30.僕と兄さん


 
 今日はペトラに後を頼んで早引けしてきた。片手には、夕食用の材料が入った袋と書類の束が握られている。引っ越し先の候補が10件ほど。端末で見るより、並べて見比べた方が比較しやすいかと思って、嵩張りはするが全てプリントアウトして貰ってきた。付き合いの長い不動産屋には、多少手間を掛けさせてしまったが、それよりも大事なことだ。今日にでも決断してしまおうと、そう思ったから__。

 一刻も早くこの生家を出たい。このまま此処にいるのは怖い。ここにはあまりにも、僕らの思い出が詰まり過ぎてるから。ボブが何かの拍子に記憶を取り戻し、内心血反吐を吐くような苦しい思いをしながらも、皆が困っているからと、会社や寮や僕のために再び立ち上がり、『グエル』を演じ出すのが怖かった。

 結局、追加の報告書には、噓八百を並べ立てるより他なかった。だって、ボブはグエルなのだし、でも僕はそんな思いまでして『グエル』に戻って欲しくないわけだから__。
事実をそのまま述べるわけにはいかない。これ以上、家や会社の事で、兄さんに悩んだり苦しんだりして欲しくない。記憶を無くすほど苦しい事なのに。そんな辛い思い、もう二度とさせたくない。
家も会社も寮もみんな、ジェタークの一切合切は、僕が背負うと決めた。
兄さんにはずっとボブとして、あの穏やかな笑顔で、可愛らしいあどけない寝顔で、一生涯を過ごしてもらうと、そう決めたから。

だから、寝る間を惜しんで数日掛けて、ボブと言う人物の半生を、そのシナリオを、尤もらしくでっち上げて捏造し、さも事実であるかのように事細かに矛盾の無いよう書き入れた。まあ、提出してから二週近くになるが、今のところ、とやかく言って来ないから、彼らの鵜の目鷹の目、疑いの目を、何とか突破出来たとそう思いたい。

 玄関ポーチに無造作に落ちていたグレーのニット帽を拾い上げる。その傍にはボブが料理や庭作業、洗顔時にいつもつけてるバレッタが転がっていた。それも一緒に拾って、リビングの扉に手を掛ける。
「ただいまボブ。今日は予定が早く終わったから、この前話した引っ越しの件を__」

リビングは物音ひとつしない。シン、と静まりかえっている。

あれ、いないのか。
キッチンの方か__? 晩の支度にしては、少し早い気もするけれど。

扉を開けるとダイニングはきっちりと片付いていた。椅子を引いた形跡もない。その部屋を抜け、奥のキッチンも一緒に覘いてみる。
「ボブ__? 玄関にニット帽、落ちてたよ? それと髪留めも」

誰も、いない。

表か__? そういや、最近庭いじりが楽しいって、そんな風に言ってたな。
引き返してリビングの窓際に寄る。出窓から見える表側の広庭に人影はない。カーテンを片側に寄せ、リビング側方の掃き出し窓から庭を見渡す。ボブの姿はやはり見当たらない。

「ん__?」
レンガの敷石の脇にかき集められた、色付いた落ち葉の山が目に留まる。そのすぐ近くには、箒と塵取りが放置されていた。
しまい忘れたのかな__? 几帳面な奴が珍しい。
ボブを探しに庭に出ようと鍵に手を掛けた時、廊下を隔てた僕の自室の方から、小さな物音がした。


「ボブ、いるの?」
今は二人の寝室となっている自室の扉に手を掛けると、ボブはベッドに腰かけて、こちらに半分背を向けながら、風を孕むカーテンの向こうの庭先を眺めていた。
時折涼風が入ってきて、レースのカーテンが心地良さそうに揺れている。
いつもの作業服ではない。大事にしていると言っていた、良く似合う大きめのパーカーとスウェットパンツだ。ガタイの良い彼が、年相応に見えるその出で立ちを、こちらもまた好ましく思っていた。

「……やっぱり好きだな、この眺め」
張りのある声だった。同じ声ではあるけれど、優しく陰りのある、いつものボブの声ではない。

「生まれ育った家の香りって、なんだか落ち着くんだよな」

 え__?

