落花流水の情


「いお、り……」
「マスター、今は安静に」
俺の膝の上に頭を乗せた彼女は、申し訳なさげにしつつも素直に目を閉じた。
微少特異点にある竹林。ここは既に探索済で、かなりの安全が確保できている。この場所にいれば、マスターがこれ以上苦しめられることはないだろう。
風に靡く竹の葉の音は耳心地が良い。探索でこの場所を訪れた時、マスターもこの音が好きだと云っていた。僅かな木漏れ日が、時折彼女の姿を照らしている。その光に導かれるように、俺はマスターの頬へ手を伸ばした。


数刻前、特異点に到着した俺たちは探索を開始した。通信は不安定で繋がらなかったが、「いつものことだから大丈夫」とマスターは笑っていたのを思い出す。今回同行したサーヴァントは一騎のみ。
「そこまで不安要素は見当たらないし、ちゃちゃっと聖杯を回収してきてくれたまえ」
ダ・ヴィンチ殿はそう言って俺たちを送り出したのだった。実際、魔力に吸い寄せられた海魔の類が湧いていただけで、探索はかなり順調に進んだ。
問題は海岸で起こった。
魔術で編まれた罠が仕掛けられていたのだ。俺が罠にかかればまだ良かったのだが、マスターが嵌ってしまった。身動きが取れなくなったところを、敵サーヴァントが仕留めに来たのだ。どうも不完全な召喚だったのか、シャドウサーヴァントのような見た目をしていた。この罠で海魔を捕らえては、現界に要する魔力を補給していたようだ。
術者を斬って、魔術を断つ。罠を解析するより、そちらの方が速いと判断した。不完全な霊基の相手と、カルデアの支援を受けた俺では、力の差は明白。ややしぶとい抵抗を見せたものの、相手は二刀を受けて倒れた。振り返れば、そこには罠から解放された──
「立香!」
すぐさま駆けつけ、斬る。
「伊織……あり、がと……」
くたりと倒れかけるマスターを抱きかかえた。
身動きが取れなくなった彼女を、魔力に吸い寄せられた海魔が襲っていたのだった。マスターの様子を見るに、恐らく生気か魔力を吸われたのだろう。これでは探索どころではない。
「他にも……同じようなサーヴァントが、いる、かも……」
「今は無理するな、マスター。深追いはやめよう」
一旦引き返して養生させなければ。
マスターを負ぶって、来た道を戻る。
「サーヴァント相手に手間取ったのが悪かった。俺の責任だ」
「ううん、伊織は悪くないよ。まもってくれて、ありがとう……」
時が経たぬうちに、耳元で聞こえる声は寝息に変わった。カヤを負ぶって遊んだ朧げな記憶を思い出す。
ともかく、マスターが休める場所まで戻らねば。
俺は歩みを速める。砂浜の音が、酷く重たいものに感じられた。


「ん……」
膝枕で眠るマスターの頬に触れると、微かな声が上がった。
感じ取れる魔力はいつにも増して微々たるものだ。やはり先刻の海魔はマスターの魔力を吸っていったらしい。
「…………マスター」
声をかけると、彼女はゆっくりと目を覚ます。
「どうしたの、いおり」
「今のお前には魔力供給が要る」
マスターは暫し俺の目を見つめた。
「……へ?」
「先程の海魔は恐らくお前の魔力を奪っていった。枯渇は命に関わる」
魔力は食事でも補給できるが、その量は微々たるもので効率は悪い。この場所がひとまず安全とはいえ、特異点にはまだ他のサーヴァントがいるかもしれない。彼らがいつ魂を喰らいに来るかも分からぬのなら、交戦に備え、マスターの魔力は早急に補給されるべきだろう。
今、俺の目の前にいるのは、幾度も極限状態を切り抜けてきたマスターだ。ここで判断を誤るような人間ではない。
「……そっか。なら、おねがいしようかな」
弱々しくも芯のある声でマスターが答える。
ここまでの言動は俺の予想通りだった。

