Despite everything, it's still you (3)


視界がぼやけてくる。目先にある暖かい感触は、思わず零れ落ちて、握りしめた拳に落ちていた。

タケル殿が話した伊織殿の過去は、想像を絶するものだった。

家を奪われ、親を奪われ、故郷まで壊され、人としての誇りすら、跡形もなく砕かれた少年。ただ一人、満月を目前にして、嘲笑いと辱めの渦中に、命が落とすのを待っていた。その光景を想像すると、胸中の憤慨が湧きだしそうだった。

彼もまた、この歪な世に虐げられた一人。
真に平らかなる世のために、私が正すと誓った者の一人だった。

そして、なにもかも失った虚ろな少年の前に現れた、すべてを斬り捨てる剣。満月を反射した剣の刃は、すべてを抜けた彼の殻を、再び満たしてしまった。満たさざるを得なかった。

ああ、そういうことか。
道理で、心を奪われるものだな。

「あれこそ、イオリの原点。剣に見とれた港の一夜。あれ以来、イオリはーー」

剣の道しか見えなかった。見えざるを得なかった。

「…っ…ああ。」なんとか涙を抑え、私はただ懸命に喉から声を押し出した。

彼は平らかなる世を望んでいなかった。
だが、彼が剣に希うのは、私利私欲のためではなかった。
ただ、奈落の底から見た一条の光を、必死に追いかけただけだった。

私のように。

「だがこれだけを聞いてくれ、ショウセツ。イオリの願いは最初から最後まで剣だったが、彼という人間はちゃんとしたやさしさを持っている。決して、嘘しかついていないわけではないだ。」

「…ああ、貴殿の言う通りだ。わかっている。なにより貴殿が身を挺して、私に教わったことだ。……礼を言わせてもらう。貴殿には、感謝してもしきれぬほど助けられた。」
「…そうか。」

言の葉では肯定しながらも、彼は首を右に傾けて、私の感謝をうまく受け取れなかった。

貴殿は気づいていないでしょう。
貴殿が私に示した答えは、いかなる救いであったのかを。

いま、貴殿は再び、私のために光を見せてくれた。
貴殿が放つ暁光が、またも我が胸中を暖かくしてくれた。いまならわかる。まさしく、私が探し求めていた光そのものだ。

だが、私の心を奪ったのは、その光を借りた月だ。
月に焦がれた我が身には、貴殿をそっちのけで、あの冷え切った光に暖かさを求める定めであろう。
貴殿があきらめずその月に光を放つように、私もまた、それに求め続けていよう。

ーー光をつかむために、ただその光に目をくらむわけにはままならない。

「…ありがとう。タケル殿。おかげで覚悟はできた。今度こそ彼と話したい。」
「…キミがもしまだ心の準備ができていないのであれば話さないつもりだが、イオリは、今夜子の刻、バトルシミュレーターでキミを待っている。」
「!」
「別に、行く必要はない。礼儀知らずのイオリには、一晩立たせるぐらいがちょうどいいだろ。」

タケル殿はいたずらっぽい笑みを浮かべ、冗句に聞こえぬ冗句を語った。

「…いや、行くべきだ。彼が私になにかを伝えるのであれば、私もそれに応じよう。」
「イオリが癪に障ることを言ったら、殴ってもいいぞ。」
「…もし彼がまたもうそをつくのなら、そうしよう。」

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「来たか。」

「…待たせたな。」

子の刻。正雪はセイバーの言う通り、バトルシミュレーターの門前までやってきた。

「すまない。二人きりで話をするのにこういう殺風景な場所しか考えられなかった。」
「かまわぬ・が、なぜここにした?」
「邪魔を入らせたくなかった。」
「…そうか。」

カルデアのような大所帯では。昨日のほぼ全員が集まるような宴会でもなければ、どこにいてもほかのサーヴァントに遭遇する機会がある。セイバー曰く、正雪との話はなるべく邪魔が入らないところで済ませることに越したことがない、らしい。普通に考えれば自室がもっとも安全な選択であるが、今回の場合、正雪と俺もどちらの自室にいてもお互い遠慮しあうことが目に見えている。

