ふーやーちゃんの死とヌオー


「そうか……」
心からの安堵と共に息を吐く
しかしすぐにいつもの調子を取り戻し

「まぁ?妾と共に国を見てきたのじゃから、突然の答えよの」

すっかり老いさらばえた自分とは違う、在りし日の美しさを見せるヌオー(ニャンニャン)に妾も未だ健在と、力強く微笑んで見せる
「湿っぽい話はやめじゃ。
今日は気分が良い、妾も昔語りをするから其方もとっておきの昔語りを聞かせよ」
「そうじゃ、あれは妾と其方が東屋で語り合ってあった時のことよ。
今の様に、其方が天女の姿を取った時をの、我が国老狄仁傑めが見ておったのじゃ
それからあやつは……」
久しくなかった、単なる話し合い。
国の趨勢や人事を問う事ない、取り止めの無い語らい。
ただの武照として、朋と夜更かししてのお喋りを楽しみ、明け方喋り疲れて眠る様にして、聖神皇帝・武則天は崩御した。

武則天の死は、ヌオー(ニャンニャン)によって周囲に知らされた
とは言え、元々高齢だった彼女の死はある程度予想されていたものであり、死に伴う混乱は殆ど起こらなかった
武則天の葬礼はヌオー(ニャンニャン)と宰相・張柬之の采配で執り行われ、亡き夫高宗と同じ乾陵に葬られた

尚、武則天の遺言に従い生前の功績を讃える碑には何も書き込まず、また武則天の亡骸はヌオー(ニャンニャン)自ら作成したヌオー(ニャンニャン)を模した木像を抱え、柩や陵墓の内の壁にもヌオー(ニャンニャン)の絵が描かれた
ヌオー(ニャンニャン)に認められた皇帝という自負の現れであったが、根底にあったのは死後も朋と離れたく無いという、彼女の本音でもあった

武則天の碑は後世「無字碑」と呼ばれた。
これは「妾の功績、妾の評価は後の世に委ねる」という、彼女が後世の人々に課した宿題でもあり、宋代、元代、明代と彼女の事績は刻まれていった

武則天に変わり、皇帝に就任したのはその子・中宗。
中宗と韋皇后はヌオー(ニャンニャン)の残留を強く訴えたが、彼女は「朋の菩提を弔う」と言い残し、宮廷を去っていった。

ヌオー(ニャンニャン)を欠いた宮廷は大いに荒れ、中宗はヌオー(ニャンニャン)に見捨てられたショックから抜け出させず精彩を欠き、韋皇后に見限られ毒殺された
韋皇后も当初はヌオー(ニャンニャン)に去られた事に落胆していたが、ヌオー(ニャンニャン)なしで偉業を成せば、武則天を超える女帝となれると意気込んだ

しかし悲しいかな
韋皇后には武則天の様な才覚はなく、夫である中宗を毒殺し、奸臣たちと組んで混乱を広めただけであった

結果、逼塞していた若き玄宗が立ち上がり、韋皇后と奸臣達は排除され、後世に開元の治と称される、唐王朝の絶頂期を迎える
この開元の治を主導した姚崇・宋璟を始めとした臣下は、皆武則天とヌオー(ニャンニャン)が見出したものであり、宮廷では在りし日の両名の徳を讃える声で溢れた

残念ながら、後世に「武韋の禍」と呼ばれる政治的混乱を招いた片割れとして、武則天の業績は酷く貶められた
それは一重に、男尊女卑の気風が残っていた事も大きかった
また、武則天以外にヌオー(ニャンニャン)が認めた女帝が現れなかったこともあり、そもそもヌオー(ニャンニャン)が武則天の治世にいた事さえ、一時期は否定され、捏造したとまで言われた

最も、それ程までに酷評されながらも武則天の名や功績が今も残っているのは、どれほど否定されても人々がその偉大さを語り継ぎ続けた証であり、武則天を貶めた人々も、次第にそれを認めざるおえなかった
武則天は、死後もその輝きを失わなかったのである

武則天死後、宮廷を去ったヌオー(ニャンニャン)の行方は不明であった
反乱を起こす前の玄宗の元に現れた、という記録もあるがハッキリとしたことは分からない

ただ、武則天の陵墓・乾陵を守護していた、という話がある時期から人々の間に広まっていった
というのも、後に盗掘王として悪名を残す温鞱が、歴代王朝の陵墓を荒らした中、いよいよ乾陵にもその魔の手を伸ばそうとした矢先、凄まじい雷雨が温鞱達を襲った
彼等は「武則天の祟り」「陵墓を守るヌオーの祟り」と恐れ、散り散りになって逃げ出してしまった
以降、ヌオー(ニャンニャン)は武則天の陵墓を守っていると噂が広まり、その威光に縋ろうと、乾陵を参拝するものが増えたという

ヌオー(ニャンニャン)が歴史に再び姿を現すのは、またしばらく後の事になる
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