悲劇カッサンドラーに見る怪物としてのヌオー


 ルネッサンスにおける危険な魅力を持つ悪魔ヌオーの原型は、悲劇カッサンドラーでのイメージが強いとされている。
そこで描かれるヌオーは愛らしさとは無縁の、人間の運命を筋書きに沿って誘導する神に近い怪物である。
悲劇カッサンドラーの内容は以下の通りである。

主な登場人物 
カッサンドラー
主人公、アポロンに見初められるほどの美女。
呪いによって破滅を知りながらも、逃れられないことで精神の均衡を崩しつつある。

ヌオー
愛らしい姿とは裏腹の恐るべき怪物。
カッサンドラーを狂気へと誘う。

『彼』
 エフェソスの王子で、アレス神と女神エレオスの地上における全権代行人、ペンテシレイアを妹、彼女の側近を可愛い娘たちと呼ぶ。
アポロンに匹敵する美男子で穏和な印象を与えるが、その瞳には人間とは違う物が見えているようだ。

『銀髪の侍女』
 『彼』の世話役で付いてきた侍女、柔らかく母性的で、落城間近のイーリオス(トロイアの首都)の殺伐とした空気を変えるほどの包容力を持つ。

プリアモス
 トロイア王、悩める父親。
国と娘の尊厳を選ばされ、パリスの苦悩を理解する。

小アイアース
 アカイア軍で英雄と呼ばれる男。
粗暴で神を愚弄する野蛮人のような男として描かれる。

オデュッセウス
 アカイア軍で最高格の英雄にして賢者。
この悲劇では端役だが、印象的な場面を与えられている。

アガメムノン
 アカイア軍総司令官。
この悲劇では名前しか登場しないが、カッサンドラーの命運を決めた『トロイア交渉』ではアカイア代表として大きく関与する。

用語解説
イーリオス
トロイアの首都。
ポセイドンとアポロンが築いた城壁により、凄まじい堅牢さを誇る。

エフェソス
アマゾネス達にとっての首都で、女神エレオスのお膝下。
この世で最も壮麗とされる女神達の大神殿と、白亜に輝く城壁や整備された公共施設で有名。
アマゾネス以外にも、ヌオー達や能力を認められた男達も住んでいる。

あらすじ
 開始時期はトロイア戦争末期、ヘクトールもアキレウスもパリスも死んだ後のトロイの木馬作戦直前である。
トロイアの王女カッサンドラーには予言の力があった。
それは予言の神アポロンと恋人になる対価に渡された力であったが、予言の力でアポロンに弄ばれた果てに悲惨な最期を遂げる自分を見たので、アポロンの求愛を断ってしまう。
それに激怒したアポロンは「カッサンドラーの予言を誰も信じない」という呪いをかけてしまう。

 その結果、トロイア滅亡の予兆に気づきながらも、カッサンドラーはなにも出来ず、愛する兄ヘクトールもパリスも失い、トロイアは滅亡寸前である。
だがカッサンドラーを目下一番悩ませるのは寝る度に見る夢、それは青い丸っこい容姿をした獣と情を交わす自分自身の姿である。
おぞましいことに、その夢の中の自分は喜悦に満ちた声をあげ、淫らに獣に快楽を催促し、表情にいたっては理性の欠片も無い雌としか言いようのない有様だった。
そして、それが予言の力が見せる光景であることを、カッサンドラーは確信していた。

 そのような現実と夢の双方が見せる絶望的な未来に、カッサンドラーは自殺さえ考え始める。
『彼』とその一団がエフェソスからやって来たのは、その頃である。
『彼』はアポロンに匹敵する美青年であり、アレス神とエレオス神の地上の全権代行であることを表す契約書を携えていた。

『彼』は妹であるペンテシレイアと付き従った12人のアマゾネスの遺骸の回収と、トロイアとの正式な同盟の締結をするために来たのだという。
トロイア王プリアモスは、大いに喜んだが、同盟と言えば聞こえがいいが実態は属国となるであろうことへの諦観も抱いた。
そんな中、カッサンドーラは「『彼』はヌオーだ!」と叫ぶ。

 それを聞いた『彼』はヌオーとしての正体を現す。
ぎょっとする周囲を気にせず『彼』は続ける「同盟の証として、王女カッサンドラーを頂きたいと」
プリアモスは、少し考えさせてほしいと、一週間後に答えを出すと『彼』に伝える。

 カッサンドラーは自分に会おうとする『彼』から逃げ惑う。
『彼』はしかたなく『銀髪の侍女』を通して彼女に自分の気持ちを伝える。
「夢の中で君と出会い、どうしても助けたくなった。 本来、君が辿る末路は無惨だったから、その運命を僕は受け入れられなかった。 運命の三女神にも祖父であるゼウス神にも運命を変える了承は貰っている。 だから僕の手を取ってほしい。 必ず幸せにする」
あのおぞましい未来よりも無惨な末路? ならば自殺したほうが良いのでは?
悩めるカッサンドラーに『銀髪の侍女』は伝える。
「あの子の愛を受け入れる必要は無いけど、考えることだけはしてあげて。 大丈夫、あの子はアポロン神と違って、たとえ愛を受け入れられなくても、あなたを救おうとするから」