「いおりの、すきにしてね」
その言葉を聞くまでは。

「ん、ぅ……」
舌が絡み合う度、唾液が混ざり合う。
赤子を抱くようにマスターを抱き寄せ、深く口づけを交わした。彼女は時折、こくりと唾液を飲み込んでいる。
供給手段は好きにしろと言われ、俺は大いに悩んだ。恐らくどの手段を選んでも、彼女は受け入れてくれるのだろう。しかし、このマスターはサーヴァントが傷つくことをあまり良しとしない。血液での供給はやめた方が良さそうだ。とはいえ、唾液での供給は些か……
「いいよ、いおりなら」
こちらの考えを読んでいるかのように、マスターは云う。
「マスター……」
「ふふ。キス、しちゃうんだね」
琥珀の瞳が見上げてくる。普段の快活に笑う少女とは異なる顔に、仮初の心の臓が早鐘を打った。その由は己にも分からない。ともかく魔力を供給するのが先だと、こうして行動に移したが。
「ん、ん……っ」
ぴくりと跳ねる彼女の身体を抱きしめる。
マスターから供給手段を示されると予想していたのに、それを外してしまったのだ。彼女のことを理解しきれていなかった。
……何故?
「っ、はぁ、」
唇を離せば、マスターは荒い呼吸を繰り返した。
「マスター、どうだ?」
「少し、楽になった、かも……」
吐息混じりの声に、己の脈が乱れる。随分と血の巡りが良いようだ。魔力供給のせいだろうか。
「……ふふ」
マスターは笑みを溢す。頬を赤らめ、気恥ずかしげな微笑みを浮かべていた。
「どうした、マスター」
「伊織はずるいひとだな、って」
「どういう意味だ」
狡いことをした覚えは無い。何を指してマスターがそう呼ぶのか、とんと見当がつかなかった。
「こんなに尽くしてくれて、守ってくれたら。勘違い、しちゃう……」
そう云って、彼女は目を伏せる。
「……お前に尽くす者も、お前を守る者も、大勢いるだろう」
何を勘違いするのかは分からないが、マスターに忠誠を誓うサーヴァントは他にもいる。俺だけが彼女に選ばれる筋合いは無いはずだ。
俺の言葉に、マスターは首を横に振る。
「そうなんだけど……ちょっとだけ、違うんだよね」
彼女は目を伏せたまま、ゆっくりと語った。
「伊織はきっと、そんなつもりはないと思うんだけど……私に気があるのかなって、思いたくなっちゃう時があるの」
ざあっと竹林の葉が騒めく。
背後を取られ、首筋に刃を当てられているような心地。それだけ、不意を突かれたのだ。
「……俺が、お前に……?」
その問いかけに、マスターはこくりと頷く。
「カルデアに来てくれた時、『お前の剣』って言ってくれて、ドキドキしたの。きっと伊織は純粋な意味で言ったのに、私が勝手に変な風に思うのは、失礼だよね……」
云いながら、マスターの声は徐々に震え出す。
「立香……」
「最近だと、バレンタインのお返しかな。沢山の仏像を何かの足しにしてほしいって言ってきたのに、『ひとつくらいは手元に残しておいてほしい』だなんて。本当に、いじらしいひと」
立香は俺の目を見据えながら、絞り出すように伝えてくれた。
「魔力の枯渇は命に関わるって言われた時、ちょっとだけ考えたの。私にもしものことがあるなら、その前に伝えたいなって」
マスターとしてではなく、ただ一人の少女として、伝えたいことがある。そういう意味だと、理解できてしまった。
「……相解った。お前の思いを聴こう」
「ふふ、伊織ならそう言うと思った」
立香も俺のことを少なからず理解しているようだ。そのことを悪く思わない己がいた。
服の裾をきゅっと握って、立香は口を開く。
「──伊織が、好き」
たったそれだけ。
それだけの言の葉で、僅かな声で、俺の脈は酷く乱れるのだ。
──何故?
「伊織が私のことをどう思ってもいい。私が勘違いしちゃうような言葉も、そのままの意味で使い続けてほしい。傷つくのは、私だけでいいの」
立香はそう告げて、はらりと涙を零す。
マスターを泣かせてしまうなど、サーヴァントにあるまじき失態だ。カルデア中から首を狙われてもおかしくない。どう詫びるべきか。
まずは滾れ落ちる立香の涙を拭う。
「……すまない、立香」
「そうやって名前で呼ぶの、ずるい」
すん、と鼻を鳴らしながら、立香は返した。
云われてみれば、知らぬ間に彼女の名を呼んでいたようだ。
先程から、己が理解できない。
何故、彼女の名を呼んだのか。何故、立香を理解しきれていなかったのか。何故、此程までに、心の臓が煩いのか。
「……きっとこうして、正雪さんたちは惹かれたんだね」
立香の言葉に、思考が止まる。
「待て、何故正雪が──」
「タケルもきっとそうだよ。私の感情とは違うかもしれないけれど、みんな伊織に心惹かれて、貴方のことを大切な存在だと思ってるの」
盈月の儀を知らぬ彼女にも指摘される程とは。一体何をしたのだ宮本伊織。
「本当に困ったひと。ここまで無意識のオム・ファタールなんて初めて見た」
「おむ……?」
「図書館で調べてね。自分がどんな人間か、もっと知った方がいいよ」
それだけ云うと、ぷい、と立香は顔を背けた。
……魔力供給どころではなくなってしまった。ひとまず立香の魔力はある程度補給されたようなので、抱きかかえていた彼女を再び膝の上に寝かせる。
「……ありがとう」
