イランイランのしたたる夜に(中の下)


(Telegramが止まってしまうので移設)
 以下、本作戦のハイライト。あたしとシンの、モールでの交戦の一部始終。
とりあえず、シンは入口の自動ドアが開いた瞬間から目をキラキラさせて、あちこちのお店に目を泳がせていた。あたしは今日夜の計画があるというのに、彼がこんなに楽しそうだとついつい本筋を忘れて気持ちが明るくなってしまう。というか艦降りてからずっとその調子だから抑々のペースがほぼシンに握られていると言った方がいいような…。
「こーら!あんまり燥ぎ回らないの!」
あたしはそうやってシンを諭すけれど、腕はずっとシンに引っ張られっぱなし。好奇心が全方位に飛び出ていて、もうあたしは半ばシンのお母さんをやっている気分になる。シンってば元々あたしの母性を掻き出すことには余念のない男だけれど、こういう人目の多い場所も彼は自分のペースで居続けるから、あたしは安心してしまって叱るに叱れなくて困る。 …それもそのはず。こうやってモールを歩いて回ること自体、シンにとってはもしかしたら、家族を失って以来、久々のことかもしれないのだ。こうやってデートと言う体で、平和な日常の一部を体験できるってことは、シンにとって本当に心の癒しなのかもしれないのだ。それも、あたしと一緒に、ってだけで。そりゃあこうもなるよねってあたしは納得してしまうし、ついついシンが入る店に足を運んでしまうわけである。この時間は、あたしがしっかりシンの明るい姿を目に焼き付けて、しっかり疲れさせる。だから、作戦は、順調。愛おしさに湧き上がる涙腺はくっと堪えて。いつか、こんな日は毎日になる。当たり前にしてやる。今見ているシンの顔が、これから何回も見れるようにする。やがては…っと、いけないいけない。思いに耽る暇はあたしにはない。
…というのも、ここまで目が移ろいでいるシンを見守っていると、しばしば財布の紐が緩んでしまうことがあるのだ。本命の店やシンが最も入り浸りそうな店こそ目星はつけてあるけれど、それを順繰りに巡るプランは当然崩れてしまう。入った店の中で、シンが目をきらきらさせたものは、買わずに過ぎ去るのが億劫になってしまうのである。お金が絡むことだからもう少し厳しくしなくてはと、分かってはいても”買ってあげて”しまうあたしは、やっぱり甘い。
いや、仕方がないでしょうこれ。なんたって、あたしはそうしたほうが、シン自身のお金で買わせるよりも嬉しそうな表情を見せるのだ。この価格はその朗らかさを買う為なのだ、そう言い訳もしたくなるのである。あのね、そういうのがどこか予定外の買い物だったみたいにシンに気負いとかさせたいですか?したくないですよね?分けてもシンがホビーショップでじーっと眺めて嬉しそうにしてたのが、『恋人と手をつないで歩く花畑』の絵画のジグゾーパズルだった場合とか。いや、買うわ。買うわよ。 「ホントか!?有難うルナ!!頑張って完成させるからな!!」 その表情が見たくて買ってるんだ。 「出来あがったらシンの部屋に飾って頂戴。いつでも見に来れるようにね」 「任せろ!」  いつまでもシンに手を引っ張られるわけにもいかないから、いいところで手綱は締める…というか、あたしもここはひと知恵絞る。こうまで楽しそうなのは、あたしがいるから。それなら、あたしが自分で行きたい店に嬉しそうに入るなら…?  言うには及ぶ。シンはついてくる。明るい色が眩しい女性向けの店に足を踏み入れてもやましい混じりけのある表情がないから安心できる。
これがですね。思いのほかデートを効果的に輝かすからまあいじらしいんですよ。妹と話題にしていた店は一通り廻ったけれど、シンはそれが新鮮だからか、どんな商品にあたしが目をやっても興味深そうに話を拡げてくれるんです。
「ここね、ずっと前にメイリンと行ってみたいって話してたショップなのよ」
「へぇー!!可愛い人形がいっぱいあるんだなぁ。内壁もピンクと白の雲で飾ってて、絵本の世界に入ったみたいだよな」
