番犬と先生(後半)


 ──沈黙。
 男二人は佇み黙ったまま。シロコの困惑だけが場を支配する。

「それ、打撃痕……」

 一眼見てわかる。ボロボロの先生と肩で息をしている少年。どう考えても殴り合っていた以外に結論は無い。シロコだって流石にそれが当然の帰結だとわかる。
 ならば問題は、どちらが初めたのか。そこだった。

「ん、何があったか教えて」
 "ちょっと、私が訓練してくれって頼んだんだ"

 即座に先生は誤魔化した。
 加減が難しかったけど、自分が頼んで自分が納得してるから平気だと言えば引っ込むだろう。流石に少年の深いところにある本音を、こんなことで勝手に明かすわけにはいかない。

「──黙ってろ」

 それを少年が遮った。
 臭気さえ漂わせるような感情を乗せて。

「シロコは俺の女だ。気安く話しかけんな」

 精神的な距離含めて近付くなと、ガッツリ牽制した。
 ──当然にシロコは困惑した。こんな口調の少年を見たことが無いのも理由の一つだが、言われたことなどなかった。

 俺の女、などと。

 その事実を認識した瞬間、急速に顔が熱を帯びていく。そして困惑が強制的に冷やしていく。なんで? 欲しかった言葉ではあるがなんでこのタイミング? 
 しかしそんなことなど露知らず。少年は先生だけを視界に収めて言葉を続ける。

「前から思ってたけど、背負われただのなんだのと……なんでお前だ、どうして俺じゃない」
 "あっ、あれはその……事情があったんです……"

 待ってくれ、どうして今そこでその話題出るんだ。先生の包み隠さぬ本心だった。だが少年は『マジ』だ。本気だ。

「知ってるよ。なぁ、なんで自分の足一つで行こうとしたんだバカじゃねぇのか。車借りるなりヘリを借りるなり色々あったろ。流石にあのクソボケ共もあんたがあちこち移動するなら金も物も出すだろ。そこまでケチるんだったらクレーム付けとけ」

 とはいえ少年もまたかつて砂漠を彷徨い死にかけた身。そこに関しては理解がある。だがあれはやむにやまれぬ事情というのも、当然承知の上だ。が、解せぬところがあるとすれば、何故そんな事態になっているかという点。
 その身一つで放り出された自分ならまだしも、先生は社会的立場がある。それらを利用すれば死にかけることもないはずだった。

 "砂漠、甘く見てたって言ったら? "

 来たばかりで知らなかった。だから甘く見た。素直に告げた。

「干涸びて死ね。ある日気が付いたら砂漠で目が覚めて何日も彷徨って、二人に拾われなきゃ本当に死んでた俺の前でんなこと吐かすならマジで死ね」

 帰って来たのは本心からの罵倒だった。
 視線も冷たい。心が痛い。敵意すら抜け落ちて冷たい刃を突き刺されているようだ。
 ため息が一つ、それから少年は可能な限り落ち着きながら、先生に更なる腹の中を見せていく。
 それは認めたからとかではない。殴り合いで上がったボルテージで緩んだ箍の影響だ。

「……正直、一瞬でも先に視線があんたに向いたことは仕方ないと思う。見るからにボロボロだからな。けれど──」

 言葉が止まり、視線が一瞬シロコに向いた。そしてまた先生へと移り……

「ふざけんなッ、認められるかそんなもん! 俺だって男だ、惚れた女の視線は真っ先に欲しい! ついでに言えば関節キスやら汗の匂いを知るのも全部俺が最初が良かった! なのにお前が持ってきやがった! まぁスポーツのサポは俺だけどな、最初は! ついでにデートも! 家に行ったのも! 飯作ったのも! チャリ2ケツしたのも!」

 ……割と気色悪いことを叫んだ。否、割とではない。十分気色悪い。この少年、結構健全である。そういう意味では先生と似た者同士なのだろう。それが子供か大人というだけで。
 シロコの様子? 引いている以外に何かあるとでも? まぁ嬉しさもちょっぴり混じってるが。

