海軍本部雑用ロシナンテに任務を言い渡す 4


【エルガニア列島編 後編】

「……チッ」

街をぐるりと巡ってロシナンテは苛立たしげに舌打ちをした。港の影で朽ちていくばかりの船の規模に比べて街で見かけた人数はあまりに少なかった。
死んでいるならばまだマシだろう。もっと酷い可能性も容易に想像が付く。
昔は古い石造りの酒場のドアを開いた。日差しも陰り、埃の舞い上がって薄暗い朝のバーは静まりかえっていた。奥のバーカウンターに何脚かのハイスツールが並んでいる。金髪の窶れた顔の青年がじっとりとロシナンテを見上げる。へらりとした愛想笑いに苛立ちと諦念が混ざっている。
ロシナンテはその視線を無視して誰も居ないバーカウンターに直接腰を下ろした。ロシナンテにはハイスツールは小さすぎる。
はぁ、と明かなためいきを吐いた男はグラスを拭く手を止めずにロシナンテを見上げる。

「……店じまいしてるよー、薬が欲しいなら教会行け」
「レッドベリー3つとホワイトベリー3つのカクテル。お前出せるか?」

青年が手にしていたグラスを取り落としかけて、慌ててテーブルに置く。
その目に先ほどまでじっとりと渦巻いていた倦んだ色が消えていた。

「だ、っ、だ、出せるけど、ブルーベリーは切れてる。おれは“鴞”の孫だ」
「……“協力”感謝する」

その意味が通じていることにロシナンテはほっと内心で胸をなで下ろした。
この島の“協力者”との合言葉。潜入任務中に築き上げたコラソン としての人脈を駆使して、いくつかの組織に作り上げたロシナンテの“協力者”──それがロシナンテの“策”だ。十三年連絡が途絶えたままだった自分を待ってくれているかは一か八かだったが、一つ目の段階はクリアしたらしい。
青年はきょろきょろと周りを見渡し、誰もいないことを念入りに確認してドアを閉じる。カウンターに手を突き、ぐっと身を乗り出してロシナンテに迫った。
その目はきらきらと興奮に輝いている。

「ア、アンタ本当にじいさんの客か!?」
「ああ。"鴞"に会いに来たって伝えてくれ」

青年は一瞬呆けたような顔でロシナンテを見上げ、それからじわじわと笑みを浮かべて目元の涙を拭った。

「じいさんがまだ生きてるのはこの日のためだったんだな……! ……じいさん、もう殆ど動けねェんだ。おれはここを動けねェが、この島をぐるりと回った逆側の浜に住んでる。もし来たときのためにとこれを預かってる」

青年は胸元からペンダントを引き出してロシナンテに手渡した。手のひら一杯に埋まる鍵の形に、ロシナンテは頷いた。

「確かに鍵だ。"鴞"悪いのか」
「ああ……、根性で生き残っちゃいるが、今日明日を知れない身なんだ。早くいってやってくれ」

青年はさっさとバーカウンターの奥水や肉、料理やらを持ってきて包みだす。

「これはおれの分だった飯。店で出すものじゃないからじいさんと食べてくれよ」
「"鴞"の後継も大変だな」
「……アンタがきたからおれが継がなくて住むんじゃあないかと思ってる。おれ昔船乗りになりたかったんだ……」

 囁く青年は肩の荷が下りたようなほっとした顔をしていた。ロシナンテはふっと息を吐いて化粧ではない笑みを浮かべる。

「そうだな。船乗りは良いぜ」

青年はふっと笑う。ロシナンテはバーカウンターの裏口からこっそりと抜け出す。

「あぶねェ!」

裏口に積まれていた酒樽に脚を引っかけてすっころぶ。危うく樽をひっくり返し掛けてロシナンテの肝が冷える。

「ドジッた……」
「危ねェよ。それ、海賊に出す酒なんだから!」
「あ、それで思い出した。次の“四番島行きの船”いつだ?」

こんこんと樽を叩きながら尋ねると、青年はその樽を蹴り飛ばす。ロシナンテのために周りを見ながら裏口を開けて、声を低めて答えた。

「昼過ぎに、船の墓場から」
「了解、ありがとう」

ロシナンテはひらりと手を振るとそのまま島の裏側へと向かった。
フェザーコートを風にたなびかせ、ロシナンテは三番島の海岸を歩く。海を見下ろすような崖にいくつもの墓標が並んでいる。
かつては漁村のあった廃村にはもう人の気配は無い。うち捨てられた網、朽ちた竹かご、小舟は幾艘か沖に浮いているが、傾いているものは船底が抜けているのだろう。その乾いた砂浜にあわずかに花を咲かせる白い浜木綿が風に揺れている。磯の匂いばかりで生活の匂いはどこからもしなかった。
けれど一人、浜にたたずむ腰の曲がった老人が岩に腰掛けて水平線を見つめていた。
瞳は病なのか濁っており、手足は枯れ枝のよう。顔に表情はなく、銀色の髪はススキのようにふわふわと風に靡いている。
浜の端にいたロシナンテはその老翁を見つけて立ち止まった。

「……じいさん」

一瞬止まった足を動かし、ロシナンテは浜を歩く。老翁はロシナンテに気づいているのか居ないのか分からぬが岩で出来ているかのように動きもしない。ロシナンテは視界に入るように膝を折り、身を屈めて小さな老翁に声を掛ける。

「"鴞"、遅くなって悪かった。約束通り、おぞましい金環を絶ちに来た。約束通り、この島をぶっ壊そう」
「あ゛?」

老翁は耳を傾けて歯の抜けた口を開いた。

「飯はもう食ったぞ」
「ちげェよ!爺さん!」

ロシナンテはずっこけて長い足を投げ出す。

「おれだよおれ!」
「この老いぼれに詐欺を働こうとはいい度胸じゃな!」
「防犯意識高ェのはいいことだけどさァ!この島でそれ意味あるか!?」
「いい夢見ろよ?そんなもん見とる暇あるか」
「おれだよ!コラソン !M.C01746、ドンキホーテ海賊団に潜入してた海軍本部ロシナンテ中佐!」
「あー、ああ、ゴリ蔵」
「誰だよ!エルネスト爺さん、まさかボケたのかよ!」
「冗談じゃ」

老人はカッカッと笑ってひっくり返ったロシナンテの足を蹴り飛ばした。

「……遅い!」

老翁の目が焦点を結ぶ。嗄れた声がロシナンテをなじる。
ロシナンテはその断罪を甘んじて受け止める。

「長く待った……ドンキホーテ海賊団が壊滅したと聞き、もうこの島は終わりだと思っていた!」
「ああ」
「生きていたのならなぜ。仲間は皆死んだ」
「ああ……すまない」
「あの島で生き残っているのはわしとあのガキだけだ」
「レスリーに会ったよ、おれのことは覚えていなかったみたいだが。アンタが言ってたとおり金色の髪の真面目な子だ」
「……本当に、コラソンか」
「ああ、コードネーム"鴞"。おれはドンキホーテ海賊団最高幹部"コラソン"であり、海軍本部ロシナンテ中佐だった男。心配ならマリンコードも伝えよう、信頼できる海軍を連れてきた」

