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 その場所のほとんどは瓦礫で満たされていた。それらが積み重なった小さな山が数え切れないほどあり、あるべきはずの地面を隠している。一面灰色の世界の中にただ一つ、人がようやく住めるほどの残骸が残っていた。廃ビルと言えるその建物に住むのは四人だけだ。唯一雨風が凌げるほどの壁が残った部屋にいる老人にようやく最後の乳歯が抜けたばかりの少女とその母親、そして背丈が伸びなくなって久しい青年だ。

残暑が抜け、冷え込む夜に彼らが固まって横になりはじめた時分のことだ。夕方、青年はいつものようにゴミ捨て場に仕掛けてある霞み網から二羽のカラスを獲り、廃ビルに帰ろうとしていた。彼は右手に掴んだカラスが暴れるのを気にもせず、左手が届かない位置にある背中のかゆみをおさめることに必死になっていた。親指はどうしてもとがった肩甲骨を超えることができない。脱臼をしかねないほどに力を込めていた彼はぱらぱらと小さな瓦礫の破片が落ちる音を聞き、立ち止った。瓦礫の山が崩れるかもしれないことを知っていたからだ。一つの山が崩れるとその隣にある山もまた崩れることは珍しくない。彼は耳を澄ましながら辺りを見回すと、少し離れたところにある山の天辺に見知った少女が立っているのに気が付いた。おそらく彼女が山に登ったために破片が落ちてきたのだろうと思った。常人ならば決してすることはない危険な行為をする彼女は硝子のコップを夕陽に向かってかざしていた。一日の役目を終えようとする太陽は色濃い朱を惜しみなく注ぎ、瓦礫の影を浮かび上がらせるとともに少女には一層のやさしさと暖かさを与えているように見えた。柔らかで肉の詰まった指に掴まれているコップは彼女の手に余るほどの大きさであり、それを好んで使う理由を青年は聞いたことがなかった。彼の記憶が正しければ、これと同じことを彼女がするのは三度目である。最初は彼女の父親がここを出ていったとき、次は老人の妻が亡くなった次の日であった。おそらく彼女なりの礼拝ではないかと彼は考えていた。陽が落ちるまでこの行為をやめたことはない。彼は再び歩き出した。
 
廃ビルに着いた青年は調理場となっている一階にカラスを吊るしたあと、鉄筋がむき出しになっている階段を上った。三階にある部屋の奥に老人はいる。綿の潰れ切った薄い毛布で身を包みながら横たわっていた。
「おい、生きてるか」
青年は老人に話しかけた。答える気力もないのか老人は片手をあげるのみだ。
 青年は老人の上半身を起こし、壁にもたれかけさせる。近くにある壺のなかから水を掬い飲ませてやった。
「すぐ鍋を作るから少し待っててくれ」
そう言い残すと青年は調理場へと戻った。
カラスたちはすでにおとなしくなっていた。頭に血が上ったためだ。青年は少女の母が作ったインゲン豆や里芋、ニンジンを鍋の中に入れ、茹で始めた。これらは廃ビルの隣にできた窪みのなかにたまった雨水と先人たちが掘り起こした土を使って栽培をしている。野菜の入った鍋とは別のものを一つ用意し、青年はカラスの処理を始めた。
耳の輪郭を沿うようにナイフが入れられると、血が滝のように流れ落ちていく。カラスはすこし抵抗するそぶりを見せるが、そのうち動かなくなった。その後すぐにまな板にのせられ、肛門の下にある油肉と内臓を取り除かれる。ここで先ほど用意してあった鍋に放り込まれ、羽を毟るための毛穴を開かされた。取り除き切れなかった産毛は火で炙られ、焼き切られる。腿肉や胸肉に分け、余った頭の皮も剥がされた。頭蓋の切れ目にナイフを突き刺され、こじ開けられた中には一口大のちいさな脳みそがある。脂肪でできたこれが唯一、老人が食べることができる固形物だった。処理された肉はシソの葉を擦り込まれ、野菜を茹でていた鍋に全て放り込まれた。
熱を入れすぎると身が固くなり味が落ちる。青年が火加減を調整しながら、その気なしに目を外に向けていると少女が帰ってきた。
青年は少女に話しかけた。
「もう鍋ができるからお椀を取ってくれ。ついでに爺さんの分も持っててくれると助かる」
「うん、分かった。お母さんは?」
少女は返事をしながら棚からお椀を取った。そのついでに先ほどのコップを大事そうに仕舞っている。
「まだ帰ってきてないな。まあ、すぐに帰って来るだろう。ほら、早くお椀を渡せ」
 青年は少女からお椀を受け取り、一つには脳みそを、もう一つにはとりわけ大きい胸肉をよそった。
階段を上っていく少女の後ろ姿が青年から見えなくなったあと、彼は鍋の火を止め、先ほど少女が仕舞ったコップを手に取った。親指の腹で透明なコップの表面をなぞりながら彼は考えた。
少女はこれのどこに惹かれているのだろう。目の前の棚にはほかにもコップは置いてある。ただし、それらは薄く茶色付いたものではあった。透明なのが良いのだろうか。おそらくそれだけではない。きっと何か特別な理由があるに違いない。しかし、それを少女に聞くのはあまりにも無粋である。
青年はコップをもとの位置に戻し、料理の後片付けを始めた。