ボブは両手の指先を、膝の上で組み合わせる。その動きに釣られて彼の手元に目がいった。指先が小刻みに震えている。それに気付くのと同時に、彼がゆっくりとこちらに振り返った。

「なぁ、ラウダ」

 ラウダ__?

その言葉に膝から崩れ落ちた。引っ越し先候補を記した書類の束が床に散らばる。今晩の夕食の材料を入れた袋もそのまま落ちて、兄さんとボブが大好きな、リンゴが一つ転がり出した。

「__思い出したの……?」
「……ああ、」
「全部……? 父さんの事も、僕の事も?」
「ああ、」
「……何か辛い思い、したんでしょ、それもみんな?」
「ああ、何もかも___」
「……思い出さなくて、良かったのに……」

ボブの、いや、兄の清らかな青い瞳は今にも泣き出しそうな色を帯びている。口元は無理やり微笑みを作ろうとして、小刻みに震えて、しまいにはそれを諦めて横に引き結ばれる。
それを目にした途端、胸の内を激しい情動が突き上げた。今まで必死にその四肢を押さえ閉じ込めてきた、何ものかが棲まう檻の壁を思い切りぶち抜いた。抑えがたい衝動に突き動かされて、この声は猛り狂う。

「思い出さなくて良かったのにっ!!! 思い出して欲しく無かったのにっ!!!!」

だからアルバムもしまった。この家を、懐かしい思い出ごとまるっと捨ててでも、すぐに離れようと思った。ボブの気を他に逸らすため、篭絡しようと必死になってあなたを抱いた。
肩書や立場や家族関係の一切を思い出す事無く、このままボブとして穏やかに生きていけるなら、それで良い。それが一番良いからと。
そう思って、躍起になって、ここまで懸命にやってきたのに__。

何もかも、忘れてしまう位に辛いなら、兄じゃ無くていい、ジェタークの跡目なんて立場も捨てていい。
全部全部、僕が代わりに背負うから。
だから__。

兄さんは徐ろに立ち上がると、ゆっくりとこちらに歩み寄って、一瞬迷ったように指先を彷徨わせた後、僕の肩を黙ったままそっと抱いた。まるで壊れ物に触れるような、触れ合っているのかどうかすら分からない、そんな微弱な力だった。

「__もう、いなくならないでよ……ずっと傍にいてよ……突然消えたりしないでよ……」
瞳に温かいものがじわりと湧いて膜を張る。そのせいで声が詰まる。
「…あぁ…すまない…」
「…本当に? ちゃんと分かってる__?」
「分かってる…」

昔のように、上目遣いで身を寄せて、ぎゅっと抱きついてくるラウダに目を細める。
父さんに、役立たずの烙印を押されたとばかり思った俺は__。

俺の勝手な振る舞いで、結果的にラウダからも頼るべき父を、大事な家族を奪ってしまった。
突然慣れぬ社長業を背負わされたラウダは、一筋縄ではいかないグループ筆頭のCEO達を相手に孤軍奮闘し……俺は、こんなに可愛い弟に、酷く辛い思いをさせてしまった。
こちらを潤んだ瞳で仰ぎ見るラウダの目の下には、色濃い隈が出来ている。それを指の腹で撫でようとして、一寸指先の動きが止まってしまう。

ラウダをこの手や指で触れるのが怖いのだ。頭の中にはさっきの悪夢のような光景がこびり付いている。父さんが差し示した俺の腕。手のひら。そして指先。叩きつけられたトマトのような、爛熟した赤い色。バケツをひっくり返したような、ぬめりつく、足を絡め捕られるような真っ赤な色の水溜まり。
俺の穢れた腕や指先で触れれば、この可愛い弟が、大好きなラウダが穢れてしまうんじゃないか。汚してしまうんじゃないかと恐ろしくなる。
俺は一度自分の手のひらを確認し、それが肉の色をしているのを確かめる。安堵の息が僅かに漏れた。少し逡巡した後で、扱けた頬を両手で包む。

お前をこんなにしたのは俺だ__。ごめん、ラウダ、本当に、ごめん__。

 僕の頬を包んだ手のひらはハッと息を呑むほど冷たかった。凍り付いたような指先の温度に驚いて、思わず少し顎を引いた。それに気付いたのだろうか、兄は一瞬驚いたような顔をして、哀しそうな表情でその手を引っ込めようとする。僕はその指先をギュッと掴んだ。赤くなって腫れあがった、冷たすぎる指先だった。あかぎれて、所々小さく切れて血が滲んでる。