老翁はその言葉を聞くや否や、浜を踏みしめて立ち上がった。エビのように曲がった背を伸ばして

「おれの"情報"はこの島を救う役に立ったんだな!?」
「ああ、あんたとおれの命がけの"情報"は、この島をぶっ壊す鍵になる」

老翁はぼろぼろと涙をこぼして空を見上げた。長い年月を思わせる涙に、ロシナンテの唇が歪む。
自分が死んでいれば、この老翁はずっとこの島で連絡を待ち続けていたのかもしれない。

「長かった……、海兵だと言うアンタを信用し潜伏して15年以上──わしの役目がようやく果たせる。そうだな、クソガキ!」
「そうさ!長い任務ですまないが、あと一踏ん張りだ」

ロシナンテがサングラスをあげて老翁に笑いかける。
涙を拭った老翁もまたにやりと笑ってかくしゃくとした足取りで海へ向かっていった。


※※※


「なんって海だよ!」

ロシナンテは悲鳴を上げて必死に小舟の横に突き出した浮きを押さえた。
一番島から三番島までの海流と打って変わり、四番島と五番島はいつも高波と渦潮と急に向きを変える突風とべた凪の海が取り巻いている。
一秒ごとに風の変わって、その上人一人吹き飛ばしそうになるほどの海なんて新世界でもそうそうない。

「だから、わしらしか渡れんかったんじゃ!」

動けないくらい、と孫に言われていたのは一体なんなのかとロシナンテが吹き飛びかけるコイフを押さえながら考える横で、爺さんは高笑いをしながらヤードを引いている。流石に帆の扱いはロシナンテに一任され、老翁の指示に忠実に船底のネズミのように三人のれば満杯の小さなアウトリガーカヌーを転がり回った。兵学校時代に吐くほどしごかれていなかったらとっくに海に落ちていただろう。四番島の海域に突入して十分もすればロシナンテはもう嵐の中の海兵に成り果てた。

「ヒャハハハハ! 楽しいなァ! おいクソガキ、早く帆を張れ! 二秒後に三時の方向からひっくり返しの風だ」
「イエッサー!」
「次は南!」
「イエッサー、クロックポジションで言ってくれ!」
「南ったら南じゃ! 十秒後の風を受けたら次は帆を畳まんとひっくり返るぞ。その次はアウトリガーを押さえろ、横っ面に大波じゃ」

アウトリガーを左足で押さえながら片腕で帆を抱き留めて抱え、もう片方でヤードを引くような荒技を繰り返し、ロシナンテは目が回るような心地で四番島にたどり着く。老翁に指示された磯の狭間の砂浜にカヌーを乗り上げさせた。
疲労のあまり浜にべたりと身を預ければ、カニがロシナンテの腕を横切っていく。

「……死ぬかと思った」
「やるのう、二三回は転覆するとおもっておった」
「転覆したらおれァ死ぬ。能力者なんだ」

磯から老爺を睨み付ければ、老爺は高笑いを立てた。慌ててしーっと合図をすると老爺は口をつぐむ。

「島親の手勢にバレる」
「ああ、そうじゃったな。年甲斐もなくはしゃいでしもうた」

老翁は頭を搔いてカヌーのベンチに腰を下ろし孫の持たせた弁当を頬張り始める。

「わしらしか海からは渡れん。クオーレ島へは夕方になってから航路ができる」
「クオーレ……五番島のことだな。それまでに戻る」
「島親の"幹部"には気をつけろ。元々はかなりの大海賊だったやつらだ。"内科医""麻酔医"それから五年前に"外科医"が加わって、島親の忠実な手下じゃ」

ロシナンテは老翁の言葉に目を丸くした。
──五年前?
その情報は、ロシナンテの知らぬ間にこびりついていた懸念を溶かした。わずかばかりの疑いと不安を抱えていた自分に今更気がつく。“外科医”はローじゃない。五年前なら、伝聞のかぎりではまだ新世界には入っていないはずだ。ロシナンテが深々と安堵の息をついたのをどう思ったか、老翁は口一杯に弁当を頬張りながら箸を振る。

「かつては四皇に次ぐといわれた実力者ばかりだが、今は見る影も無い。腕っ節はあるかもしれんがな」
「おれは戦闘にきたんじゃねェよ。そういうのは英雄の仕事。おれみたいのはその手伝い」

ロシナンテは苦笑して胸元の防水箱に手を添えた。

「英雄が動ける土台作りが、おれの役目なのさ。本来は」

老翁が肩をすくめる。ロシナンテは息をついて立ち上がった。
ロシナンテはフェザーコートを羽織りなおしてうんと伸びをする。胸元から防水箱に収めていたカメラを取り出して磯の岩陰から顔を出す。カニを潰しかけて強かにはさまれるドジを踏みつつ、三番島の方角に目を凝らす.
遠くに白い箱のような建物が見えた。
この島の一大産業となり上がった花の加工工場であり、エルガニアの小規模ながら良質な製薬工場。
そして──アルカニロの麻薬工場。
ロシナンテはそこがどこにあるのかを知っている。

「さて、まずは麻薬工場か」

低くつぶやくと、工場を背にして山の奥へと歩き出した。


三番島側にある表向きの工場と山を挟んだ反対側。入り組んだ岩ばかりの湾の奥にある細い道にロシナンテは悠々と入り込んだ。湾の中にはいくつか荷物が積まれた小型帆船が並んでいる。この荷物の中身を沖でランデブーしている相手に引き渡すのだろう。行き先を調べるだけでも大物が釣れる予想にそわりと偵察心がうずく。ロシナンテはそれを押さえて山裾の滝の裏をのぞき込んだ。
滝の裏にある自然の洞窟を利用している搬入口は知らなければ通れない。
ロシナンテは知らなければ入り口とも分からない場所に顔を出してその場に居た門番に契約書を突き出した。

「ケビー船長の部下だ。頼むよ、入れてくれねェか?」

ひらりとかざした"契約書"に門番はううん、と首を傾げる。

「でもよォ、ケビーは海軍に捕まったんじゃなかったか?」

ロシナンテはサングラスをずらして情けなく眉を下げた。

「だからそれは船長だけなんだって! たしかに海軍に襲われたし、"外科医"の命令で荷物は焼かれたけどよ、他のみんなで荷物を運べって言われてるんだ」
「ああ~"外科医"に言われたならしかたねェなァ」
「だろォ!? おれたちは言うとおりにしただけなんだ」

