Despite everything, it's still you (2)


長い。長い沈黙。冷たき月光は、ただただカルデアの廊下に突き刺さる。
だが、月光ごときでは、この冷たさを暖かくすることはできない。

正雪と俺のにらみ合いは、あれからどの位たったであろう?

「…思い上がりにもほどがある。宮本伊織。」そう言い放った正雪は、眉のひそめをより深めた。

「たしかに、私はかつての貴殿を知っている。貴殿の願いも知っている。だが、それまでのことだ。私は盈月の儀で貴殿に敗れた。そしてその未練が、私を歪に堕とさせた。すべて、私の未熟さが招いた結果だ。貴殿に咎めがあるまい。」

言の葉の響きには何の起伏もない。だが彼女の表情は、明らかに静かな怒りがこもっていた。
「…いや、やはり信じ足りえぬ。それだけではなかろう。」
「…貴殿は思いのほかしつこいな。何度も言わせるな。無稽な推理はよせ。」
「…」

俺にはかつてセイバーと組み、正雪などと戦った盈月の儀の記憶は持っていない。だが、あの特異点での出来事ははっきり覚えている。その時に聞かされた言の葉を見返せば、いくつかセイバーと正雪が話した断片的な過去をわかった。

そして、カルデアに来たあと、セイバーが時々悲しそうに見つめる目。正雪の言いたげそうでなにも言わないしぐさ。いつもは気づかないふりをしていたが、それと合わせれば、やはりかつての盈月の儀において、二人は俺と大きな因縁があったことを示している。

そして、その中身を噛み砕いて考え込んだ結果、一つの仮説が導き出された。

それはきわめて危険な類なものだ。下手をすれば、人間関係が一気に壊れかねない。ゆえに気になってはいても、いままで口にすることはなかった。

「…それにしても良い月だ。清く、純粋な空気に合わせる一杯は、きわめて贅沢なものだ。」話を無理やり別の方向にするよう、正雪はまた目をそむいた。

いまの正雪の心の壁は堅い。なら、角度を変えて攻めるまでーー

「ーー無稽な推理、か。たしかに根拠はないが、推測は、ある。」

わざと思わせぶりの言の葉を組んだが、案の定、正雪はすぐに振り返った。無言ではあるが、表情には一抹の不安がある。

無垢な人ほど、隠し事とうそが下手だ。そういう正雪を見ると、幼き頃、台所でつまみ食いをしたカヤを思い出させる。

「…あの特異点で最初に貴殿と出会った時、貴殿は、『かつて俺に光を見たと言った』。貴殿にとっての光とは、すなわち、貴殿がいまも捨てきれずの、真に平らかなる世への望みのはずだ。それをかつての俺から見いだせたなら、俺もその夢を持っていたと信じていた、もしくは力になれたと貴殿は思った、と断じるべきであろう。」

「…」正雪は眼を見開いた。相変わらずの無言であるが、息がわずかながら荒くなっていて、首筋も少し項垂れている。的を射てるのだな。

「そして、浅草寺での対決の日の前、貴殿は一人長屋にきて、俺と二人きりで話した。その時、貴殿は『俺の本当の願いを知っている』と、俺に問いただせたーー俺は、儀に対する記憶がなければ、貴殿の願いに対しても、すまないが特異点以前には覚えていない。だが、あの言動を鑑みると、俺はきっと、貴殿と違う願いを抱いていたであろうーー」

「そして、それは貴殿の怒りの理由でもあった。違うか?」

「…分身どもの戯言だ。自我もなく踊らされている道化の言の葉に、貴殿はよもや信ずるであるまい?」言の葉こそとげとげしいが、彼女の語調は確実に弱まっている。言い終わってすぐ、下唇を噛んだしぐさが、それを物語っている。

剣の死合で、一瞬の動揺が命取りだ。確実に勝つための近道とは、動揺する前に、相手を動揺させることだという。こちらーー汎人類史での師匠が巌流島での決闘にわざと遅着したのも、動揺する機会を最小限に抑えて、小次郎師匠の焦りをあぶりだすらしいーーとマシュ殿から聞いたことがある。