 こりゃー一日中入り浸っても飽きとか来ないわ。あたしが買いたい人形を手に取ると、一緒に触ってみて感想を言ってくれる。あたしが何か目をつければ、それだけでシンは嬉しそうに声を聴かせてくれる。お蔭さまで腕に収まる程度の人形を2個も衝動買いしてしまった。…赤リボンの黒い子犬と、白い花飾りのマゼンタの鷹。…選んだ意匠まで言及してくれなかったのはちょっぴり残念だけれども。
 「この先が思いやられる」なんて心配する暇を、シンは与えてくれない。案の定その後は集中砲火があたしを見舞うのだ。この次に廻ったのは、アパレル、コスメのお店。どちらもシンにとっては知識のないお店であり、デートの定番とはいえ、シンはちょっと戸惑う要素もちらつくところだ。ちょっと悪いかなと気を揉むところだったが、それもシンの持前の愛らしさの前ではどこ吹く風だ。  女の悪い癖として、いつも自分の隣にいる人の”点数”が気になるというところがある。どんな反応をするか、どんなことに関心を寄せるか、それがあたしの方を向いているのかどうか、流行への意識がちゃんと備わっているかなどなど、いろいろなファクターを通して、相方の男の品性を社会で扱う際のメタ・ゲームを査定するところがある。自分がそういう事を楽しみにしてしまったことをこの時ほどぶん殴りたいと思ったことはない。シンという、最早あたしの一部と言っていいほど身近な人に、いったいどんな値札をつけられようか。
 「へぇー、女の子ってこういう所から私服を選んでるんだなー。なんか、今日のルナが可愛い理由が分かった気がした」
「そりゃどーも。で?シンはどんなのがいいと思う?」
「うーん…俺は男だしよく分かんないけど…でも、この中で新しい服買ったら、きっと新しいルナが見られるんだよな!」
「新しい…って、ちょっとはオススメとか無いワケ?」
「どれもオススメになっちゃうから難しいんだよな。取敢えず、可愛いって思ったヤツ選んでみてよ?」
「え、もしかしてそれ全部試着するの?」
「だって、いろんなルナが見れるから、俺も楽しみだし!」
 嗚呼、女って愚かで贅沢なものだ。シンが拘ってるのはあたし。あたしが着るなら何でもオススメ。…これは本来なら大減点の回答。でもシンの場合は別。そのどれもを見てみたいって言う。あのね。全部買うよ?いや、買ったよ?この男はそうしてあたしと回って選んだ上着も下着も、ソックスやアクセサリーの類まで、どの試着にも逐一感想をつけて、目をぎらぎらさせているのだ。それを見てから追い打ちで「あ、そうだ!そこにこれも着けてみてよ!」って、あたしの隣でずっと衣装選びに参加してくれる。絶対突き放さない。だからあたしの選択を否定しないし、寧ろ押し広げてくる。ちょっと勝てない。回避マニュアルどこ…ここ…?
 あんまり嬉しいので調子に乗ってメンズも回っちゃった。仕返しのつもりであたしのチョイスを追加で買ってあげた。相変わらず、追加の希望で品目が増えちゃうんだけど。キャップを手に取ってくいっと頭の上で斜めに傾けて見せるさまは、控えめに言って、萌えた。平和が来たらハイキングデート、するぞ。テーマパークも候補3つくらい押さえておくぞ。
 ここまで散々あたしの好みに付き合わせておいて、シンってば疲れた様子をぜんぜん見せてこない。そうか、あたしと居るってそんなに楽しい事なんだ。そういう事実だけで内心はホロリと来ている。幸福感が臨界突破しているのだが、何とか疼きを抑える。
最後に回ったのは本屋。なんだかんだ言って一番2人で時間を使ったのはここだった。何せ彼は生粋の本の虫だ。職場でワンコのように見えているが、本を読んでいる姿はさしずめ蛍だ。興味を持った本に対してピカピカ光るのだ。この光は私室で一緒に本を読んでもらう時でも見られる。あたしが朗読を頼めば、気付けば一緒に光り合っている類の光なのだ。そう、”いつものシン”は、こういうインドアな人なんだ。それをデートでも見せてくれるくらいに気持ちが晴れている。何度泣かせば気が済むんだろうなこの蛍さんは。