 プリアモス王もカッサンドラーも葛藤する中、木馬を残してアカイア軍は姿を消した。
それを勝利と喜ぶトロイア陣営だったが、『彼』は「神に捧げられた供物なら、ここで燃やしても良いのでは?」と木馬を燃やすように提案する。
カッサンドラーも、その意見には賛成するが、プリアモス王は聞き入れず、木馬をイーリオス内部に入れてしまう。
『彼』は神への感謝の気持ちがあるのならば、聖域で今日だけは一日中祈ることを要請する。
少なくない人々がその要請を受け入れたが、それ以外は勝利の美酒に酔い果てた。
 やがて木馬より、アカイア軍の兵士達が現れ、イーリオス中で殺戮が巻き起こる。

 聖域にも小アイアース率いる一団が略奪しにやって来た。
聖域には多くの女子供が避難していた。
小アイアースはカッサンドラー、アンドロマケといった美姫達に舌なめずりをする。
怯える彼女達の前に『銀髪の侍女』が立ち、「ここは聖域、オリュンポスの神々の土地! 立ち去りなさい! さもなければあなた達だけでなく、あなた達の一族にも恐ろしい呪いがふりかかるわ!」と叫んだ。
小アイアースは、嘲笑すると「気の強い女だ。 特別にお姫様方と一緒にアイアースの子をくれてやろう!」
そう言って『銀髪の侍女』を押し倒し、カッサンドラーも下卑な笑みを浮かべる兵士に押し倒される。
小アイアースは「今日は祭りだから、遠慮せずに女を抱くといい!」と叫んだ。
絶望に打ちひしがれるカッサンドラー。
このような下賤の輩に穢されるのなら、『彼』の愛を受け入れれば良かった。

 カッサンドラーの純潔が散らされそうになった時、恐ろしい咆哮がイーリオス中に響く。
その咆哮に恐怖し、行為を中断する小アイアースと部下達。
そして時を置かず、咆哮の主が姿を現す、それはヌオーとしての本来の姿になった『彼』だった。
『彼』は告げる「アカイア軍の総大将アガメムノンとの停戦の合意は結ばれた。 戦争は終わった。 だが貴様等は神々を冒涜した。 その罪をここで贖ってもらう」
ヌオーの姿に気を取り直した小アイアースは嘲りながら槍で『彼』を貫こうとするが刺さるどころか、折れてしまう。
驚愕する小アイアースだが、『彼』は小アイアースから柄だけになった槍を奪うと、小アイアースを徹底的に打ちのめす。
その様子に恐怖する小アイアースの部下達に、『彼』は「これは贖いだ。 これにより神々はお前達のこの場での不敬に関しては許すそうだ。 さあお前達も前に出なさい。 徹底的に罪を贖わせてやろう」
小アイアースの部下達は泣き叫び逃げようとするが、一人また一人と『彼』に引き摺り出され、打ちのめされる。
瀕死になった彼等を冷たく見下ろす『彼』、流れ出た血はどこからか現れた水によって清められていた。

 『彼』は『銀髪の侍女』に目線を送ると「この者達を処刑場に引き摺り出して、神々への生贄に捧げるのが、この者達にとって一番良い結末だと思いますが、どう思いますか母上」と問い。
『銀髪の侍女』は「彼等も戦場の狂気にあてられたのでしょう。 更生の機会を与えてあげなさい」と答えた。
『彼』は「わかりました母上、この者達に治療を施してやりましょう」
そう言うと『彼』はオデュッセウスを呼び、小アイアース達の治療を依頼する。
オデュッセウスが「この者達に生かす価値は無いのでは?」と言うと「エレオスの裁可である」とだけ伝えた。
オデュッセウスは無言で小アイアース達を連れて行った。

 一連の出来事が終わり、助かったことへの安心と同時に、さきほどまでの恐怖に震えて泣くカッサンドラーを『彼』は泣き止むまで優しく抱きしめた。

 カッサンドラーはトロイアの住民の処遇が決められるまでの間、母ヘカベーや兄嫁アンドロマケ―と最後の時を過ごしていた。
カッサンドラーは、もう運命に絶望していなかった。
ただわずかに残された、この穏やかな日々を噛み締めるように味わったのである。

 その間『彼』はアガメムノンと交渉していたようだが、内容はカッサンドラー達には知らされなかった。
ただ『銀髪の侍女』は「あの子を信じてあげて」とだけ言った。

 戦争終結から一週間後、トロイアの住民は男も女も奴隷となったが、その多くは『彼』に買い取られた。
アンドロマケ―だけは、ネオプトレモスがアガメムノンに「父にしたように戦利品を私から奪うのか!」と激しく反対したので、彼に連れていかれることとなった。
アガメムノンは嫌がらせに彼とその一団にだけは、『彼』から手に入れた奴隷の対価の分け前をやらなかったそうである。