 "ねえそれだいぶ言いがかりだよね!? ていうか何その自慢……? "
「うるせえ、男なら誰しも惚れた女の思い出であり続けたいものだろ。それにこちとら腹の底に溜まったもんがまだあんだよ……大体なんだァ? ノノミにもデレデレしやがって。年下の女の子に甘える大人がいるかッ。そういう店じゃねぇんだぞこの野郎、可愛けりゃ誰でもいいのか! 本気で殴るぞ、あぁ!?」
 "……い、いやあれはノノミが結構強引に"
「知ってるよ、その上で言ってんだ理解しやがれ。ノノミだって色々抱えてんだ、そこを聞いて解消するのがあんただろうがッ。そのあんたが何癒されてんだよ!?」
 "なんて理不尽!? 私一人の意志じゃどうしようもないよ!? "

 洪水のように流れてくるなんとも言えない男の僻みと同胞を心配する心。本当に何故ここなのだと先生は混乱する。どうしてここで? さっきの場で言ってくれてもいいじゃないか! しかし少年は容赦無く自分の情報網で調べ上げたことを先生に突き付けていく。

「風の噂で聞いたぜ。足舐めただの犬プレイしただの、踏まれただの混浴しただのなんだの……添い寝にラッキースケベと朝帰りもあったんだったか? 他には幼少期の卒アルをブラマで買ったとかも……ったく羨ましいなぁ悩み多き男は。可愛い子取っ替え引っ替えだ!」
 "待って待ってなんでそんなこと知ってるの!? 何処から漏れたの!? "
「そりゃ自分の胸に聞いてみるこったな? 女って生き物は獲物を定めたら自分以外の存在に狩られたくないんだよ。わかったら反省しろこの淫行教師」
 "いっ……!? ちょっと、そんなことしてないよ!? そこは本当に誤解! "
「火のねえとこに煙は立たねえんだよバーカ。女三人集まるだけで姦しいんだ、ちったあ年頃の女と何してたか思い返してみやがれ!」

 その時、先生の脳裏に浮かぶ──無数のメモロビ。
 困った、ちょっと否定できないかもしれない。淫行教師は断固として否定するけど。

「何で俺がアルの相談に乗らなきゃいけなかったんだ。しかもカヨコさんのことで。まあ高い飯奢ってもらえたからいいんだけどさ」
 "……それ、いつの話? "
「年の瀬……クリスマス過ぎだったような。年始前だったのは覚えてる」
 "私の記憶には何もないね"
「あっお前なんかやったな? 絶対やったな? カヨコさんだな? カヨコさんとなんかあったな?」
 "何もないよ一緒に出かけただけだよ"
「その反応があったっていうんだよ」

 本当に誤魔化すのが下手な男だと呆れながら少年はため息を吐いた。話はそこでひと段落付いた──

「ん、ちょっと待って」
「なんだよシロコ」

 わけではない。そこで待ったをかけたのはシロコだ。少年の発言の中で極めて重大な問題があった。

「ご飯食べたの? 二人で? 便利屋の社長と?」

 そこだ。話を聞くに年末の何処かで、しかも二人で、高い飯を食っていたという。シロコとしては全く面白くない。この男、自分に黙って女の子と二人きりのご飯に行くとは何事か。友好関係の狭さはまあ仕方ないところだが、自分は彼女なのだから彼氏として一言くらい欲しかった。

「あぁ。急に相談がって。先生でもなく、ムツキでもなく、ハルカでもなく、俺に直通で。あいつも何で俺に聞くんだか」
「連絡先交換する仲だったっけ」
「たまに仕事頼んでたんだよ。ほら、籠城の時に余った銃とかあったろ。あれブラックマーケットで売る時とかの護衛とかで。そしたら不思議とウマがあってさ」
「友達料金で?」
「んなわけあるか。値切る訳ないだろ失礼だし。あとフツーに報酬くらい出せるわ。昔ブラマに売っぱらった共喰い銃で結構稼いだわ」

 ……まぁ、いいだろう。
 ある程度の納得を得てシロコは引き下がった。

「──で、何してたかって話だよな」

 途端、話を戻し。

「俺が一方的にボコしてたよ」

 敢えて最悪な言い方で、少年は真相を告げた。唖然とするシロコに対してそのまま、何でもないように淡々と続ける。

「こいつはそれを理解して手袋ぶん投げたんだ。そこに哀れみだのなんだのを混ぜるなよシロコ。侮辱になる」

 それは自分が一番嫌なことだから。
 先生のことを決して認めたわけではない。だが、彼もまた戦士であることだけは決して否定してはならない。一度前線に立って銃を持った者として、確固たる信念を持ち負けるとわかってもなお勝利を目指して立ち向かう者は、皆一様に戦士である。
 ならばその戦士を穢すような真似は許されない。
 奇妙な価値観と言われればそれまでだろう、キヴォトスで何を当然のことをと。だが彼はそういう人間だった。