そして、いま正雪が一瞬、声を震わせていたーー怒りを感じてなお、うそをつけない性分は悪い意味で裏切らないな。

「貴殿の分身だけではない。俺の願いを知っているのは、セイバーもだ。」

ここにきて、さすがにうしろめたさを感じなくもない。彼女は顔がゆがむほど悲しむというのに、俺はなお彼女に自分が見た真実を突き刺さる。まさに悪鬼の所業だ。

だが、いまここでやらなければ、彼女のわだかまりはいつまでも残る気がした。

正しきことをなさんがため、俺は、ひたすら言の葉の刃をあらわした。

「セイバーも貴殿も、あの特異点で『俺に二度と盈月を渡さない』と言い放った。貴殿は知らないだろうが、最初に出会ったころ、セイバーは明らかに、俺に嫌悪感を示していた。すべてが終わって、貴殿が消えて、俺に盈月の器…もとい聖杯を渡したからにも、セイバーもずっと俺のことを警戒していた。」
「…タケル殿が?」
「ああ。俺が見る限り、俺が、俺の願いを思い出すことを恐れていたであろう。」

本心を混ぜながら、俺はさらに畳みかけた。

「かつての俺の願いの中身は、今の俺にはわからない。わかる必要もない。だが俺はセイバーの願いを知っている。勝手な考えだが、その願いは貴殿と近いもので、『善を成す』ことだ。もし、貴殿とセイバーが俺にこうも盈月を持たせることを嫌がるならば、きっと」

わざと語りを止めて、正雪の反応を伺うことにした。

正雪の顔は悲愴にあふれている。必死に、凛とした顔立てを保とうとしているが、目に見えて感情の奔流と戦っていることがわかる。まるで、師匠の葬式時のカヤのようだ。

そこまでの悲しみを、俺が彼女に抱かせてしまった、のか。
正直、これ以上話すのは、酷だ。今俺がしていることをセイバーが知ったら、きっと相当怒られるであろう。マスターもきっと、やりすぎたと、あとから言われる。

だが、彼女を自責から解き放つためには、俺はマスターのような弁舌や、セイバーのような陽気さを持ち合わせていない。

不甲斐ない極まりないわが身には、こういう劇薬を使うしかない。

「俺の願いは、貴殿のと、セイバーのと、相容れぬものであった、だと思う。貴殿は、もとの盈月の儀で俺に破られた。そして、俺に願いを託した。だが俺は、最後の最後で、自分の願いを選んだ。それは結果的に、俺は貴殿とセイバーの思いを裏切ってしまった、ということを意味する。最後の頼みの綱を失った貴殿は、死してなお願いを忘れられず、伯爵とやらに付け込まれた。そして、特異点が起きて、いまに至った。違うか?」

「ーーっ」正雪は目をそむき、逆方向に一歩、二歩と、小刻みに歩き出した。

「正雪?」

「ーー」なにも口に出さぬまま、彼女は逃げるように走り去った。

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「…それから、なんとか食堂に戻ってマスターに正雪が見つからなかったとごまかしたが、あれから貴殿に会うまでは、ほかのサーヴァントにも聞き込みした。だれも、あれから正雪の姿を見たことがない。もしかすると、俺のせいで彼女を追い詰めてしまった、と思うと居ても立っても居られなく、貴殿に相談を持ち掛けたわけだ。」

「………」眼前にいるセイバーは、、目を大きく見開いて言葉を失っている。まさに絶句状態だ。

「なにか良い案がないか、セイバー。」
「…良い案、ではない!!!イオリ、キミというやつは!」

怒鳴りを鳴らして、セイバーはバン!と机に手を叩いた。

「なぜそんな話をした?キミはショウセツがキミに思うところがあることはわかっているだろう!なのに…」
「…面目ない。無論それはわかっているつもりだ。だから、胸中を打ち明けて、今度こそ腹を割って話そうとしたが。」
「言の葉にも綾があるというものだろう!馬鹿正直に本音を伝えるとは、キミは…!」

もっともなことだ。あの盈月の儀の記憶は、正雪にとってはきっと、多くの未練を残したで出来事だったであろう。そしてその未練を作り出した張本人は、昨夜の彼女を見て、間違いなく俺であったであろう。そう考えると、昨日の俺の言動は、傷口に塩を撒くような真似に他ならない。

