皇帝ネロ 論評


 ローマ帝国の第5代皇帝ネロ・クラウディウスは、その評価が定まらないことで有名な人物である。
なにせ、かの皇帝に対する後世の評価はキリスト教徒たちによる政治宣伝(プロパガンダ)によって歪められており。
当人に近い時代の資料も、ヌオーの存在のせいで信頼性が大きく損なわれているからである。

 そうヌオーである。
神話や御伽噺に語られる存在が、かの皇帝の治世ならびに生涯に絶大な影響を与えたという。
皇帝ネロが成し遂げた三大事業。
すなわち、ローマ大火への対応と帝都の再建とローマ街道の整備、コリントス運河開通に、このヌオーが大きくかかわっているというのだ。

 たしかに、この三大事業を、実権を握っていた期間がわずか10年も無い皇帝が行うには時間も予算も人材等を含めた、なにもかもが足りない。
では、その不可能を可能にしたヌオーとは何者なのか?
本当に御伽噺の存在が、ネロ帝の時代のローマ帝国には存在していたのか?
それとも、ヌオーとは隠語で、実は個人や集団のことだったのか?

 今回はネロ帝や周囲の人々が残した日記を頼りに、ネロ帝の生涯を追うことで考察していこう。

① 皇帝になる前の話
後の皇帝ネロは、紀元37年にローマの執政官の家系であるアヘノバルブス家で誕生した。
彼女は……そう皇帝ネロは女性であったと、当人の日記や周囲の人々の日記には記録されている。
3歳になるかならないかので実父は死に(毒殺の可能性が高い)、その後は母親ともども当時の皇帝カリグラによって、ローマを追放された。
とはいえ、皇帝カリグラは自身の暗殺が近いことを予見して、ネロとその母アグリッピナを追放したという説が有力である。
というのも、追放時に没収されたネロとアグリッピナの財産等が手付かずなうえに、カリグラ暗殺後にあまりに速やかに返還されているからだ。

 その後、カリグラの次に皇帝になったのがクラウディウスである。
彼は堅実で優秀な皇帝だったが、女性運が絶望的に無かった。
とくに有名なのは、3番目の妻メッサリナと4番目の妻アグリッピナであろう。
メッサリナは不倫の果てに夫を暗殺しようとして、それが露見して処刑。
アグリッピナは甲斐甲斐しく仕える振りをしながら、権力をすこしずつ奪い取り、頃合いを見てクラウディウスを毒殺したとされる。

 さて、メッサリナが紀元48年に処刑後、アグリッピナは紀元49年に後妻におさまった。アグリッピナは、クラウディウスの寵愛を利用して、地道に権力を掌握していった。
そしてネロをクラウディウスの後継者に捻じ込んだのである。
……ネロを次期後継者にした方法だが、それはクラウディウスの娘であるオクタウィアを
ネロと婚約させるという異常な方法だった。
女性同士の結婚を認めるというのも異常なら、クラウディウスには聡明かつ頑健で容姿端麗な嫡子ブリタンニクスがいながら、ネロを次期後継者にしたのだ。

当然ながら元老院は反発したが、クラウディウスは強行したという。
一説には、ブリタニンクスとオクタウィアの母メッサリナが、不貞の果ての処刑だったせいで、二人のことを実子だと思えなくなっていたのではないかと言われている。

 アグリッピナはネロが次期後継者になった後、家庭教師として高名な哲学者セネカをつけた。
この頃に、ヌオーなる存在も日誌に現れるようになる。
当初は愛玩動物扱いだったが、ヌオーによる最高品質のガルム(魚を発酵させてつくる調味料)やワインにビール。
さらには当時不治の病だった、痛風等の貴族特有の病気の治療等により、アグリッピナ等に莫大な富と利権をもたらしたという。
また、ネロはこのころから、ヌオーに懐いていたことが当時の記録からもわかる。

最終的にクラウディウスは、ネロが17歳になると趣味の美食で出た茸の食い合わせが悪く死亡する。
これはアグリッピナ子飼いの毒使いロクスタが、毒茸を仕込んで暗殺したのだとされている。

 幼少期から、障害が理由で不遇の人生を歩まされ、カリグラ帝の後始末を押しつけられた果てに、毒殺という哀れな最期であった。
そんな義父の人生は、ネロ帝の心に深い傷となって残ったことが彼女の日記からうかがえる。
当時の彼女は、自分もいずれ利用されるだけ利用されて殺されると思っていたそうである。