なれば、バトルシミュレーターを借りて場所を変えたほうが、やりやすいと考えた。

「早速だが、場所を変えよう。これを使えば、様々な場所と景色を作り出せるらしい、とマスターから聞いたことがある。敵は…ないと設定することもできるか。」

「伊織殿」

振り返ると、正雪はただ静かに俺を見つめていた。

「腹を割って話すつもりなら、あの場所にしてもらえないか。」

「…ああ。もとよりそのつもりだ。」

からくりの凸凹したところを押すと、気が付けば眼前には見慣れた景色があった。

望月の夜。浅草寺本堂。

過日で、セイバーとマスターとともに、正雪、ライダー…丑御前と戦った場所だ。

「ここに来たことは、昨夜の話の続きをしたい、ととらえていいのか?」
「かまわぬ。」

昨日とは違った落ち着いた口ぶりだ。セイバーはうまくいったようだな。

「だがその前に」
正雪は振り返って、背後にある満月を見上げた。

「久方ぶりの江戸だ。しばしこの景色を堪能させてくれ。」
「あ、ああ。かまわぬ。」

カルデアでは無欲といっていい正雪が、まさか自ら自分がしたいことを語るとは。それで少し心が和むのであれば、ここは彼女に好きにさせるべきであろう。

「…月を好むのか?」
「…」

俺の質問に答えず、正雪は月に向きながら胡坐して、両眼を閉じた。瞑想の構えをしている。

彼女にわざわざ問いただすのも野暮だ。彼女の余興に乗ってもらおう。

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目の前に広がる浅草の景色は、生前のものとそっくりだった。遠く目を広がると見る長屋の数々。深夜の空気の湿気。風の感触。すべて生前で感じていたそのものであった。シミュレーターが作り出した景色でありながら、気が抜くと現実と錯覚してしまいそうだ。

正雪の瞑想に付き合って、早半刻になるが、脳裏にの雑念を振り払うだけで精一杯だった。

「…かつて、いや生前か。私の夢はここで終わった。」正雪の一声は、俺の煩悩を吹き飛んでくれた。

「貴殿が、終わらせた・」白き麗人は立ち上がって、俺に事実を突きつけた。

「…ああ。」わかりきったことだが、いざ肯定されるとやはり返答に困る。

「貴殿を恨んでいない。ただ…」息を深く吸って、彼女は少し黙してから、続きを述べた。
「貴殿を見誤った自分に、腹が立って仕方がなかった。それを昨夜再び突きつけられると、どう反応すればいいのかわからなかった。それだけのことだ。」

なるほど。理屈としては通っている。
あくまで、俺に対してなんの恨み言を言わないのか。

「そうではないだろう。俺に対して文句の一言でもあるはずだ。俺は確かに盈月の儀のことを覚えていないが、カルデアにある聖杯戦争の資料を読んだことがある。」

そしてどの記録にも、絶えぬマスターとサーヴァントの壮絶な死合いが綴られていた。文字からでも、刃を交えた火花、流した血と涙を読み取れるほどだ。

盈月の儀を戦い抜いた正雪にとっても、きっと同じことを経験してきただろう。その果てが裏切りというのであれば、根に持たないことは考えられない。現に、彼女の今までの態度は、それを物語っている。

「…かもしれないな。」そう答えて正雪は、背を俺に向けた。

「だが仮に、私は貴殿を恨んでいる、貴殿の背信を咎めているとしても、今の貴殿には」
「もう覚えていない、というのか」
「…ああ。そう見えて、責める気を失せた…であろう。」
「その仮説を前提として、貴殿に言っておきたいことがある。」