「あ、このシリーズ、新作続いてたんだ!!あれから音沙汰がないまんまで最近退院したって言ってたから、もうリハビリのあとは打ち切るのかなと思ってた、良かったあー!」
 どんなものにも純粋な興味で率直な感想をくれるシンの面目躍如を浴びられるのも勿論ここだ。なんたって彼の環世界はここなのだ。彼があたしの目当てのお店で連打していた満点越えスコアの秘訣は、本屋にこそあると言っても過言じゃない。どの本のタイトルにあたしが目をつけても、ことあるごとにその作者、ジャンル、あらすじや前後の関連作品について、饒舌に丁寧に教えてくれるのだ。気が付いたら、本の話をいろいろしてくれるシンの表情と声を聴いてたくて、手当たり次第の新書を取って「じゃあこれは?」「こっちはなあに?」って聞いているあたしがいる。悔しくなったら意地悪して、敢て女性向けファッション誌の箇所を廻って紹介を聞いてみたりもしたけれど、分かんないなら分かんないなりに自分のイメージを拡げたりしてくれて、隣で訊いてて退屈しないのだ。こうやるとシンから好みが聞きだせるというのはついでの収穫だった。いやこれモールじゃなかったら騒音になってたわね。
 シンはいくつか、ずっと狙ってたシリーズの小説をいくつか買った。あたしは敢て子供向けの絵本スペースで敢てリクエストをしたんだけど、シンが詳しく教えてくれたことを参考に、いくつか買ってみた。何歳の男女どのあたりに向けてとかそういうのも教えてくれるんだ。あのね?無自覚でそれ?あたしに孕めと?いや、孕むよ。そんなシンの子供なら。3人は産むわ。遺伝子相性?知るか。脳はそう言ってた。うん。蛍が真剣に光るならあたしも光ってやるわよ。…モールでのデートの話ですよね?そろそろ大丈夫かあたし?
 お昼は…もう14時まで回っちゃったけど、地中海料理店をチョイスした。沢山の、色とりどりの店名が記された買い物袋を降ろして席についたら、まあシンの目はキランキランに光ってる。
「まさかじゃないけど、全品頼むとか言わないでよねー」
「なんだよ、俺がそんな大食いに見えるかよ」
…いっぱい食べるシン、”イイ”のよ。五臓六腑に染み渡るの。だからこそ、欲張らせるとあたしが許しちゃうから、だから、品目絞ってね、と。 そうして、お互い自分のメニューを1つずつと、あたしはサラダを頼んで、シンはメインディッシュに特大マルゲリータピザ(チーズ増量)を2人用って言ってきた。あ゛ー。これは、一緒に食べようのテンプレート。シンが一番可愛い喰いっぷりを眼前で見ながらご一緒出来ることが確定。どうしよう、ちょっと耐えられない。…お手洗い行って来ていい?…戻ってきたら食器とドリンクが整えられていた。こいつ、隙が無い。
 取り揃えられてこれば案の定。あたしがピザを切り分けて、取り皿に分けてあげたら、シンは素手でそれを取って大きな口をあけ、無邪気にかぶりついては頬と顎をもしゃもしゃ回している。いけないわ、これずっと眺めてたら自分の方の手が止まってしまう。食事に集中出来てないとかしっかり者を標榜するあたしが廃るではないか。
「どう?美味しい?」
「うん!むっちゃ美味しい!ルナも食べてよ」
 ”余りにもよくある”母子の会話。それがデートでシルバー・バレットになる。天地どこ探してもシンくらいだ。あんまりシンに食卓の愉悦を支配されるのが嫌なものだから、愛しさを込めつつも嫌がらせして対抗する。あたしが頼んだのはキノコのトリュフ風料理。キノコはシンが比較的苦手としてる食べ物なんだけど、あたしはそれをシンに
「はい、あーん」
こうしてやる。半分嫌がらせ。
「えっ…キノコかよぉ」
「何よ、キノコ嫌いなの?美味しいわよ」
「うぅ」
「身体にいいから、慣れなさいな、はい、あーん♪」
 …もう半分は、健康を想って。ちょっと眉間にしわ寄せて食べてたけど、恒例の「あーん」で苦手も克服できるなら、このくらい平気よね、シン?…そうだといいわね。そういう気持ちを込めてスプーンをシンの口まで運んだ。目の前で成長を楽しむ。子供が出来た時の予習もばっちりな食事。やっと降ろした腰を休めるついでに何かお話しようと思ったけれど、気付いたらシンと食べることに意識が全部行ってしまい、お腹も心も満足のままお会計をすることと相成った。不覚、ここで朝の仕掛けの成果を聞き出そうと思ったのに、朝の業務中にキスマークをからかわれるシンを確認したかったのに、完ッ全に忘れてしまっていた。
