【星屑レイサSSイフ】女の子は星屑の味


女の子が何でできているか知ってる?
砂糖とスパイス、それからキラキラの星屑をひとつまみ。

だから女の子はとっても甘いの。
頬が落ちるような、とろける甘い味がするんだ。

「これであってるのか?」
「あ、ほらほら説明書に焼印には五分ほどかかりますってあるからそのまま」
「これで壊れたら元も子もないな」
「どうせ使えなくなってたからいいでしょう。まぁダメならダメでこういうのが欲しい人もいるし」
どこかで、そんな会話があった。
一人の少女を壊す最中の他愛ない会話。その足元にはヘイローを焼かれ悶える哀れな犠牲者が一人。
──宇沢レイサ。
彼女はここでヘイローを変質させ、破壊願望を得て、キヴォトスを荒廃させる"災厄"たる星屑となる。
そんな未来も──あったのかもしれなかった。
「……おい、こいつ反応しなくなったぞ?」
「あら、レイサちゃん、レイサちゃ~ん?」
声をかけられる。頬を叩かれ、腹を蹴られる。
そのどれにもレイサは反応を返さない。白目を剥き、泡を吹いたままピクリとも動かない。
「……ヘイローが、割れてるのか、これは」
「もしかして、失敗しちゃった?」
「そうらしいな」
もう一発、顔を蹴り飛ばされるが、口の端の泡が床に飛び散るだけだった。
「これって完全に壊れちゃったのかな。もう動かない?」
「どうだか。気を失っているだけの様にも見えるが……少し様子を見るか。ただ、どちらにせよコイツはもうダメだな」
「あ~ぁ、ここまで手間暇かけたのに」
転がる少女をまるで物のように──いや、実際彼女たちにとっては宇沢レイサは物だった──話す。うっかり落として割ってしまった少し高いグラス。せっかくお気に入りだったのに。あぁ残念。
そんな風に。
「……コイツがダメになるとキャスパリーグに繋がる手がかりも無くなるな。先に情報を吐かせた方が良かったか」
「失敗しちゃったものは仕方ないでしょ。お金貯めつつ、また情報を集めよう」
かつて足元のレイサにお姉様と呼ばれていた少女──不良Bは、気持ちを切り替えるようにぐっと伸びをした。
「そうだな。コイツもさっさと金に変えるか」
ご主人様と呼ばれていた少女──不良Aは、首をコキリと鳴らしため息を吐いた。

つまりは、そういう結末になった。

トリニティ自警団☆奴隷日誌1
現役トリニティ生を徹底調教!守護騎士を名乗る誇り高い自警団一年生が不良たちの手で奴隷へジョブチェンジ!?快楽を知り自ら腰を振り奴隷宣言するまでを収録!!楚々としたお嬢様学校の生徒の転落人生は必見!

トリニティ自警団☆奴隷日誌1【限定版】
大好評の『トリニティ自警団☆奴隷日誌』の特別限定版がついに発売!モザイク・修正一切なし!調教の果て奴隷宣言をしたRちゃんの本名判明!?その正体はまさかの──!更に特別付録としてRちゃん学生証の完全複製も封入!
数量限定のためお求めはお早めに。

『肉奴隷』宇■■イ■
現役のトリニティ総合学園の一年生。身長153cm、スリーサイズ────。しっかりとした調教が施されています。主人の言いつけをよく守り、どんな命令にでも喜んで従います。鑑賞用、愛玩用、実験用等どのような用途にもお使いいただけます。管理用バーコード、逃走防止用監視チップ埋め込み済み。
非処女
妊娠経験:なし
出産経験:なし
一部記憶と感情に多少の欠落がありますがご利用の上で問題ない範囲です

夜。港に並ぶシャッターの目立つ倉庫。
とあるマフィアが薬物の裏取引を行うために準備を進めていた。取引がよほど重要なのか、他組織の介入を警戒してか、周囲には多くの見張りが立っている。
マフィアの構成員だけでなく、金銭を払って雑多な不良生徒まで雇い入れている程だ。

──その全てが炎上していた。

初めは小さな喧騒だった。一般人でも近づいたのかと、騒ぎを聞いた見張りたちも初めその程度の認識だった。だが、直ぐにそれは夜闇を裂く銃声に、爆破音に変わった。
色めき立つ見張りたち。マフィア側の指示を受けながらその銃声を止めるために動き出した。だが、どれだけ経っても喧騒は止まない。銃声も爆音も大きくなり続けた。
やがて、対戦車砲やロケットランチャー、クルセイダー戦車なんてものまで持ち出されて、それでも"ソレ"は止まらなかった。
「何が、何が起きてる!?」「よく見えない、黒い何か──ひ、ひぃ!!」「止めろ、それは味方……がぁ!?」「なんだあの身のこなし……!」「来るな、来るな来るな来るなぁ!!ああああぁぁぁあ!」「関係ねぇ、俺は、俺はただ雇われただけで、うわぁぁあ!!」
怒声、悲鳴、そして人の倒れる音。
混乱する見張りたちも、危険を察知して逃げようとしたマフィアたちも。
この場にいた全員が銃声の中で倒れてゆく。

「いってぇ……ぐ、あ……」
予期せぬ位置から何か──取引の商品だろうか──が爆発した煽りを受け失神していた見張りの少女がうめき声を上げ起き上がる。彼女はマフィアに雇われていた不良A──かつてご主人様と呼ばれていた少女だった。痛む頭を押さえながら、あたりを見回した。
「……なんだ、これ」
自分たちが警備をしていたはずの倉庫が燃え盛っていた。
夜空を煌々と照らす炎。その周りには倒れ伏した今日限りの彼女の同僚たち。
中には体の一部、あるいは全身が炎に飲まれているものもいた。
「あいつは……」
共にこの仕事を受けていた相方である不良Bを探して首を回す。
すると崩れた倉庫の壁の下から彼女の手が伸びていた。どす黒い血がその下から広がっている。
もう助からないだろう。
あるいは、今なら瓦礫の下から救い出し、しかるべき医療機関に見せる事が出来れば一命を取り留める可能性もあるかもしれない。
だが、社会に居場所のない彼女たちが頼れるのは高額な治療費を要求する闇医者だけだ。そんな金はない。
死の気配が充満していた。
そんな中で意識を失うだけで済んでいたことこそ、望外の幸運だ。さっさとずらかろう。
彼女がそう思った時──
「見つけた」
どこかで聞き覚えのある声が背後から聞こえた。
「ギッ──!?」
ミシリ、首がそんな音を立て体が宙に浮き上がった。
「な、ぁ……きゃ……ぐ……っ!」
「うっかり殺しちゃったかと思ってた。よかった、生きてて」
温度を感じない声。それはいつの間にか正面から聞こえていた。
自分の喉を握り持ち上げる声の主。黒いパーカーのフードを目深に被り、大きなマシンガンを肩に背負っている。フードの奥の目が炎の光を反射し緋色に輝いていた。
──キャスパリーグ!
間違えようがなかった。彼女がずっと復讐を果たしたいと思っていた相手。伝説のスケバン。全てを失うこととなった元凶。行方をくらましのうのうと暮らしているであろう憎い相手。
その憎悪の対象が目の前にいた。
だというのに、不良Aには何もすることが出来ない。痛みで体が動かない。息すら、許されていなかった。
「これじゃ、しゃべれないか」
地面に放り出される。気道が解放され、呼吸を求めて肺がもがく。だがその前に──。
「ぎゃああぁぁぁぁあ!!」
「これでよし」
手足がグシャリと音を立てる。耐えきれない痛みに呼吸もままならないはずの喉が悲鳴を上げる。
信じられない力で叩きつけられた銃床が彼女の手足をへし折っていた。
「なん……、なんで、テメェが……ぁ……」
せめて視線に憎悪を込める。だが、この惨状を引き起こしただろうキャスパリーグは一顧だにせず、一方的に問いかけを投げてきた。
「宇沢を攫ったのはあんたたちだ。それはもうわかってる。宇沢は、どこだ」
冷え切った、だがその底に燃えたぎる怒りを感じながらも、しばらく不良Aは何を言われたのか理解できなかった。
宇沢レイサ。そんな名前も彼女は忘れてしまっていたから。
──ゴキリ
「ぎゃああ!……ぁ、あ……あ……コホッ、カハッ」
折れてはいけない骨が折れる音がした。
「思い出した?あんたたちが私憎しで攫った宇沢レイサを──言え」
有無を言わせぬ声。それでようやく彼女は思い出した。
ずっと前に金に変えた一匹の奴隷のことを。
「……ぁ、アイツ……か」
カズサの瞳が僅かに細まった。
それだけで痛みに苛まれる体が恐怖で震えだす。物凄い圧。心臓まで止まってしまいそう。
「ハ、はは……素直で、よく言うことを、聞く……奴隷だった」
──ゴキリ
「~~~っっ!!~~~~~!」
「そんな事は聞いてない」
圧が強くなる。
それでも彼女は口に笑みを浮かべて言葉を続けた。
「……もう少し、使う予定だった……が……ちょっと、壊れてさ」
──ボキン
「~~~~っ……使い道、なくなった……から……適当なヤツ、売っちまった」
──グシャ
「~~~~~~っ」
痛みで思考が四散する。それでも、それでも彼女は異常な執念で笑みを絶やさず話し続けた。だって、キャスパリーグがこんなことをしたのは十中八九あの壊れた奴隷のためだ。こんな何もかも巻き込むような目茶苦茶なことをしてまで自分を脅しにかかってるのは、もう少しだって我慢できなかったからだ。
──キャスパリーグが苦しんでる。
ただそれだけで、彼女は体が端からつぶされていく痛みを笑うことができた。
「今、頃……どこぞ、変態に、使いつぶされ……」
──グシャッ、グシャ
「っ!……っっ!!」
「もう、いい」
怖い。死の恐怖。痛みの恐怖。何より目の前の、想像以上の化け物への恐怖。
黒く、黒く巨大な獣が牙をむいて。
恐怖で壊れて笑えてくる。ちょうどいい。
「アイツの、裏ものAV、くらい……ならブラックマーケット…………買える、かも……な」
──グチャ
片目がつぶされた。
「わざわざ尋ねたのが間違いだった」
「────ぁ、あ……」
もう碌に声も出ない。
残った目にキャスパリーグ──杏山カズサの五指が伸びる。それはまるで巨大な獣の鉤爪のようにも見え──。
「無理やり聞き出す」
それが不良Aが世界を知覚できた最後だった。

強襲した倉庫で無理やりに絞り出した情報は要領をえず、捜索はそこから更に一週間をかけることとなった。その間、スイーツ部の面々と顔をあわせるどころか連絡すらしていなかった。自分が今トリニティでどういう扱いになっているかも、カズサの頭から抜け落ちていた。
ひたすらに、暴力、恐喝、金、それから過去の伝手。
そうしてカズサ個人が持ち得る全てを総動員し、彼女はその屋敷に辿り着いた。
表向きは慈善家として有名だが、裏ではブラックマーケットのカルテルと繋がり様々な非合法な薬品を売りさばく、ある事業家の屋敷だった。
屋敷はとっくに血の海と化していた。
レイサの事を知ってから。彼女が攫われた理由を知った時から。そしてあの倉庫で犯人の言葉を聞いた瞬間から。カズサの頭の中はずっと真っ赤に染まっていた。
彼女は怒り狂っていた。
それは杏山カズサを、かつてのキャスパリーグから更に恐ろしい別のものへ変えつつある程。
レイサを辱めた不良たち。レイサの不在に気づけなかった自分。過去の因縁でレイサを巻き込むこととなった自分。未だレイサを探し出せない自分。そして彼女の目的を阻む全て。
今、目の前に立たれたら、たとえ知った顔ですら手にかけてしまいそうで。
それを恐ろしいと思う余裕すらなかった。
静かになった屋敷を足音を立てず歩く。上の階は既に全て確認済みだ。残されているのは──。