幕間 ローマ帝国におけるヌオー
 ローマ帝国においてヌオーは、女神クレメンティア(女神エレオスのローマ版)の眷属として好まれていた。
その人気ぶりは、古代ローマの遺跡が発掘された際には、必ずヌオーの彫像が出土される程だ。
ヌオーの彫像には幸運を呼び、病魔などを退ける効果があると信じられていたという。

 また非常に珍しいが、生きたヌオーが見られることもあったとされ、西暦496年の西ローマ帝国の滅亡までのあいだに残された目撃証言は多数存在する。
もっとも、ほとんどは虚偽か誤解だと考えられるが。

 余談だが、ネロ帝の時代には、イケニ族がヌオーの集落を保護しているという伝説があった。
それが原因で、一部の元老院議員がイケニ族の相続に干渉し、ブーディカの乱が起きたとされている。
事実かどうかは不明だが、これを口実にネロ帝が元老院議員の大粛清を行った。
ブーディカの乱を鎮圧したパウリヌスでさえ、上記の件への関与が疑われたせいで、軍の指揮権を剥奪され、凱旋の名誉さえ与えられぬ不遇の扱いを受けた。
このことが、ネロへの元老院議員たちの憎悪をより深め、彼女の死の一因になったとされる。

② ネロ帝即位から、実権を握るまで
紀元54年クラウディウスの死後、ネロはアグリッピナの手で皇帝となったが、実際には傀儡であった。
だが、あからさまな傀儡であったことが、彼女が水面下で行動をしてもだれも気付かない利点をもたらした。
この時、セネカがネロの為の政治基盤を築くのに多大な貢献をしたとされる。

アグリッピナには元老院の掌握の為の大規模な政治闘争の影響で、ネロ帝を警戒する余裕がなかった。
そしてアグリッピナと対立している派閥も、傀儡のネロ帝を歯牙にもかけていなかった。
その結果、紀元58年の末には、ネロ帝が帝国の実権を握ることになったのである。

 アグリッピナは翌59年に自殺(実際は暗殺だが、建前上自殺にしたとされる)した。
こうして、ネロ帝は真の意味での皇帝になったのだが、その前途は波乱万丈だった。

③ 狂乱の皇帝ネロ
真の意味で皇帝になってからのネロは、奇行が目立つようになる。
まずは、見目麗しい男女を集めて後宮(ハレム)をつくったり、オリンピックに参加して優勝を総嘗め(当然ながら八百長と思われていたが、当時の資料によると実力で勝利していたようだ。 いくつかの競技では実力負けして優勝を逃している)などをした。

 妻であるオクタウィアと、その弟ブリタニンクスのことも寵愛していたが、オクタウィアはネロと違って同性愛の趣味が無かったことから心身に激しく負担がかかっていたようだ。
ヌオーはそんなネロを、嗜めたり叱ったり、軌道修正をしたりした。
その有名な例がネロ劇場である。
紀元64年に、ナポリのポンペイウス劇場でネロ帝主演の独唱会が行われた。
そのあまりにも、独りよがりな演目に観客のほとんどは呆れ果てて、途中で退席したという。
それに激怒したネロ帝は、二度目の独唱会では出入り口を封鎖して退席できないように計画した。
それを阻止したのがヌオーであった。
ヌオーはネロの独唱会に徹底的にダメ出しをした。
いわく『あのさあ、ネロ。 君は24時間、ずっと観客に君の独唱を強制的に聞かせるきかい?
……余のミューズの如き歌声を24時間ずっと聞けるなど、観客は幸運だって?
ねえ、ネロ。 はっきし言うけど、ミューズの歌でも24時間聞かされたら、人には耐え難い苦痛だよ?
人には集中力の持続限界と、それ以外にも一日に集中できる合計時間というものがある。
君の好きな、ギリシア悲劇だって、劇と劇の間には休憩及び口直しの喜劇が行われるだろう。
それは、そうしないと精神の切り替えが出来ず、次の悲劇の鑑賞に支障をきたすからだ。
さあ、演目も雑に24時間、君の独唱ではなく、きちんと観客に配慮したものに変更しよう』
こうしてヌオーの手で変更された二回目のネロ劇場は、大盛況に終わったという。
ただしネロ帝は、『これでは余のではなく、ヌオーの公演ではないかぁ!』と不満だったようだが。

