キャット・パニック 後編


 ごつごつとした感触の大きな手が、正雪の頭から背中に向かって優しく滑る。それだけでも体を震わせるには十分なのに、頬に手を添え、愛おしそうに耳の付け根を肉刺の出来た親指で撫でつけるものだから堪ったものではない。

「気持ち良いか?」

 そこで止めに、何処となく甘みを帯びた声で尋ねてくる想い人だ。この時ばかりは猫の姿で良かったと正雪は思った。仮に元の姿で伊織にそんなことをされてしまえば、顔どころか全身を赤く染め、下手をすればキャパシティオーバーで気絶するような事態に陥っていただろう。そこまで考え、いやそもそも猫になったから斯様な状況に陥っているのだぞと、正雪は己を叱咤する。

(~~~~~~っ、セイバー! はやくっ、きてくれ……!)

 羞恥のあまり目を強く瞑った正雪は、この地獄と天国が同時に襲い掛かって来たような現状から逃れたいがために、茹った頭でそう強く願った。

 事の起こりは、霊基異常により正雪がマスターの目の前で猫になってしまったことである。突然猫化したことによりパニックに陥るより早く、マスターの手腕によって夢見心地の状態にされた正雪は、自分を抱えどこかに連れて行かれようと、自分を抱える存在の匂いが変化しようと、自分を挟んで会話されようと、特に気にすることも無く夢心地のまま素直に身を委ねていた。マスターに抱えられているのではないと朧気ながら気づいていたのに、このままが良いとはしたなくも喉を鳴らして甘え切っていた。
 きっと、それがいけなかったのだと今では思う。
 霊基異常を治すにはどの道こうなっていたことは明らかではあるが、それでも少なくとも寝惚け姿を伊織に見られるなどという恥ずかしい思いはせずに済んだ筈だからだ。

(そもそも何故……っ、此度の霊基異常を治すための手段が『懸想している相手に愛でられること』なのだ!?)

 これでは伊織殿に秘めている想いを伝えたも同然ではないか!? と正雪は今にものた打ち回りたい衝動に駆られている。と云うか、伊織が魔術工房で本を読むことで正雪から意識を逸らしている間、実際にのた打ち回っていた。
 正雪は、生前より芽生えた想いを伊織に伝える気は全く無かった。想いに応えてほしいとも思っていないし、そもそもそんなことを思うこと自体烏滸がましいとすら考えていた。故に、ひとしきり身悶えた後は別の解決策が見つかるまでしらばっくれて逃げようという選択肢さえ浮かんでいたくらいだ。
 しかし結局、正雪はそうせずに伊織の部屋に留まった。
 別の解決策が生まれるまで猫のままでいると云うことは仕事を放棄してサボっていることと同意であるし、そもそも別の解決策が見つかるとも限らないこともそうだが──伊織の様子が心配になったからだった。

(条件を云い澱んだ時はあからさまだったが……)

 部屋の出入り口を開けて正雪に退室を促した時も、落ち着いているように見えて何かが違うと正雪は思った。それを無視して出て行ってしまえば、致命的な過ちになると脳内が警鐘を鳴らしていた。その理由が何なのか正雪はとんと検討が付かなかったが、今の伊織を独りにしてはいけないのだと思い、恥を忍んでこうして愛でてもらっているのだが、前述の通り伊織の言動が妙に甘ったるいためとても心臓に悪くて仕方が無い。それに加え、激しい動悸と緊張に苛まれているのにも拘らず、これでもかと云わんばかりに大きく響くゴロゴロと鳴る喉が恨めしい。幾ら猫の姿とは云え、身体が正直すぎる。

「失礼」

 声が降ってきたと共にやって来た浮遊感に、正雪は思わず目を見開いた。直前まで自分の中の羞恥心と戦っていたせいで抵抗する間も無く、伊織の腹を背凭れにする形で正雪の身体がピタリと納まる。何事だと慌てて伊織を見上げた正雪に、返ってきた言葉がこれだ。

「いや何、そろそろ頭や背中を撫でられるのは満足しただろうからな」
(満足どころか慣れてすらないのだが~~~~~~っ!!!?!?)