どうして__。
一昨日抱いたボブの、いや兄さんの身体。あの日絡めた指先は、こんな風に荒れてはなかった。

「ねぇ、兄さん__。これは、何__? 何があったの?」
兄は視線を落したまま何も言わない。でもその冷えきった指先は酷く震えている。
僕はボブの全てを見続けてきた。毎日毎日、飽くことなく見凝めてきた。彼の手を取り指先を絡め合って、一心に愛してきた。そんな僕には分かってしまう。それが怯えであり、恐怖であると。ボブを初めて抱いたあの日と同じ冷たさ、同じ震え。いや、それよりもっと深くて大きい何か__。兄さんは今、その何かに怯えている。それなのに、口を噤んだまま何も言わない。何一つ言ってくれない。

「ねえ!! 教えて、いったい何があったの!? 思い出したと言うのなら__」
「何でもないんだ、なんでも__庭仕事が楽しかったボブが、少しだけ頑張り過ぎて荒れただけだ」

こんなに怖がってるのに。どうして、そんな__。

「何でそんな嘘を吐くの、兄さん昔っから嘘は苦手だったじゃない、すぐに僕にバレてたの、忘れちゃったの?」
「本当だ、庭仕事を終えて__。汚れた手を濯いで。ちょっと洗い過ぎただけだ。嘘は言ってない。それよりも__」
兄さんは、少し戸惑うような手つきで僕の背中に腕を回す。何かが壊れてしまうのを、恐れるかのような、弱々しい指先の動き。
何をそんなに躊躇ってるの?

「なにもかも、お前に任せっきりにして、本当に……すまなかった」
「そんなの…どうって事ない…兄さんの為ならなんでもするよ…なんでも出来るから、大丈夫だから__、だから…」

 前より少し艶が失せたように思う藍色の髪をそっと撫でる。ラウダの腕が背中に回されるのを感じる。確りと、力強く、もう離さないと言うように。途端に怖くなった。俺の体は、この指は今、血に塗れていないだろうか__?
俺の背中に腕を回したラウダは、その身を小さく震わせながら泣いている。
ごめん、ごめん…。全て俺が悪いんだ__。

「……これからは俺がちゃんとする。全部、全部ちゃんとするから__」
「__え…?」
「お前の事まで忘れるなんて、酷い兄ですまない。本来ならば不要な負担や苦労まで、全部お前に負わせて、俺は__。ずっと…ずっと不甲斐ない兄で悪かった」

違う、そうじゃない、そうじゃないんだよ兄さん

「そんな事ない! 兄さんのこと、一度もそんな風に思った事なんてない!!」
「…………」
「ただ、僕は__」
ふっ、と優しい吐息が額にかかると、また言葉が出なくなる。
ボブだと思えば強い言葉だって使えるのに。兄さん相手となると、どうして強気に出れない?
どうして、こんなにも言葉が出なくなってしまうんだ__?
「…相変わらず優しいな、お前は」

そんな言葉が欲しいんじゃない、見境なく優しさを振りまいて、こっちが危機感を覚えるくらいに、甘くて優しくて。いつもヤキモキさせてくるのはあなたの方だろ?

妾の子だからと、なんだかんだと事ある毎に辛く当たられてきた。
親からも突き放されて、ただただ存在を消すようにして、息を潜めながら暮らしてた。
そんな僕の目の前に、突然綺羅星のように現れて、見返り無しの愛を降り注ぎ、生きる意味を与えてくれたのは、あなたじゃないか。
僕の存在の発覚が原因で、兄さんは母さんを失ったってのに。
それでもあなたは、僕を受け入れてくれただけでなく__。
丸ごと抱き締め、まるっと愛してくれた。

僕の母さんは、兄さんの母さんを一方的に罵って、今にも取っ組み合いを始めそうな勢いだった。でも数刻後には、何故だか急に仲良くなって。意気投合した二人に、あなた抜きが一番良いわと言われた父さんは、泣き出しそうな顔してた。
結果、父さんと僕らは捨てられた。