ロシナンテはさめざめと目元を押さえながら泣き真似をする。

「ほら! これ船長の契約書、おれがもらったんだぜ。約束通り"JOY"は北に運ぶから、その代わり酒と分け前をくれよォ。あの酒がないとみんな動かなくなっちまった。これしかおれたちには当てがねェんだよォ」
「ああ……、ハハハ、動かなくなっちまったのは島においていけよ。俺たちが上手に"使って"やるから!」
「三番倉庫に新しいのは置いてある。運ぶんならそこらへんの工員を使え」
「ああ、ありがとう……、こ、これお礼……」

すこし厚みのある包み紙を差しだそうとして、ロシナンテは足を躓かせてひっくり返る。包み紙が破れて中の札束が覗く。

「おいおい、ドジ野郎」
「うう、おれはドジっ子なんだ」
「情けねェな!」

男達はひっくり返ったロシナンテを馬鹿にして笑いながら、下卑た笑みを浮かべて札に飛びつく。その包みに気をとられている内に、ロシナンテはそそくさと門をくぐり抜けた。
ロシナンテの背中に声が掛かる。

「場所は分かるな」
「ああ、船長に何回か着いてきたことがあるから、一人で大丈夫だ」
「煙草は消せ」
「は、はい……!」

背の高い頭をぺこぺこ下げながら、ロシナンテは内心で舌を出した。
海のクズってのはなんでこうも金目のものに目がねェ生き物なんだ? ドフィなら絶対上に報告するように躾けたぞ。煙草くらい吸わせろばーか。
長年の経験からこういう施設は無意識に中に居る者を"組織のもの"だと判断する。中に入ってしまえば殆ど成功だ。
スムーズに進んだ潜入にロシナンテは思わず笑みを浮かべた。歩きながら防水箱から取り出した小さな生き物を胸ポケットにそっと乗せる。
胸元に顔を覗かせるのは小さな映像電伝虫である。

「さァ、がんばろうぜ。おまえの目で見たもんが全部証拠になる。明るくしちゃダメだからな」

映像電伝虫の子はむにむにとロシナンテの胸ポケットでなんともいえないとぼけた顔をしていた。


ロシナンテはフェザーコートを翻しながら工場への階段を降りていく。
陰からのぞき込んで目の前に広がった光景にロシナンテは小さく息を詰めた。

──ビンゴ!

洞窟の奥には大きな地底湖があり、そこから水を汲んでいる巨大なパイプが見える。
その湖畔には地底湖の水を使った水車がぐるぐると回っている。
地底湖の湖畔に、誰も知らない工場が確かに存在していた。
広く大きな洞窟の中の工場には、裸電灯がオーナメントのようにぶら下がり煌々と安っぽい明かりで洞窟を手拉していた。洞窟の中にはむせかえるような甘い匂いが充満していた。

「あい、あい、あい」

ぼんやりとしたかけ声と共に元々は海賊だったらしい人間達がラインを動かしている。動きや声が怪しいのは、原材料そのものに触れているから余計に中毒が進んでいるのだろう。
工場を埋め尽くすのは純白の花を付けた植物を絞る機械。その絞った汁を煮詰めるための場所。遠心分離でざらざらとラインを流れる黄金の結晶。
まるで砂糖工場の様相だった。

だが、そこで生成されているものをロシナンテは知っている。
ロシナンテはそっとカメコ電伝虫で映像を保存する。特殊なカメコはフラッシュを焚くこともなければ、独特な鳴き声を上げることもない。ただその小さな殻の中に真実を写し取る。

「こいつは人間倉庫?」
「そう。そろそろ補充船が来るだろ。最近来た海賊から補充があるからこいつは用済みさ」
「あー、あの潜水艦の」
「船長ももうすぐだってアルカニロ様がいってたぜ」

工場のラインの監督者らしい顔をすっぽり覆うマスクを付けた男達が話をしながら近づいてくる。
慌てて木箱の影に身を隠すと男達は何かを引きずりながら歩いていた。髪の長い女はもう抵抗する気力も無くなっているのかうなだれたまま、雲を歩くような足取りで男達に手錠を引かれている。
三番島で酔い潰れていた女とうり二つだった。

「かのキャプテン・タニアの妹もこうなっちゃあな」
「お姉ちゃんは島で飲んだくれてるのになァ」

ロシナンテは知らない海賊だが、きっとあの島でロシナンテに声をかけた女がこの女の姉だったのだろう。
船長を歓待し、その裏で船員をじわじわと使い物にならなくするという、"鴞"からの情報を思い出した。
三番島に残されているのは皆船長だった。
──酒を求める船員を見捨てて先へいくものはかろうじて救われ、見捨てられずに島に残った者は三番島で朽ちていく。

「使えなくなったやつやいらねェやつを人間屋に売り飛ばすのは効率いいよなァ」

ロシナンテの目が見開かれた。人を人とも思わない下卑た笑い声にロシナンテの手のひらに爪の痕が残った。
「……嫌な予感が当たっちまった」

ロシナンテは低く呟く。やはり労働力で使うばかりではなく、人間屋とのパイプも作っていたらしい。
奴隷になるなら死んだ方がマシだ。そう叫ぶ人間をロシナンテは海兵として幾人も見てきた。ロシナンテもそう思う。
人間は自由であることだ。

は、と息を吐いて工場を忍んで出ようとした時だった。
カンカンと原始的な半鐘が鳴る。

「逃げたぞ!」
「新しい工員が逃げた!」

ロシナンテの足が咄嗟に動いたのはその声の中心だった。

※※※

時は少し遡る。
まだ東の空に太陽が昇る午前中。
パドルシップの連絡船に乗ってたどり着いた四番島の入り口には島親とその部下が待ち構えていた。

「さあ、皆さん工場へ行きますよ!」
「はしゃぐなよ」

スモーカーが呆れたため息と共にたしぎと部下の海兵達を窘める。センゴクは好々爺の風情でおかきをかじりながらG-5の海兵達を眺めている。
「貴方は……」
「私のことは気にするな。温泉入るついでについてきただけだ」

 手をふるセンゴクに島親は一瞬困った顔をしたが、その言い分に納得するほか無く、黙りこくる。
 その様子を知ってか知らずか、たしぎが彼の前で敬礼する。

「お待たせしました、アルカニロさん。今日は工場を見学させて戴けるそうで、ありがとうございます」
「ハシシシ、いえいえ。これで"不安"が解消されるなら安いものです。お越しになる海兵さんはいつもご覧になって安心して帰られますよ」

島親の言葉にスモーカーは鼻をならした。つまり、痛くもない腹を探られて迷惑してるからさっさと帰れ、という意味だろう。

「ふん、随分と人数を絞らされたが」
「この島の周りは限られた時間しか船が出せないのです。その時間でもまともな帆船では歯が立ちませんのでね。あしからず」
「そうなんですね……確かにもう波が高い」
「もう次は昼まで、その次は夕方まで船は出ません。お昼はご用意していますから、夕方の便でお見送りしますよ」