顔を背けたまま、彼女は微かな声で礼を告げた。
伽藍堂の俺に向き合い、記憶を失う前の俺を悪いものとして考えるのは勿体無いと、そう告げてくれたマスター。此処に在る俺を、剣として迷わぬよう導いてくれた人物。その彼女が、想いを告げるだけ告げて、目も合わさぬ有様だ。これでは不公平が過ぎる。此度は俺が立香に向き合わねば。
──己がどのような人間か。
まずは立香の言葉を思い出し、考える。
答えは一つ。今の俺はマスターの剣だ。
……本当に?
確かにマスターの剣ではある。日々の訓練や今日のような探索で、存分に剣としてこの腕を振るってきた。
本当に、それだけなのか?
マスターを立香と呼ぶ俺は、立香を理解しきれない俺は、立香のことで脈を乱す俺は。一振りの剣にしては、些か──
「立香」
「…………どうしたの」
相も変わらず、背を向けたまま立香は答えた。
「お前は、俺に懸想しているんだな?」
「二回も言わせないで」
「であれば、尋ねたいことがある。お前の心の臓は、高鳴っているか?」
この脈の乱れを理解したい。そう思って訊いてみたが、一向に返事は来ない。これは誤った手を打ってしまったか。
「立香……」
「誰が相手でも、キスするのはドキドキするよ?」
やや不機嫌な声が返される。やはり良い手ではなかったようだ。
何やら知らぬ擬音を聞いたが、要するに「どきどき」は脈拍の乱れを指す言葉なのだろう。
「伊織は誰にもドキドキしなさそうだよね」
その言葉を聞いて、咄嗟に声が出てしまった。
「いや、する。どきどきする。だが、何故か見当がつかない」
口にしてから、云いすぎたかと猛省する。事実、立香は沈黙を続けて、2人の間には風が吹くばかりだ。竹林を揺らす風は、穏やかな葉の騒めきを生んでいく。
「……いつ、ドキドキしたの」
ぽつりと立香が呟く。横たわる彼女の身体は小さく、とても世界を救ってきたようには見えなかった。
解らぬことは解らぬままでも、剣として機能すれば良いと思っていたが、どうも立香は俺の胸の高鳴りを知りたいらしい。
「魔力を供給した折、普段とは異なるお前の顔を見て、脈が乱れた。お前に好きだと告げられて、胸が苦しくなった。今、どきどきしているのは、初めて知るお前の姿を見ているから──だと思う」
いつ胸が締め付けられたのか、何故こうも胸が詰まるのか。俺なりに考えたことを述べる。
「……そう、なんだ」
彼女は呟くと、寝返りを打ってこちらを見てくれる。背を向けていた間も涙を溢したのか、目元が腫れていた。
「伊織」
立香は手を伸ばすと、俺の頬を撫でる。そのまま指先を滑らせて首筋を捉えた。
「ふふ、本当だ。どきどき、してる」
成程。首筋に手を当てれば、脈を測ることができるのか。
「立香、失礼する」
俺も立香の首筋に指先を添えれば、とくとく、と脈が伝わってくる。
「お前も、どきどきしているようだな」
「お揃いだね」
くすくすと笑う彼女を見つめながらも、頭は理解を止めようとしない。
立香は俺を好いている。俺が受け入れぬことも考え、それでもいいと涙を流しながら、想いを告げた。その立香は、こうしてドキドキしている。指先から伝わる脈は規則正しく、速いものだ。
俺は立香を──どう思っているのか。
とくん、と心の臓が脈打っている。緊張とも、恐れとも、不安とも違う。そも立香を前に、そのような感情を抱くことはない。
お揃い、という立香の言葉を思い出す。その可能性は考えたことがなかったが……
カヤを想う時とも、セイバーを想う時とも異なる、この、胸の高鳴りは。
「──成程。そういうことか」
理解すれば今までの行動に納得がいく。そして、今すべきことも見えてきた。
立香を抱きかかえ、再び魔力供給の体勢に戻る。
「伊織……?」
何が起きたのか分からぬ様子の立香に、俺は告げた。
「かねてよりお前を想う度、脈を乱していた。その由をたった今、理解したところだ」
返事を聞く前に、唇を塞ぐ。深い口づけではなく、触れるだけの軽い口づけ。唾液の交換など無い、魔力供給としては非効率的な行為。立香はその意味を理解できぬほどの者ではない。
永い時にも感じられる口づけを、漸く終わらせる。立香は俺を見つめ、ただ一言。
「……馬鹿」
琥珀の瞳は、先程とは異なる涙を湛えている。溢れ出すそれを、そっと指で拭った。そのまま頬を包むように触れると、立香は微笑みを零す。
「本当に、ずるいひと」
「……それは悪かった」
その会話で充分だった。
立香は俺の頸に手を伸ばす。引き寄せるような力を感じ取った。成程、ここは彼女のささやかな煽りに乗ることとしよう。
より強く掻き抱いて、深い口づけを交わす。もう、魔力供給のためだけの行為ではなくなっていた。
「ん、ふふ……」
舌を絡めながら、立香は嬉しげな声を漏らす。誘われるように彼女の頬を撫で、髪に指を通した。
今はこれだけで充分だ。手を出してしまった以上、それなりに責任は取るつもりだが、それはまた追々。
熱った身体を優しく撫でる風は涼しく、竹の葉を穏やかに揺らしていくばかり。
己を刻み込む好機を逃さぬよう、今はただひたすらに、立香を腕の中に閉じ込めるのだ。
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