連れて来られたこの館の前で、初めて見たあなたの顔はちょっと不機嫌そうで__。
つかつかと歩み寄ってくるあなたに、当然厳しい洗礼を受けるものと身を硬くした。
そんな僕を不意に抱きしめ『弟がいたなんて、凄く嬉しい』優しい声でそう言って。温かい手でぎゅっと抱きしめてくれた。
あなたの言葉で、僕は死んだような日々から息を吹き返したんだ。
呆然とする僕を抱き寄せる腕も、髪を撫でてくれた指も、とてもあったかくて、穏やかで、気が付けば僕も兄さんを抱き返してた。
慈愛に満ちた微笑みが、まるで神様みたいに見えた。
「僕も__、兄さんがいてくれて嬉しい、ずっとずっと、支えるから」
そんな言葉が自然と口からこぼれてた。

あの日からずっと__、伝えた言葉の通りだ。僕はあなたの支えになりたくて生きてきた。
もっと頼ってほしいし、ホントは弱音だって何だって、全部、全部、全てを僕に話してほしいし、吐き出して欲しいんだ。
兄さんとは言うけれど、ほんの数月早く生まれただけじゃないか。
あの日からずっと__。すぐ近くで、あなたの後ろ姿を見てきたから分かるんだ。

性根が真っすぐで、嘘を付くのが下手で、おべっかも苦手。
そのくせ自分の傷を隠すのはとても上手で__周りの誰もが、あなたが本当は傷付いてるなんて、これっぽっちも気が付かない。
そうやって、平気な顔をしてやり過ごすから、いつも完全無欠のヒーロー、威風堂々の御曹司、誰の目からもそう映る。
あなたはそういう人物で、誰もそれを不思議とも思わない。
多分きっと兄さん自身もそれが自分だと思っているし、そうあらねばならぬと思ってる。

そうやって過度の期待を一人で背負い込んで__。
人知れず傷付いて、それでも強がって。高邁な精神が邪魔をして、そんな顔、絶対に周りに見せられなくて。
たまにかなり面倒な落込み方をしてるけど、それも上手くは周りに伝わらなくて。突飛な行動でこちらを混乱させたりする。
僕だけが知っているホントの兄さん。
そんな風に、ちょっと面倒なところも実はあったりする、僕の可愛い兄さん__。

きっとあなた自身も知らないんだろ__?
あなたは自分が思ってるより、ずっとずっと繊細だ。
不屈の精神と気高い心を持ちながら、ちゃんと苦しんだり、傷付いたり、落込んだりもする、ただの普通の青年なんだ。

だから__。
お願いだから、そうやって何でもかんでも、抱えきれないものまで、全部自分一人で背負い込まないで。

もう二度と一人にしないから。
絶対にしないから。
僕も一緒に、あなたと一緒に頑張るから__。

「ねぇ、兄さん__」
気後れするな、今度こそ言いたいことをハッキリ言うんだ。しっかりこの気持ちを伝えるんだ。これからはその陰に隠れるんじゃなくて、彼の横に立つんだ。大好きなあなたを支えるのはこの僕だって、僕しかいないって、確り言葉にしてそう言うんだ。

『僕はあなたに鎧を脱いでほしい、ありのままのそのままで__。素直なボブのままでいてほしいんだ。今まで散々守られてきた、だから今度は僕があなたを守る番だ。この気持ちを、どう伝えたら良いのか分からない。正しい言葉が見つからない。けれど、心底愛してるんだ、あなたのことを。家族としても、兄弟としても、それ以上にだよ。だから、あなたも僕の事を家族としてだけでなく、これからは、ただの弟扱いじゃなくて__。恋人、じゃ言葉が足りない。同じ魂から生まれた双子だとか、切り分けたオレンジの片割れ同士だとか。そんな風に思ってほしい。頼る事だって、少しずつでいいから覚えてほしい__』
そう言おうと、口を開いた瞬間、兄は言った。

「……代表は俺が引き継ぐ事にした。だから、お前はもう何も心配せず、学園に戻れ」

おごそかに告げる兄の声。
目を見開いたまま、言葉を失い、ついでに意識も失った。
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