だが、それでは何時まで経っても、彼女の過剰な後悔には届かないような気がした。だから、彼女が反応するとわかっていても、あえて過去を再び持ち出した。

「…どう言の葉を飾ろうとも、古傷に触れることは変わらない。ならば、ひと思いに伝えたほうが、互いに取って有益のはずだ。」

「なにも覚えていないくせに、よく言う!」セイバーの眉間がこれまでに見せなかったほど、しわを寄せていた。

「…覚えてはいないが、心当たりはいくつがある。」

「な?!イオリーー」俺の名を口に出た真っ先に、セイバーは急に歯切れが悪くなった。

「どうしたセイバー?」
「…心当たり、とは?」
「…おまえも、正雪も、俺を慮っているのだな。」

あきれたようかうれしいか、いろいろな感情が湧いてきて、俺は苦笑いしかできなかった。

「…イオリ。」
「俺は昔、貴殿らを裏切ったはずの身だ。いまさら遠慮することはない。」

なにかを考え込んでいるセイバーのようだが、やがて観念するかのように、語りかけた。

「…ならば聞く。イオリ、キミはなんのつもりでショウセツにキミの考えを伝えた?ショウセツがカルデアで気まずそうなのはわかるが、キミが悪いから気を落とさなくでいい、とても伝えるのか?ショウセツはそんなーー」
「俺を恨んでいない、であろう。」
「…!まさかキミはそれを見越してーー」
「そうだ。そして俺を恨んでいないと、正雪は俺を宥めることになる。そこで、彼女に俺はかつて自分がしたはずのことを振り返ってもらって、俺は改めて自分の非を認める。それまでが俺の作戦だった。予想外だったのが。彼女がそのあと耐えきれなくて逃げ出した点だ。」

「…む?」

セイバーは両手の人差し指を額の両側に当てて、俺の話を理解しようとした。

「…失敗した策だ。種明かしよりも、次の手を手伝ってほしい。」
「…なにを企んでいるのはわからぬが、ショウセツを傷つく真似は許さぬぞ。」
「…少し彼女と話をしてくれないか?おまえと正雪は、俺のことをいまの俺より知っている。きっと、おまえにしか話せない言の葉もあるだろう。」

おそらくいまのままでも、正雪とまともな会話ができないであろう。ならばセイバーを使うまでだ。

「キミの不始末の尻拭いをするということだな。」
「ああ」
「…手伝うかどうかは、キミがその後どうするつもりなのか次第だな。」

キミはどうしたい、イオリ。

「俺、は」

どうしたい、か。

俺がしようとしていることは、正しいことのはずだ。きっと、すべて果たせば、セイバーもマスターも認めてくれるだろう。だが、それが自分が「したい」なことなのかになると、はっきりの「そうだ」が言いづらい。

正直に言って、自分に記憶がない分、驚くほどに欲というものを持ち合わせていない。サーヴァントに食欲もなければ、睡眠も必要ない。せいぜい無聊を慰める嗜好ぐらいはあるが、腕を上げたいとも特に思わない。自分をなにをしたいか、と聞かれると、答えに詰まるのが関の山だ。

正雪のことも、別にマスターからそこまで命じられていない。その気であれば、マスターに謝罪して、仲立ちを頼めばいい。気配り上手な彼だ。頼めばきっと彼はうまくやれるだろう。何一つ、俺が心労をかけて自分の手で解決することに、こだわる必要もない。まさに最善手そのものだ。

ーーならばなぜ、いま俺はそうしないとしている?

熟考の海から己を抜き出し、俺はセイバーの問いに答えた。

「俺が、したいのはーー」

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サーヴァントに配分されている一室。簡素な和室内装で、一角にある敷布団以外には、机と、その上にある文房具と、整列に畳まれている本の小山のみであった。

その上に横たわっているのは、部屋の主人。由井正雪だった。昨夜から一度も部屋を出ず、一睡もせず、ただぼんやりと天井を眺めていた。塾主時代では、よく勉学をないがしろにしている門下生の怠慢を叱る彼女であったが、今日に限ってその一人になってしまった。

あれからどのくらい経ったであろう。

情けなく伊織殿との会話から逃げ、ただ逃避するように自室に立て籠もって、悲歎にただただ時間を費やす。この程度で己の誓いを見失っておきながら、烈士たらんと志すと語るには、余人から見れば片腹痛いとあざ笑うでしょう。

ああ、なぜ私は、こうも未練を捨てきれないのだ。

「…なぜ、私はこうも無力なのでしょうか、宗意軒先生。」

コンコン!