そこは地下の廊下の突き当りにある扉だった。
ギィっと、僅かに軋む音を立て扉が開く。
「ご主人様……ですか?本日もいらっしゃいませ」
「──────」
声が、出なかった。
そこはフリルで彩られたパステルカラーのかわいらしい部屋だった。
家具も、地下に不要なはずのカーテンも、所謂甘ゴスのようなコンセプトで統一され、室内をファンシーに彩っていた。
「今日は、どのようにレイサでお遊びになられるでしょうか?」
ゆっくりとしたしゃべり方はカズサの記憶の中に在る彼女とあまりに違うものだった。
それでも、確かにその声は宇沢レイサのもので。
「……あ、あの……ところで、ご主人様、私にこのようなこと言う権利は…………ないのですが。次は、次はどうか、赤ちゃんをちゃんと──」
「……うざわ」
子猫が鳴くようなか細い声がカズサから零れた。
「……?えっと、もしかして……ご主人様ではないのでしょうか」
「私……きょうやま、カズサ……だよ……」
「すいません。何かおっしゃったでしょうか?その、私耳が悪くて」
震える体で、溺れるようにレイサが横たえられたベッドへ近づく。
その顔をのぞき込む。
髪は降ろされ、丁寧に梳かれ、それが彼女の印象を大きく変えていた。
だが、それ以上に──
「それから、目も……ほとんど見えなくて」
申し訳なさそうにレイサが謝る。
彼女の瞳は濁っていた。まるで目として機能を果たせずにいるかのように。
「ごめんなさい…………ごめんな、さい」
かすれる声で、懇願する声でカズサは謝り返す。それしかできなかった。そんなことで許されるはずなどないけれど、カズサには今そうすることしかできなかった。
ずっと忘れていた悲しみが、罪悪感と共に津波となって怒りを呑み込み彼女を打ちのめしていた。
泣きながら、ベッドの上のレイサを抱きかかえる。
その体がすっぽりと腕の中に収まる──収まって、しまう。
抱き上げたレイサが着せられていたのは部屋にあわせたフワフワとしたパステルカラーの甘ロリ風のドレス。だが、その服の構造は明らかにおかしかった。
四肢のある人間が着るものではなかった。
「あぁ……ぁぁぁぁああ!宇沢ぁ……わたし、わた、私の……私の、せいで……」
抱きしめる。力加減が上手くできず、僅かに苦しそうにレイサが身じろぎをし、カズサは息が止まりそうになる。
レイサの手足は肘、膝の上あたりで切り落とされており、代わりにそこには持ち手のような金属の取っ手が取り付けられていた。まるで持ち運びが楽になるとでもいうように。
「うぁぁ……ぁあ……ぃぁあ……」
まるで売り物のようにバーコードが刻印された首を動かし、レイサは泣きじゃくるカズサの方を見る。
「泣いて、いるのですか?ごめん……なさい。私の姿、ご不快だったでしょうか」
「ちがう──!ちがうぅ……うぅ……ぁぁぁぁぁぁあ」
慰めるように、抱かれたままのレイサはカズサの胸に頬をこすりつけた。
「私にはこの出来損ないの身体しかありませんが、どうか少しでもあなたの悲しみを癒せたなら」
「私が……私のせいなの。私が悪いの……ごめん……ごめんねぇ……ごめんなさい…………どうしたら、私、どうすれば…………」
レイサが何か言う度カズサの心は千々に裂かれる。
これまで手を染めてきた血の全てより、腕の中の彼女こそカズサにとって最大の罪で最大の罰だった。
「へへ、なんだか夢の中の人みたい」
「……」
「もう、よく思い出せないんですけど、私昔は学校に通っていて──たぶん、その頃の夢を見るんです。なんでか、私はその人のことをいっつも追いかけていて、追いついて話しかけて……それだけで、たまらなく楽しくって、温かいみたいで」
カズサの腕の中、レイサは柔らかな笑みを浮かべていた。
「ずっと、覚めなければ……いいのに、なんて。ごめんなさい。奴隷がこんなこと、話してはいけないのに……」
あまりにも儚い笑み。
「どうしてでしょう。あなたの、腕の中は……とても、温かい…………」
そうして、言葉を切ると、やがてスースーと穏やかな寝息を立て始めた。
カズサはあまりに罪深かった。これ以上、自分は彼女に触れてはならないと思えた。だが、腕の中で静かに眠る彼女を放り出すことなんて絶対にできなかった。
ゆっくりと、穏やかに眠るレイサを起こさないように、カズサは立ちあがった。
「しょう…………です……」
せめて今だけでも、彼女の甘い夢──日常──が壊れてしまわないように。
「しょう……す……きょう……さぁ」
甘い夢の外──現実──をカズサは歩き出した。

変わり果てた姿のレイサを抱えてカズサが戻ってくると、すぐに大変な騒ぎになった。ずっと消息不明となっていたレイサはもちろん、カズサも一週間以上連絡を断っており、放課後スイーツ部を中心に行方の捜索をされていたのだ。
ひどく衰弱したレイサは救護騎士団の手により緊急治療のため連れていかれ、カズサはこの一週間自分をずっと探していたスイーツ部のメンバーたちに囲まれることとなった。
「見つかったらまず真っ先にぶん殴ってやろうと思ってたけど」
「……しない、の?」
「やらないわよ。私が殴ったら、あんた死んじゃうような顔してるんだもん」
「……」
眉を寄せ、心配そうな顔でヨシミにはそう言われた。
普段彼女が自分に見せる事のない表情は、拳などよりよほど体に響いた。
「カズサちゃんのバカ!バカバカバカ!!レイサちゃんのこと……私たちだって……!なのに……なのに、なんで一人で……!」
「ごめんね、アイリ」
アイリはわんわん泣いてカズサを罵った。それはあまりにも優しい罵声ではあったけれど。肩を震わせ泣き声を噛みしめる彼女の姿は、どんな言葉よりもカズサに傷をつけた。
「それで」
「……」
「独りで突っ走った、目的は果たせたのかい?」
「それは──」
ナツの問いかけには言葉を失った。レイサを見つけることはできた。だが、それはあまりに手遅れで。
「うん。目的は、果たせた」
それでも、心配をかけた彼女たちにはそう答えることしかできなかった。
確かにレイサを連れて帰ってくることはできたのだから。
「そっか」
良かったとも、悪かったとも言わずに頷いてくれたナツが、泣きたくなるほどにありがたかった。
「みんな、本当にごめんね。私の……勝手で……心配かけてごめんなさい」
だから──その一言を発すると、もう泣きつくしたと思っていたカズサの目から涙が零れ始めた。
アイリもカズサも、ナツも泣いていた。
「……ごめん、ごめん」
とめどなく溢れる涙がカズサの声も濡らす。
そのままスイーツ部全員で、わんわんと泣きはらした。
多くのことがありすぎて、その涙が何を思ってのものかカズサにはわからなかった。
ただ、こうして自分が泣けば共に泣き、許してくれる友人たちに心の底から感謝した。
同時に、レイサがあんな目にあったにも関わらず、自分はこんなにも恵まれているのだという事実に舌を噛み切りたくなるような罪悪感を感じた。彼女だって、本当はここでアイリたちと泣きあうことができるはずだった。できなければならなかった。
それを奪い去ったのはカズサの罪だ。少なくとも過去のカズサが招いた咎だ。
友人に抱きしめられる温かな涙、レイサを抱き上げた時の冷たい涙。今自分は果たしてどちらの涙を流しているのだろう。
わからない。誰かに問えるわけもない。

カズサが手錠をかけられるまでの時間。
答えは得られぬまま、それでも三人に感謝し泣くのだった。

カズサはレイサを探す過程であまりに多くの血を流しすぎた。
そのほとんどはブラックマーケットを根城とするようなマフィアや不良といった社会のはみ出し者であったが、だからといってカズサのしたことが許されるわけではなかった。
わかっていたことだ。
矯正局入りは確実。下手をすれば二度と外に出ることだって叶わない。
レイサの様子を知ることができなくなるのは大きな心残りだったけれど。これ以上自分は誰のそばにもいない方がいいと、そう考えればむしろ都合がいいとすら思っていた。
だから──
「おや、ようこそいらっしゃい。あなたがキャスパリーグ──杏山カズサさんですね。私はこのミレニアムにおける超天才清楚系美少女ハッカー、明星ヒマリです」
何故、自分がミレニアムにいるのか欠片もわからなかった。
「は、はい……杏山カズサ、です。明星先輩」
「ヒマリでいいですよ、カズサさん。あまり固くならないでください。あなたをここへ呼び寄せたのは私なのですから」
車いすに座った真っ白な三年生──ヒマリの前でカズサは冷や汗を流していた。
トリニティからヴァルキューレに引き渡されたカズサが捜査官から事情聴取という名の取り調べを受けるようになってしばらく。突然、移送すると告げられて連れてこられたのがトリニティと並ぶ三大自治区のひとつ、ミレニアムサイエンススクールだった。
そこで半裸の生徒に迎えられたカズサは、こうしてヒマリと引きあわされていた。
「あなたは今、様々な考えを巡らせていることでしょう。矯正局へ送られるはずの自分が何故ここに?トリニティ生の自分にミレニアムが一体何の用なのだろうか?目の前の崖の上で儚く咲く一輪の花の如き美少女は一体何者なのか?」
「……」
「部長、意味不明なこと言ってお客さんを困らせないで」
戸惑うカズサをかばう様にそう言ったのは、ここまでカズサを案内してきたミレニアム生、和泉元エイミ。
「意味不明だなんて、『全知』の学位を持つ私の話す言葉には、全てきちんとした意味があるのですよ」
「じーーー」
「……いえ、全てにきちんと、というのは流石に言い過ぎですね。そこまで私の話す内容を事細かに重く捉えられても困ります。適度に、そうですね……その日の星座占いくらいには、意味があるものと思っていただければ」
「えっと……」
つまりこの人は何がいいたいのだろう。
カズサは全く話についていけていなかった。
むしろついていける人間がいるのだろうかとすら思った。ミレニアムの生徒とはみんなこんな風に話すものなのだろうか。だとすれば自分はトリニティに通っていてよかった。あの学校も妙にもって回った嫌味が飛び交ったりするが、まだ理解はできる。
「カズサも部長のこういう与太話は聞かなくていいよ、キリがないから」
「エイミ、どうしてあなたはそうやって茶々ばかり入れるのです」
「私、部長に茶々を入れたことはないよ」
「その……」
話に区切りがつかない。
「ああ、失礼しました。私ひとりが座ったまま立ち話もなんですし、ひとまずこちらへ」
初対面の、どうにも地位の高そうな相手にどういう態度をとればいいのか。困り果てていたカズサをヒマリは部室を兼ねているのだろう一室へと招き入れた。
流石はミレニアムと言うべきか。トリニティの学園とは全く異なるシンプルな合理性とデザイン性を兼ね備えた部屋の造りは、しかし何台ものPCやサーバー、ディスプレイらしきもので埋め尽くされていた。
促された椅子に座ったカズサに少しだけ引き締めた顔を向け、ヒマリは指を二本立てた。
「さて、私があなたをここへ呼んだ理由は二つあります。まずは本題から」
一本目の指が折れる。
「一つ目の目的はあなたが今回襲撃した不良たちが持っていたというヘイローの焼きごて。その情報を少しでも得るためです」
「それは……っ」
耳にしたくない単語にカズサの喉がつまる。
レイサにそれが使われたこと、それによってレイサが"壊れて"しまったことは、彼女を探す中でカズサも知ることとなった。
だが──
「ヘイローに直接干渉し、決まった形とはいえ書き換えてしまう。しかも片手で持てるような小型の装置。はっきり言って私たちの──即ちミレニアムの最先端科学の常識ですらありえない、異質な何かです」
「私も詳しいことは知りません……よ。何人か締め上げた不良が口にしてましたけど」
「ええ、それは承知しています。それでも、少しでも情報を得るためにはあなたの協力が必要だと私は考えているのです。実際に装置を使った証人は既にお話を聞くことができなってしまっていますしね」
「……」
「ここであなたの行いの是非を問うことはしません。ただ、その"装置"を我々は見過ごすわけにはいかないのです。該当の装置が出回ったというブラックマーケットは、半ば独自の経済圏を形成し、かなり入り組んだものとなっています。あなたは元とはいえ不良生徒であった経験もあり彼らに関わる者の知見をお持ちです。そして、レイサさんを探すためにあの地区の奥深くまで足を踏み入れている。どうか協力をお願いできないでしょうか」
静かに、しかし強い意志を宿した瞳がカズサを射抜く。
納得できないこと、疑問、逡巡。様々な感情がカズサの内を駆け巡った。
「……わかり、ました。私にできることなら」
それでも、ヒマリの言う「見過ごすわけにはいかない」という言葉で脳裏にレイサの姿がよぎったカズサは、その言葉に頷いた。自分に何が出来るかもわからないけれど、それでも、もしも何かができるというなら。
「けど、私が……その、こうやって外に出ていていいんですか?」
一度手錠をかけられた身である。
「その辺りはご心配なく。私はただの美少女でなく『全知』の学位を持つ天才美少女なので。あなたの身柄は私が預かることとなっています」
「はぁ……」
正直、何を言ってるかさっぱりだったが、何らかの政治的な駆け引きが行なわれたのだろう。
関わったことはないが母校トリニティでもそういったことが日常的に行なわれていたと聞く。
自分の力が及ばぬ領域の話だ。カズサは深く考えないことにした。
「実際の動きについてはおって相談ですが、恐らくエイミの調査に同行することになるでしょう」
「よろしく」
「あ、えっと……よろしく、お願いします」
「私、一年。同級生だからそんな敬語は使う必要ないよ」
「そっか……わかった、エイミ」
「おやー、エイミだけずるいです。私は仲間外れですか?」
「え……えーっと……」
すでにカズサは眼前の上級生を苦手に思い始めていた。
「部長」
「なんて、天才美少女のちょっとした冗談です。私はどのような言葉使いでも気にしませんから、カズサさんが話しやすいように話しかけてください」
「……はい」
場を和らげようとしてくれているのだろう。おそらく、多分。
ただ、今一つ会話のペースが掴みにくい。ナツを連想させるがそれよりもなんというか、打算的で──。
「ふふ、では改めて私からも。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、えっと……お願いします」
あまり失礼なことは考えないようにしようと思い直しながら、カズサは頭を下げた。