ようやく、昨夜の続きを話せる。正雪は無言のまま、俺に疑いの目を向けた。何の記憶もない躯から、なにを言い出すかが気になるだろう。

「もし俺が、貴殿に謝罪を申したいと言い出したら、貴殿は受け入れるか?」
「…なにを言い出すかと思えば。」溜息を交えて、彼女は落胆の色を隠せず現わした。
「無論、受け入れない。貴殿に記憶もなければ、心なしの謝罪であろう。いまさら、そんなものはいらぬ。」
「だとしても、謝罪をするのは正しいと思う。」

カルデアに来た以来、セイバーと正雪はいつも突如顔色が曇るとき。それは例外なく、「俺の過去、とくに盈月の儀に関する部分」にかかわる話になるときだ。正雪の場合、それが付け入れられて、酷な経験をすでに味わってしまった・俺の推論が正しければ、それは紛れもなく、俺の業だった。

彼女を裏切った。
思いを踏みにじった。
奈落の底へ突き落としてしまった。

「きっと貴殿は、もとより俺から、貴殿の願いを叶えてくれるなにかを見出しただろう。それを裏切った挙句己の願いを満ち足りて、一人勝手に記憶を消えた俺に、貴殿が怒りを覚えるのは道理のはずだ。むしろ、許されぬで当然。それでも、虚ろの言の葉でもよければ、俺の謝罪を受け取ってほしい。」
「…何度も言わせるな。貴殿には、謝罪する、必要はない。受け入れられない。」
「そんな顔をしては、さすがに説得力に欠けるな。」
「!」

慌てて俺に背を向けるようにして、正雪は、俺に答えた。

「…貴殿は、二つ、間違えている。」

「一つは、貴殿は確かに私の思いを裏切った。だが、…それは私が貴殿を見誤ったからだ。月光を暁光に間違えるほど我が目が節穴であった。貴殿は盈月の儀の参加者である以上、己が願いを選ぶのは至極当然。私は、勝手に期待して、勝手に失望しただけだ。そこまでの過ちを自分で犯しながら、貴殿を咎めるほど、我が面皮が厚くはない。」

緩やかに、彼女は、弁明を始めていた。長髪にさえぎられて、顔を見せぬままに。

「一つは、確かに、私は貴殿に我が未練を託そうとした。だが、それより以前に。」

鼻を吸う音を聞こえながら、正雪は両手にこぶしを握り締めた。

「貴殿は、私の願いを認めた。美しいと言ってくれた。誰もかれもが莫迦にする、滑稽な妄想だと言った我が願いを、貴殿だけが認めてくれた。信じ足りうるサーヴァントでさえも、結局何一つ理解してもらえなかった我が願いを、だ。貴殿だけが、こんな絡繰の世迷い言を、真に受けてくれた。それは、かつての貴殿も、いまのあなたも、同じであった。」

そう言って、彼女は手首を右目のあたりに当たって、再び俺と対面した。
真っ赤な目をしたまま、彼女は全身の力をふり絞ったように、無理に笑顔を見せた。

「ーーゆえに、いまのあなたは依然、私の光だ。たとえ、それが澄み渡る、冷たく情もない、月の光であっても、私にとっては、かけがえのない、一条の光だ。だからーー」

彼女の声は哽咽を帯びながら、俺に届いた。

「貴殿を責めない。貴殿が私への負い目を感じているなら、私はそれを許そう。」

まだ俺を許すと選ぶというのか。こうも裏切られたら、誰でも怒り狂うというのに。

ーーそういう貴殿の在り方は、本当に、どこまでも美しく見える。

「そう、か。だが、やはり俺は、貴殿に申し訳なさを感じている。どうか、少しでも償わせてくれ。」

俺は彼女に懇願するよう、頭を下げた。

「…なぜいまとなって償おうとするのか。なにも覚えていないのに償うなど…」
「…それが正しいと思うからだ。」
「正しい、か。」

言の葉に詰まるようにためらいを見せながら、彼女は再び特異点で俺に投げた質問を繰り返した。

「今のは貴殿の本心なのか?」

いままで、正雪に人としての正しき振舞いを語るたび、彼女は「俺の本心ではない」と決めつけてきた。まるで、俺の考えを見透かしているように、俺の偽りを指摘してきた。いや、おそらくは、俺がかつて人の道を踏み外そうとしたから、彼女は俺を信じなくなってきたであろう。落ち着いて考えれば難しくない結論だ。