 島親は愛想良く微笑みながらたしぎに案内した。
 島親がぱんぱん、と手を叩けば、それぞれ前に出た部下がふかぶかと頭を下げる。それぞれ白衣のようなものを着た研究員だか医者だかのような男達だ。愛想良く細い目をしていたが、必ずしも非戦闘員ではない体格をしている。

「たしぎ」
「はい。昨日決めた班で回ります。一班はスモーカーさん、二班はセンゴク大目付、三班は私の引率です」

たしぎの指示に合わせ、海兵達が慣れた様子でさっさと班に分かれていく。
それを見ていた島親の部下の一人──聴診器を下げた男──が班の前に部下達を並ばせた。

「では一班は私"内科医"フィジャン、二班は彼女"麻酔医"アナスティ、三班は彼"外科医"サージェンが案内します」
「はーい!」

元気の良い返事が海兵達から上がる。妙に厳つい海兵に囲まれた中──一人の海兵は深いため息を吐いた。
帽子の下のその目の下には深い隈が刻まれ、海兵というにはあまりに不健康そうな顔は、険しく不機嫌に染まっていた。


──一日前。一番島の屋敷にて。

「──つまり、あなたを四番島へ連れて行けば、この島の闇が明らかになると言いたいんですね」
「ああ、手を組ませてやる」

悠然と窓際の椅子に腰掛ける男はにやりと豹柄の帽子の下で口角をつり上げて取引を持ちかけた。
その後ろには黙りこくった大柄なシロクマのミンクが大太刀の太刀持ちをしながら佇んでいる。

「そうだ。おれにはこの島の闇を暴く"策"がある。監視の目があって自由に動けないんでな、手伝え。海軍」
「あなたらしくもない、トラファルガー」
「お前達もそれを探しに来たんだろう? 数十年手詰まりが続いているらしいが」
「私たちにも別の手くらいあります。今更無策で来るはず無いでしょう」
「へェ? "智将"センゴクが来てるのも策の内か」
「あなたこそどういう風の吹き回しです? お互いに益の無い取引では?」

それに一歩も引かずに対するのはドアの前に立つ女将校──たしぎ大佐である。彼女は怪訝そうな顔で椅子で足を組むローを見下ろしている。
それに一歩も引かずに対するのはドアの前に立つ女将校──たしぎ大佐である。彼女は怪訝そうな顔で椅子で足を組むローを見下ろしている。
スモーカー中将が島親との会談中、シロクマのミンク族に連れ込まれた部屋の中にいた男にたしぎは心底驚き、それは連れてきた護衛の海兵たちも同じだった。
彼らは口元に手を当て、あわあわと泡を食ってローとたしぎを見比べて困惑している。

「大佐ちゃん、どうする? トラファルガーはもう七武海じゃねェよ、海賊だよォ!」
「スモやんが黙ってねェよ!」

けれどそういう海兵達が誰も彼へ攻撃しないのは、海兵達が確かにパンクハザードでの恩義を感じているからだ。たしぎやスモーカーから攻撃せよと言われれば銃を向けることのできる海兵たちだが、彼は間違いなくG-5の海兵たちにとっての"恩人"だ。
たしぎは眼鏡の下でじっと男を見ながら思案する。
男──ローはゆったりと椅子に腰掛けたままたしぎの出方を窺っているようだった。
シロクマのミンク族──ハートの海賊団の"ペット"ベポがキャプテンに声を掛ける。

「……キャプテン」
「黙ってろ」

そう長くもない思案を終えてたしぎは顔を上げた。
眼鏡の奥の眼光にローの眉が不思議そうに上がる。
この女はこんな目をする海兵だっただろうか、とばかりのローの怪訝そうな目線をはっきりと受け止めてたしぎは頷いた。

「あなた一人なら連れ出せます。ごめんなさい、ミンク族のあなたはすこし目立ちすぎる……」
「おれのことは気にしないで!」
「大佐ちゃん!」
「ただし、これでもう私たちはあなたに"借りた"ものはありません。この島を出ればもう敵同士」
「そもそも何も"貸した"覚えはねェが」

肩をすくめながら、ローはベポに視線を向ける。ベポはほっとしたように微笑んで頷いた。言葉は無くともなにかの疎通が済んでいる。

「大佐ちゃん!」
「おれたちァ大佐ちゃんが決めたことなら……!」
「大佐ちゃん、一体どうすんだ」

口では渋ってみせた海兵たちもたしぎに既に方法を尋ねるほど乗り気である。
少しばかりの思案の後、たしぎはキッと顔を上げてローを指さした。

「脱いでください!」

小声ながらきっぱりと言い切られ、聞き間違いの可能性を潰すたしぎの宣言に、珍しく──本当に滅多になく、大海賊トラファルガー・ローはぽかんと目を丸くした。

「は?」

そろった男達の素っ頓狂な声。きょとんと首を傾げたたしぎがローと海兵たちを急かした。

「ほら早く! 海兵の服は嫌かもしれませんけど、私たちに紛れて出れば見つからないでしょう。あなたのふりをするくらいは出来ます」
「ああ、そういうこと! 海兵さん良いアイデア〜」

一番に得心したのはローの後ろでぶふっと吹き出したベポだった。たしぎがホッと眉を下げて笑みを浮かべる。

「ありがとうございます、シロクマさん」
「おれベポだよ、キャプテンと仲間をよろしくね」
「わたしは海軍本部大佐、たしぎです。ベポさんも、私の大事な部下をよろしくお願いします」

ベポはたしぎに手を伸ばして握手をする。ふわふわとした肉球の感触に、たしぎの厳しい海軍将校としての顔が思わず緩む。

「おいベポ!」
「わっ、調子乗ってすんません……」

ローがぎろりとベポを睨みあげると、肩を落として項垂れる。怒った顔のまま、ローは海兵の服を、海兵はローの服をどうにか着込む。よく見ればサイズが合っていないと見破られるかもしれないが、互いに帽子を被っていたことが功を奏する。深く被っていればまさか30億の賞金首とは思われはしないだろう。
たしぎはメガネをしっかりと掛け直し、矯めつ眇めつ二人を見比べて頷いた。

「帽子を深く被って、しゃべらないようにしたらきっと押し通せます。声を聞いたらスモーカーさんは絶対に気づきますから気をつけて。あなたたち、この人を囲んで隠せますか」
「任せろ!」

残留組が胸を叩く。
ローの振りをするようにと選ばれた少し体格の似ていた海兵は、たしぎの言葉を反芻して少女のように頬を染めてくねくねと身をよじった。
ローのコートとシャツを着ているのでどうにも不気味である。