「さて、少々脱線もありましたが……呼び出した理由の二つ目に話を進めましょう。先ほどの理由が公的な本題だとすれば、こちらはもっと私的な本命です」
「本命?」
本題と本命。
今一つ言葉の違いがわからないカズサは首をかしげる。
「えぇ……あなたにっては一つ目よりよほど重大な事柄かと」
微かに眉をハの字にし、深いため息をつく。会って僅かな時間しか経っていないカズサにもその様子はヒマリらしくないように思えた。
「カズサさん、ここからの話を良く聞いてくださいね。今、ミレニアムには──」

ミレニアム学区内にある細長い白い建物。その3階の突き当りの扉。
センサーがカズサの首に下がっているゲストカードを読み取り、権限認証を行って静かに扉を開く。
「……」
白を基調とした清潔感のある部屋。その中央のベッドの上。
「……ごしゅ……じゃなくて、どなたでしょうか?」
そこに小さな体の少女が寝かされていた。静かな、ゆっくりとしたしゃべり方。
部屋に一歩足を踏み入れたところで、開いた口がそのまま固まる。発する音を模索するように声のないまま幾度か形を変える。
「や、宇沢」
結局そんなつまらない言葉が零れた。
「あなたは……?」
「私はカズサ。杏山カズサ、よろしくね」
ゆっくりとベッドの上のレイサに歩み寄りながらカズサはそう名乗った。

「今、ミレニアムには宇沢レイサさんがいます」
ヒマリの言葉にカズサの頭は一瞬真っ白になった。
「な──なんで……」
「彼女がミレニアムにいる理由を尋ねているなら、レイサさんの現状を僅かでも改善しうる可能性があるのがここだけだったから、ということになります」
現状、改善、可能性。
その言葉は酷く不吉な予感をカズサに与えた。
「今それを教えた理由を尋ねているのなら、彼女こそがあなたを呼んだ理由、本命だからです」
先ほどから続く不吉な予感がずっと収まらない。
レイサが今どうしているのか。ずっと気になっていたはずなのに。あの館から救い出せたのだから、救護騎士団に預けたのだから、大丈夫。そんな風に漠然と考えていた。いや、もう知る術などないのだから、そう信じるしかないと自分を納得させていたのだ。
カズサは次にヒマリが何を言うのか聞きたくなかった。だが、聞かずにはいられなかった。
その予感を裏付けるようにヒマリの声音は静かだった。
「レイサさんは───あなたが救い出した彼女は、このままではもう長くないのです」

ふたりきりの白い部屋。カズサはベットの脇に置かれていた椅子に座った。
「私は……宇沢、レイサです」
ベッドに横たわったままレイサはカズサの方へ顔を向け、そう名乗った。
「──────そっか、よろしくね宇沢」
「レイサと呼んでください。実は自分の苗字を使うことがほとんどなくて、あまり自分のものという気もしなくって」
「──そっか。じゃあ、よろしくねレイサ」
「はい、カズサさん」
言葉のひとつひとつがカズサを抉った。
レイサは袖の短い入院着のようなものを着ていた。髪は下ろされ、顔には酷く卑屈そうな笑みを浮かべていた。そこに、カズサの知る宇沢レイサという少女の要素はひとつも無いように思えた。
「……私の声、ちゃんと聞こえてるんだね」
「ご存じなんですね。実はここに来てから聴覚を補助する機械をつけてもらっていて」
ふたりきりの白い部屋。カズサはベットの脇に置かれていた椅子に座った。
今、自分がどんな顔をしているのか想像もつかなかった。
レイサに顔を見られることが恐ろしかった。
──レイサの目には包帯が巻かれており、カズサの顔を見ることはできないのだけれど。
「こちらも、ご存じかもしれないですが、目に光が当たるのが良くないらしくって」
せっかく来てもらったのに、ちゃんと顔を見せることもできずごめんなさい。なんて。
「いいよ、うざ……レイサの顔はよく知ってるし」
頭の中はずっと真っ白のはずなのに、薄っぺらい言葉だけがスラスラと流れる。
自分は誰と、何を話しているのだろうか。
ふと、なんとなく、包帯の下でレイサがハの字の眉をしたように思えた。
記憶の中のレイサの表情。そんなものはカズサの妄想でしかないのだけれど。
「カズサさんは──私の昔のお知り合い、なのでしょうか……?あ、すいません。突然こんなことを言って」
少しだけその声音にかつてのレイサの面影を僅かに感じ、カズサは唇を噛んだ。
血の味が口の中に広がった。

「レイサさんは、劣悪な環境と悍ましい暴力によって衰弱していました」
レイサの命の短さを告げたヒマリは眉をしかめて言葉を続けた。
その端々から漏れ出る嫌悪の感情から、レイサに行われた所業を把握しているのだろうとカズサは思った。
「はっきり言って、彼女が受けたことはどんな言葉にもたとえられない程の最低最悪の所業です。えぇ、あれを知ってしまえばあなたの行いも──いいえ、これはいけませんね。『全知』の学位を持つ眉目秀麗な乙女として、口にしてはならないことを口にしそうになりました」
ヒマリは気持ちを切り替えるように軽く頭を振った。
「ともあれ、それだけであれば彼女がミレニアムに移されることはなかったでしょう。単純に体や心の傷を癒すというのであれば、高名な救護騎士団のあるトリニティの方が相応しかった」
それでも、レイサがここにいるのは───。
「しかし、彼女の衰弱の仕方は既存の医学では説明のつかないものでした。傷の治療、栄養の摂取、メンタルケアも含めてトリニティで治療──救護が試みられていましたが、そういったものが意味をなさないのです。生命力とでも呼ぶべきものが、だんだんと抜け落ちていってるかのように。──あるいは、もう少し経過を見て判断をすべきだったかもしれませんが、彼女の弱り方はその経過観察すら許さなかった。加えて、ヘイローに手を加えられたという証言。救護騎士団のミネ団長は現状の自分たちでは彼女を救える手段がないと直ぐに判断し、何か方法はないか持ちうる全てのコネクションを駆使しました」
そうして見つかった手段が、ミレニアムの最先端技術だった。
「他者のヘイローをより正確に観測、測定することを目指した技術でした。彼女がヘイローに干渉されたというのならその状態を調べれば、と。最初は検査が目的だったのです」
「…………」
話を聞くカズサの喉はからからに乾いていた。
乾いたのどがずきずきと痛む。
「結果としてわかったのは、彼女のヘイローが砕けているということ。恐らく"上書き"を試み、失敗した際にそうなったのでしょう。彼女のヘイローは大きく三つの破片に砕けていました。また細かな欠片の内いくつかは失われています。はっきり言ってあの状態で生きているのが奇跡です」
「……その、ヘイローを直すことは、できないんですか?」
自分の声が震えていることがはっきり分かった。
縋りつくような、なんと情けない声だろう。
ヒマリは一度口を引き結んで、それから静かに首を横に振った。
「ヘイローに干渉するというのはミレニアムでもほとんど実現できていない技術なのです。現行のアプローチの仕方がそもそも間違っているのではと私は考えているのですが……いえ、これは意味のない言葉ですね。現在、かろうじて砕けた状態のヘイローの"維持"を補助することで彼女の衰弱は緩やかになっています」
それが、限界なのだと。
レイサから零れ落ちていく命を救いきることはできないのだと。
「ですが、私もミネ団長もミレニアムもまだ諦めてはいません。件のヘイローに干渉する装置を見つけその原理が解明できれば──あるいは、ヘイローの研究自体が実を結んだなら──はたまた、原理も法則もわからずともヘイローを回復させるアプローチが取れるならば」
まだ尽くすことのできる手があるのなら。
「……」
それはカズサにはひどく曖昧な夢物語のように思えた。
諦めていないと、そう宣言するヒマリ自身も確信を持っているようには見えなかった。
それでも──希望はあった。
朝焼けの空、消えゆく微かな星を探すような、そんな希望。
「あなたをここへ呼んだのもそのアプローチのひとつです。あなたは何もかもを振り切って彼女を助け出した唯一人の人間です」
なんだか、妙に持ち上げられている気がしてカズサは気まずくなった。
そんな素晴らしいものではないのだ。
そもそもの発端は己の咎なのだから。
そんなカズサの内心に気づかず、あるいはあえて無視してヒマリは言葉を続けた。
「あなたであれば彼女の精神──いえ、魂に何らかの働きかけをすることができるかもしれない。私はそう考えています」
そして、それが彼女の命を救うことに繋がる……かもしれない、と。
「長くなってしまいましたが、これがあなたを呼び出したふたつめの理由です」
話し疲れたのか、そう言ってヒマリは大きく息を吐き出した。
カズサは今の話になんと答えたらいいのかわからなかった。
感謝すればいいのか、驚けばいいのか、嘆けばいいのか。
正直、自分が何をすればいいのかもよくわからない。
ただ、ふと。ひどく冷たい疑問が浮かび口をついた。
「なんで、そこまで……?」
「そこまで、とは?」
「宇沢のために、ここまで手を尽くしてくれていることです。確かにあいつはひどい状態で、あんまりにも理不尽な目にあって……けど、ただの一生徒の為にここまで力になってくれているのはなんでだろうって」
「私が嫌だから、というのでは理由にならないでしょうか。一人の少女が理不尽にその身を汚され、そのまま命を終えるなんて、そんな結末を肯定したいと私は思いません。たとえ過程が凄惨であっても、最後には救われて、友達と笑いあうようなそんな結末を望んでいるのです。だから昔の貸しをいくつか使ってヴァルキューレからあなたの身柄を引き取りました」
「…………」
じっと、ヒマリを見つめる。
何かを感じたわけではない。話にも納得した。きっと彼女の語ったそれは本心だ。
ただ、なんとなく。
ヒマリの言葉を待つように、カズサは穏やかな笑みを浮かべる彼女の顔を見つめた。
それに観念するかのようにヒマリは僅かに俯いた。
「……確かに、ミレニアムとして今回の件はレイサさんであるかどうかに関わらず、決して無視できないものです。ミレニアムがミレニアムとして取り組むべき問題でもあります。ええ、そういうあまり美しくない思惑がないとは言いません」
「いえ、気にしないでください。ただどうしてだろうって思っただけなんです。変なことを聞いてすいません」
「いえ、当然の疑問でしょう」
何故か目の前の彼女を傷つけてしまったような気がしてカズサは頭を下げた。
それから、まず初めに自分のすべきことが何かを考え、そのままヒマリに尋ねた。
「……あの、そしたらこの後に宇沢と会うことはできるんでしょうか?」
「今から、ですか?」
ヒマリの目がスッと部屋の中に並ぶディスプレイのひとつに向けられた。
「……そうですね、彼女のバイタルは安定しているようですし、問題ないかと思います」
「じゃあ……!」
「ですが、その前にあなたにはまだ知っておかなければならないことがあります」
意気込むように身を乗り出したカズサを、あと一つだけとヒマリは押しとどめた。
「おそらくはヘイローが砕けた後遺症でしょう、彼女は──」