「こんなに付き合ってくれたんだし、俺が払うよ」
とシンは立ち上がったけれど、そこはあたしが先制した。まったく、自分の両腕見なさいよ。買い物袋と梱包とで塞がってるじゃない。懸命にあたしを気遣うそういうとこも、あたしの財布の紐を溶かしてるって事、まあ多分気付いてないわよね。うん。シンってそういうやつだ。気付いたらあたしの方がシンに過剰投資している。沼だ。 全く底が知れない。
 帰り道、シンはおたおたしながらも本当に嬉しそうな顔で今日の買い物を抱えてあたしと歩いていた。前が見えないくらい沢山の荷物を抱えてるのに、あたしに合わせてゆっくり歩いてくれているみたいだった。「こういうのは男がやんないとだろ」って、それはあなたが言うのは反則。シンが言うのは単に男らしくなるってだけじゃなくて、あたしの前でカッコつけてるって追撃が混じっているので。照れくさいので「なーにいきがってんの、シンのガキ!」ってちょっとからかってやった。もうちょっとでも、この通路が長く続いてたらな、デートの日にありきたりなそんな想いが、あたしの胸を軽く刺してた。
 やがて、ミレニアムの白く崇高なボディが、夕陽を反射して輝いているのが見えてきた。  遠くの水平線から来る潮風に髪を軽く撫でられて、あたしは立ち止まった。あたしの足が止まると、シンも気付いてピタッと止まった。
「ルナ?」
「シン、あのね」
あたしは、内心で揚がりきって麻痺しかけてる胸に両手を抑えて、シンに1つ1つ、大切な言葉を紡いでく。
「今日は、…本当に、ありがと」
「ああ、俺も。一緒に行ってくれて、ありがとな」
シンの両手のビルががさつく。
「ちょっと、横着しすぎ!ちょっとは持たせなさいよ、殆どシンの部屋に持ってかないでしょ」
「大丈夫、ルナのことははちゃんと見えてるからさ」
そういう事じゃないわよ。心配させろっての。
「見えてるとか、そういう事じゃなくて」
照準がずれる。だからお願い。あたしの心、言う事聞いて。
「本当に、本当に楽しかった」
「俺も!また、行きたいな」
「うんっ…本当にね」
「今度もまた行こうな!」
嗚呼、痛い。なんでもない事、なのに。
「もう、わかってる、わよ。何当たり前の…こ、と…」
涙腺が爆発する音がする。
「なんだよ、泣くなよルナ…また行けるよ、そうだろ」
やめて。痛い痛い。優しくしないで。
「もう…何よ…バカ、バカ、シン、この大バカ!!!」
シンの荷物を分捕って、肩にしがみつくあたし。背中をボコボコ殴って、泣きついている。
「な、なんだよ急に!痛ぇ、痛ぇって!」
「痛いじゃないわよ!!だって…だって!!こんな日、あと何回できるか、まだ…分かんないでしょ?!どうしてあたしばかり…!いちばんしたかったのは…シンの方なのに!!」
心配してくれる、期待してくれる、今はそれが一番痛い。こんな暖かな日が、もう手に入らないかもしれないって怖さで揺らいでいるから。
「そんな事、ないよ」
「どうして?!」
「だってさ…俺達がモールに行けたって事はさ。俺達が守ったモールだって事だろ。俺達がそうやっていけば、ルナとデートできる所だって、増えてくし、保てるから。ルナがそこに連れてってくれるって、すっごい嬉しいし、続けて行けば、また行けるって思えるし」
「…!!」
うん。分かってる。分かってた。絶対そうしてやるって、買い物しながら誓ってた。それでも、そんな屈託のない表情や顔を見てたら、失うのが怖くなった。それでこんなボロボロになってるのに、シンは、それも全部、全部、
「だから、大丈夫だよ。今日は本当に、ありがとな」
「うぅ…うぐっ…うああああああ!!」
