――私はついに、追ってもらうことができるのですね。
<比率>
1:2:0
(2:1:0版 -陽相ー)
※夜鏡男性版
https://writening.net/page?kAXNyR
<時間>
30~40分
<登場人物>
如月夜鏡(きさらぎ やきょう)女性
作家を名乗る男装の麗人。雨の晩、あばら家で男と出会い、対話する。
男(おとこ)男性
雨宿りをしていた男
※柳燕と兼ね役
柳燕(りゅうえん)男性
刺青師(しせいし)。彼が彫る刺青には、運命を変える力があると言われている。
※男と兼ね役
しづ(しづ)女性
柳燕に刺青(いれずみ)を依頼する女。
<利用規約>
https://writening.net/page?bmsmZi
------------以下台本—----------
―雨の晩。あばら家にて。
(部屋の奥、闇に溶けるように男が座っている)
(戸口に夜鏡の影)
夜鏡:おや、先客とは珍しい。
男:……先客が嫌なら余所(よそ)をあたりな。
夜鏡:とんでもない。私はこれでも寂しがりでね。むしろ僥倖(ぎょうこう)というものだ。
男:気色の悪い奴め。
夜鏡:それはまた、酷い言い草だ。折角だし、仲良くやろうじゃないか。どうせこの雨はしばらく止むまいよ。
男:……好きにしろ。
夜鏡:では、遠慮なく。
(夜鏡、床に腰を下ろす)
男:おい。
夜鏡:なにか?
男:そんなに近くに腰を下ろす奴があるか。
夜鏡:好きにしろと言ったくせに。
男:限度がある。
夜鏡:とはいえ、ほら。外はひどい雨だ。奥まらねば、ずぶ濡れになってしまう。私が風邪をひくと、女たちが大挙して家に押しかけてきて困るんだよ。華やかでいいけれど、如何せん五月蠅くてねえ。治るものも治らなくなってしまう。
男:取って食われても知らんぞ。
夜鏡:……そのつもりが?
男:……食われてやるつもりもないくせに、よく言う。
(夜鏡、くすりと笑う)
夜鏡:それならいいじゃないか。言っただろう?私は寂しがりでね。寂しがりはお喋りと相場が決まっている。
男:適当なことを。
(男、夜鏡に背を向けて横になる)
夜鏡:おや、もう眠ってしまうのかい。
男:ああ。お前は得体が知れない上に、大層いけ好かない。
夜鏡:まあそう言わず。ああそうだ、一服でもしないか。
男:要らん。
夜鏡:そうか。私は失礼するよ。
(夜鏡、煙草に火をつけ、煙を吐く)
男:なんだこの匂いは。
夜鏡:特別製でね、葉に丁子(ちょうじ)が混ぜてあるんだ。いい香りだろう。
男:いいや、まったく。ちくちくと甘ったるくて、いやらしい。まるでお前のようだ。一層気分が悪くなる。
夜鏡:それは残念。
(夜鏡、煙を吐く)
男:無遠慮に煙を吐き散らかすな。
夜鏡:君が相手をしてくれないから、寂しくてね。
男:一々癪に障る奴だ。
夜鏡:何事も慣れだよ。
男:言ってろ。
(夜鏡、煙草を吸い続ける)
男:本当に、嫌な香りだ。
夜鏡:……
(逡巡の間)
男:……これに似た香りを、昔嗅いだことがある。
夜鏡:ほお?
男:魔除けの香(こう)だ。だからやっぱり、碌(ろく)なもんじゃない。
夜鏡:なるほど。すると君は、魔の者か。
男:くだらねえ。
(夜鏡、ゆったりと煙草の煙を吐く)
夜鏡:……しかしこれは、一体いつまで降るつもりだろうね。
男:さあな。
夜鏡:暇つぶしに、ひとつ話でもしようか。
男:はあ?
夜鏡:こう見えて私は作家でね。
男:それがどうした。
夜鏡:面白そうな話を思いついたんだ。どうせ君は寝てしまうんだろう?それなら、寝物語にひとつ、どうだい?