──昔の知り合いなのか。
レイサがそう問いかけたのは彼女の中にこうなる前の記憶が殆ど残っていないからだ。

「自分が学生だったこと、友人がいたことなどぼんやりとした事実の記憶の輪郭はあるようです。ただ、詳細な事は何も思い出せないと言っています」

ヒマリに言われた言葉を反芻しながら、カズサは自分が次に言うべき答えに迷った。
そうだと肯定するのが嘘偽り無い答えだ。
けれど、レイサが自分に向けられた憎悪に巻き込まれたのだと思うと、そう名乗り出ていいのかという躊躇いがカズサの口を重くした。
「すいません、そんな事聞かれるのが不快ですよね。何にも覚えてないなんて、そんなのただの言い分けです。ごめんなさい。私どうにかして思い出して──」
「私は!」
咄嗟に、レイサの言葉を遮った。
自分かわいさに返答を迷った自分が恥ずかしくて。
それ以上に、彼女にこんな声出させたくなくて。
「私は──あんたの友達。覚えてなくってもいい。ただ、友達だから」
それは、果たして真実だろうか。
カズサとレイサの関係は中学からの腐れ縁の様なものだった。それも、一度は断ち切れたような関係。自分と彼女の関わりは、少なくともスイーツ部の三人とは違っていて、それを友人と呼称していいものか甚だ怪しい。
それでも、カズサは友人だと言った。
レイサをひとりぼっちにさせないように。
彼女が独りで泣かずに済むように。
これも、ただの自己満足だろうか。だって彼女は──。
「そうだったんですね!私のお友達、ようやく会えました」
手足の無い体をなんとか動かして、嬉しそうにカズサに笑いかける。
だから、カズサは自分の言葉を自己満足と思う事すら、もうできなくなってしまった。
「あ……でも、私の方はカズサさんのこと全然覚えていなくって」
「いいよ。覚えてないなら……もう一度さ、友達になればいいじゃん」
そうやって嘘を事実にすり替えようというのか。そんな冷たい自分の声が脳裏をよぎる。お前は彼女に申し訳なくて、その罪悪感から友達になるなどのたまってるのではないかと。
自分は──今どんな顔をしているのだろう。背筋が寒くなる。
それでも、カズサは言葉を取り消すことはしなかった。
「どう、かな。もう一度…………私と友達になってくれる、レイサ?」
「はい!こんな私ですが、どうかお願いします、カズサさん」
こうして、カズサはレイサと友達になった。

それからしばらくの間、カズサはレイサと他愛も無い会話を続けた。
カズサがどんな容姿をしているか。レイサが最近食べたミレニアム製の不思議なペーストの味。カズサも今後ミレニアムでそんなものを食べざる得ないのだろうか、とか。
カズサが大げさに溜息を吐いてみせればレイサは楽しそうにへへへと笑っていた。
それは、カズサの見覚えのある笑みで。カズサも小さく笑い返す。
そうやって、本当にささやかな会話を。

レイサとの会話は、これ以上の疲労は避けるべきというエイミからの連絡によって終りを告げた。自分たちの事をずっとモニターしていたのだ。それはカズサがレイサのいる部屋を訪れる前にヒマリから言われていたことだった。
カズサと会話することで何か変化が起きるか注視したいと。
また明日必ず訪れるとレイサと約束し部屋を出れば、すぐにエイミが出迎えてくれた。
「……どうだった?」
開口一番、主語を具体化せずエイミにぽつりとそう尋ねる。
「レイサ、すごい元気に話してたね。今日まであんなにおしゃべりなことなかったから」
「そっか…………ヘイローの方は?」
「そっちはデータを詳しく分析をかけないとわからないけど……」
そこでエイミの言葉が少し詰まる。
「たぶん、大きな変化は無いだろうって」
おそらくヒマリがそう言っていたのだろう。
「──そっか」
はぁあ、と大きく溜息を吐く。レイサの前でずっと飲み込んでいたものを吐き出すように。
「けど、レイサも楽しそうだった。きっと気持ちはすごい楽になったと思う」
元気づけるようにエイミが言う。
その言葉に──当たり前だ、なんて言葉を返しそうになって慌てて飲み込んだ。
それは、自信や絆、信頼に由来するのとはまったく違うもの。

宇沢レイサは感情の一部が喪失、希薄化している。

記憶と共にレイサの身に起こっていることだった。
喜怒哀楽の内、怒りについてはほぼ完全に喪失。そして哀──悲しみもかなり希薄化しているのだという。言ってしまえばどれだけの目に遭おうと、傷つけ苦しめられようと、今のレイサは怒ることもできず、悲しむこともままならないということだ。これがヘイローが砕けたことによるものか、ひどい環境に身を置いた為かは判然としないらしいのだが。
残った感情が喜と楽なら、それは楽しそうにもするだろう。
そんな風に思った。
「今のレイサは、他の人と話すとき脅えてることが多いんだよ」
そんなカズサの心の内を察したのか、エイミはそう言ってカズサの肩を叩いた。
「大丈夫──あなたは間違いなくレイサの力になれてる」
「……」
──やめてくれと思った。
だって、たったその一言だけでカズサは泣いてしまいそうになっていたから。

それから、カズサのミレニアムでの生活が始まった。
所謂、保護観察の扱いということになっているカズサは、基本的にヒマリかエイミのどちらかと共に行動することが多かった。
ヒマリから不良内でのルールや文化のようなものについて質問攻めにあったり、エイミと共にブラックマーケットに足を踏み入れ件のヘイロー改変装置、ヘイローの焼きごの情報を探し求めるなど、実質的に彼女たち特異現象捜査部の一員として動いていた。
そして毎日、午前か午後に一時間はレイサと面会する時間をとっていた。
ミレニアムとしては治療法の模索の一環、カズサとしてはレイサと改めて関係を積み上げていく、そんな時間だった。

「そしたら、その時のあんたはその勝負受けて立つとかなんとか言って──」
「私、そんな乱暴なことを?」
「別にスイーツの食べ比べだし、乱暴って程じゃなくないでしょ」
「へへ、それもそうですね」
「まぁ、耳元で叫ばれたりした時の、声の大きさはちょっと暴力的って言えたかもしれないけど」
「やっぱり全然今の私とは違うんですね……。けど、何故でしょう自分のことなんだなってそう思えます」
「それは……あんたのこと話してるんだから、当然じゃん」

レイサがせがむこともあり、過去のレイサとの思い出話をすることも多かった。初め、カズサは躊躇っていたのだが、結局押し切られる形で度々記憶の中のレイサを話して聞かせるようになっていた。
最初の頃はベッドに横になったレイサに話して聞かせる形だったが、いつからかベッドに腰掛けたカズサがレイサを後ろから抱き上げた状態で会話するようになっていた。
目が見えないからか、レイサは触れあいをよく好んだ。

「カズサさんのほっぺた」
「……あんた本当に好きね」
首を伸ばし、自分の頬をカズサのそれに重ねる。もちもちとしたレイサの頬がじゃれつくようにこすりつけられる。カズサはいつもなされるがままになってしまう。
その度、ひどくくすぐったい気持ちが心を満たす。
身を全て任せてしまいたくなるような心地よさで、同時にずっとこらえることもできないこそばゆさ。
「あー、もう!いい加減いいでしょう!」
カズサは仕返しとばかりに、レイサの髪に顔をもふりと埋める。
ふんわりとした甘い香りが鼻孔を満たす。まるでスイーツのような、甘い星の香り。
レイサはそれにも楽しそうにきゃっきゃと笑い、カズサの腕の中で身を捩る。
そういう時の彼女の笑い声はとても屈託が無くて、なんだか懐かしさを感じて。
──時折、カズサは自分が何をするためにここにいるのかわからなくなる時があった。
レイサは今も少しずつ死に向かって転がり落ちている。
どれだけ、この小さな体を抱きしめたところでそれが止まることはない。
だというのに。
腕の中のレイサとじゃれ合い笑う時間は、甘く夢の中のようで。
どこか遠く、あの日レイサを探し出した時から自分はずっと眠っているのではないかと、そんな馬鹿みたいな考えに、ふと襲われてしまうのだった。

「部屋からレイサさんを出せないか……ですか」
ある日、レイサとの面会の時間を終えたカズサはヒマリにそんな相談を投げかけていた。
最近では思い出話のネタも尽きかけており、ミレニアムでカズサが何を見たのかといった話題で話す事も増えていた。トリニティとは様々な点で異なるこの学園の風景はカズサにも新鮮で、それをレイサに話して聞かせるのも楽しい時間だった。
そうすると、レイサも外の世界に興味を持ち、自分もカズサの話した場所を訪れてみたいと言う様になったのだ。
「レイサさんがそういった前向きな姿勢をみせてくれることは良いことだと思いますが……今の体調で外出はあまり同意できませんね」
う~んと妙にかわいらしく呻りながらヒマリはそう答えた。
「ですよね」
カズサとしても許可が簡単に下りるとは期待していなかったので素直に納得した。
「ですが、きちんと時間と行き先を定め許容可能な負担に留められるなら問題はないでしょう」
だから、そんな思わぬ答えに驚きの表情で顔を上げた。
「そうですね……大体三十分でしょうか。実際の時間はこれから他のスタッフにも確認をとって決めることになりますが、おおよそはそれくらいが目処になるでしょう。明日はどこへ行くかレイサさんと相談する時間にしてはいかがでしょうか」
「あ……っ、ありがとうございます!」
思わず勢いよく頭を下げた。
「いえ、頭を下げられるようなことではありません。ミレニアムの天才美少女でありながらこの程度しかできない私を許してください。本当に情けないです」
「そんなこと。私もレイサも、ずっと助けてもらってます。謝られる事なんて......」
「ふふふ、初めてここを訪れた時とは見違えましたね」
「……え?」
「初対面の時、あなたはまるで死刑を待つ囚人のような顔をしていました。それはそれはひどい顔です。似た顔をした人を見た覚えがありますが……見ていてあまり気持ちのいいものではありません」
「はぁ……えっと、なんだか見苦しいものを見せてしまって……ごめんなさい」
突然のカミングアウトに口の端を引きつらせながらも謝罪してみるカズサ。
「今は違うと、そういうことです」
ヒマリは、そんなカズサにクスリと笑うのだった。