陽は落ちた。ビルの最上階で月明かりを頼りに住民たちは食事をしている。少女の母も帰ってきたようだ。食事は決して質の良いものではなかったが彼らは満足していた。冬になれば食事を取れない日が続くことがあったからだ。
青年がお椀の中に残る菜っ葉一つ残らず平らげたころ、老人はようやく一つ目の脳みそを口に運んだ。彼はもう長くはもたない。そのことに少女までもが気付いており、もっとも深く理解しているのは老人自身であった。これからやってくる冬を凌ぐには彼の身体はあまりにも脆すぎた。
食事を終えた彼らは三階に戻り、床に就く予定であった。それを止めたのは老人だった。どうやらここで夜を過ごしたいようだ。寒くはないかと少女の母が老人に尋ねたが、すでに暑さも寒さも感じないと答えた。
 老人と少女を挟むようにして四人は寝転がった。彼らは残っている毛布やコートをかき集め、どうにか熱を逃がさないようにしている。少女はすでに母の身に包まれながら寝息を立て始めていた。
老人は青年に言った。
「これからどうするつもりだ」
青年は戸惑った。これほどはっきりとした老人の声を聞いたのは久しぶりだったからだ。
「どうって言われてもなぁ。とにかく冬が来るから食べ物を集めるしかないだろう」
「そういうことを言ってるんじゃあない。ここを出ていくつもりはないのか」
この質問は青年にとって最も恐れていたものの一つであった。彼がまだ少女と同じくらいのころ、このことについて考えたことがある。生きていくだけでも厳しいこの場所から逃げ出したいと思ったことは何度もあった。その度に老人やまだ赤子だった少女のことを思い、踏みとどまった。少女の母も父親がここを出ていったときにはひどく泣いていたのを覚えている。
「そんなことはできないさ。第一、俺がいなくなったら爺さんたちはどうするんだよ」
 「私たちのことはどうでもいい。お前は外に行きたくはないのか」
老人の言葉に青年は外の世界に想いを馳せた。目が覚めても身体が痛んでいないベッドやカラスとは比べ物にならないほどのおいしい食べ物、寒さも熱さも気にしなくて済むような素晴らしい建物。それらは老人や少女の父に聞かされていた夢物語だった。それが現実にあるかもしれない。そう考えると青年の心はほんのすこし浮つくのだ。だが、老人たちをここに残していくわけにはいかない。青年はなんと答えるべきか迷っていた。
ひっそりと二人の話を聞いていた少女の母は少女を起こさないように静かに告げた。
「迷ってるなら行っておいで。もうこの子だって小さくはないわ。気にすることはないのよ」
青年はその言葉をゆっくりと噛み締め、ここに居る人たちを思った。
そして、一つの答えを出した。
「ここを出ていくよ。でもきっと帰ってくる」
 青年は楽園を見つけ出し、そこでこの住民たちと再び暮らすことを決意した。そのために出ていくのだ。
それを聞いた老人はふっと息を漏らした。
「調理場の棚の下に地下の入口が隠してある。そこに一張羅のコートと缶詰が残してある。それを持っていくと良い」
何かに急かされるように一息で老人は言い残し、瞼を閉じた。
青年は感謝の言葉を伝えたがすでに老人は何も応えなかった。

寒々しい朝がやってきた。老人の目が開かれることは二度となかった。
残された三人は廃ビルの近くの瓦礫を掘り起こし、その下に老人を埋めてやった。弔いを終えた青年は昨晩聞いたとおりに棚を動かし、地下から立派なコートと僅かばかりの食料を手に入れた。
 身支度を終えた青年はすぐにでもここを出ていくつもりだった。そうしなければ明日にはより大きな覚悟が必要になると思ったからだ。すでに日は傾き始めている。少女は水を汲みに少女の母は畑に向かった。出ていくのであれば今しかないだろう。青年は二人に別れを告げるつもりはなかった。その一方でもう二度と帰ることはできないかもしれないのであれば、少女にあの行為の意味を聞いておこうかとも思った。だがやめた。それを聞くことこそがここに帰ってくる一つの理由に成りえたからだ。
こうして青年は外に向かって歩き出した。彼が歩みを止めなければ望んだものが手に入ることもあるだろう。
そして、少女もまたコップを片手に瓦礫の山を登るのであった。
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