教育に関する自分語り


この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2021の3日目の記事です。

https://adventar.org/calendars/7017

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高校生の頃からぼんやり抱きながら言語化してこなかった話について書こうと思う。

「自分のような経歴の人間が教育を語っていいのか?」と問い続けて何年経つだろう。
端的に「超進学校(首都圏私立中高一貫)→最難関大学卒業」という経歴が邪魔だ。

私が教育に対して思っているのはざっくり以下の内容

経済格差が教育格差に繋がらない社会に生きたい、そのために経済的な理由で学びを諦める人が一人でもいなくなるといい
派生思想として、
「(難関)大学に行くためには予備校に行かないといけない現状が嫌い、特に実績のある学校の生徒しか基本的に受け入れないみたいなスタンスの塾が大嫌い」
具体的には合格者登校日に「合格おめでとう、次は東大」と刻まれたクリアファイルを配っていた某予備校が生理的に無理。当然10年以上前の話だが、鮮明に覚えている。指定校制度なんて究極の選民思想と高校時代から思っていた。折角指定校にいたし人生経験としてちょっと通っとけばよかったと思えたのは大学に入ってからだった。
「学校で予備校の勉強ばかりしているなら通信制にするなり高卒認定とるなりして塾の勉強に専念すればいいのに、なんで全日制普通科にいるの?」
古い記憶だが学校生活と予備校を両立していた友人はほぼいなかった気がする、どちらかを破綻させて志望大学に受かるかどちらも中途半端or両方破綻して志望する大学には入れなかった。
かなり部活が忙しかった(登校日は毎日部活動をしていた)のもあり「受験のためにそんな部活を辞めなさい」と泣く泣く親に辞めさせられた同級生もみてきたが、結局受験戦争という一コマを切り取れば私の勝利だった。
先述の予備校は「学校で内職の時間を見つけて課題をやれ」と指導していた。クラスメイトが配布プリントを見せてくれたことを強烈に覚えている。そこまで言うなら高校辞めさせれば?って思ってた。指定した東大合格に実績ある中高一貫に入れるだけ頭がいい子供を求めてるだけでしょ?「中高6年間は人格形成にとっても大事(要約)」というのは建前で、課題漬けにしてろくな学校生活は送らせないくせにと子供ながらに考えてた。
「インターネットの普及でより簡単に学びに手が届くようになるのか?」
かなり情報は増えてきたが、まだ整理されてはないように思う。どの情報が正確で良質なのかを見極めないといけない段階。玉石混交の情報のなかからいかに自分にとって役に立つ情報を掘り当てるかは永遠の課題。

大卒でなくても社会で十分な貢献ができるはずだ、大学は行きたい人が行きたいときに行けばいい
派生思想として
「いわゆるFラン大に特に理由もなく進学するなら高卒で就職する方がよくない?」
若いうちから教育したら早くから会社の戦力になるんじゃないか、という素朴な疑問
「(そうすれば)奨学金でFラン行って就職できませんでしたorワープアですー返せませんー的な事故は減るのでは?」
大卒程度で就職すれば奨学金を返済できる収入が得られる時代は終わった、いや、最初から存在しなかったのでは?
「そもそも一般的な18歳が高等教育を受けるのは早すぎる」
中学の理科の先生から教員をしながら放送大学でいくつも学位とってる話を聞いて、当時は気持ち悪いと思ったけど今は素直に尊敬する。「怖い先生」で片づけていたことを謝りたい。貪欲な学習意欲を見習いたい。
「とはいえ大卒程度が必須といわれる場面は多い、でもそんなに大卒って大事か?」
非実学系専攻かついわゆるガクチカで学部時代の話より中高時代の話題の方が評価された人間なのでこう思うのかもしれない。大学の肝だと思っている部分も中高の恵まれた環境で習得できたからこう思うのか?

発達段階が違う人間を同じ空間に入れて一斉授業するのに無理がある
派生思想として、
「できる子はどんどんすっ飛ばせばいいし、できない子は立ち止まって寄り添うことが出来ないか?」
どちらかというとボトムアップ志向なのだが、ボトムアップに付き合わされるできる子は退屈だと思う。
「でも上記のようなことが公教育が出来るくらい今は教育資本が豊かじゃないんだよなあ」
私教育ならやってるところがあるかもしれない、でも結局金の有無に帰着してしまう。金を積んだからといって必ずしもボトムアップが出来る保証もない、ソース俺の数学。

 どちらの主張をするにも自分の経歴は虚無。疑問に代替案も浮かばずぼやいているだけだ。
高校時代せめてもの抵抗として予備校には通わなかったが、早生まれではないし、中学受験のために3年半中学受験塾にいたし、「予備校いらず」を謳う学校(注:体感通塾率7割)にいたので実質6年予備校に通ったようなものだし、ばっちり学士号持ちである。
学部時代に出身大学で友人を作らなかったのも無意識の抵抗だろうか。友人の分布をみると川向こうの大学が最大勢力。

 もし上記の主張をするなら、
「小中高公立→宅浪or就職→旧帝大」くらいの説得力が欲しい。私は首都圏出身なので高校までが教育資本が薄めの環境がより説得力増す、とか考えてしまう。先輩みたいに18年ぶりに出た京大合格者みたいなプロフィールで教育を語りたい人生だった。

 大学に入学してから中高生に「大学ってこんないいところなんだよ、難関大学に進学した方がいいよ」と話す機会もあったが、裏では「無理して四年制大学に進学しなくてもいいし、短大や専門学校でスキル身につけるほうが幸せかもしれないよ?」と思っている自分がいる。大学の性質が変わり「わざわざうちを目指す必要ある?」という疑問が浮かんだのも拍車をかけている。
第一志望だった四年制大学に進学して特段不便もなかったが、親戚のちびっこたちに大学進学を積極的に勧めるかといえばそうではない。私自身は大卒だけど、高校は卒業しておいた方がいいかな、くらいの感覚(中卒で生きていく術を語るには経験値が足りない)。押しつけよくない。

余談:私は恩師となる大人に導かれてここまできてしまった、自分はまだ他人の人生を負えるほど強くない

中高生と交流するにあたり金銭が発生していることもネックだった。私立中高に出入りしながら「難関大生と触れ合う」コンテンツそのものが課金要素になっていることに拒絶感があって、長くはもたなかった。学歴を金に換えて初めて「教育をビジネスではなく慈善活動にしたい」と気づかされた。でも慈善活動というと施しのようで上から目線だ。嫌だ。対等でいたい。世間でいわれる難関大卒なんて腐るほどいる。希少価値を見出されると困る。

 そう思いながら、自分の思考と似たようなコンテンツ(某楽しいから始まる学びを掲げる知識集団とか)を見ると「この人たちがもうやってるから自分はいいや」という虚無感に陥る。
そう言っておきながらその知識集団のことは好きではない。自身の勉強体験や学びへの積極性は肯定的に捉えるが、ああいう突き抜けた方々がいるとインテリがみんなあんなもんだと思われる。〇大生だからとありがたられるのは趣味ではない。(非東大卒の天邪鬼が発動しているだけかもせれないが)突出した才能はなく、とりわけ出身大学らしさもない、ただ高学歴な自分は肩身が狭い。
そんな自分にしかできないことは何かを問い続けるうちに、自分の存在価値まで失いつつある。

 自分の中のわだかまりを解消するにはどうすればいいか、まだ答えを見つけられないでいる。
ひとまず教育への関心を無視して就職は全く関係ない業界に民間就職することにした。教育に足を突っ込むには思想が強すぎる。

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