「──そして、まだ決着は着いてない」

 不敵な笑みで放たれた、その言葉。

 "いいのかい"
「喧嘩にはなるけどな」
 "望むところだね"
「そりゃいい」

 片や決意。片や歓喜。されど両者共に浮かび上がるは獰猛な笑み。

「どっちかぶっ倒れて起き上がらないまでだ。やるぞ」
 "嬉しいね、そこまで賭けてくれるなんて"
「男ってのは単純な生き物だからな。惚れた女の視界内だと見栄張りたくなる」
 "なるほど。アルとウマが合うわけだ"
「一応何もなかったとは言わせてくれ」

 一歩一歩、身体の具合を確かめるように歩き出す。ゆっくりと近付いていく距離。

「まっ、待って……! やめて二人とも!」
「すっこんでろ、シロコ!」
 "邪魔しないで、シロコ! "

 ──気圧された。
 あの砂狼シロコがだ。二人よりも更なる修羅場を潜り抜けて、更なる実力を誇るシロコが、自分よりも遥かに弱い二人に気圧され、容赦無く拒絶された。二人にあるのはもはや認める認めないとかの話ではない。拳を交えて抱いた、たった一つの切なる願いが突き動かす。
 元より男同士の場だったのだ。女が割り込む余地は始めから存在しない。故にシロコを拒絶するのは必然であり、そして続行するのもまた必然。

『この男に勝ちたい』
『勝つのは自分だ』

 二人を焼き尽くさんと燃え盛る炎とは、これだ。他人から見ればそれだけの理由だが、当事者には『それだけの』理由となる。
 まああとは──男として女の前でカッコ悪いところを見せたくないということもあるか。特に先生も、そして少年も、シロコの前では無様ばかりを晒している。死にかけるとか本音言えないとか。
 たまにはそうじゃないってところを見せたい。そういうものだった。

 距離は更に狭まる。
 戦意は十分、気合いも十分、根性も十分。何普通より多少は動き辛いがいいハンデだ。
 そして互い、自らの誇りと意地を振りかぶり。

「──おおおおおォォォォォォァァッ!」
 "──おおおおおォォォォォォァァッ! "

 避ける素振りすら見せず、全力で相手に叩き込んだ。
 技術の介在しない、極めて原始的な体力勝負。少女の見守る中で、二人の男が己を賭けて激突する。避けることなどしない、全力で全てを耐え切り、全力で打ち倒す。それだけを目的に傷付け合う。
 矢継ぎ早に互いの拳と脚が突き刺さり、衣服を、拳を、床を、──鮮血の斑模様で染め上げていく。流血しようが痛みで苦悶の声を上げようが関係無い。下手したら骨が逝かれてしまっても知ったことでは無い。嬉々として男たちは加速的に崩壊していく。

 未来など知らぬ。
 明日など存ぜぬ。
 次などどうでもいい。

 今この時この刹那に、自らの前に立ちはだかる最強の敵を超える。その為ならば手足の一、二本程度は千切れても構わない。そうしなければ前へと進めないのだから。

「なんでてめえはいつも、シロコの前にいる! シロコの先にいる! シロコの視線を向けられる!」
 "君が前に出れるのに、出ないからだろ! "
 "私を気にせず、自分を信じてシロコの前に行けばよかった! でもそれをしなかった! 何故だ! "
「完璧だったからだよ! 頭の中で夢想した、完全無敵の存在だったからだ! 武力が無くてもあいつらの力になれて、アビドスの未来を切り拓ける存在! 俺はそうなりたかった!」

 そんな幻想が現実に舞い降りて、自分よりも遥かに高みにいる。それを見たら心が折れかけるのも必然だろうと言い返す。

「あんた言うんだろうな、それは間違いだって! だが客観的に見たらそうなんだよ!」
 "それでも君は愛を伝えた! ならそれをもう一度するくらい……っ"
「あれはやぶれかぶれだよ! 情けねえ……ッ。ケツに火が付いて初めて焦って、苦しむくらいならと楽になる為にやったんだ! そうさ、やっちまったんだよ俺は! こんな理由で俺はシロコに想いを伝えたくなかった!」
 "今を見るんだ! 君も彼女も想い合っている! 例え始まりがそうだったとしても、想いを向け合って肩を並べて、それで前に進んでいる! "
「その先にてめえがいるから俺は前に進めねえんだろうが!」
 "視線を横にも向けるんだ! 前ばかり見て進んで、後ろも横も見なければそうやって前方の景色に蝕まれるだけなんだよ! "