ミレニアム。最新のセキュリティにより外との情報が遮断された一室。
「それで──収穫はどうでしたか、エイミ」
「今回はこれ」
部屋にいるのは特異現象捜査部の二人。明星ヒマリと和泉元エイミ。
エイミが机の上に置いたのは調理器具の様ないくつかの道具。
「カズサとブラックマーケットの連中を締め上げて手に入れた」
「ヘイローの調理器具……ですか」
しばしの沈黙。
「いや、この一万年に一人の完璧美少女の私をして理解が追いつかないのですが。ヘイローを調理ってどういうことです?何を食べたら出てくる発想なんです?」
「さぁ?元の持ち主は物珍しさで買ったって言ってたけれど。こっちはヘイローを飴玉みたいにする道具、こっちは飲み物にする道具──らしいよ」
「……こういうのを正気度が下がるというのですね。病弱美少女ハッカーをあまりいじめないでもらいたいです」
頭痛を押さえるように額に手を当てて溜息を吐く。
最近はどうにも溜息が増えている。溜息の多さは幸福度を下げるという話もある。主観的な認知の話はもちろん、因果関係は不明だが現実の確率的な──所謂運勢にも影響が出ないとも限らないのだ。気をつけなくては。
「見たところはただの道具……なにか電子部品が使われている様子もありませんね。一通り調べてみますがあまり芳しい結果は得られないでしょう」
「また偽物?」
「偽物かどうかはわかりません。そもそもヘイローに容易く干渉して、その形を変えるなんてことそのものが特異現象なんです。仮にこれらもそういった存在なのであれば現状の解析方法ではその真価を測れない可能性も高いです」
「じゃあ、やっぱり実験する?」
「──────あまりにもリスキーなので、それは本当に最後の手段にしたいですね。ただ……レイサさんの残された時間を考えると決断が必要かもしれません」
「その時は──」
「とはいえ、今はまだダメです。エイミも先走るようなことしてはいけませんよ?」
「わかってる」
少し不満そうにそっぽを向くエイミ。彼女も現状に焦れているのだろう。
彼女の気を逸らすように、ヒマリは話題を変えることにした。
「それから……カズサさんについてはどうですか?」
「あー正直あそこまでなんて聞いてなかったんだけど。あれ、下手したらウチの学校の『ダブルオー』とかといい勝負するんじゃない?」
「特別な立場に無かったとはいえ、トリニティが有無を言わずヴァルキューレに身柄を引き渡す規模で事件を起こした人ですからね。それも大規模犯罪組織の壊滅と言う形で。話している分には、そんな雰囲気もあまりないですが」
レイサを救出するまでに彼女が引き起こした被害の規模を頭の中に思い浮かべる。同時に、レイサの外出について相談された際の年相応の顔が脳裏を過ぎった。
擁護するようなヒマリの言葉にエイミが首を横に振った。
「だとしても、事前にもらってたレポートよりずっと強い。伝説スケバン?だったとしてあの強さはちょっと異常」
「なるほど。……キャスパリーグ……あの二つ名は自称なのでしょうか」
「いきなりどうしたの?部長と一緒にされるのは、カズサがかわいそうだと思うけど」
「エイミのその辺りの認識については後日きちんとお話しするとして……私が気になったのは彼女が多くの不良たちから伝説の不良『キャスパリーグ』と呼ばれ恐れられている事です。仮に、はじめは彼女自身が名乗った名だったとしても、今となってはキャスパリーグの名は大勢の共通認識として定着したものになってます。そして今回の一件でその名の恐怖は更に大きくなった」
「それがどうしたの?」
「名をつけるというのは定義することです。ですが名前に紐付く定義はそれを知る大多数の人間の主観の擦り合わせによって歪められる。特に人物や出来事の名前、呼称はそれが顕著です……。伝説のスケバンという肩書きは、あるいは私たちが思っているものよりずっと重い意味を持っている──持つことになってしまっているのかもしれません」
「よくわからないけど……カズサも変わらず要観察対象ってことでいいんだよね」
「はい。本人に黙っているのは気が引けますが……今は下手な揺さぶりをかけたくありません」
彼女が特別だったのか。特別な何かに彼女が巻き込まれたのか。
特別だから巻き込まれたのか。巻き込まれたから特別なのか。
そして、その渦の中央にいるあの哀れな少女は──。
机に並ぶヘイローの調理器具を見下ろしながら、ヒマリは深い思考の海に身を沈めた。

「わぁ、風が涼しいです」
「今日はちょっと冷えるね。寒くない?」
「はい、カズサさんが着せてくれた上着がありますので」
ヒマリに相談してから数日、あっさりと下りた許可によってカズサとレイサはミレニアムの小さな公園まで散歩に出かけていた。
レイサを乗せた車いすを押しながら、カズサは何度目になるかわからない疑問を口にした。
「けど、本当にこんな場所でよかったの?普通の公園だよ?」
「でも、昔私たちが戦ってたっていう公園に似てるんですよね」
「まぁ、似てるっていっても特徴が無いのが似てる、みたいな程度だけどね」
二人が訪れているのはレイサが言うように、かつてキャスパリーグの杏山カズサとスーパースターを名乗る宇沢レイサが戦ったトリニティの公園に似た場所だった。
思い出話の中のほんのちょっとした話題として口にして、それ以降すっかりカズサはその存在を忘れていたのだが、レイサはしっかりと覚えており、外出の相談の際ここがいいと希望したのだ。三十分という時間制限にもちょうどいい距離だったこともあり、カズサが折れる形で決定した。
「小さい公園だけど、とりあえずぐるっと一周してみよっか」
「はい、お願いします」
ゆっくりと、段差などを踏まないよう気をつけながら車いすを押す。
風は冷たいが、日差しは暖かく絶好の散歩日和だ。
外出するならこの日がいいでしょう、なんて各種データを並べて力説していたヒマリの姿を思い出す。ミレニアムのこういうところは本当に助かる。
「なんだか、色んな匂いがします。懐かしい様な新鮮な様なたくさんの匂い」
すんすんと鼻を鳴らしながらそんな感想を言う。顔半分は相変わらず包帯が巻かれており、視界は真っ暗なはずだ。だから尚更、それ以外の音や風の冷たさ、匂いを感じるのだろう。
「そう?私にはよくわからないけれど……レイサがそう言うってことはそうなんだろうね」
「カズサさんも目をつぶって歩いてみればいいんですよ」
「バーカ、そんなことしたらあんたが危ないでしょうが」
とりとめの無い会話をしながら静かで、穏やかな時間を過ごす。
ふと、公園の一角にキッチンカーを見かけ足を止めた。
「クレープ屋が出てる。ああいうのは、前の公園にはなかったかな」
カズサの言葉に車いすの上のレイサがぴくりと反応を示す。
「クレープ……あの、昔の私は……その、カズサさんと一緒にクレープ食べたりしてたんでしょうか?」
「え、どうだったかな……。食べたことあるかもしれないけど、多分他のスイーツ部のメンバーとあーだこーだしながらだからあんまり記憶にはないかな」
「……」
記憶を掘り返してみるが、あまりピンとこない。
マカロンだったりシフォンケーキだったりといったスイーツは思い出せるけれど──、クレープはどうだっただろうか。
「クっ、クレープ!」
いつになく大きなレイサの声にビクリと肩が跳ねる。
「あの、クレープ、食べたいです!……けど、ダメ……ですかね」
その声に、困ったように笑うレイサの顔が浮かぶ。顔に包帯を巻いていない、髪を二つ結びにしたレイサだ。
「どうなんだろう。いいのかな……ちょっと聞いてみよう」
脳裏のそれを振り払うと、カズサは車いすを押して公園の出入り口に向かう。
「どうしたの、まだ時間はあるけど」
そこにはエイミが立っていた。外出の条件の一つとして彼女の同行が含まれていた。ただ、エイミは自分がいてはレイサが気にするだろうからと、公園の入り口に残り見守ってくれていた。
「レイサがクレープ食べたいって言って、大丈夫かなって。聞いておいた方がいいよね」
「なるほど」
頷いたエイミは自身の端末をしばらく操作してから答えた。
「大丈夫……かな。けど、丸々一個は多すぎるから半分くらいにしておくこと」
「おっけー。だってさ、よかったねレイサ」
「…………はい」
返ってきたのは蚊の鳴くような返事だった。その表情は固い。
カズサ以外の誰かがいるといつもこうだった。エイミももう慣れているのか気にしている様子はない。とはいえ、あまり長居してもどちらにも良くはないだろう。「ありがとう」と礼を言って再び車いすを押す。
「じゃ、二人でシェアだね。食べてみたい味とかある?」
「えっと……お任せします。あ、けど、面白そうな味の方が楽しそうですよね」
「面白いって……チョコミントとか?いや違うか……う~んどうしよっかな。しょっぱいヤツ──はちょっと私が認められないんだよなぁ。う~ん」
クレープ屋にたどり着くまで、カズサは悩み続ける羽目になった。