「…そうだな。貴殿の言う通り、俺は正しさにこだわりをそれほど持っていない・」
「ならなぜなお嘘偽りを申す?私が喜ぶとでも?」
「…己の過ちを償うつもりではないが、貴殿の心を安らぎしたいのは本当だ。」
「…」
「…納得していないようだな。」
「そう自覚しているなら、私が納得できる理由を語ってくれ。」
「…いいだろう。」

正しさを成すことは、本当はどうでもよかった。サーヴァントとして、マスターの意を汲んで剣として振舞うことが、いまの己のすべてと考えた。いまのマスターは正しさを成さんとするから、俺の行いも正しさに近づく結果になっただけで、渇望も願望でもなかった。

正雪の力になりたいのは、そんな大層な道理を用いた理由ではない。もっと単純で、傲慢な理由だった。

セイバーと話してようやく気づいた本心だ。

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少し時間を遡って、カルデアの食堂。

「…正直、カルデアでお前とまた会ったまでは、そこまで思い入れはなかった。なんとなく、盈月の儀の際に、お前と正雪を悲しませたのは勘づいた。だが、おまえらはあえてそれを話さないようにしていた。俺を配慮してくれていたなと、考えてた。ならば、俺のほうもお前らの意をまた踏みにじることは避けたかった。昨夜のことがなければ、きっとこの先も同じであったのであろう。」

それを聞いたセイバーは少し驚いたように口を開けたが、すぐに取り繕って平静さを取り戻した。

「…そうか。イオリなら気づくよな。ならば」

剣がごとく麗しい両目で俺を見つめて、彼は言った。

「なぜ昨日ショウセツの前でその話をした?彼女との話からなにかあったのか?」
「…話ではないな。目だ。」
「目?」
「そうだ。目だ。…といっても、自分もよくわからないようだが。」

廊下で正雪を探してようやく見つけた時、一人で月を見上げたときの彼女の目だ。それは、

すべてを失って、ただただ月を見上げて、叶わぬ願いを切願する目。

絶望すら感じられない、虚ろに時を流れていくかのような目。

生きて居ながら息をしない、屍のような目。

「俺には、そんな目をいままで見たことがなかったが、なぜか」

息を吸って、己の衝動を口にした。

「放っておけないと思った。俺も、かつて同じ目をしたではないかと思った。」
「…」
「いまさらどの面下げて同情するかと罵られるだろう。お前も同じ考えを持っているかもしれん。だが今の俺には、あの目をなんとかしたいと、思ってしまった。だから俺が知っているすべてを話した。」

口に出してみたら馬鹿げた話だと自覚してくる。そんな子供じみた同情心で、だれも納得しないし喜ばない。いわば、ただの自己満足に過ぎない。

「と言っても、俺の推察が正しければ、自分がしたことは謝罪だけで済ませることではないと、わかっている。いまさら贖罪を口にしても、きっと彼女はそれを望んでいないだろう。もとより、他人に償らってもらうなど、彼女に似合わないだが。」

俺がいましようとしていることは、大義やマスターの意志によるものではない。

ただ自分にもよくわからない夢の景色から、彼女のことを勝手に共感して、同情してしまった。尊大かつ傲慢で、彼女のことを見下して助けようとするという、わがまま極まりない意思となる。

「…イオリ。それは」
「サーヴァントはマスターと記憶を共有できると聞いている。お前もそうだったな。」
「…キミには隠し事ができないな。」
「否定しないのだな。」
「キミには誤魔化せないだろう。だがイオリ。」
「なんだ?」
「どんな理由であれ、ショウセツの力になりたいのは、キミのやさしさの表れだ。」