男:嫌だと言っても聞かせてくるんだろう。お前はきっと、そういう人間だ。
夜鏡:鼻が利くじゃないか。しかし君、これはとんでもない贅沢だよ?なんたって私の話は、皆金を出してでも聞きたがるんだから。
男:それは光栄なこって。いいから早く話せ。どんな話だろうと、お前の軽口よりはまだマシだろうよ。
夜鏡:では、遠慮なく始めさせてもらおう。……これは、ある刺青師(しせいし)の話だ。
男:刺青師?
夜鏡:そう。その男の彫る刺青(いれずみ)は、それはそれは見事なもので、彫られた者の人格や、時には運命すらも大きく変えてしまえるほどだったとか。
(夜鏡、ひときわ大きく煙を吸って、吐く)
夜鏡:男の名は、柳燕(りゅうえん)。
【間】
―柳燕の住まい
(しづが勝手口に立っている)
柳燕:また来たのか。
しづ:何度でも参ります。貴方が彫ってくださるまで。
柳燕:彫れないと言ったろう。
しづ:いいえ、貴方は彫れないのではなく、彫らないのです。
柳燕:お前に俺の何が分かる。
しづ:分かりません。それでも、それだけは分かるのです。
柳燕:わけの分からんことを。
しづ:だって柳燕さま、貴方は今、私から逃げておられるではありませんか。
柳燕:なんだと?
しづ:その目を見れば、分かります。
柳燕:……
しづ:私は、追うことに慣れておりますから。
柳燕:だからなんだ。
しづ:どうか逃げないで下さい。貴方に逃げられれば逃げられるほど、私は追ってしまうでしょう。追われたくなければ、逃げなければよいのです。
柳燕:お前が追うのは、俺ではないはずだ。
しづ:……ええ。ですが、あの人は、私に応えてはくれません。だから、貴方が必要なのです。人の運命をも変える刺青を彫ることができるという、貴方が。
柳燕:それが嘘であれば、お前はただの疵者(きずもの)になるのだぞ。つまらん噂に惑わされている暇があるのなら、祈祷師にでも頼め。その方が、幾らかましだろうよ。
しづ:いいえ、私は貴方に賭けたのです。自分の運命を、人に委ねるのです。疵者になることの、なんの恐ろしいことがありましょう。これは私の覚悟なのです。
柳燕:俺にその資格はない。
しづ:そのようなことは、どうでもよいのです。
柳燕:……哀れな。
しづ:哀れな女と蔑まれても構いません。どうか、私に応えてはいただけませんか。
柳燕:……
しづ:この背に、絶世の美女を彫って下さい。美しさを、この身に背負いたいのです。
柳燕:自分が追われるために、か。
しづ:はい。
(柳燕、大きく息を吐く)
柳燕:……背中を見せろ。
(しづ、ゆっくりと背中を見せる)
柳燕:触るぞ。
しづ:……はい。
(しづ、大きく息を吐く)
柳燕:この、痣(あざ)は?
しづ:……あの人は、私を愛してなどいませんから。
柳燕:分からないな。
しづ:そうですか。
柳燕:何故、そのような男の心を繋ぎとめるために、自らの背に彫り物なぞ入れる。
しづ:私は、真偽の定かでないものにしか縋れぬ女です。追って、追って、漸(ようや)く分かったのは、私が手に入れられるものなど、何一つない、ということです。
柳燕:……
しづ:愛しているよ、と言うのです。あの人は。私を殴った後にだけ。
柳燕:何故。
しづ:分かりません。知る必要も、最早(もはや)ないでしょう。私はただ、あの人のぬくもりをまさぐるだけです。
柳燕:お前のぬくもりは、誰がまさぐる。
しづ:誰も。
柳燕:……そこに横になれ。
しづ:……!
柳燕:ただしひとつだけ、約束してもらうことがある。
しづ:なんでしょうか。
柳燕:そこの目隠しを取れ。
しづ:……
柳燕:すべてが終わるまで、決して目を開かぬこと。これが私が彫り物をするときの条件だ。
しづ:わかりました。
(しづ、目隠しをして、横たわる)
しづ:お願い、いたします。
柳燕:……分かった。
(暫しの間)
(しづ、痛みにあえぐ)
しづ:ああっ……!