「エナドリクリームMAX……本当にこれでよかったの?」
「お店の人はおすすめだって」
『面白い味』というカズサの悩みは店頭にたどりつくと一瞬で吹き飛んだ。
正直レイサに食べさせるものとして大丈夫か大分悩んだのだが、「体に悪い成分はひとつも入ってない、赤ん坊だって食べられる」と何故か力説する店主に押され、乗り気なレイサの後押しもあり、この味を選ぶこととなった。
赤ん坊に食べさせられるエナドリ味ってなんだ。
「ま、あんたがいいならいいけど。食べてから文句言うのはなしだからね」
「大丈夫です!」
根拠のない自信に吹きだしてしまう。
端の方にあるベンチまでやってくる。すると、レイサが無い手足をめいいっぱい広げ、カズサにだっこをせがむ。毎日のやり取りの中で自然と身についた動作だった。
「はいはい」
誤ってクレープを落とさないよう気をつけながら、小さな体を抱き上げる。
膝に乗せるようにして、レイサと共にベンチに腰かけた。
「これは……!なんだかシュワシュワ?しますね」
「これが、ミレニアムクオリティってヤツなのか……」
レイサの口元へクレープを近づけ、その唇に軽く触れさせる。
そうすると、唇の触覚で位置を把握したレイサが小さく差し出されたクレープに食いつく。
そんな風にして二人は何とも言えぬミレニアムのクレープを味わった。
「へへ……ひひっ、きっとこんなクレープを食べたのは初めてですね」
「どう考えても初めての味だ。うん、意外と悪くなかったのが……衝撃的だ」
「へへへ」
レイサはひどく上機嫌で頭をカズサの胸にぐりぐりと押し付けた。
「そんなに動くと危ないよ」なんて言いながらカズサはその体を抱え直す。
人一人分の重み。熱。風が冷たい分、より強く感じられた。
「まさかこんな風にカズサさんと外に出られるなんて……嬉しいです」
「何言ってるの。また、許可もらえばいいじゃん。今度はもうちょっと遠出してさ」
「…………」
そこまで話して、カズサは背にひやりとしたものを感じる。
レイサの雰囲気が変だった。どこか、張り詰めたものを感じる。
僅かな沈黙がひどく重い。
「けど、私はもうすぐ死んじゃうから」
あっさりと、そんな言葉がレイサから零れた。
「…………なんで?」
「なんとなく。でもわかるんです。最近は昔の夢を見ることもなくなって──もう後ちょっとしか時間がないって」
「そんなこと──いや、だとしても!今ミレニアムも他の人たちもあんたを治す為に色んなこと調べてて、私も───!」
「でも、間に合わないです」
決まったこととでもいうように、断言する。
「……………………なんでそんな風に言うの?なんで、今──」
言葉を失うカズサの腕の中で必死に体を動かし、カズサの首筋にレイサは顔を埋めた。
自分から抱きつくように。その体は微かに震えていた。その声も。
「どうせ死ぬのなら、あなたに全部あげたい。私にはこんな体しかないので、カズサさんはいらないかもしれないですけど。できるなら、私の全てをあなたにあげて死にたい。全部、私の全てをもっていって欲しい」
死んで全てが失われる前に。
「……なにそれ」
「ずっとずっと考えていたんです。死ぬ前に何かできることはないのか」
「なんで……っ、それで…………なんで、私?私があんたにしたことなんて──」
自分が撒いた争いの種に巻込んで、最低最悪の目にあわせて、記憶も手足も、当たり前に持っているはずだった日常も未来も全部失わせることになって。
「私は──」
宇沢レイサを不幸にすることしかしていない。
何一つ言葉にできなかった。
彼女に事実を告げるのが恐ろしい。奇跡的に築かれた今の関係が壊れてしまうのが恐ろしい。
彼女に罪を弾劾されるのが恐ろしい。
口ごもったカズサに、レイサは優しく囁きかけた。
「カズサさん、あなたは私のお友達でしょう。私にとっては──"今の"私にとってはそれだけで充分なんです」
それは、カズサが嘘によって得たものだ。
「こんなの押しつけなんだってわかってます。だから、いらなければ私の事なんて放り出しちゃってください。どうせすぐになくなる命なので」
「──っ!あんた、バカにしてるの!!」
彼女を助けようとしている人たち。助けようとしている自分。生きているレイサ自身。
彼女を抱える腕に力を込める。放り出すことなんてできるはずもない。だって、この手を離せば、彼女は自分で立ち上がることもできず公園の地面に転がることになるのだから。
そんな理由で彼女を抱きしめている自分がひどく愚かなように思えて。
それでも、力を緩めることができなかった。
「ごめんなさい。けど……けど…………消えるのが怖い」
果たして、それはどういう意味だっただろう。
どうせすぐ死ぬと笑い、消えるのが怖いと掠れる声で呟いた。
「カズサさん……私は、誰……ですか?」
「誰って、レイサは……レイサで……」
「それは、あなたに何度も挑戦状を叩きつけた宇沢レイサですか?それともあなたが後ろめたく感じている宇沢レイサですか?それとも──」
あなたとクレープを食べた宇沢レイサですか?
耳鳴りがした。
それは、思ってもみない場所から放たれた矢だった。カズサに避ける術はなかった。
貫かれた胸の奥、心臓が痛い。
これもカズサの罪なのだろうか。
罰なのだろうか。
そんなはずはなかった。これは、ただ、カズサがバカなだけだった。
「……」
呆然としたまま、何も言葉を返すことができなかった。
それから、時間になっても戻らないカズサたちを気にして様子を見に来たエイミに声をかけられるまで、レイサを抱きしめたまま動けずにいた。

レイサの体調が急変したのはその翌日だった。

「ぎゃぁ!!?」
鋭い銃声が薄暗いブラックマーケットの路地裏で響き渡る。
一度、二度、それだけだった。それは戦いが一方的に終わったことを意味していた。
「逃げられると思わないで」
マビノギオンの銃口を突きつけて制圧した不良たちを脅す。
「ヒッ……キャスパリーグ!逆らわねぇ、逆らわねぇから止めてくれ!命だけは……!」
その恐れようがカズサのイライラを煽る。
「チッ……」
「ひぃぃぃ」
不機嫌そうに舌打ちすればそれだけで悲鳴を上げられる。
エイミの調査を手伝うようになってからキャスパリーグの名前がこれまで以上に知られるようになった気がする。いや、その前の事が原因か。
どちらにせよ、カズサとしてはあまり面白くもない状態だった。
「で、あんたたちがこれを買ったのはどこ?」
そう言って銃を持つのとは反対の手で振って見せたのは、彼らから取り上げた大ぶりのケーキナイフだった。最近よく見かけるヘイローを調理するための道具の一種……なのだろう。
近頃──レイサがさらわれてしばらくしてから───ブラックマーケットを出入りする不良の一部が持ち歩くようになったものだ。
「し、知らねぇよ!そんなのいちいち覚えてねぇ……!ただ、ネタにでもなればって……ぎゃあ!!」
奇妙なのは、話を聞くと一様にどこで買ったのかは覚えてないと答えること。そして、実際には使ったことがないと答えることだ。結果ガラクタかどうかもよくわからない道具をこうして集める羽目になっていた。
一方で、レイサのヘイローを壊したという焼きごては未だ見つからずにいた。
「こんなこと、してる場合じゃないのに……!」
苛立ったように気絶させた不良を縛り上げながらカズサは眉間に皺を寄せた。
初めての外出からすぐ、レイサは急激に衰弱し始めた。
まるで、あの日の言葉が引き金にでもなったかのように。
それもあってカズサがレイサと面会できるのも一時間から三十分、毎日から三日に一回と頻度を減らしていた。
ただでさえ、弱っているレイサにあの日の話を改めて切り出すことはカズサにできなかった。レイサもあれ以来、自分の内面を口にすることはなかった。
焦燥感ばかりが募り、その怒りのはけ口を探すようにエイミとの調査にこれまで以上にのめり込んでいた。
「カズサー、こっちは終わった」
二手に分かれていたエイミが目を回した不良たちを引きずっていた。
「こっちも終わってる。とりあえず縛ったけど……今回もあんまり情報はなさそう」
「そっか。一応こっちで改めて尋問してみる」
「りょーかい」
「でも、ひとまず今日はこれでおしまいかな。お疲れ様」
「うん、お疲れ」
今日も空振り。
その結果に内心で更に苛立ちを募らせながらカズサはブラックマーケットを後にした。
「あ……そうだ部長が明日二人きりで話したいことがあるって」
帰り道で。ふと、思い出したようにエイミがそう言った。
「二人きりで────りょーかい、わかった」
背筋に冷たいものを感じながらも、気にしてないようにカズサは振る舞った。
レイサが予断を許さない状況での二人きりの会話。それはひどく不吉な予感をカズサに覚えさせた。
胃の奥からせり上がってくるものをカズサは必死で飲み込んだ。
「……カズサ?」
「ん、何?」
「大丈夫?」
「何それ。別になんともないよ。そりゃ焦りはあるけど……それは当たり前でしょ?」
「……うん。ごめん、変なこと聞いた」
「エイミってば、よく変なこと言うし気にしないよ」
「むー、部長と同じカテゴリー扱いされるのは心外」
「あはは、気付いたかー。似た者同士だと思うけどなぁ」
「カズサ……それは看過できない。後できちんと話をしよう」
「ははは!今の反応そっくり!」

何か、忘れていることがあった気がした。
そう思って首をかしげたのは、ミレニアムに帰り着く直前の事だった。
すぐにそれも忘れてしまった。

──どうせ死ぬのなら、あなたに全部あげたい。
──全部、私の全てをもっていって欲しい。
──消えるのが怖い。
──カズサさん……私は、誰……ですか?
夜。
ここのところずっとカズサの頭の中でぐるぐると回っていたレイサの言葉が、いつにも増して頭の奥で鳴り響いていた。
自分はあの言葉になんと答えるべきだったのだろう。
何と答えられたのだろう。
あの日から毎日繰り返し考え続けていることだった。
消えるのが怖いとレイサは言っていた。けれど、きっとそれは死ぬこととは別の意味なのだ。
脳裏にかつてのレイサがフラッシュバックする。
──キャスパリーグ!いざ尋常に勝負です!
血の海にした館の地下で抱き上げたレイサがフラッシュバックする。
──へへ、なんだか夢の中の人みたい
変わり果てた姿で笑っている。
銃を片手に走り回るレイサ。取っ手のついた腕で身動きも取れずベッドに寝かされたレイサ。スイーツ部に囲まれて困ったような、けれど嬉しそうな笑みを浮かべるレイサ。良く躾けられた動物のように従順な言葉を話すレイサ。
きーーんと耳鳴りが強くなる。テーブルに置いてあったチョコを一つ頬張る。
甘いものは少しだけ気を紛らわせることができる。
最近のレイサにとって甘味とはそういうものになっていた。ずっと。

ここに来てから、ずっと。

焦燥が、カズサの中でくすぶり続けていた。
それと同じくらい、自分はレイサに何をすればいいのかという贖罪の望みがカズサを苛んでいた。
宇沢レイサの人生を破壊したのはカズサが見ずにいた業だ。
だから、償わなければ。そうでなくては、罪の意識で息が止まりそうなのだ。
彼女を救い出すことでそれを果たせたのではないかと、一瞬でも錯覚した。だが、それは単なる逃避だった。お前の罪は終わってない。レイサの余命の話を聞かされた際にカズサはそう思った。
宇沢レイサに償うのなら彼女を生かすために全てを尽くすべきだ。
希望はあるのだと言われ、カズサが下した結論だった。
けれど、あの公園の日以来、別のカズサが問いかけてくるようになった。
"今の"レイサの為にすべき事は他にあるのではないか、と。
消えたくないと、囁いた彼女のために。
だが、手段がわからなかった。そして、時間もなかった。
レイサはどんどん弱っている。このままでは宇沢レイサに償うことも、"今の"レイサに応えることも、どちらもできずに終わってしまう。
ぐらりと、体が傾く。咄嗟に壁について体を支えた。
情けない。
ここで倒れるわけにはいかない。
壁に額を打ち付けて自分を鼓舞する。

ふと、視界の端に何かが落ちているのが目に入った。
それはどこか見覚えのある大ぶりのケーキナイフで──。
ドクン
突然頭の中に浮かんだ恐ろしい考えにカズサの心臓が跳ねた。
あれは────だ。あれを使えば、彼女の望みを叶えられるのではないだろうか。
──どうせ死ぬのなら、あなたに全部あげたい。
──全部、私の全てをもっていって欲しい。
──消えるのが怖い。
──カズサさん……私は、誰……ですか?
公園で聞いたレイサの言葉が頭の中を巡る。
普段であればバカな考えと、自分の頭の故障を本気で心配しただろう。けれど、今のカズサにはそんな風に考える余裕がなかった。レイサの終りは迫っていた。
明日にも、彼女はいなくなってもおかしくないのだ。
それなら──それなら────それなら──────。

カズサは最後まで何故そこにケーキナイフが落ちているのか考えもしなかった。

夜でも明るい廊下の突き当たり。
いつもの様にゲストカードを翳す。扉は開かない。
ああ、そうだろうなと思っていた。
爆風が扉を吹き飛ばす。
部屋の中、以前よりも顔色を白くしたレイサがベッドに横たわっていた。
背後で甲高い警報音が鳴り響いている。カズサには関係のないことだ。
爆音で目を覚ましたのか、最初から起きていたのか、レイサは包帯の巻かれた顔をカズサへ向けた。何も言わず、膝と肘上から断たれた手足を広げ、抱き上げて欲しいと訴える。
優しく、いつものように、カズサは彼女を抱き上げた。そして耳元で自分の考えを告げる。
返さなければとずっと思っていたあの日の返事。