高層ビルを作ってた腕に抱かれて、あたしは大泣きで自爆してしまった。シンは泣きやむまでそのまま、ずっとギュッとし続けてくれた。溢れんばかりの涙を、シンの肩におしつけて、頭をぐりぐり擦った。潮風がいつになく、温かく感じた。

ひとしきり泣ききったあと、シンの抱える荷物の一部をあたしは持った。二人で一緒に、ミレニアムの中に帰って行った。フラガ大佐が出迎えてシンとあたしをおちょくったので、軽く会釈をして自室に向かった。シンが荷物をあつしの部屋まで一緒に運んでくれて、またありがとな、って笑ってくれたから、シンも急いで着替えなさいよって諭して、軽いキスをして見送った。
私室のドアを閉めて、あたしは深く、溜息をついた。

―――
「…はぁ」
鏡の前の丸い椅子に腰かけ、今日のデートを振り返る。
本日の作戦の、戦果を報告。作戦内容は、シンをあたしに釘づけにすること、そしてシンを振り回して、疲れさせること。シンには秘密裏に進めていた、あたしを意識させて仕事でも疲れさせるという、艶魔の作戦だったのだが、これはハッキリ言って、”大失敗”の結果に終わった。
や、大成功ではある。文字通りには弩がつくほどの成功。しかし、それはあたしがコントロールしたことによるそれではない。全ての瞬間の全ての態度に於いて、シンの行動はあたしの予測の何倍も上回っていた。
あたしは、シンと一緒にいる時間が少しでも欲しかった。
シンがあたしを嫉妬させるくらい、皆ににこやかになったのを、弄びたかった。
そう言う意味では、全てが失敗に終わった。あたしの浅ましさが露呈する結果に終わった。
シンにとっては、あたしが隣で笑って、あたしが付きあって、一緒に笑ったり、困ったり、怒ったりして、お互いを振り回すのって、願望とかじゃなかった。”ルナがいたら、当たり前な事”だった。
当たり前にすることは、あたしの願いで、祈りで、誓いだった。
シンにとっては、もっと違う、いつか来る希望になっていた。
あたしが思っている数段以上に、シンのなかのあたしは大きかった。
だからあんな仕方で、あたしに集中させて他を削ぐなんてやり方が、通じるはずもなかったのだ。
大惨事、惨敗。これはすべてにおいて、あたしの作戦の不備から始まる計算外。
『壊滅』の2文字を、立て続けに頬を伝う涙が象徴していた。道理で財布の紐が緩んだんだ、今更納得した。そう、今のままじゃ、支払いきれないんだ。もっともっとたくさんを、シンはあたしに施していたのだから。

特大のハートに溺れている自分の涙を、鼻をすすりながらティッシュで拭い取り、制服に着替えるのを急いだ。
今晩の報復作戦への期待は、今季最大にまで跳ね上がっている。それまでの、あと数時間程度の辛抱。
チャンネルを仕事モードに切り替えながら、今日のシンがあたしのものになる夜への、新たな悪意をこっそり拵える準備を並行した。
「…あはっ。夜は覚悟しなさいよね、シ・ン❤」
ずっと使い時を待っていた薬瓶を取り出して、あたしはシンが置いて行った買い物袋の1つに忍ばせ、髪と姿勢を整えた。
「…あはっ。シンったら、マヌケなことしちゃってぇ」
…何とも都合がいいことに、シンのやつは自分の分の荷物もあたしの部屋に置いていったのだ。だから、あたしの秘密兵器を何気なく運ぶことができる状況が揃っているのだ。

―――この瓶は、魅惑の薬瓶。
愛する人の目と鼻とを、あたし1人に釘付けにする、恐るべきモノ。
毎日のあたしに施すシンの暖かさを、あたしの情欲で押し返すための、淫靡なる戦術兵器。
アロマローション・イランイラン。
今日の業務の疲れを、すべて快楽に挿げ替えて溶解させる、可愛い乙女の秘密武器。
あたしはそれをシンの買い物袋の1つの底に忍ばせ、夜まで至るその期待感を胸の底に押し込んだ。
「……散々喜ばせたんだから、覚悟しててよね。シン❤」
そう心の中でつぶやいて、あたしは仕事モードの自分に切り替えた。
私室のドアを開き、今日の担当部署へ急いだ。
モールを走り回ったはずの足が、未だに仄か、軽く弾むのを感じながら。
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