【間】
―場面は戻り、あばら家。
(雨の音)
(夜鏡、煙を吐く)
夜鏡:……それにしても。
男:なんだ。
夜鏡:謎の多い話じゃないか。
男:はあ?
夜鏡:柳燕はどうして、彫れないなんて言ったんだろうね。それに目隠しだって、一体なんのために?鶴の恩返しでもあるまいに。
男:……知らん。そもそも、お前の作り話だろうが。
夜鏡:そうなんだが、分からないものは分からないんだよ。作家と言ったって、ただの人で、神じゃないからねえ。
男:それでも適当に作るのが作家だろう。
夜鏡:それは一理ある。ふむ……
(暫しの間)
夜鏡:……彼にとっての「美しい女」というのは、実のところ、彼女のことだった、なんてどうだろう。
男:その理由は。
夜鏡:どうやら、彼女は自らを美しいものと認識していないようだ。実際のところは別としてね。そんな彼女の背中に美の象徴として、彼女自身の姿を彫ることは、果たして彼女の運命を変えてやることになるのだろうか、柳燕はそう思ったんじゃないかと思って。
男:いかにも作家らしい、甘ったるい幻想だ。
(夜鏡、おかしそうに含み笑いをする)
夜鏡:それなら、君はどう思う?
男:俺が?
夜鏡:ああ。是非意見を聞かせて欲しい。ついでに、目隠しについても。ね?どうか私を手伝うと思って。
男:ええい、すり寄るな。
(夜鏡、くすくすと笑う)
(男、舌打ちをする)
(暫しの間)
男:……皆目(かいもく)見当がつかない。俺は作家じゃないからな。
夜鏡:……そうか。
男:で?その続きは?女はどうなった。
夜鏡:気になるかい?
男:つまらない話だって、途中でやめられたらおさまりが悪い。
夜鏡:それじゃあ続けよう。……ある晩、女は男の喉を鎌でざっくり、掻っ切ってしまう。
男:なんだって?
夜鏡:頭からつま先まで血に染まった女は、何故か幸せそうに笑いながら、やがて、地蔵堂の向こうに、走って消えてしまったとさ。
(暫しの間)
男:……それで終(しま)いか。
夜鏡:そう、これでおしまい。如何かな?こんな夜にぴったりな話だろう?
男:そんな終わり方があるか。
夜鏡:おや、お気に召さなかったかな。
男:だってそうだろうが。どうしてそんなことになる。
夜鏡:さあ、どうしてだろうね。
男:……
(夜鏡、新しい煙草に火をつけ、煙を吐く)
(暫しの間)
夜鏡:……それじゃあひとつ、聞いてみようか。
男:は?
(あばら家の入り口に、女の影がゆらめく)
しづ:柳燕……さま……
(男、思わず起き上がる)
男:しづ……?
(男とは、まさに柳燕その人であった)
柳燕:作家、貴様
(夜鏡、遮るように柳燕に煙を吐きかける)
柳燕:うっ……
(柳燕、咳き込む)
夜鏡:この煙草は、夜市(よいち)の狐から買ったものでね、吐いた煙のなかだけでなら、願った相手の魂を呼び寄せることができるのだそうだ。
しづ:柳燕さま……柳燕さまなのですか……?
柳燕:……
夜鏡:狐の売るものなんぞ信用していなかったが、たまにこうして当たるもんだから、やめられない。
柳燕:お前は一体、何者なんだ。
夜鏡:正真正銘、ただの作家だ。ちょっとばかり好奇心旺盛なだけの、ね。
柳燕:そんなはずはない。ただの人間が、どうして妖どもの夜市になど行ける。
夜鏡:好奇心が旺盛過ぎたからさ。
柳燕:は?