 そんな正雪の抗議は、勿論伊織には届かない。正雪が威嚇どころか唸り声も上げて来ないことを良いことに、伊織は少し楽しげに笑いながら、肉球を優しく揉み始めた。背中から感じる伊織の体温もそうだが、前脚にダイレクトに伝わる手の感触と温かさに正雪は眩暈すら覚えてしまう。
 時折「くすぐったくないか?」と声が降ってくるが、反応する余裕が正雪にはない。しかし喉はずっと鳴り続けているため、正雪は本気で泣きたくなった。そこで更に、正雪に追い打ちがかかる。猫の姿の正雪を潰さぬよう前屈みになったかと思ったら、何を思ったのか伊織は正雪の前脚の甲に軽く口づけを送ったのだ。

「~~~~~~~っ?!?!?!!?」
「ぶふっ! ……す、凄い声が出たな…………っ」

 鳴き声にならない悲鳴を上げた正雪の様子に、伊織は思わず噴き出したようだ。笑うことで起きる振動を直に受け、流石の正雪も抗議のために唸り声を上げ、驚きのあまり逆立ったままの尻尾を激しく動かさざるを得ない。

「ああ、すまんすまん。別に揶揄ったわけではないから機嫌を直してくれ」
(絶っっっっっっっ対に嘘だろうっ!!!!)

 これ以上はもう無理だと逃げ出そうと暴れる正雪だが、伊織の大きな手に阻まれてそれは叶わない。しかも正雪のその行動が、自身を更に追い詰めるきっかけとなった。

「こらこら、危ないから暴れるな。落ち着け正雪」

 しっかりと身体を伊織の逞しい腕に抱えられ、皮の厚い指で優しく撫でられた額に、軽く口づけを送られたのだ。

 それが、止めだった。

   *   *   *

 ぼふんっ。
 そんな効果音と共に、腕の中の重みが増した。正雪が無事人の姿に戻れたことを察した伊織は、逃げ出されぬよう正雪を支えている腕に力を入れる。だが、伊織の懸念はある意味で杞憂だったらしい。馴染み深い男物の和装に身を包んだ正雪は、新雪のような肌を赤く染めて気絶していた。顔どころか首元、それに白魚のように美しい指先すら目に見えて分かるほど紅潮しており、少し荒い吐息がどこかなまめかしい。
 ごくり、と伊織は思わず生唾を飲む。先程まで穏やかな温かさで満たされていた胸の裡の空洞から飢えが這い上がってくるのを感じ、それを追いやるよう頭を振った後大きく息を吐いた伊織は、一旦正雪を畳に横たわらせた後、部屋の隅に畳んでいた煎餅布団を敷き、その上に彼女を寝かせ掛け布団を被せた。
 少し落ち着いたのか穏やかな寝息を立てる正雪の頬にそっと手を寄せる。すると猫の時のように自分から擦り寄り、伊織が今まで見たことの無いようなふにゃりとした表情で笑ったものだから、思わず反対の手で顔を覆った。

(…………愛い)

 犬や猫に感じていた愛らしさとも、妹に感じていた愛おしさとも違う、正雪へ感じる愛情。それが形となった瞬間、今まで理解できていなかったものがあっという間に分かってしまった。生前から唐変木云々と妹に云われ続けていた理由が分かった、本当に我が事ながら鈍すぎる。だが、気づいたからには最早遠慮はしない。幸いにも、此度の霊基異常で正雪が伊織へ心を傾けていることは分かったのだ。ならば、早々に仕留めてしまえば良い。

「……起きたら、覚悟しておけよ?」

 肉食動物が獲物を見つけて舌なめずりをするような笑みで告げ、幸せそうに、気持ち良さそうに寝ている正雪の瑞々しい唇へ、伊織は触れるだけの口づけを送った。
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