「ショウセツ、いるか?」
「?!」

思わぬ来客に思わず飛び上がる。

聞き慣れた、子供の無邪気さを感じながら、どこか雄々しいような声だ。

ヤマトタケル殿。盈月の儀のセイバー。宮本伊織のサーヴァント。先刻特異点の件以来、カルデアで召喚されたばかりの私を、なぜかとかく優しく関わろうとした一人だ。お互い、盈月の儀では生死をかけて戦い合ったのに、今ではこんな私でさえも慈しみを持って接してくれた。空想樹に囚われた私を、真っ先に助けたいと願い出たのも彼だと、マスターから伺っている。私にとって恩人どころか、全く頭を上げない方だ。

そして彼は、過去の主従関係がなくなったとしても、宮本伊織と変わらず、形影相伴う相棒二人組として、カルデアで知れ渡っている。

我々の関係性と彼の人柄を考えれば、遠からずとも私を訪れてくることは、容易に予想できたはずだ。

今こうして意表を突かれたのは、単純に、それを構える心の余裕さえなかった。それに気づくと、再び自分の情けなさを思い知った。

「…ああ。何の要件か、セイバー殿?」門を開けずに私は答えた。

「ぶー。私のことは名前で呼んでいいと言ったであろう。」顔を見ずとも、今彼のふくれっ面を自然と思い浮かぶ。感情を表に出せない私から見れば、時々歯痒いほど羨ましいとすら感じる。

もとより、からくりと人を比べるには、己が虚しくなるだけなんだが。

「それより、上がって良いのか?」それを聞いて、思わず溜息を吐いてしまった。やはり、そうきたかと。

「セイ…タケル殿、すまない。いささか体調が崩れてしまってな。安静にしていただけるとーー」
「うそが下手だぞショウセツ。イオリのことだろう。」
「…」

簡単明瞭で、何の修飾もない言の葉。

それに対して、私は門を開けたくない。こんな情けない姿、見せたくない。という私の醜悪な本音は、喉元から口に出そうとしたが、なんとか収めた。
筒抜けだったな。と私は溜息しながら、降参を認めた。

「邪魔するぞ」

カチッと門を開いた矢先、タケル殿はまっすぐ入りに来て、机の向こうにボツんと居座った。まるで話が終わるまで出ていくつもりはないばかりの雰囲気だ。

「…」

ああ、我が身は何とも懲りないものなのだ。

この期に及んでも、未だ温もりを、求めよう、感じようとするとは。

そんなもの、からくりの体では断じてあらぬというのにと、二度も三度も味わって来たというのに。

なのにこうして気遣いされると、また心に期待を芽生えてしまうと、自分の妄念とはこうも強いものなのかとわかってしまう。

「…イオリから事の顛末を聞いた。」

「そうか」声に平静さを失わないように努めて、私は答えた。
「すまない。心配をかけたな。」
「ショウセツが謝ることはない。悪いのはイオリの方だ。」

少し不満そうに彼は指で机を叩いた。

「…そんなことはない。全ては私の未熟さが招いたものだ。あの時、私が彼と向き合えば、貴殿の心配をかけることはあるまいに。」
「…」

しばらくの無言。お互いに、最善の言の葉を模索していたであろう。

やがて、彼から問いをかけられて来た。

「ショウセツは、いまのイオリをどう思う?」

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「どう、とは?」

「そのままの意味だ。いまカルデアでわたしたちと一緒にいるイオリと、盈月の時のイオリを比べてどう見ているかだ。」
「…」

今の宮本伊織には、盈月の儀のことを覚えていない。己の願いも思い出せていない。己が骨子が抜けた宮本伊織の形をした、抜け殻と言っても過言ではないほどの具合だ。

彼の願いを知っているタケル殿と私にとっては、はっきり言って好都合だ。

だが。

「…解せぬだな。」

そう、解せぬのだ。

「彼の願いは、私の願いとは相容れないものだ。ただ剣を追い求める、澄み渡った月のごときすさまじい剣気では、私が目指す平らかなる世と相容れるものではありえない。今、それが消えてくれてからこそ、互いに同じマスターを仰ぎ、サーヴァントとして同じく、平らかなる世を目指す道をともに歩める事もあろう。ふつうにみればうれしきことだ。」

彼の歪が消えた。世を正す一環として、もとよりすべきこと、良きことだ。かの願いは、許されないものだ。盈月を用いても何でも、消し去ってもらうからこそ、正しさを成せるのだ。

「…なのに私は、彼の姿を見ると、心のどこかで…痛ましいと思っていた。やるせないとも思った。」

「…なぜだ、ショウセツ。」特に驚きもせず、タケル殿は問い返した。

滑稽な考えだ、と思わず鼻で自分を嗤った。「伊織殿は記憶を失っている。それは結果として、正しいことかもしれない。だが」

拳を握って、自分に答えをくれるかのように、タケル殿に思いを伝えた。

「何はともあれ、自分の過去、大切な思い出をなくすことは、決してよいことではあるまい。不幸なのだ。それを僥倖として感じ取るのであれば、他人の不幸が己の都合のために利用する外道と同然だ。」

私は、そこまで落ちぶれていない。
たとえ、その過去自体が私にとって苦痛しかなくとも、我が信条に悖る真似は決してできぬ。

「…そうか。」納得したように、タケル殿は微笑み出した。

「イオリがキミを信頼しきっている理由、少しわかってきた気がする。」

伊織殿が?