 シロコの前にいることが幸せなのか? 違うだろう。隣にいて、支え合って、前を向いて歩くのが理想だろう。だというのに何故──と先生が叫ぶ。
 流石にその言葉には詰まった。それは少年の中に根差す渇望。太陽に向かって進めば溶け落ちるしかない。人は上手い事光だけを受けて熱を流し、月にならねば破滅するだけ。あるいは内で完結している恒星であれば、太陽の光も気にならない。

 ユメとホシノ、二つの純然たる天空の輝きに焼かれた者だからこそ至ってしまった考えだ。自分の前を歩く二人みたいに、力強く在りたい──と。

「うるせえ──! 男の子なんだよォ、夢を目指して何が悪い! 憧れを追いかけて何が悪い! ネックレス渡される以前から抱いた思いだ、誰にも否定させねえ!」

 だが少年の原風景はそうだった。そう思ったから努力しているし、諦めきれない。
 瞼を閉じれば今でも姿が浮かび、声が蘇る。かつて砂漠で見た、今も憧憬として強く焼き付いている、あの誇り高き夢の姿を。それを追いかけるのはやめられない。意地があるから。

 "君がシロコを好きな理由、聞いてなかったな! "

 殴り飛ばしながらの疑問。

「んだ、いきなり!」

 蹴り飛ばしながらの回答。

 "教えてくれよ、何が理由だ"
「──知るかよ」

 互いの胸倉を掴み上げ、一切の逃げ道無く拳を叩きつけ合う。

 叫び合い、殴り合い、派手に物音を鳴らし続ける。血みどろになっても尽きぬ戦意が激闘に誘い、彼らは己の心を吐き出し続ける。
 シロコまで戻らないともなれば何事かと、気付けばギャラリーがぞろぞろ増えて騒ぎ立てているが、渦中の男たちは認識しない。

「初めて何も関係無く接した相手だったから、笑顔に見惚れたから、好みだったから。キッカケなんてそこら辺だろうさ。正直今もはっきりしてねえ、一目惚れかもしれねえ」

 ──理由ははっきりしない。今も昔もそれは変わらず。

「が、んなこたあどうでもいい。理由やキッカケなんざな、いくらでも後付けできる。彼女は俺の心の隙間に住み着き、そして食い込んだ。──それでいいんだよ」

 とにかく重要なのは少年は砂狼シロコに恋をしたことだ。
 そこさえ押さえておけばいい。それが全てなのだから。

「俺はシロコに恋をした、それだけが唯一の真実だ。わからねえからってわかるような安っぽい理由に当て嵌めたくない。陳腐な言葉で結構、語彙力なんざ必要ない。恋する愚者の本音だ、なら何も言わずに胸張るだけだッ」
 "素晴らしい青春だね、早く言って欲しかったなっ"
「ついでに言えば、俺はフラれたとしても現実を呪いながらシロコを祝福するさ。惚れた女が自分で幸せ掴むんだ。そこを邪魔する男にはなりたくないし、大切な人が幸せであることを願うのは当然だからな」

 ──負けても構わないと思えたのは、何よりもシロコの幸せを祈ってるから。
 楽になりたいと思ったから、放っておいたら先生に取られてしまうかもしれないから、それだけが理由などではない。

「ああそうだ──俺はシロコを愛している! 全てひっくるめてだ! だからお前は邪魔だ! 退けよ大人! 今やってるのは少年少女の青春だ、大人と子供ってジャンル違いがシロコの視線を独占するんじゃねぇ! 俺の女だ、俺のシロコだ! お前なんぞに渡すものは一欠片も無いッ!」

 だからこそ、少年は声高らかにシロコへの愛を叫ぶ。納得の行く敗北ならいいが、負けるつもりもないし、選ばれたいし、選ばれ続けたい男としての、飾らない本音の愛情を。

 "言ってくれる! そんなに渡したくなかったら、私に僻みをぶつけてる暇があったら、さっさとシロコに飾らない君の想いを教えてあげなよ! いつまで彼女を待たせてる!? 彼氏なんだろ君は! "
「そうさせなかったのはてめえの存在だっつってんだろうが!」
 "主役が脇役ばかりに目を向けるな! 主演女優にだけ目を向けていろ! 彼女の視線の先に私がいるなら、振り向かせろ! できないことはない! 君はシロコを愛しているんだから! "