「だ、大事な部下だっておれ♡ 大佐ちゃんの大事な部下♡」
「大佐ちゃんのことおれたちも大好き♡」
「お前うらやましいぞ!」
「騒いでないで早くしてください!みんな大事な部下です!」
「大佐ちゃ〜ん♡」
「チッ」

海兵制服の上着をローはひどく苛立った様子で引っ張った。今すぐ脱いで破り捨てたいくらいには嫌なのだろうということは、たしぎにも伝わった。

「おれは海軍は嫌いだ」
「私たちだって海賊は嫌いです」

それでも、その作戦以上のものは思いつかなかったのだろう。ローは屈強な海兵たちに紛れ、無事屋敷を抜け出した。


それを見送ってベポはほっと肩を落とした。そわそわとした海兵が気遣わしげにベポに声をかける。

「トラファルガー大丈夫か? あいつの能力ならこんな屋敷すぐ抜けられるだろ? 海楼石か?」
「ううん。お酒を飲んだらみんな変になった。……仲間が近くに来てたのが聞こえたんだ。仲間はみんな艦で待ってるはずなのに、何かあったんだと思う。じゃなかったらあの二人が島に忍び込んできたりしない。……大丈夫かな、ペンギン、シャチ、みんな……」
「だからあんな無茶な取引を……」

ベポは頷いた。やわらかな肉球の手のひらで目立つからとおいていかれた鬼哭を握りしめる。

「海軍嫌いのトラファルガーが、素直に服を着るもんだと思ったぜ。そういう事情があったんだな」
「うん……」
「ま、まァあのトラファルガーなら大丈夫だろ。パンクハザードで俺たちの軍艦をさァ」

励まそうと大手を振った海兵に、ベポははっと顔を上げた。

「パンクハザードに居たの!? ね、キャプテンがどんなふうだったか教えてよ!」
「お、おう!おれ海兵だけど良いのか?」
「キャプテンは政府嫌いだけど、キャプテンが嫌いなものをおれが嫌いにならなきゃいけないってことないから。うちはドライなんだ」
「へー、そんなもんなんだな」
「自由でしょ」

海兵とベポはテーブルについて話し始める。その様子は、確認した見張りの目にはいつも通り仲睦まじく映ったらしい。
今もまだ屋敷にトラファルガーは居ることになっている。


※※※

「こっちだ!」

逃げる男を二人、引き寄せてしまったのはもう、本当に反射でしかなかった。
見知った顔の青年達が手足に手錠をぶら下げながら必死に走っているところを見てしまってはもうどうしようもない。
あの海賊の青年──ペンギンとシャチだ。

「あ、あんた……なんでここに!」

 ロシナンテに驚きながらも足を止めようとしない青年たちの見慣れないつなぎの首根っこをひっ掴む。二人はぎょっとした顔をしたがロシナンテは睨み付けて地面に押さえつけた。

「いいから、悪いようにはしねェ! 今騒ぎを起こされちゃこっちも困る!」

 追ってきた工場のものにロシナンテは合図に手を振る。島親の手のものらしいマスクをした男達はロシナンテを見て首を傾げた。
敵か味方か判断しかねているらしい。ロシナンテはペンギンとシャチを両脇に担ぎ上げる。

「逃げた工員だろ? こいつら捕まえたが、こっちで使って良いか。運ぶのに人手が欲しかったところなんだ」
「誰だてめェ!」
「ちゃんと門番に通してもらったぜ。心配なら契約書を見せるが」

ロシナンテのはったりにマスクの男達が顔を見合わせる。
腕の中で身じろぎをする二人を取り落としそうになって、ロシナンテはぽんぽんと宥めるように背を叩いた。この二人に本気で暴れられたらロシナンテはひとたまりも無い。頼むからおとなしくしていてくれ、というロシナンテの願いが聞こえたのか二人の動きが止まる。

「三番倉庫から積み荷を運びてェ」
「そいつらでいいのか?」
「かまわねェよ。手錠の鍵は……」
「ほら、鍵と薬。ちゃんと飲ませてから使えよォ」

マスクの男達に鍵と小袋を投げられてロシナンテはそれをシャチを抱えている方の腕で受け取った。そのまま踵を返して工場の奥に向かおうとするロシナンテを呼び止める。たらりとロシナンテの額に汗が垂れた。

「……三番倉庫は向こうだ」
「……おう!」

ロシナンテはそのままそそくさと工場を出る。
木箱や樽の並ぶ三番倉庫に入り、木箱の影に二人を放り出して、ロシナンテはため息と共に指を弾いた。防音壁を張る。

「サイレント」

木箱にどっかりと腰を下ろして、ロシナンテはぎろりと二人を睨み付ける。

「音が消えた?」
「おれの能力だ。防音壁を張った。この中では声が通らない──が!」

ロシナンテはもらった鍵を投げ渡す。それをちゃんと受け取って顔を見合わせた。ぎろりと睨みつけて、ロシナンテは青年たちに怒鳴りつけた。

「なんでここに居る! 島を離れろって言ったよなおれァ!」

大抵の人間には怯まれるロシナンテに睨まれ、大喝されてもシャチとペンギンは一切怯むことなく、少しずれた帽子を被り直した。
ペンギンが口を開く。

「上にキャプテンがいる」
「は?」
「一番島に行ったとき、仲間の耳とキャプテンの見聞色の範囲の中には潜り込めたはずだ。艦に居るはずのおれたちが一番島にいることを知ったら必ず異常に気づく。なら、きっとここに来てくれる。だからここにおれたちも来た」

ロシナンテは呆気にとられて二人を見た。二人の顔は大真面目だ。

「時間が無くてよ。中毒の振りをして潜り込んだんだ」
「なんて無茶を……」
「内部に潜り込むにはこうするしかなかったから。研究所探して、上でキャプテンと合流して逃げようと」

シャチの口調に一切の迷いはなく、ロシナンテは目を白黒させた。
そこまでキャプテンに信頼を置いている海賊団はロシナンテの知る中でもそうそうあるものではない。四方の海でなれ合っているならまだしも、新世界を渡っていける海賊団なら白ひげ海賊団やそれこそドンキホーテ海賊団あたりの大海賊団にちらほら見えるくらいだろう。もしかしたら、かなり名のある海賊団だったりするのだろうか。
ロシナンテの驚きをどう受け取ったのか、ペンギンが無策じゃないぞとアピールする。

「……あの人が来てるなら、薬の成分さえ分かれば解毒剤が調合できるし。知り合いの名医に教わって薬学の知識も付けてるから」
「解毒剤!? どんな名医だよそいつは!」
「なんなら工場ぶっ壊しても研究所から情報だけ引っこ抜こうと」