レイサは、とても幸せそうに笑った。

「部長!!」
エイミの鋭い声にヒマリは顔を向けずに応える。
「現在各施設の封鎖とドローンの配備を進めていますが……今の彼女に対してどこまで意味があるか」
その手は話している最中もキーボードを高速で叩いている。学区内の各システムを操作し、突如凶行を起こしたカズサの追跡と捕縛をするためフル稼働させていた。
「ごめんなさい……私がきちんと見てなければいけなかったのに。気が緩んでいた」
「それを言うなら私こそ──いえ、今はそんなことを言っている場合ではありません。とにかくエイミも急ぎ彼女の追跡を。ナビゲートはこちらで行ないます。彼女は今レイサさんを連れています。あなたであれば取り押さえることも可能なはず」
「──了解」
返事が一瞬遅れたのはキャスパリーグがそれほどまでに強敵であるから。
幾度も調査の為に行動を共にしたエイミはカズサの強さをよく理解していた。
部屋を飛び出し、駆け去って行くエイミの足音。それを聞きながらヒマリは一人呟いた。
「リオの時とまるで同じではないですか。私はこんなにも──っ」
言いかけて口を噤む。『全知』の名にかけて己を無様に貶すことは決して許されない。
それはヒマリのある種の矜持であった。
「──どうか、早まらないで」
だから、代わりに祈るようにそう口にした。
手は今も休むこと無く動き続け、ディスプレイには様々な情報が流れ続けている。
古巣のヴェリタスにも応援を求めているがあいにく反応がない。
嫌な予感を振り払うようにヒマリは己の役割に集中した。

昔のこと。
私にとっての確かな昔とは、ご主人様とお姉様、そう呼んでいた二人の主に従っていた頃の記憶です。それ以前の記憶はひどく靄がかかったように曖昧で、漠然とした情報を取り出すことはできてもひどく実感のない何かでした。
ご主人様とお姉様はたくさん可愛がってくれたけれど、ある日お金が必要だといって私を売りました。残念だったけれどご主人様たちがお金を得るためなら仕方ありません。
次のご主人様の言うこともよく聞くようにと言われ、私は彼女たちの元を離れることとなりました。
私を買ってくれた新しいご主人様は、私の体をもっと綺麗にしてあげようと言いました。手足が切り落とされとても痛かったですが、ご主人様が望んだことだから私は喜んで応えました。取っ手を持たれて持ち運びされるというのも、私にとってはそう悪いものではありませんでした。
ただ、その頃から時間の感覚が少しおかしくなっていました。
何というか、上手く時間をひと繋ぎに認識できなくなったのです。瞬間瞬間の事は覚えているけれど、それらの記憶の繋がりが上手く理解できない。
愛玩奴隷である私にはあまり関係のないことでしたけど。
痛いことも、苦しいことも、ご主人様に与えていただけるなら嬉しいことでした。もちろん気持ちいいことも。だから私は決して不幸せではなかったのです。
そのはずでした。
一度、お腹の中がぽっかりと空くようなとても悲しい出来事がありました。
何があったかはもうよく思いだせなくて。
けれど、その頃から、私は自分の今の扱いがあまり幸せなものではないのではと思うようになりました。気持ちいこと、痛いこと、苦しいこと。感じ方は変わらない。
けれど、何か間違っているのだと。
まるで夢から覚めたような感覚。
だからといって、手足もない、自らの世話すらできない私には関係のないことでしたが。
ただ、その頃から寝ているときに夢を見るようになりました。
それまではどこか遠いものと思っていた学生だった頃の自分の夢。夢の中の私は怒ったり、笑ったりとても忙しなくて、それがなんだか楽しそうでした。
私はいつもそれをどこか遠くで見下ろしていました。
誰かと笑い、怒るあの少女。記憶の中の自分。なのにそれはまるで他人のようで。
ほんの少し、うらやましかった。

ある日、いつもならご主人様がやってくる頃になっても扉が開かなくて、少し遅れて別の誰かがやってきました。
声も良く聞こえない、姿もよく見えなかったけれど、彼女は私を抱き上げて泣いてる事がわかりました。私は少し前、悲しい出来事で泣くようになってから、ご主人様に何度も泣くことを求められていて、だからか彼女の悲しいという気持ちもすぐに感じることができました。
泣き止んで欲しいと思いました。
初めての経験でした。
彼女は私を一生懸命に抱きしめて、その体温がとても温かかったのです。
まるであの過去の夢の中にいるように。
夢と違うのは、その中心にいるのが幸せそうな少女ではなく、抱きかかえられた私と私を抱いて泣く誰かということ。それは、あの少女のように私も幸せになれたのだと感じさせてくれました。夢から覚めて、夢を見るようになってから初めて感じた幸福でした。
幸福に包まれて私は意識を失いました。

次に目を覚ますと、ひどく冷たい現実が私を迎えました。
抱きかかえてくれた人はいなくなっていて、周囲はひどく騒がしかったです。
覚束ない会話で私は保護され、治療を受けているのだと知りました。
何を治療しているのだろう。
私は奴隷だから命令してくださいというと、あなたは人間だと言われました。
人間。なんだか遠い言葉で、けれどそうあるように求められたなら人間にならねばと思いました。
奴隷を止めるのは想像以上に恐ろしいことだと、後から私は知りました。
奴隷であった時はただご主人様から与えられることを受け取れば良かったのです。そういう風に私はなっていました。痛みも苦しみも快楽も悲しみも。与えられ受け入れるものでした。そこには肯定しかありませんでした。
人間は違うらしいのです。
私はうまく人間ができなくて途方に暮れました。夢の中の、学生の私であればうまくできたのでしょうか。
もっとも、ベッドの上から自分で動くこともできない体でしたから、そんな悩みもあまり問題にはならなかったのですが。

自分の寝かされる部屋が変わって、ある日彼女がやってきました。
何故でしょう、声を聞いてすぐにわかりました。
あの日、自分を抱き上げてくれた人。温かくて、私を幸せにしてくれた人。
私は浮かれていました。自分でもよくわからないけれど、彼女とであれば少しは人間をやれるような気がしたのです。
ただ──、彼女は学生の頃の私の友人でした。
それを聞いてどうしてか私は落胆しました。
彼女──カズサさんと毎日話すようになって、段々とその理由を理解し始めました。
誰もが私を宇沢レイサと扱います。遠い夢の中の幸せそうなあの少女として。
だけど、私はもう、彼女を同じ人間と思う事ができないのです。私は愛玩奴隷──だったレイサです。学生の宇沢レイサではありません。
けれど、他人にとっては違うのです。私はトリニティ総合学年一年の宇沢レイサ。
そう思ったとき、とてつもない恐怖が私を襲いました。
私という存在がなかったことにされる恐怖。
彼女と私は別人なのに、私は彼女であるとされていました。そう呼ばれ、そう扱われていました。
きっと死ねば、トリニティ総合学年一年の宇沢レイサが死んだとされるのでしょう。
それは死ぬよりも恐ろしいことでした。
私は私であることを誰かに知って欲しかった。そして覚えていて欲しかった。
けれど、無理でした。ベッドから動けない私の世界はあまりに狭く、私を知ることのできる人間はほんの僅かでした。そして、そのほんの僅かな彼らにも私が私であるのだと説明できる気がしませんでした。カズサさん以外の人と話すのはひどく恐ろしかった。人間としてどう振る舞えばいいのかがわからない。
対する学生の宇沢レイサにはたくさんの友人がいるのでしょう。彼女は既に多くの人に宇沢レイサと知られています。私が立ち向かう術はないように思えました。
カズサさん以外には。

彼女が思い出話をするのが辛かった。
楽しそうに宇沢レイサとの記憶を語るのが悲しかった。
それでも、私は無邪気を装って思い出話をせがみました。
宇沢レイサを知るために。宇沢レイサに勝つために。宇沢レイサを倒すために。
杏山カズサを奪い取るために。
私は生まれて初めて憎しみを知ったのです。
私の大好きなカズサさんの中にいる宇沢レイサが許せなかった。
彼女がいる限り、私はカズサさんの中に残れなかった。宇沢レイサがひどい目にあった姿にしかなれない。
私は私が消えないために宇沢レイサを消そうとしていました。

初めて外に出ました。
正確には売られた時、カズサさんに運ばれた時、部屋が変わった時等にも外に出ていたはずですが、それは運ばれたのであって、やはり外出ではなかったのだと思います。
場所はあえて宇沢レイサとの思い出に近い場所を選びました。
そこで、宇沢レイサとは別の思い出を作るのです。
そう決意し、私はカズサさんとの公園デートに臨みました。
──友達同士でもデートになりますよね?
おしゃべりして、パフェを買って、食べさせてもらいました。それは宇沢レイサにはない、私とカズサさんだけの思い出です。
嬉しくて、嬉しくて、何故か涙が出そうになって──言うつもりのない言葉を口にしていました。
あんなこと言いたくはなかった。
公園デートは最後まで楽しい思い出であって欲しかった。
だってきっと、ほんの少ししか残せない私とカズサさんの記憶だから。
なのに───。
私は自分の口が勝手に動くという体験を初めてしました。
人間とは恐ろしいものでした。
ずっと隠していた多くのことを口にしてしまいました。浅ましい望みを口にしてしまいました。私は自分が恥ずかしかった。
それでも、どこかでホッとしている自分もいました。だって、きっとこれでカズサさんは私の事を覚えていてくれる。たとえこのまま死んだとしても、彼女だけはレイサがいたことを覚えていてくれる。そう思うとドッと重荷を下ろせたように思いました。
カズサさんはとても困った様子で何も言わず私を抱きしめてくれました。
きっと、たくさん悲しんで、たくさん苦しんでいます。
それがとても申し訳なくて、けれど──嬉しかった。
私の事をカズサさんがたくさん考えてくれているから。
私は自分がひどい人間なのだと知りました。

──────そう、口にしたのはそこまで。
それ以上の、最低な、言うべきでない事柄はなんとか口にせずに済みました。
抱きかかえられると私の体が高ぶり火照っていたこと。彼女のほおに触れる度その唇に口づけしたいと願っていたこと。カズサさんが私の髪に顔を埋めたとき私の秘所が愛液に濡れていたこと。
愛玩奴隷の時はそれでよかったけれど、人間はそうではないのです。
カズサさんに憎まれるのも恨まれるのも構いません。けれど、軽蔑されるのだけは嫌だった。
だから、この感情だけは絶対に誰にも言いません。
宇沢レイサだって持っていなかっただろう、私だけの秘密。

それから、ドンドンからだから力が抜けていくのを感じました。
自分でも思った以上に死が近かったようです。
けれど、私は満足でした。カズサさんには怒られてしまって悲しかったけれど。私を生かすために頑張っている人たちには申し訳なかったけれど。
でも、レイサとして死ねると思うと、私は恐怖や悲しみよりも安堵を感じてしまうのです。

カズサさんと会える日が少なくなっていって、死を枕元に感じていた時、カズサさんが私の元にやってきました。
そして、私の願いを叶えてくれました。
ああ、カズサさん大好き!本当に、本当に大好き!
何よりも愛している。誰にも渡したくない、誰にもとられたくない。
どうか──どうか────どうか──────この人を私だけのものに。

そのケーキナイフでヘイローを切り出すと、フワフワのシフォンケーキになった。
調理とはこういうことをいうのだろうか。少し疑問ではあったが今はそんなことは問題ではない。
この辺りで特に背の高いビルの屋上。大きな満月の下でカズサはレイサを抱きかかえていた。この場所が特定されるまで幾ばくかの時間はあるだろう。建物もあらかた制圧し、電気系統も壊したはずなので昇ってくるのに時間もかかるはずだ。