 何度目かもわからない。互いに振りかぶり、拳を叩き付ける。血塗れの姿で、みっともない姿で、全て曝け出した状態で。
 いつの間にやら日も落ち掛けて、二人は限界をとっくに超えているのに、未だ健在。勝ちたいから、意地があるから、生み出される無限の活力が二人を支え続ける。

 "いつまで私を言い訳にしてるんだ! 前を向くな! 隣を向け! シロコを抱き寄せて耳元で愛を囁け! 無力感とか劣等感とかそういう競い合いじゃないんだよ恋愛は! どっちが心を傾けられるかだ! "
 "私と君で私が有利? 冗談、オッズは30:70どころか1:99だ! 君がシロコと積み重ねた時間を一蹴できるほど、私の存在があるとでも思ってるのか! そんなものはないんだよ! "

 ──ここに至るまでの少年の言い分を聞いていて、先生の中に一つの怒りが芽生えた。自分の愛は声高らかに叫べるのに、どうして……

 "なんでシロコの愛を信じてあげない! 君が愛する砂狼シロコは、ポッと出の大人に取られるような安い女だとでも言うのかぁっ! "

 そんなわけがない、むしろポッと出の大人を好きにさせていく魔性の女だ。積み重ねた思い出がそう語る。
 しかし少年はある感情に従ってそれを告げない。

「──俺が憧れるのは二人だけだ! 目の前に現れた理想形に惹かれる心は無い! 俺の前に立てるのは、ホシノとユメ先輩だけだ! なのに……ッ」

 いつもシロコの視線の先にいる先生。
 しかしシロコは少年の隣にいる。
 つまりその位置関係は──

「イラつくんだよ、あんたに憧れるなんてさァッ!」

 力無くとも頼れる存在という立場ではなく先生という一個人に、少年は憧れてしまった。
 劣等感や無力感、シロコの視線の先にいることやアビドスの未来に光をもたらしたことなどは、理由の中の一つに過ぎない。少年の中で先生を忌々しく思い続けている理由は何よりも、忌まわしい大人に憧れたから。それを認めたくないから、今の今までまともに顔を合わせる気がなかったのだ。

 クロスカウンター。
 よろめき崩れる身体を、強靭な意志一つで保たせて。

 "私の──"
「──お前の」

 互いの勝利宣言の一説と共に、頭を振りかぶって──


 後日。

「俺が勝ったから」
 "私の勝ちだから"

 殺し合いの如き死闘を繰り広げた二人は仲良く入院していた。正午から夕暮れまで殴り合った結果、目覚めてみれば翌朝の病院の天井。何をどうしたらそんなになるのかと砕け切った二人を見て医者は言っていた。
 幸い後遺症は無いが、全身傷だらけで互いに限界以上に身体を酷使したのだ。適切な応急処置がなければ危うい状況だったかもしれないと聞かされ、少年と先生はとにかく退院したら土下座しようと同意した。

「そういや、あんた仕事どーすんだよ」
 "君と戦う前に有給5日取ってるから大丈夫"
「それ一週間休みじゃねえか」
 "念には念をって言うでしょ? "

 仲良くベッドに寝っ転がって、どうでもいいことをくっちゃべる。少年の顔は憑き物が落ちたように穏やかだ。
 くだらない理由だったのは自覚している。だがあれは矜持の問題だったのだ。

「あの場でお互いに言いたい事吐き出しまくってたけど、冷静に考えりゃシロコいたよな……」
 "いたねえ……あと、しばらくしたらみんな来てたってさ。もっとまずいね"
「何言ったか鮮明には覚えてないけど、なんかすげー恥ずかしいこと言ったような覚えがある」
 "私は淫行教師とか罵倒されたことは鮮明に覚えてるよ"
「なんで本当にどうでもいいところしか覚えてないんだろうなあ」
 "本当にね……肝心なところが不透明だ"

 ケラケラと笑い合い、ようやく本心から向き合って少年は言う。

「先生」
 "なに? "
「俺、あんた嫌い」

 それは悪童の渾身の笑みの如き笑顔を伴って。

 "私も君のそういうところ嫌いだよ"

 先生ではなく個人として、そういう面倒なところが嫌いだと、笑顔で告げた。

 その後? 
 二人の関係は改善して、シロコはあんなにも愛を叫ばれて乙女になった、とだけ。
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