夜鏡:故に、「狭間」に気付いてしまった。故に、「狭間」の「あちら」と「こちら」を行き来するようになった。
柳燕:……俺のことも、初めから分かっていたのか。
(夜鏡、煙を吐く)
夜鏡:どういうわけか、狭間を越えて以来、私は少しばかり勘が鋭くなってね。
柳燕:そんなふざけた話があるか。
夜鏡:でも、事実そうなんだよ。だってほら、今だって、私の勘は見事的中したじゃないか。
柳燕:作り話のふりをして、俺を騙したのか。
夜鏡:騙すだなんて、人聞きの悪いことを。私はただ、試しただけだ。
柳燕:試す?
夜鏡:先日、夜市で面白い話を聞いてね。
柳燕:……
夜鏡:そう、今君に話した、鬼女(きじょ)と刺青師(しせいし)の話だ。だから、もし君がその話に出てくる「刺青師柳燕」なら、より面白いことになるだろうなあと思って、つい試してしまった。
柳燕:待て。
夜鏡:なにか?
柳燕:鬼女?
夜鏡:……
柳燕:鬼女と言ったのか、今。
(夜鏡、煙を吐く)
しづ:柳燕さま。そこにいるのでしょう?どうか、お応え下さいまし。
夜鏡:なあ、しづさん。
しづ:……貴女は?
夜鏡:君を呼び出した人間だ。私から、君にいくつか聞きたいことがあるのだが、いいだろうか。私は作家でね、単純に、君たちに興味がある。
しづ:……なんでございましょう。
夜鏡:君はどうして、鬼女なんぞになり果てた?
しづ:分かりません。
夜鏡:へえ。
しづ:柳燕さまが私の背に刺青を入れて下すったその日から、私はとても昂揚(こうよう)しておりました。私は美しくなった。これでやっと、あの人に愛してもらえる、やっとやっとこの手に幸せがつかめると。
夜鏡:それで?
しづ:ですが、あの人は、変わりませんでした。
柳燕:なんだって……?
夜鏡:ふむ。確かに刺青は、彫ってもらったのだろう?
しづ:ええ。それでも、変わりませんでした。ですが、私は柳燕さまを信じておりましたから、鏡の中の私に向かって、何度も言い聞かせたのです。「お前を愛しているよ」と。
夜鏡:随分と儀式めいた行動だ。それは一体、なんのために?
しづ:柳燕さまは私に応えて下すった。絶世の美女を彫ると、お約束して下すった。それならば私は、至上の女でなくてはなりません。ですから、私は縋ったのです。至上の女となったはずの、私に。
夜鏡:なるほど。それなのに、いつまで経っても、男は君を追わない。さぞ苦しい日々だったことだろう。
しづ:はい、毎日泣き暮らしておりました。柳燕さまを恨む日も、ございました。
柳燕:……
夜鏡:しかし、至上の女となったのであれば、何もそんな男に固執することもなかったんじゃないか?
しづ:……見目麗しく、才にも長けた貴方さまには、到底お分かりになりますまい。
夜鏡:これはまた、手痛いことを。
柳燕:しづ……
しづ:分かっていたのです。本当は何も変わっていないのだ、と。柳燕さまほどの腕の方に彫っていただいても、私は、何も変えることができなかったのです。
夜鏡:だから、男を殺してしまった?
しづ:一足先に逝ってもらっただけです。後から私も逝くつもりでしたから。柳燕さまの名を汚さぬよう、ひっそりと。
柳燕:それなら。
しづ:……
柳燕:それなら何故、お前は鬼女になったのだ。俺の、俺の刺青がどうしてそんな……
しづ:……言えません。
柳燕:何故。
しづ:言ってしまったら、何もかもが無駄になります。
柳燕:言え!
しづ:言えません。
(夜鏡、新しい煙草に火をつけ、煙を吐く)
夜鏡:言えるわけがなかろう。
柳燕:お前に何が分かる。
夜鏡:私は作家だ。人の心の機微なら、山ほど書いてきた。特に女心は、得意中の得意だ。
柳燕:戯言を。
夜鏡:こういうのは野暮で好みではないのだが、このままじゃ話が進まない。……しづさん、君は、「見た」んじゃないのか?
