拭されることはなかった。
 そんな僕を突き放すように、レースは終盤に差し掛かろうかとしていた。4コーナーを大外からまわったオグリキャップが先頭へと進み出る。直線へと続き、歓声のボルテージが上がる。後続が追いすがるが届かない。爆発するような歓声。
 レースの勝者は、オグリキャップだった。
 地鳴りを伴うかのような「オグリ」のコール。誰かのつぶやきが僕の耳に届く。
「神はいたんだ」
────神。
 ひらめきにも似た何かが心の中のもやを晴らすような感覚がした。だが、周囲の熱気とは裏腹に心持ちは冷めていき、僕はひとり、寒さを堪えるように自らを抱きながら体の震えを止められずにいた。
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