「ああ!」首を縦に振ると彼が驚くことを語った。

「いつも思わぬところで敵と遭遇した時、私がキミの差し金だと疑った矢先に、イオリは『ショウセツに似合わない』といつも口走るから、もう飽きたぐらい聞きまわったぞ。いまとなってやっと、イオリが言いたいことがわかった気がする。ふふ。イオリのやつめ。人を見る目は相変わらずすごいな。」

「…そう、か。」

そうか。

彼は、最初から私を見抜いていたのだ。

もともと隠れているわけではないが、あの年でこれほどの眼力を持っているとは、我が門下生たちでは遠く及ばないだろう。

それに比べて、私は最後の最後まで、彼を見抜けなかった。彼の気質を見誤ってしまった。

それに気づかぬまま、彼に我が願いをすべて託そうとする、我が蒙昧ぶりとはいかなるものか、といま思い返せば末代までの笑い種であろう。

たとえ彼のサーヴァントが、セイバーでなくとも。
たとえ我がサーヴァントが、我が命を捻じ曲げないとしても。
私は、きっとあの戦いで、彼に勝てなかったであろう。

ーーもし彼が、私の同志になれたら、どれほどよいか。

「ショウセツ?」
「あ、ああ。気にするな。それで?」
「…キミの言いたいことはわかった。きっとキミの考えた理屈は、キミの言う通りで間違いないだろう。ただ」

タケル殿は正座し直して、ゆるりと言の葉を放った。

「そう言いながら、キミは、なにかを思い出せそうなイオリを見て、逃げた。私から見るには、キミにはイオリをーー」

そうだ。問題はそこにある。
伊織殿が記憶を失ってしまったことは、よからぬこと。ならば、もし彼が少しでも過去を思い出せそうのであれば、それ自体は決して良きことであるはず。みなが喜んで、祝宴を挙げてもおかしくない出来事のはずだ。時折、伊織殿を寂しそうな目で見つめるタケル殿も、きっとともに過ごした日々を拾ってくれたことに、大いに喜ぶことに間違いない。盈月の儀の記憶と経験を拾い返せば、彼の剣技も一層冴えを増えるであろう。

仮に、もし、万が一、彼があの月に焦がれる夢を目覚めでも、このカルデアにおいて対処できる人手も方法も、いくらでも講じられる。マスターやカルデアの方々なら、彼をサーヴァントとして繋ぎ止め、手駒としてうまく使いこなすことができるはず。実際、剣の鬼よりよほど曲者な従者は、すでに何人もの先達がいて、いまは問題なくわれらと旗を並べて共闘している。いまさら伊織殿一人増えたところで、気にかかる要素はない。

ーーなに一つ、損になることはないはずだ。

ーーなのにわたしは、その兆候を現わし始めた彼から、尻尾を巻いて逃げ去った。

冷静に思案すれば、いまとなって不安になる必要はどこにもなかった。あの時の伊織殿は、変わらず穏やかな顔立ちで、私に気をかけていた。なのになぜ、私はこうもーー

「…恐れていたのだ。」
「…なにを?」
「……彼と、ともに歩めないことをだ。」

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我が懸想のすべてを捧げた人。我が胸を眩い月光で焦がしてしまった人。我が生涯を賭けた夢を、ことごとく砕いた人。

本来ならば、互いにサーヴァントとして蘇ることになったとしても、私がすべきなの彼の背信を𠮟責して、金輪際二度とかかわらないようにするべきかもしれない。

なのに私は、それをわかっていながらも、懲りずにーー彼とともに歩むことを、望んだ。望んでしまった。

彼に記憶がないことを知ると、私は彼のために悲しみを感じようと思った。彼は失った記憶に対して気にしないそぶりを見せたが、タケル殿が昔話を持ち出すたびに、彼の顔つきにはいつもわずかながら寂しさを宿していた。この光景を目の当たりにして、悲しみを感じぬものなどあるまい。

