薄暑光(はくしょこう)


初夏を迎えた浅草、幽霊長屋にて伊織は久方ぶりに友人の訪いを受けていた。
「そうか、幕府の職を離れるのか」
「ああ、元々少しでも世に溢れる浪人たちのためになるのならばと思い、受けた話だったが
塾生たちも次の士官先が正式に決まったからな。
私の役目は終わったといえるだろう」
「そうか」

儀が終わって約一年、俺と正雪は友人となっていた。
幕府に仕え、私塾もある正雪が時間が空いたときに訪ねてくれる形ではあるが交流は細々と続いている。
ここ数か月はいつもにも増して多忙を極めていたらしい正雪がようやっと顔を見せた。
長屋の薄暗く青味がかった光の中で見る正雪は名の通り白く浮き上がって、破れた襖からチラチラと漏れる光が彩っている。
朝から気温が高い中を歩いてきたからか、ここしばらくの多忙のせいか少しやつれたように見える。
陰に入り暑さが和らいだからか、水を飲んで落ち着いたからかふぅと息を吐き正雪が近況を教えてくれた。
幕府の覚えめでたい軍学者だと周りから聞いていただけに多少は驚いたが、弱きものに寄り添う彼女らしいといえば彼女らしい。
仕事がなくなったというのにどこかすっきりしてさえ見える。
「して、今後はどうするのだ」
「気楽な身の上になったのだ。
皆にも勧められることだし、しばらく湯治にでも出かけようかと思っている」
「そうか」
珍しくにこりと笑った正雪につられ、微笑み返すと向かいからさらに珍しく「ふふふ」とその見目通りの少女のような声があがった。
そうか、お前はそのように笑うこともできるのだな。
そろそろお暇させてもらうと立ち上がったのを機に消えてしまったが。


「貴殿、死ぬつもりだろう」


引き戸に手を掛けた背に声が落ちる。
正雪は背を向けたままだが、それが答えだった。
「幕府の職を辞したと言っていたが、私塾も神田の屋敷も処分しただろう。
このまま江戸を出てどこかに消えるつもりか」
「私は、自分の使命を果たせなかった。
このまま時間切れになるならば、体が動くうちに全て片付けておきたいのだ
あなたに出会えてよかった。さらばだ」

使命などとよく言えたものだ!
自分の感情が恋にかわりつつあるのは自覚している。
伊織が同じものを向けてくれているのもわかる。
だが、私は自分の幸福を甘受できない。
私はあなたに幸せになってほしいのに、きっと自分の生まれながらの性能に逆らえない。
伊織を捨てて玉兎としての使命を優先するだろう。
それでは駄目だ!
振り向かないまま戸を開けると、夏の強い日差しが室内に入ってくる。
一瞬目をすがめたが白い光に向かって足を延ばす。
……ふいに肩に強い痛みが走り、そちらに目を向けると後ろにいたはずの伊織がいつの間にか自分のすぐ横にいた。
その目は、儀の最中に目にした……

パタン

扉は閉められ、光は断たれた。
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