とはいえ、ネロの制御をヌオーがある程度は出来ていたことが、彼女の死の要因にもなった。

④ 人智を超越した皇帝
個人としては奇行の目立つネロだったが、輝かしい業績も残している。
一つは外交で、コルブロという優秀な部下がいたおかげもあったとはいえ、パルティアやオリエント諸国と友好的な関係を構築できた。

 また属州政策も、属州への税の軽減をして、さらに属州からの元老院議員が出やすいように法を整備した。
ただし、実際はローマ街道の整備によって税の捕捉率が向上したために、税金の総額は変わらなかったとされる。
つまりは上の階級に増税して、下の階級に減税するという人気取り政策のような結果になったと考えられる。
少なくとも多くの元老院議員は、皇帝の権限を増すために属州を優遇したのだと考えていたようだ。

 次にあげられるのは、ローマ大火への対処と、その後の帝都ローマ再建であろう。
紀元64年7月18日に起きた、この大火の被害は凄まじく、ローマの半分が燃え尽きたという。
出火当時、アンティウムの別荘にいたネロ帝だったが、出火の報を聞いてすぐさま陣頭指揮を執り、鎮火や仮設住居や食料の手配や風呂等も用意したという。
その時、ヌオーは雨を降らして鎮火したり、粥やガルムやワイン等を避難者達に支給したり、治療を行っていたとされる。

 鎮火後も、すぐさま帝都の再建に私財も投じて取り組み、人工が急激に増えたせいで悲惨なことになっていた衛生環境なども、上下水道の整備で対応した。
建材に大々的にローマン・コンクリートが使われたのもこの時代だという。
その結果、帝都ローマは白亜の都市に生まれ変わった。
西暦496年の滅亡までのあいだ、この規模の都市としては珍しいほどに大火や疫病の流行が少なかったという。
 この業績はネロ帝に否定的な歴史家でさえ「人智を超越している」と評された。

 またローマ街道の再整備やコリントス運河の開通も大きな功績であろう。
ローマ街道は主要幹線以外は、獣道や砂利道が多かったが、ネロ帝が主導した街道整備により、辺境とされた地域の物流も大きく改善された。
 
 またコリントス運河の開通で、エーゲ海とイオニア海のあいだの交易が盛んになったことで、帝国は莫大な利益を得たという。

 このように功績の面で見ても、ネロ帝は歴代ローマ皇帝たちのなかでも一際輝く存在だった。

⑤ 崩壊の始まり
 ネロ帝は奇行と改革が原因で、元老院の多くの議員達から敵視されていた。
その為に、ネロ帝を追い落とそうとする陰謀は多々存在し、効果を発揮した物も、いくつかあった。

 そのうちの一つが、紀元62年のネロの妻オクタウィアがヌオーと姦通しているというものである。
当然ながらネロ帝は、オクタウィアのこともヌオーのことも信頼していたので、事情聴取だけして、その噂を消そうとした。
しかしオクタウィアは
『ああ、本当にその噂通りであれば、なんて素敵なことでしょう。
あの御方と交わり、子を成して、それを口実にブリタニンクスを連れて逃避行をする。
実に甘美な、お話ですわ陛下。
……でも、残念ながら、あの御方は陛下を見捨てられないと抵抗するのです。
媚薬を使っても、自殺を仄めかしても、なかなかあの御方は折れてくれなくて。
ふふ、いい表情ですわぁ、陛下。いつもの劇場を意識した演技みたいな姿なんかより、ずっと素敵です。
別荘を用意するから、頭を冷やせ、ですかぁ、残念ですわ陛下。
もう私は壊れているのですよ陛下、いいえ、帝国の中枢にいる人達は、みーんな壊れていくのです。
さようなら陛下、素の貴女のことは好きでしたよ』と言うと、その日のうちに自害した。
彼女の最後にはヌオーが立ち会ったという。

 この時よりネロ帝は、ヌオーを病的に束縛するようになり、片時も離さなかった。
そう後宮で遊ぶ時でさえも、必ずヌオーを同伴させたという。

 そして父を毒殺したロクスタを重用し、姉を死に追いやったネロを憎んだブリタニクスは元老院議員と共謀して、紀元65年に謀反を企てた。
結局これは、同時期に発生していた『ピソの陰謀』とともに潰されたが、立て続けに謀反が計画されたことは、ネロ帝の政治基盤に大きな亀裂となった。
なおネロ帝は、ブリタニンクスを助命しようと試みたが、とうのブリタニンクスが拒否した。
彼はネロ帝を直接殺すことはかなわなかったが、政治的には殺せたと高らかに笑いながら服毒自殺したという。