スイーツを味わう時間はあるだろう。

そう思い、切り取ったレイサのヘイローを口に含んだ。
「あっ♡あぁっ♡♡あっ♡」
フワフワのスポンジは噛みしめた途端とろりと溶けて優しい甘さと共に口の中に広がっていく。どこか素朴で、けれど何度でも口にしたくなる。そんな甘さ。
少し名残惜しいけれど、口の中のケーキをゴクリと飲み込む。
「あ゛あ゛あ゛~~~~♡♡」
ヘイローを食べられると、どうやら性的な快感を覚えるらしい。
砕けたヘイローを少し減らしたレイサが、カズサの咀嚼にあわせて体を震わせていた。激しく体を揺らすものだから包帯が解けかけ、二重の意味に濁った瞳が覗いている。
あまり動いては転んでしまう。
カズサは体全体でレイサをしっかりと抱き込むと再び彼女のヘイローにナイフを当てた。
「もっど♡もっど♡もっど♡あ゛ぁ゛♡食べてください゛♡」
刃の入れ方を変える度、少しずつヘイローケーキも味を変えた。ベリー系の果実が入って程よい酸味の刺激が加わる事もあった。カスタードクリームが詰まっておりより濃厚な甘さを感じることもあった。レイサのヘイローひとつが、カフェで何種類ものスイーツを頼むのと同じようにカズサの舌を楽しませた。
何より、基礎となるスポンジの歯触りと程よい甘みこそ、どんなバリエーションも全て楽しめる一番の要因だった。
「お゛っ♡お゛っ♡あ゛っ♡やっ♡ヘイロー♡お゛ぁ♡カズサさんのっ♡胃のっ中で♡溶かされてるぅ゛♡♡♡全部、ドロドロになっでぇぇえ♡♡」
小さなレイサの体がゴムまりのように跳ねる。だが、手も足もない体では、しっかりと抱え込まれたカズサの腕の中から抜け出すこともできずただ、触れあった体ごしにオーガズムを伝えるばかりだった。
カズサは、こんなにもスイーツを食べて幸せになれたのはいつ振りだろうと思った。
それは、もうずっと昔、遠い夢の中の出来事のように思えた。
「レイサのヘイロー♡……美味しい♡私の知ってるケーキの中で♡レイサのケーキが一番美味しい♡」
うっとりと、舌鼓を打ちながらレイサのヘイローを味わう。その度、腕の中のレイサがビクンビクンと跳ねるのも、なんだかいいアクセントになっているように思えた。
「う゛れ゛し゛い゛♡嬉しいっ♡です♡カズサさん♡♡カズサさん♡♡♡カズサさん♡♡♡♡♡」
何度も名前を呼ばれる。少しは恥ずかしくて、けれどやはり嬉しい。
その呼びかけに応えるように、口に入れたヘイローをより丹念に噛みしめた。星屑のように振り掛けられていたザラメが歯ごたえに変化を加え、口の中を楽しませてくれる。
「あ゛っ♡あ゛っ♡ヘイロー♡歯で♡ギュッ♡ギュッ♡って噛みつぶされて♡ジュワジュワって砂糖みたいに♡溶けて♡♡♡あ゛ぁ゛~~~~~~~っ♡♡」
折角なら紅茶も用意すれば良かったなと、ふと思った。
月夜のお茶会というのもおしゃれだろうと。
残り少ないヘイローを惜しむように、体中から体液を漏らし歓喜に震えるレイサの耳を食みながらカズサはそんなことを考えた。
あぁ、でも。
今はそんなことよりも。
早く、彼女の全てをもらってしまわなければ。

エイミがビルの屋上にたどり着いたのは、天上の月が僅かに西に傾き始めた頃だった。
内部からの突入に時間がかかると判断したヒマリの指示でヘリを使い直接屋上に降り立つ。
「動かないで!レイサを解放して……カズサ」
普段では中々聞くことのできない、必死さの滲むエイミの声。
彼女の銃口の先、うずくまっていた人影が、その声に応えるように立ち上がった。
フワフワとした髪を伸ばしたその姿は──
「……レイサ?」
ボーッとエイミの方を見る少女の顔にエイミは戸惑い、僅かに銃口の位置を調整する。
その耳元で、通信先からヒマリの息を飲む声が聞こえた。
『────まさか、なんてこと』
真っ先にエイミが違和感を覚えたのは目だった。彼女の知るレイサは光に弱くなった目を守る為、いつも包帯を巻いていた。その下の目はあまり見たことがないが、ひどく濁った色をしていたはずだ。
眼前のレイサの目は夜空の下でも獣のように紅に鋭く光っていた。
そして彼女が身に纏っている黒いパーカー。
それはいつもカズサが着ていたはずのもので。
そして今更になって眼前のレイサには手足があるという、最大の差異にエイミは気づいた。
ヒマリが息を飲んだ理由を彼女も遅れて理解する。
「カズ……サ……なの?」
愕然と、エイミはそう問いかける。
未だどこかボーッとした様子の少女は、手にしていたケーキナイフを地面に放り、ぽつりと呟いた。
「……レイサ、食べ終わっちゃった」

「まごう事なき私の失態です」
その事件を振り返る時、明星ヒマリはいつも悔しそうに俯いてそう言った。
「カズサさんが精神的に追い詰められていることをきちんと理解していなかった。彼女が決して無敵のキャスパリーグなどではなく、ごくごく普通の放課後スイーツ部の一年生であったことを私は知っておくべきだったのです」
事件についてまとめられた報告書には未だ不明とされる点も多い。何より核心であるヘイローを書き換える"装置"がどのような仕組でその事象を発生させているのか、誰が何の目的でこれらをばらまいているのかすら定かではない。
いまだこの事件は終わっていない。
「現状でひとつ仮説を立てられるとしたら、あれらの"装置"を使用するには条件──資格と言い代えてもいいでしょうが──そういったものを使い手に要求するのだろうということです。あれだけ雑多にばらまかれながら、ヘイローを欠損、喪失した事件は未だレイサさんのみです。その理由は、"装置"を手にした人の多くがその資格を有していないが故ではないかと」
回収された、カズサが使用したケーキナイフを持ち上げ、自身のヘイローに向けて振り下ろしてみせる。あまりにも危険な行為だが、ナイフはヒマリのヘイローと干渉せず、ただ通り抜けるだけだった。
「私は始めそれを個人への強い悪意と仮定していました。レイサさんを傷つけた方々がカズサさんに抱いていた憎悪、悪意……そういったものがこの装置には必要なのではないかと。ですが──カズサさんの事を思うと、少し違うのかも知れませんね」
深く、溜息を吐く。
愁いを帯びたヒマリの目には、しかし確固とした意思の光が宿っている。
そう、彼女は決して事件の解決をあきらめて折らず、今後も──

「部長~、一人でブツブツなにしてるの?」
閉じられていた扉が開き、薄暗い部屋に光が差し込んだ。
「あらエイミ...…少し音声データでの口述記録の保存を……もうこんな時間なのですね」
「そうだよ。カズサももう到着するから、出迎えなきゃ」
「……彼女はカズサさん、で良いのですね」
「ん?」
「あの姿になったということは、レイサと名乗るかも知れないなと少し思ったので」
「中身はカズサなんだからカズサだよ」
「それはそうでしょうけれど……はぁ、エイミはまだまだ人の機微というものがわかっていませんね」
「部長が変に深読みしようとしてるだけだから」
ほらいいから、と。エイミは車いすを押してヒマリと共に部屋を後にした。
部屋には、ケーキナイフだけが残された。

朝日の差し込む部屋で鏡に映る自分の裸の姿を見る。
幼げな顔立ち、小さな胸、細い手足、ふわりとした髪に星が散る。その中で紅い眼光だけが異彩を放っている。
頭上のヘイローは大きな星形と小さな円形を組み合わさったものだ。
レイサともカズサとも違うヘイロー。
「……準備しよ」
ミレニアムの制服であるシャツを身に纏いその上から黒いパーカーを羽織る。
ジッパーを上げる。どうもミレニアム生は上着を半分ほど崩して着る文化があるらしいが、今ひとつなじめなかった。
髪は二つにくくらない。
彼女は一度もあの髪型にはならなかったから。
まるで本能的に自分は違う存在なのだと主張するように。
パーカーの外に髪をかき出す。
その際に首元の紅い首輪がチラリと映った。
まさしくそれは首輪だった。カズサがどこにいるかを常に監視し、最悪の場合にはカズサを停止させる機能もついている。決して外すことのできない猛獣の首輪。
「……」
あの日、カズサがレイサのヘイローを全て食べ終わった後、ヘイローを失ったレイサの体は跡形もなく消え、代わりにカズサの体がレイサと酷似したものへと変わっていた。どういう仕組で何が起こったのかはミレニアムの天才たちにもわからなかったらしい。
ヒマリは「あなた自身が特異現象となった……そういうことでしょう」と言っていた。
特異現象と言うことばを便利に使いすぎなのでは、と最近になって思い始めているカズサだったが、だからといって代案があるわけでもなかった。
カズサも便利によくわからないもの全般を特異現象と呼んでいくことになるのだろう。
ヒマリは「あなた方の身に起きた出来事はあらゆる意味で世間に公表できません。そしてあなたという存在そのものも」と言い、ならば殺されるか閉じ込められるかと身構えていたカズサを、そのままミレニアムの秘密工作員としてスカウトしてしまった。「どうせこれからやることも決めていないでしょう?」と。
なんだか見透かされた気がしたが、言われた通りだったので大人しくスカウトされることとなった。
現在、杏山カズサは矯正局の奥深くに面会禁止の上で監修されており、宇沢レイサはミレニアムでの最先端医療での治療も叶わず死亡した、ということになっている。
真実はすべてカズサの腹の中だ。
かつての杏山カズサを知る友人たちには申し訳ないと思った。
けれど、レイサが巻き込まれた事件を思えばやはりこれで良かったのかも知れない。
そうしてカズサは『隷砂カズサ』と名乗り、ヒマリ監視下の元で引き続きヘイローを操作できる"装置"の調査を担当していた。
今となっては"装置"自体にそこまで強い感情を持っている訳ではない。それでも、色々と因縁のできた存在でもある。どうせ一度は終わらせるつもりだった命、事件の解決までは今の立場に甘んじようと考えていた。
あの満月の日、カズサは確かに"装置"の──あるいはその裏にいる何者かの悪意に背中を押されてた実感があった。ひどく不安定だったカズサの心の天秤を傾けた何か。"装置"にまつわる事件には何者かの深い悪意が絡んでいるように思えた。
その悪意を暴きたい、というのがカズサがこの件に関わる動機でもあった。
とはいえ、あの日の行動を後悔したことはない。彼女の命が既に風前の灯火であったことは確かであるし、そんな彼女の願いを自分は叶えられたと考えていた。たとえそれが他者から見ておぞましい所行だったのだとしても。
あるいは、そう感じるのもヘイローが変質することで価値観が変容したからなのかも知れないが。そりゃあ首輪をつけないわけにも行かないだろうな、と首元を撫でる。
この姿も、あのレイサの願いが形になったものだとカズサは考えていた。
自分という存在を残したい。
宇沢レイサではない、レイサの存在を覚えていて欲しい。
そんな願いがヘイローを取り込んだカズサの姿を変えたのだと。
「そうでしょ、レイサ」
胸の奥、そこで眠るレイサへとそっと呼びかける。
彼女は今もカズサの奥深くで微睡んでいる。誰にも言っていないが、カズサは確かに自分の奥深くにレイサの存在を感じていた。長い、長い、幸せな夢を見ているレイサを。
いつか彼女が目を覚まし、夢の外へと踏み出すこともあるのだろうか。
その時、自分はどうなるのだろうか。

きっとその時になればわかるだろう。

今はただ──カズサは甘い夢の外で。
レイサの甘い夢の続きを抱き続ける。
お知らせ
実務でも趣味でも役に立つ多機能Webツールサイト【無限ツールズ】で、日常をちょっと便利にしちゃいましょう!
無限ツールズ

 
writening