飄々と恐ろしいことを言う二人にロシナンテは本気でぞっとして身を震わせた。

「なんてこと言うんだ。勘弁してくれ。まだ早ェ!」
「なんかごめん……?」

頭を抱えるロシナンテにシャチが首を傾げる。もし自分が庇っていなければ工場はまるごと焼け野原になっていたらしい。それくらいのことはやり通す能力はあるのだろう。
証拠ごと壊し尽くされていたかも知れない可能性にロシナンテは身を震わせた。
ため息を吐いてサイレントを解除する。あまり長く使うのは得策じゃない。
ロシナンテはため息を吐いて、先ほど工場の者に渡された小袋を二人の前に投げた。

──ざらり、とこぼれるのは親指の先のほどの結晶。甘い香りをする砂糖の塊のようなそれ。"JOY"そのもの。

「これは一海賊団で収まる話じゃねェ。──お前ら酒を飲んで体調一番悪くなったっていったよな。これに覚えはないか」

ペンギンとシャチが目を丸くしてそのざらざらとした結晶をつまみ上げて呟く。シャチが頷いた。

「ある……ガキの頃、叔父の家で」
「食ったことあるな」
「……ああ、ある。一度くらいだけど。これは知ってる……」

ペンギンが言葉を継ぐ。
初め話を聞いたときからそうだろうと思っていた。だが、彼らの顔に苦痛が過ったのを見て、ロシナンテは眉を下げた。
表情をを隠すようにロシナンテも身を屈めてぱきぱきと指先でその結晶を砕く。

「──これはただの麻薬じゃねェ。悍ましいカラクリがある。そのカラクリのことをゴールデンサークルと呼ぶ」

ロシナンテは金色に染まった指先を見ながら口を開いた。
「これはな"JOY"っつう麻薬の原材料だ。繰り返して使用すれば依存する程度の安いドラッグ。効果も多少ハッピーになる程度だ。世界に蔓延る凶悪ドラッグに比べれば微々たるもんさ」

だからこんなに簡単に追加の薬をもらうことが出来たし、こんなに簡単に入ることができる。価値が低いから。
倉庫を見てため息を吐く。これほどの量の木箱、樽──全てにこの悪魔の結晶が詰まっている。流石にロシナンテもこれほど規模が拡大しているとは思わなかった。
二人が聞いているのを確認して話を続ける。

「安価で大量に出回るがそれほど問題視はされてないドラッグだ。なんなら国によっては規制すらされてないかもな」

その程度のものはこの大海賊時代にはありふれているし、ドフラミンゴ海賊団が仲介するまでもない。
もっとおぞましく、体を蝕む効果があるものさえある。

「砕いて粉にしたやつがよく北の海の闇市場に砂糖として出回ってる。ちょっとした砂糖より安いから。おれのいた組織でもガキがこっそり飴玉にしてて血の気が引いたよ」

 ペンギンとシャチが頷いた。おそらく彼らの家でももしかすれば砂糖として売りさばいて居たのかも知れない。その過程で口にしたのだろう。この青年たちが子どもだった時代にもう既にそこまで広がっていた。ロシナンテは顔を曇らせながら説明を続けた。

「貧しいガキどもは甘いもんを珍しがってな……。だが、そのガキが大人になっても老人になっても、この結晶の効果は腹の底に残っている。それが恐ろしいところさ」
「そんなに長く?」
「そうだ。一度口にすれば、その薬の効果は死ぬまで残り続ける。それで──ガキが酒が飲める歳になるだろ。その酒に使われるこの島の固有の花で出来た金色の酒を飲む。腹に残る"JOY"と黄金の蜜酒"EN"を飲むとそれが合わさって──気が狂う」
「……シナジー効果?」

ペンギンからこぼれた言葉にロシナンテは頷いた。
この結晶の持つ薬効。
そして蜜の酒の持つ薬効。
一つ一つならばわずかな効力は、掛け合わさることで恐ろしい効果を発揮する。人の正気を失わせ、あるいは酒浸りに、あるいは中毒に、そしてその果てに生まれるのはそれを求めていいなりになる薬物の奴隷たち。
もうすでに、北の海に地獄への罠はばら撒かれている。

「詳しい話はしらねェが、そういう話だ。そうするとあっという間に廃人の完成だ。故に、黄金の輪と密かに呼ぶ」

 ふっと指に着いた金色の悪魔の粉を吹き飛ばす。びくりとシャチが身を引いた。
だからこそ、ドフラミンゴが取引相手に選んだ。
この黄金の輪を知っていれば誰でも、自在に人を破滅に追いやり、操れる。支配者にとってなんて素晴らしい薬だろう。
ペンギンが青ざめた顔で結晶を見つめた。

「つまり──北の海出身者は」
「この島の酒を飲んだ途端に気が狂う可能性がある。逆もしかりだな。酒を飲んだことのある人間が、この"JOY"を口にする──そうすればそいつらは……」

どうなるかなどわかりきっているだろう。ロシナンテの視線にペンギンとシャチがぞっと青ざめた。

「わかったか? これァ一歩間違えれば世界にすら関わる問題だ。ドフィがカイドウとの取引でSMILEの開発に注力し始めたからまだ北の海だけでとどまっていただけなんだろう。ドフィが居ない今、アルカニロの野望は外に牙をむき始めている」
「あんた、何者なんだ……?」
「言っただろう。この島をぶっ壊しに来たと。絶対にこの策はしくじれない。邪魔をするんじゃねェ」

ロシナンテは低く言い含めて立ち上がった。ぐらっと足の力が抜けてひっくり返る。ドジッた、と呟きながら腰を押さえて身を起こしたロシナンテに、シャチが手を差し出した。

「邪魔はしない。でも話を聞く限り、手を組めるんじゃないか」
「研究所を探すのはおれたちも一緒だ。……それに北の海はおれたちの故郷だ」

ロシナンテは目を丸くして、それからくしゃりと破顔した。可愛らしいマスコットのような帽子の下の青年達の目は真剣で、そして強かった。どこか──懐かしい子どもを思い出すような気がするのはロシナンテの気のせいなのだろうか。
その手を掴む。

「じゃあ頼む。手分けして研究室を探したい」

おう、と小声の声が倉庫に小さく響いた。

※※※

いくつかの棟を見て回ったロシナンテは、ほとんど迷いなく厳重な扉の奥に忍び込んだ。

「あたり……だ」

潜入捜査官としてのキャリアを思い出しつつ、海賊や後ろ暗いものたちの習性を照らし合わせて忍び込んだ場所はまさしくいろいろな研究を行っていた場所だったらしい。
スモーカーたちが大所帯で視察をしているのでメインになる研究員はほぼいないだろうと踏んでいたが、予想外にももぬけのからだったことにほくそ笑む。
乱雑な工場とは打って変わって一応は研究室という体裁が整っていた。
大きさは船の船室一つ分といったこじんまりとしたものだが、テーブルには大きなフラスコや試験管が並び、天井から器具が吊り下げられていた。壁には薬品棚と書類棚が据え付けてある。どれも整然と並んでおり、ロシナンテは思わず拳を握る。
こういう研究室は探しものがしやすいと経験上知っている。天才肌の研究者の方が捜し物に手間取ってしまうものだ。