(しづ、小さく震える)
しづ:……
柳燕:な……
しづ:お許し下さい……
柳燕:貴様……
夜鏡:この煙草の香りを、柳燕、君は「魔除け」と言った。だから、君はやっぱり魔の者だ。しかも丁子が魔除けとして使われていた大陸から来た、ね。
柳燕:……
夜鏡:そしてしづさんは、君の本当の姿を見てしまった。
しづ:お許し下さい……。痛みに耐え兼ね、それを誤魔化そうとして、つい……つい……
夜鏡:画皮(がひ)。人の皮に美女の絵を描き、それをかぶって美女になりすまして、人を騙し、食らう。それが君の本当の姿だ。
(長考に必要な程度の間)
柳燕:……ちょうどいい皮を探すために、適当な男の皮をかぶって刺青師をしていた。しかし、まさかそれで、彫られた人間の運命が変わるなんて、思いもよらなかった。
夜鏡:確かに、それは君の能力の範疇ではないね。おそらく、魔力による副産物だ。
柳燕:ああ。そうだろうな。
しづ:……
柳燕:しづ。
しづ:はい……。
柳燕:本当に、見たのか。俺の姿を。
しづ:……はい。
柳燕:恐ろしくは、なかったのか。
しづ:恐ろしゅうございました。青黒い顔、とがった牙。それこそ、痛みを忘れるほど恐ろしゅうございました。
柳燕:どうして逃げなかった。
しづ:貴方は、私がこちらを見ていることにも気づかず、ただ黙々と、一心不乱に私の背に針を押し当て続けておりました。……嬉しかった。その喜びが、恐怖を上回りました。
柳燕:……分からない。
しづ:そうですね。
柳燕:分からないことばかりだ。
(暫しの間)
柳燕:……何故だ。
しづ:……
柳燕:俺の刺青には確かに力があった。魔力が宿っていた。そのはずなのに、何故お前の恋は叶わなかった。
しづ:……分かりません。
(夜鏡、煙を吐く)
夜鏡:しづさん。
しづ:はい。
夜鏡:私にも、君の刺青を見せてくれないか。
柳燕:やめろ。
しづ:……
夜鏡:ちょうどいい機会だ。紐解いていこうじゃないか。ねえ?
柳燕:やめてくれ。
しづ:……
柳燕:しづ。
しづ:……どうぞ、ご覧になって下さい。
(しづ、背を見せる)
夜鏡:ほう、これはこれは。
柳燕:……
夜鏡:……柳燕、君は本当に分からないのかい。
柳燕:俺は妖だ。人のことなど、俺には分からない。
(夜鏡、新しい煙草に火をつけ、大きく息を吐く)
夜鏡:まったく、妖というのはどうしてこう、どいつもこいつも、面白いほどに頑固で間抜けなのかね。
柳燕:……
夜鏡:「らしくない」感情からは、すぐに「分からない」と目を背け、逃げてしまう。
柳燕:黙れ。
夜鏡:言われなくとも黙るさ。これ以上は、本当に野暮になってしまう。
柳燕:……
(暫しの間)
しづ:……あの人の喉を掻っ切った後、私は初めて、柳燕さま、貴方を疑いました。私の背に彫られたのは、本当は絶世の美女などではなかったのではないかと。やはり貴方は邪悪な妖で、私は命を奪う価値もない、幸運な者であっただけなのではないかと。
柳燕:しづ……
しづ:ですからあの日、私は初めて、自らの背中を見たのです。
柳燕:……
しづ:柳燕さま、どうして貴方は、これを彫ったのですか。髪を振り乱し血の涙を流す、私の顔をした鬼女を。
柳燕:……分からない。
しづ:……
柳燕:絶世の美女を、俺は幾度となく描き、そしてその皮をかぶってきた。だから俺には断言できる。お前は、美女などではない。
しづ:……はい。
柳燕:しかし、俺はそれを、お前に彫ろうと思った。理由は、俺にも分からない。何を言われても、分からないものは、分からない。
しづ:そうですか。
柳燕:だが、その刺青のせいで、お前は鬼女になってしまったのだな。
しづ:……
柳燕:すまない。
しづ:謝ってはいけません。
柳燕:何故だ。
しづ:だって、この刺青は美しいじゃありませんか。
柳燕:え?