だが私は、それとは別腹に、邪な考えに至ってしまった。自分の本心が望まぬ形を取ってしまった。

悲しみ以上に、私は、醜くも、自分のためにーー喜びを感じていたのだ。

ああ、これならば伊織殿とともに歩けると。マスターのもと、人理修復という大義のもと、手を取り合って力を尽くせると。一心不乱に、正しき道を肩を並べて進めると。

その考えはただ己の我欲に過ぎないことはわかっていた。彼のために思ったことではないと。歪であると。あやまちであると。だから必死にそれを押し殺そうとした。彼の前では、そっけないフリをして、自分の妄念を気づかせないと務めた。この現状に、波紋を広げるような真似を避けた。この仮初の平穏を、なんとしても守りたかった。

彼がもし、月に焦がれる剣に対する懸想を思い出せば、この私だけの平穏は、あっけなく崩れ去るだろう。たとえ変わらずマスターのために尽くすとしても、彼の脳裏にあるのは、きっと剣の渇きを満たすために、敵を斬り捨てることだけになる。人理など、平穏など、彼はきっと気にもしない。

たとえ同じ場所に辿り着こうとも、我らはきっと、目指す先が違うままであろう。

「…ショウセツ。」
「わかっていた。自分が噓偽りに縋っていることを。伊織殿は最初からそうではないことも。だが…!」

またも、特異点と同じ過ちを繰り返していても。
分不相応な願いであっても。

ーーこのうたかたの夢を、もう少し見続けていたいと、願ってしまったのだ。

だから、彼がこうも疾く己が骨子を思い返してしまうことは、いやだ。

私の道から離れないでくれ。
たとえそれが避けられない定めであっても、いまではないでほしい。
もう少しだけ、私にこの夢を、嚙み締めさせてほしい。

「ショウセツ」
極めて平静な一声が、私の思いの糸を呼び止めた。

「これだけは言っておく。」

ーーどんな記憶を持っていても、イオリはイオリだ。
たとえ、余分をことごとく捨てた剣の鬼でも。
たとえ、己が根源をすべて失った虚ろでも。
いまのイオリは、昔と変わらない。私の、唯一無二の友だ。

清き水のごとく言の葉は、私の醜くて、矮小な夢を洗い流そうとした。

「…タケル殿は、強いな。あの結末を見てもなお、変わらず伊織殿と接することができるとは。」
「…強くはない。イオリの願いを、前から知っていたからだけのことだ。イオリの根源を知っていたからこそ、理解ができた。」

伊織殿の、根源?

「?…そうか。キミは、知らないのだな。」

私がこのことを知らないのを予想外だったのが、タケル殿は首筋をすらして、ちらっとこちらを見て話した。

「…聞きたいのか?…優しい話ではないぞ・」

私の思いの丈をすべて持ち去った剣の鬼の原点。知りたくないといえば、虚言になる。それは決して穏やかな話ではないのも、想定していた。

「…いや。他人の過去を陰で語るなど、信義に反する行いだ。やめておこう。」
「律儀だなショウセツは。気にしなくでいいぞ。もとはといえば先に好き勝手したのイオリのほうだ。」
「だが…」
「ーーそれに、どんな過去であろうとも、キミはイオリのことを理解するのであれば、知っておくべきことだ。」
「…」

言えるわけがない。

過去の陰口を語ることが正しくないなぞ、どうでもよい言い訳であると。

ーー伊織殿の過去を知るのは怖い。それだけの理由で、直面すべきものから逃れようとすることを、タケル殿に伝えるわけがない。

私を照らす月光のわずかに残る余熱さえも、消え去ることではないかと思うと、尻込みしている自分を、晒したくない。

同床異夢であろうとも、この一炊の夢を見続けたい。本当の彼を知らなくてもいい。

ーーそのような劣情が知られたら、きっと彼を失望させるであろう。

「…『己を知り敵を知れば百戦危うからず』、だったよな。この前シンゲンというサーヴァントからの受け売りだが、同じことだと思うぞ、ショウセツ;私はイオリを理解していたから、あの時彼に勝った。イオリのことを理解しないと、彼が言いたげのこともわからないだろう。」
「…まさかタケル殿の口から孫子を聞けるとはな。」

彼が述べたことは正論だ。反論の余地もない。それを拒み続けているのは、ただわが身にある妄念だけだ。

妄念は、断ち切るべきものだ。この先あってはならないものだ。

ああ、伊織殿。貴殿がとてつもなく強いサーヴァントと、とてつもなくよき知己を得たものだ。なんとも妬ましい。

「…私の負けだ。ならば聞かせてくれ。どんな原点であろうとも、貴殿のように受け入れるべきであろう。」
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