やさしさ、か。

「…いまわからずともよい。キミはキミの勝手なやさしさで、ショウセツの力になれ。」
「…ああ、わかった。セイバー。」

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「勝手な理屈だな。伊織殿。」
「そうだな。否定はしない。」

経緯を聴き終わった正雪は、目を細めて怒りを込めた。
「私を哀れと思って同情するというのか。腹立たしいにもほどがある。」

あきれたように彼女は黙り込んだ。両目は俺を見つめて、まるでなにかを探そうとした必死な眼差しだ。

「貴殿は、どこまで覚えている?」
「今話したことがすべてだ。」
「…」

すると、眉を少し解けて、俺に答えを述べた。
「…貴殿の考えはわかった。だが、貴殿の償いには求めていない。いままで通り、同じくマスターのために剣を振るえば、それで十分だ。これ以上は望まない。貴殿なりのやさしさは気持ちだけ受け取ろう。」
「…俺はやさしくないのだ。」

正雪、貴殿はやはりわかりやすい。
自分が掘った穴に入らせるのにも、こうもうまくいくとは。


「ーーマスターは、同じ言の葉を貴殿に話していないのか?」
「!それ、は…」
「マスターもカルデアも、貴殿からの償いを求めているのか?」
「…伊織殿、それはちが」
「違わない。互いに相手が求めていない贖罪を果たす点では、一致している。理屈は違うとも受ける側にとっては同じだ。」

痛いどころか突かれたか、正雪の端正な顔立ちはひどく歪んでいた。まるで苦虫を噛んだように言葉に窮して、そして急に悟ったのように眉をひそめてを俺に向かった。

「…最初からこのつもりなのだな。伊織殿。」
「…言っただろう。俺はやはり、優しい人ではないのだ、正雪。」

俺にまたも裏切られたと知り、あまつさえまんまと罠にはまったとなれば、さすがに寛容な彼女でも怒り出すであろう。それは覚悟の上だ。

だが、無骨者である俺が、彼女を説得するなど到底無理な話だ。マスターの意思を実行するのであれば、姑息な手を使うしかなかった。

「…まったく、どうしようもない罠にはまってしまったな。」予想を翻して、正雪はただ静かに目を閉じた・

「私の負けだ。いまでも贖罪をすべきこととは思うが、貴殿の償いと同様、受ける側の気持ちを考えていなかったものだと理解できた。また言い出すかもしれないが、その…変えるように努めよう。」
「…?俺を責めないのか?」

ふ、と彼女は笑い出した。

「いまさらだ。貴殿の虚言には慣れている。」
「そうか。それはまた、すまないな。」
「ふ。手段はともあれ、私に道理を説くためであろう。それは礼を言うべきだ。貴殿こそ、私からの貶めを素直に受け入れるのか?」
「貴殿は虚言で他人を貶めないとわかっている。」
「…」
「それと、俺は確かに貴殿の力になりたいと思っている。罪を償うことでなくとも、俺に力を借りれるのであればいつでもそうしてくれ。」
「…本当に、貴殿はどこまでも私を焦がすつもりだ。」
「?どういうことだ?」
「戯言だ。気にしないでくれ。」
「…そういうことにしておこう。」