「よし探すか……」

"JOY"と酒ではまだ足りない。偶然の薬効だと言い張られればどうしようもない。
出来れば研究所から決定的な麻薬製造の証拠が欲しかった。
証拠さえ集めてしまえば、拘束できる。その後から取引の証拠を屋敷から押収できるだろう。

「凪」

ロシナンテは自身に"凪"をかけてまずは書類棚に近づいた。
几帳面な研究者らしく、神経質な文字で分類された書類棚。ロシナンテはにっこりと微笑んで重要な証拠になる書類にカメコを向けた。音もなく撮りためられていく証拠。特に必要になりそうな書類は懐に数枚忍び込ませる。
酒との相乗効果のレポートや、被検体の観察記録もしっかりと懐に収めることができた。
そのまま滑るように薬品棚に移る。薬品のラベルを手を滑らさないように細心の注意を払いながら確認していく。無論、所持厳禁のものがあればそれもカメコに納めていった。

「一応、解毒剤とかもあるといいんだが……」

一から作るのと元々あるのを量産するのでは、後者の方が効率がいい。薬物中毒者への対処はより早い方が良いはずだ。
それに、とロシナンテは思う。
あの二人の仲間たちが今も苦しんでいるなら助けになってやりたい。海賊など大嫌いなのは昔からだが、何故か彼らのことを海賊だと打ち捨てることは出来なかった。
きっと──目覚めて初めてみた大きくなったローが海賊なんてやっているから、少し甘くなってしまったのかもしれない。
参考にしたのだろう様々な海で流通しているドラッグの入った広口瓶や、薬品が揺蕩う茶色い瓶。ラベルを確認していくが、なかなかそれらしきものはない。

「……おれのカンならここらへんに……」

この研究者の気質を考慮しながら薬品棚の中央、より厳重に保護されているアンプルに目を向けた瞬間だった。
ガラスの引き違い戸に深くポーラーハットを被った男が、気配もなく映り込んでいる。
咄嗟に身を逸らすが、心臓を狙った鉄より固い指先は深々と腹をえぐる。

「指銃」
「──ッ!」

ポーラーハットの下で冷たい目をした男が音もなく割れ崩れるアンプルを見つめてため息をついた。

「手を出すなと忠告したはずだ、お前の命を惜しむべきだったな」

ロシナンテは腹の傷を押さえながら、手に取った瓶を男の顔に投げる。それを咄嗟に庇った男の隙をつこうとして立ち上がる。

『ドジッたァ! あれ、このことか! てっきり別のことかと!』

凪で声は出ないのを良いことにロシナンテは呻く。足を払われて薬品棚に叩き付けられた。音もなくガラスが割れ、薬品棚に色とりどりの薬液が洪水する。
そのことにポーラーハットの男が驚いた顔をした。

「音がしない──能力者か」
『しかもおれのことさえ知らねェ下っ端!……余計な真似を』

ロシナンテは低く舌打ちをして、懐から銃を抜いた。
一息に天井のランプを撃ち抜いて部屋に闇の帳を落とす。

『サイファーポールのなり損ない、世界貴族の使いっ走りが邪魔すンな』

能力がかかったままでは、男には何も伝わっていない。
ロシナンテも伝えるつもりは無い。この手の相手と会話など無駄だと知っている。
突然暗くなったことに狼狽えて、ガラスを踏み割って自ら居場所を教えるエージェントを長い腕で締め付ける。
ロシナンテの長身と体格は大概の相手なら蛇のように締め落とせた。
がくりとうなだれた男を捕縛術で縛り上げる。
そのまま部屋を出ようとしてロシナンテは舌打ちをした。
一番島ですれ違ったのは数人。この男一人ではなかったらしい。銃弾が肩をえぐり、ロシナンテは咄嗟に指を弾く。

「サイレント」

これ以上この場で騒ぎを起こすつもりはなかった。
部屋全体に防音壁を貼り、そのまま銃を構えたままポーラーハットの男を睨む。指銃は使えないらしい二人目の男の背後を剃で取ろうとするが、男の嵐脚がロシナンテの首を狙う。嵐脚を咄嗟に銃で受け、その流れで足を狙って引き金を引く。咄嗟に足を引いて避けられる。
腹を蹴り飛ばそうとして、鉄の感触。鉄塊は使えるらしい。だが、それだけだった。鉄塊は素人裸足で使えばただの置物。ロシナンテは身を屈めて男の足を払った。ひっくり返った肩に銃弾を撃ち込む。悲鳴が上がるが、防音壁の外には漏れないだろう。そのまま男を吊り上げて締め上げる。

「……貴様ァ!」

縛り上げたはずの男が必死の抵抗で薬品棚を倒したのと、ロシナンテが腕の中の男を気絶させたのは殆ど同時だった。ロシナンテの貼り続ける防音壁の中でけたたましい耳を塞ぎたくなるような騒音が響く。
見上げればロシナンテを押し潰さんとばかりにロシナンテでさえ見上げるほどの薬品棚が倒れてきていた。

「ぐッ……!」

エージェント二人を引っ掴んで薬品棚の倒れんとする範囲から弾き飛ばし、自分もまた避けようとして──目が眩む。何かが目の中に入ってくる。洪水と化した薬品の何かが目にかかったと判断するより先に体を動かして棚のある範囲から逃れようとする。

「コラソン!」

その声がするのと、防音壁の中のけたたましいガラス棚の破壊音が止まるのは同時だった。

ロシナンテを両脇から担いで──殆ど御神輿のようになっているが──ペンギンとシャチが人目を避けて急ぐ。
向かう先は洞窟の地底湖の端だった。

ロシナンテに倒れかかってきた薬品棚を押さえてくれたのがまさに彼らであった。転がるように薬品棚の下から抜け出して、ロシナンテは愕然とした。
視界がおかしい。
目の前が白く弾けていて、何もかもがまぶしくぼんやりとしていた。まるであの日死に際にみた雪景色のように白い。ぞっと背筋が凍るような恐怖を押さえつけてロシナンテは彼らに声を掛ける。
なんとか気絶したエージェントを縛り上げてくれと指示したところで、目敏くロシナンテの異常に気が付いたらしい。

「コラソン、目が……!」
「なんか目に入っちまったみてェ……、悪い今から言う場所に運んでくれねェか」

どちらかの手がサングラスを外してロシナンテの瞼を引っ張る。誰かがのぞき込んでいるのは分かるがそれが誰かは分からない。

「瞳孔散大してる……」
「散瞳薬ってだけならいいけど」
「とりあえず移動しよう」

そうしてたどり着いたのはぐるぐると回る水車の影、地底湖のほとりであった。
妙に手際の良い二人に目を念入りに洗い流されるが、少しばかりまぶしさが収まっただけだった。だが多少はマシになっている。
ペンギンの声がありありと心配を滲ませてロシナンテを案じた。