 ネロ帝は、義弟の謀反やローマ大火にキリスト教徒が関係していると、言いがかりをつけ大規模な迫害を行った。
もともと、ローマの神々を侮辱したり、貴重な神像を破壊したりするようなことを当時のキリスト教徒は多々行っていたので、都合が良かったのだと思われる。
しかしローマ市民は、キリスト教徒を侮蔑していたが、憎悪はしていなかったので、キリスト教徒への過剰な迫害はあらゆる意味で逆効果だった。

そして錯乱するネロ帝を、見限ったセネカも自殺。
個人としても、皇帝としてもネロ帝には致命傷となった。

⑥ ネロ帝の最後
立て続けの謀反と、親しい者たちに見捨てられ続けたことで、ネロ帝の心は限界を迎えつつあった。
事実、紀元66年の9月から68年の始まりまで、ネロ帝はローマに戻らず属州の視察を行い、街道や運河の整備を行ったという。

 そして、一年以上もローマを空けていたことが原因で、元老院議員たちはネロ帝を追い落とす計画をした。
ローマ市民たちに、ネロ帝がヌオーを独占し、属州に施しをしていると噂を流したのである。
その当時、ローマの食料価格はインフレしていたので、ローマ市民はおおいに不満をいだいた。

 ネロ帝がローマに帰還した時には、市民達は暴動寸前で宥めているあいだに、ガルバによる反乱が発生。
それに乗じた元老院がネロ帝を『国家の敵』に認定した。

 恐怖を感じたネロ帝はヌオーとともにローマから逃亡した。
すみやかにネロ帝を殺さなければ、逆に自分達が殺されることになると確信していた元老院は討伐軍を編成し、ネロ帝を追撃した。
自身の末路を悟ったネロ帝はヌオーに
『そなたが、余を愛しているというのなら、討伐軍を撃退してこい。 
それまで決して、ここに戻ってくるな!』と命令した。
……ネロ帝は、さすがにヌオーも自分を見捨てると思っていた。
優しすぎるがゆえに、この愚かな皇帝を今までは見捨てなかったが。
さすがにこれで、愛想も尽きたであろうと。

 彼女が自決する前に書いたであろう遺書には、ヌオーへの感謝と執着、そして未練が綴られていた。

 ネロ帝の想定と違い、ヌオーは討伐軍を「じしん」と「つなみ」で瓦解させ、彼女の下に戻ってきた。
その時にはネロは短刀で喉を刺していたが、ヌオーが約束を果たしたと知り、歓喜の涙を流しながら謝罪し果てたという。
『ああ、“私”はあなたを疑った、あなたの愛を疑った。ごめんなさい。“私”は……』
その死に顔は、とても安らかだったという。

⑦ 華の葬列
ネロの遺骸を抱え、ヌオーはローマに帰還した。
そこには新皇帝ガルバが軍とともに構えていたが、ヌオーの全身から発される神威の前に平伏して出迎えたという。
そのさいに、ヌオーは捕らえられていたロクスタも解放させた。

 ネロの葬儀は盛大に執り行われ、まるで凱旋式のようだったという。
彼女の葬儀には、薔薇の花びらが舞っていたという。

 葬儀の後、ヌオーは残留を希望する新皇帝ガルバの要請を一蹴し、姿を消した。
その旅路にはロクスタも一緒だったというが、これより二年間は四皇帝の乱という動乱期なので記録が定かではない。

 新皇帝ガルバは、それより半年もたたずに暗殺され、1年ももたない皇帝がその後も3人連続で続いた。

 その後、ネロの命日になると、必ず彼女の墓に非常に立派な薔薇の花束が、数百年間おかれ続けたという。

⑧ 最後に
結局のところ、ヌオーが何者なのかは現在でも不明である。
ただし、ネロ帝の治世を語るうえで、絶対に外せない存在であったのは間違いない。

余談だが、後にアーサー王こと、アルトリア・ペントラゴンがローマ帝国と戦争した際に、薔薇の花束をネロ帝の墓に献花したという。
いわく、『もういない“彼”の代わりに、私が献花します』とのことだったそうだが。
ひょっとしたら、ネロ帝のヌオーとアーサー王のヌオーには何らかの接点があるのかもしれないし、ないのかもしれない。

 ただ考察するには面白い話ではあるだろう。
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