ゴホンと咳払いして、彼女は話を無理やりに戻した。

「私の力になりたいと言ったな。」
「そうだ。」
「なら早速一つ、頼みがある。」
「なんだ?」


「…私の手を握ってくれないか?」そう言って、正雪はよそよそと目をそらしながら右手を俺の目の前に差し出した。

「?」

どういうことだ。と、思わず口に出してしまった。

「…かつて貴殿の志を確かめようとしたとき、この手を使った。いま、もう一度確かめたい。」

手を握るぐらいでわかるのか、という言の葉が口から飛び出しそうだったが、ここは正雪の言う通りにするのが吉だ、と頭の中の声に従った。

「…それでよければ。」

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「…冷たいな。」

握手をした途端、正雪がなぜか吹っ切れたように笑った。

「そうなのか?すまぬ。やはりここが冷えるからか?」

たしかに、言われてみればシミュレーター内でも夜の江戸の寒さを再現している。結構長話をしたのもあって、いままで気にもしなかった体感は一気にこみあげてきた。

正雪の手は、俺の手と同じくらいの冷たさをしている。それに加えて、雪のように真っ白で、俺の手より一回り、いや二回り小さい。ホムンクルスの体は普段どんな暖かさをしているかは知らないが、こうしてみると、普段は厚着でわからなかったが、いまの彼女はまさしく、月光にさえ溶け去ぬほど、脆くて儚い雪のようだ。いまさらだが、彼女はカヤほどではないがものすごく華奢な人だな、と気づいた。

「かつて私を裏切った人間の宮本伊織は、手が暖かかった。まさしく、大地に温かみをもたらすほどの、冷え切った我が心の氷を溶けてくれるほどの、暁光だと、私は信じていた。だから、見誤った。」寂しそうな笑みをつけて、正雪は引き続き過去を語った。

「だが今の貴殿は、月のように冷たい。貴殿も我と同じ冷たさをしている。これでは、暖かさをもたらさないだろう。」

ーーだが、偽りのない温度だ。ーーそれでいい。

「…正雪?」
「…ああ、すまない。少し過去に思いを馳せしぎたようだ。」

正雪は急に手を離し、軽く咳払いして、話を引き戻した。

「やり口には気に食わぬが、貴殿の言いたいことは理解したつもりだ。償いなどを考えずに、ただ一人のサーヴァントとして戦いに挑むことだなーーまだ罪悪感をきれいに拭ける自信はないが、今後は、それに囚われないように、努めよう。貴殿も、同じようにすればいい。」
「…ああ、わかった。貴殿がここに気を落とさずいられるように、俺もセイバーも、カルデアの方々も、貴殿の味方をするつもりだ。」
「…頼もしいな。盈月の儀を勝ち抜いたマスターとサーヴァントの支援があれば、きっとそうなるだろう。厚意に感謝する。」

どうやら、うまく行ったようだ。これで一件落着だと、胸を撫で下ろした。

「さ、用はもう済んだであろう。戻ろう。」すると彼女は一足先に、シミュレーターの停止装置に向けて歩き始めた。
「正雪。」
「…またなにか?」急に呼び止められて、正雪は背を見せたまま、首筋を半分振り返って問いかけた。

貴殿はいままで明るい顔こそあまりしないが、こうして見ると、いつもの凛とした顔付と違って趣もある。

「な!?」
「そういう顔を、今後もっとしてくれ。」
「…努力しよう。」
「あと、最後に一つ言わせてくれ。」

この際だ。あとが引けないように、いま思っていることを話しておくべきだ。

「…ああ。」正雪はただ黙然と、聞き入れてくれた。

「今の俺には、盈月…聖杯戦争に対する記憶もなければ、それに捧げる願いもない。俺が今ここにいる理由は、ただ剣として、マスターに振舞ってもらうだけだ。あと、強いて言うなら、友の願いを…かなえてやりたいぐらいだ。」
「友とは、タケル殿のことか?」
「ああ。ーーそして、貴殿もだ。」
「!」
「前も話したが、真に平らかなる世を望む貴殿の理想は、俺には考えたことがないが、すごく、美しく見える。それも、きっと善な願いだ。善を成そうとするセイバーも、この願いを拒まないであろう。」

なにより、俺は、貴殿と友でありたい。ゆえに、貴殿の願いを叶う手助けを、させてもらいたい。

「…今度は、なにか裏があるのだ?」

さすがに賢くなった正雪は、まず質疑を投げ返した。気のせいか、顔が半分しか見えなく明かりも少ないのではっきり言えないが、なぜかセイバーのいつものふくれっ面をと似ている…ような気がしてきた。

「裏がない。無論、貴殿が俺を友として認める必要もない。なにせ俺は貴殿を裏切ったものだからな。許すことがあろうとも仲まで深めてもらう必要はあるまい。だがそれでもーー」
「どこまで信じていいのやら…」
「…」