夜鏡:なるほど、そういうことか。
しづ:……
夜鏡:しづさん、君は、望んで鬼女になったんだ。
柳燕:は?
(夜鏡、微笑む)
夜鏡:そうだろう?
(しづ、小さく微笑む)
しづ:……私の背中は――刺青の私は、あの人の血に染まることで、美しくなったのです。
柳燕:なんてことを……
しづ:柳燕さま。私は、間違っているでしょうか?
(柳燕、嗚咽のような息を何度も吐く)
(呼吸を整えるのに必要なほどの間)
柳燕:……俺は、騙して食らうことで生きる妖だというのに、騙すことができなかった。あの男も、お前も、俺自身も。
しづ:……
柳燕:めくれてしまったんだ。すべての皮が。
夜鏡:おや、最後の一本だ。
(夜鏡、煙を吐く)
柳燕:しづ。お前は、不幸な女だ。
しづ:そうかもしれません。でも、私は今日漸(ようや)く、正面から裸の貴方を見ることができました。
柳燕:俺は……どうしたらいい。
夜鏡:……それは、君が決めることなんじゃないかな。
柳燕:俺は、お前にどう報いたらいい。
しづ:……
柳燕:だって俺は、恐ろしいだろう?
しづ:はい。とっても。恐ろしくて恐ろしくて、貴方のような妖に見つめられたら、私のようなものは身動きひとつとれません。
柳燕:それでもお前は、まだこうして、俺を見るのか。
しづ:だって私は、既に貴方と同じ妖でございますから。
柳燕:その身を、呪いはしないのか。
しづ:……私はきっと、罪深いのでしょう。ですから、いつか必ず、地獄に落ちます。地獄は、さぞ恐ろしいところでしょうね。それでも、私は……
(煙が消える)
柳燕:しづ……!
夜鏡:すまない、煙草が終わった。時間切れだよ。
(柳燕、静かに涙を流す)
(暫しの間)
夜鏡:すべての事象には表と裏がある。閻魔と地蔵が一体であるように。……と言ってもこれは……いやはや、なんとも面白い。
(柳燕、やがてゆらりと立ち上がる)
柳燕:……地蔵堂、と言ったか。
夜鏡:……言ったよ。
柳燕:……俺は画皮だ。皮を剥ぎ、人を騙し食らう、妖だ。
夜鏡:……
柳燕:鬼女の皮を、剥いでくる。
夜鏡:それなら、いつかその皮で私を騙してみてはくれないか。鬼女に騙されるのも、悪くなさそうだ。
柳燕:妖よりもさらに不味そうなお前に用はない。
夜鏡:それは残念。
柳燕:じゃあな。
(暫しの間)
(夜鏡、ふっと鼻で笑うような息を漏らし、懐から新しい煙草を取り出すと、火をつけて煙を吐く)
夜鏡:……しづさん。そこにいるね?
しづ:はい。
夜鏡:奴(やっこ)さん、君の皮を剥ぎに行くってさ。
しづ:……良かった。
夜鏡:へえ?
しづ:私はついに、追ってもらうことができるのですね。
夜鏡:君がそう思うなら、そうなのだろう。
しづ:私はあの方を、お地蔵様と一緒に待つことにします。どうせ人ではないのです。時間はたくさん、ありますから。
夜鏡:そうか。ところで、しづさん。
しづ:なんでしょう。
夜鏡:私に、君たちの話を書かせて欲しい。実に感動的な、いい話だから。
しづ:どうぞお好きになすって下さい。お役に立てて何よりです。
夜鏡:ありがとう。これで編集から逃げないで済みそうだ。
しづ:……それでは。いつか、また。
(しづ、ゆらりと消える)
(暫しの間)
夜鏡:……分からない分からないって皆言うが、正直私も、さっぱり分からないねえ。人の心も、妖の心も。それでも読者諸君は分かったような顔をして読むのだろうから、いやはや、まったく。こわいこわい。
(夜鏡、大きく煙を吐く)
【幕】