 カッサンドラーがトロイアから『彼』の故郷であるエフェソスへ旅立つ直前、オデュセウスが現れ彼女に「アカイア側の人間がトロイアに来ることは二度と無いだろう。 アンドロマケ―もやがてトロイアに帰ってくる」と伝えた。
戦争の勝利者にしては疲れ切った表情で、確信に満ちた声音でそう告げた彼にカッサンドラーは「それはデルフォイの信託ですか?」と聞いてみる。
彼はただ一言「アポロン神の予言ではなく、『彼』との交渉の結果だ」とため息をつきながら答えた。
その答えに疑問を抱きながらも、カッサンドラーは『彼』との新婚生活への期待を前に、そのような疑問はいつしか消えていた。

 エフェソスは伝聞以上に壮麗で、そこにいる数多のヌオー達とアマゾネス達、なによりも彼女を娘と呼んで慈しんでくれる女神エレオスと、敬意と愛情に満ちた対応をしてくれる『彼』に心の傷は癒されていった。
やがて行われた結婚式では、連れて行かれたアンドロマケや母ヘカベー、新しいトロイア王で甥のアステュアナクスも招かれ、盛大に執り行われた。
そして結婚初夜、カッサンドラーは『彼』に美青年の姿ではなく、ヌオーとしての本当の姿で自分を抱いて欲しいと懇願する。
困惑する『彼』だったが、花嫁の懇願を聞き入れヌオーの姿となった。

 カッサンドラーは思う、今の自分は狂っているのか? ヌオーである『彼』に抱かれることをはしたなく懇願し、身も心も待ち望んでいる。
きっと今の自分はかって夢見た姿のように、いやらしく淫らなのだろう。
でも、正気の代償がこの幸福ならば、正気なんていらない。

 カッサンドラーは微笑む、その笑顔は情欲にまみれてはいたが、幸福感に満ち溢れていた。

余談:『トロイア交渉』について
悲劇カッサンドラーでは、交渉の様子を省略され、結果だけ伝えられていたが、悲劇アガメムノンでは詳細に描写されている。
内容は下記の通り。
場所はアカイア軍の本陣。
アカイアの諸将が交渉の席の周りに立ち、オデュッセウスが相談役としてアガメムノンの隣に座る。
『彼』は一人でアガメムノンの真向かいに座っている。

『彼』「アカイア軍総大将アガメムノン、このたびの勝利おめでとう。 さて生き残ったトロイアの者達を奴隷として全員連れて帰るか殺すつもりのようだが、全員私に売ってくれないか? 代価は彼等の体重の十分の一の銀細工だ、どうせこのまま奴隷を連れ帰れば半分は死ぬし、食料や水の問題を考えれば悪くない話だと思うが」

アガメムノン「それでは赤字だし、銀が溢れて値崩れしてしまう。 あの無限に水や小麦が出る壺に霊薬、デメテル神に祝福された小麦といった品物や女神エレオスゆかりの装飾品も何点か提供してほしい」

オデュッセウス「アガメムノンよ、それは欲張り過ぎだ。 最初の条件で合意して、我等は帰るべきだ。 我々はすでにトロイアより戦利品を大量に得ている。 強欲はタルタロスへの片道切符ぞ!」

『彼』「いいや構わないよオデュッセウス。 ただまあ、魔法の品は扱いに気を付けることだ。 神々は祝福した品物を粗末に扱われることも侮辱と考えるがゆえに。 それではこの内容で構わないかアガメムノン?」

アガメムノン「有象無象はそれで構わないが、そなたが横恋慕するカッサンドラーにアンドロマケ、ヘカベーといった王族はそうはいかない。 ああアステュアナクスは殺すぞ。 後顧の憂いは絶たねばならないのでな」

『彼』「では、父上の祝福受けし鉄の剣を10000本と、トロイアは決してアカイアに報復しないと誓わせよう」
オデュッセウス「その条件を絶対に呑んではいけない! アガメムノンよ、さきほどの条件で良いだろう」

アガメムノン「オデュッセウスの言う通りだ。 剣だけでは寂しいから兜と鎧と盾、あと槍もだ、あと兵士達全員に与えてやりたいから、数も2倍は用意してもらおう。 これほど譲歩した私の寛大さに感謝すると良い」

『彼』「まあいいだろう…… この内容で良いのだな?」

アガメムノン「ああ、トロイアに関してはそれでいい。 だがそなたの侍女達は我等の捕虜である。 なので持って帰らせてもらってもいいかな? なに愛妾が一人も居ないのでは寂しくてな、総大将特権として我があの『銀髪の侍女』をもらい受ける」

諸将ざわめく。
オデュッセウス無言で剣を抜き始める。

『彼』「……貴公は、私が戦神アレスと女神エレオスの地上における代行者である意味が理解できないようだな。
故郷ではなく、タルタロスがお前達を待つことになるぞ。 それとも今すぐにでも、私が先導してやろうか?」

アガメムノン「それは困るな。 では今回は貴公に譲歩して、愛妾無しで帰るとしよう。 諸将たちよ! 我が無欲を許したまえ!」

以上の内容になっている。
この後、アガメムノンは帰還後すぐに暗殺され、それにより壮大な復讐の連鎖とトロイア戦争の後始末が始まるのだが、それはまた別の話。
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