正雪は片目で。じっと俺を睨めた。

「はぁ…」そして、目をそらして、あきらめたように軽い溜息を出した。

「願いがないのは、事実であろう。貴殿が本気に我が妄念の実現に力を貸すのであれ、そうでないであれ、いまは同じマスターの下で人類のために戦っているサーヴァント同士だ。貴殿の魂胆は、追々見極めさせてもらおう。」

なるほど、妥当な判断だ。

「貴殿がそれでよければ。いまの俺は貴殿を裏切るつもりはない。」

「なら、ここで話すことはもうないな。」そう言い捨てて、彼女はふたたび歩き出した。

「ああ。戻ろう。」

こうして、自分たちのために開いた宴を抜けた二人のサーヴァントが、一日遅れの帰途に就いた。

「…」

腹を割って話して、俺と正雪は幾分関係を改善できたがは、よく把握できない。
だが、俺を通りぬけた時の正雪は、なぜか安堵したような表情だった。そして俺は、それをもっと見たくなったようだ。

この身がすでに満たされた以上、今度は友のために力を尽くすーーあの特異点の盈月に、俺はそう誓った。だが、それをしたところで、過去に作った傷を埋められるわけがない。特に正雪ほど深く傷ついたものは、この先ずっと痕が残るであろう。

俺ができるのは、彼らに寄り添って、手助けを惜しみなくすることぐらいだ。

率直に言うと、ただ剣を振ることにしか能がない俺に、正雪は俺を買いかぶりすぎている、と思う。俺は、いかにして彼女の光として足りうるかが、まったくわからぬ。だが、それで彼女の心が少し安らぐすることができれば、彼女が期待してくれた分、俺は全力で応えるつもりだ。

月の光は、澄み渡る蒼白さで、大地を照らす。冷たく、鋭く。暖かさはまったくない。

だが、たとえそうであっても、月は、光を照らすことをあきらめたりしない。もっと眩く、もっと明るく、その月光は暗闇の隅々まで届くことに。

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「結局、抜き出してから一度も戻らなかったな。宴のほうは大丈夫だったか?」
「マスターもいるから何とかなった。宴の主役二人がこうして抜け出しただが、じきに冷めたとセイバーから聞いた。」
「あとでマスターにも詫びを入れないとな。」
「そうだな。だが正雪。」
「?」
「貴殿があの場が心地よくないのであれば、別に無理しなくでいい、と思う。」
「…こう見えてもとは塾の主だ。無骨者の集まりには慣れている。心のわだかまりに向き合うと決めた以上、もう逃げることができない。」
「そうか。だがもし辛く感じたら、そう俺に言ってくれ。」
「…そうする。礼を言おう。」

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「マスター、先日は申し訳ございませんでした。」

翌朝、正雪と待ち合わせたのち、マスターに謝罪に行った。

「ん?ああ、あんときのことね。気にしなくでいいよ。みんな結局楽しめたし。」
「いや、そういうわけにはいかない。私が抜き出したせいで伊織殿まで…」
「俺は気にしていないぞ正雪。」
「わかっている、だがそれでは筋が…」
「お、イオリとショウセツではないか。朝餉に食堂へ疾く発つぞ。」
「セイバー、頼むから話をこじらせないでくれ…」
「いまはちょうどできたてのパンもあるぞ。」
「な…なに?だが…」

この三人組の話を、マスターはただ微笑みを込めて見つめていた。

「…?ショウセツ、なんだかいつもより顔色がよくなっていないか?なにかいいことでもあったのか?」
「そう…なのか?正雪の顔色はいつも通りだと思うが…」
「伊織君は黙ってて」
「…っ?!マスター?」急に肘から衝撃を受けた。


「顔色がどう…なのか、私自身もよくわからないが、いいこと、と言えば」

正雪は右手の手のひらを返して、見つめながら質問に答えた。

「美しい月を見た、のかな。」
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