「大丈夫か?」
「ドジったな……。最悪見聞色でなんとか」
「動くなよ。腹の傷も肩の傷も深いんだぞ。ガラスも刺さってる」
「これくらい痛くもねェよ」
「……キャプテンが居ればな。キャプテンなら多分目も傷もなんとかしてくれるよ」
「へェ」
「外科の天才なんだ、あの人」
「そうなのか……」

衛生兵並みに手際の良い手当をありがたく受けながらロシナンテは考えた。
能力の使いすぎでちょっとばかり内臓が悲鳴を上げているのを感じる。まぶしさが収まるのももう少し掛かるだろう。げほ、と顔を背けて咳き込んで、ロシナンテは口元を引き結んだ。
ドジッた。これ以上無いほどに。
時間は刻一刻と過ぎていく。
今はもう昼を過ぎ、夕方の刻限まで時間が無かった。研究室に誰かが戻れば潜入したことも知られるだろう。その前にどうにか土台を整えてしまいたい。
だが、ロシナンテの体は動いてくれなかった。その焦燥を感じたのか、ペンギンとシャチが提案する。

「なァ、今からキャプテンを連れてきていいか。あの人ならきっと助けてくれる」
「薬を抜くぐらい簡単だ。アンタの目も治せる──そのかわり、その解毒剤をキャプテンに使って良いか」

ロシナンテは目を丸くした。
懐に大事に割れないように庇っていたガラスのアンプルを取り出す。騒動の中でも割れないように大事に抱えていたものだ。

「気づいてたのか」
「ああ」
「無理矢理取らなかったのか」
「そんなことしねェよ」
「……どうやって上に上がるつもりなんだ?」

ぼやけた視界のなかで、二人が背後の地底湖を指さす。あちらにあるのは何だったかと思い出して、ロシナンテはぽかんとした。水を上に汲み上げる巨大なパイプだ。
まさか、そんなことがあり得るのだろうか。

「泳いでいく」
「……は?」
「待っててくれ、すぐ戻る」

とぷんと殆ど音がしない水音がする。

「嘘だろォ……?」

小さく低められた驚嘆の声はもうどこにも届かなかった。

※※※

キャプテン!

小さな声が確かに耳に聞こえてローは立ち止まった。見聞色の覇気を広げれば排気口のような小さなハッチから腹心のクルーの目が覗いている。思わず足を止めたローに、案内役の"外科医"の視線が怪訝そうに向けられる。

「どうかしたか?」
「……いや」

無論その声は前を歩くたしぎ大佐にも聞こえたようで、彼女もまた立ち止まった。外科医に聞こえないような後ろ手のハンドサインが飛ぶ。
たしぎ大佐の指示を受け、前を歩く"外科医"に気づかれぬように、海兵が数人彼に話しかけに行く。
いきなり大声で質問攻めにする海兵に外科医はぎょっとして身をのけぞらせた。そのまま質問攻めに遭いながら離れていく。

──隠せ

その意を組んだ海兵達がわっと隊列を組んでローを隠した。ローを隠せるだけの巨漢を集めてスモーカーと別れた理由をようやく察する。

「トラファルガー、これで貸し借りなしです」
「お人よしが」

鼻で笑い飛ばすと、たしぎ大佐は憤然と腰に手を当てて胸を張る。

「もうこれから会ったら敵同士ですから! あなたたちも、そう思うこと!」

たしぎ大佐の小声の命令に、海兵たちはニコニコと応じた。

「当然だぜ!こいつは海賊だし、次あったらとっ捕まえて火炙りだよな!」

そう言いながら、そそくさと懐やポケットやカバンの中に仕舞い込んでいたらしいものをぞくぞくと取り出してこそこそとローに押し付ける。

「艦で作った飯と飲み物」
「これ雑用の服。クルーに着せていいぞ。デカいから気をつけろ」
「これお前の帽子、あのシロクマから預かってた。お気に入りなんだって?」
「おれのおやつ分けてやるよ」
「これおれの救急箱」
「親切にしないの!」

飲み物、弁当、布の塊、おかき、救急箱。自分の帽子が出てきたことには驚いたが、ありがたく受け取る。自分の帽子がやはり一番落ち着くものだ。できれば服も欲しかったが、流石にそれは望めなかった。どこかで適当に誰かの服でも剥ぎ取ろうと画策する。
そんな有様で一抱えほどになった荷物を呆れながら受け取り、ローはハッチに滑り込んだ。


そのハッチから彼らの気配が去ったのを見聞色の覇気で見送ったたしぎは囁き声を上げた。

「視察を続けます。予定通り"合図"を逃さないように」
「イエスマム!」

海兵達は小さく拳を突き上げる。たしぎは背に負う正義を翻して廊下の先へ進んでいった。

※※※

地下へ続くハッチへ滑り込めば、随分と薄汚れたずぶ濡れの姿のクルーが目の前に現れる。
ペンギンとシャチだ。

「キャプテン!」
「お前らやっぱり来てやがったか……」

ペンギンとシャチの姿を目にしてローは顔を歪めた。
殴打の痕と、手首の擦り傷は手錠の痕。そんなものを己のクルーに付けさせたというのはローの矜持と堪忍袋の尾を大きく傷つける。額に浮かぶ青筋を被り直した帽子で隠しローは息を吐いて気持ちを落ち着けた。
キャプテンの気持ちを良く理解している良いクルーたちはローを宥めるように二人で手を打ち合わせる。

「キャプテンならなんとかしてでも来てくれると思ってたからな」
「一番島の屋敷は大騒ぎになりそうで」
「上出来だ、何かつかめたか」
「ばっちり! 製造工場と研究所は地下だ。地下では薬漬けになった海賊とかいろんなやつが奴隷になってる。これと酒が相乗効果を起こして急性薬物中毒にするんだと」

ペンギンの持っている小袋の中身を摘み上げたローの鋭い舌打ちが静かな通路に響く。見覚えのある酒と、このキャンディめいた結晶が確かに記憶に繋がる。

「ガキの頃に一回盗み食いした。そんときにたいそうな剣幕でぶん殴られてからもう食わなくなったが……薬効が永続的だっつうならそういうことだろう」
「やっぱり。酒飲んで一番おかしくなったの船長とおれたちだから船長もじゃねェかと思ってた」
「他は何割やられた」

お互いに低い声で情報を交換する。ペンギンがローに応じた。

「三割くらい、艦を沖に出して閉じ込めてる。あの時酒を飲まなかった連中が艦に残ってる。薬、たぶんうすくこれ混ぜられてたんだろうな」
「チッ……」
「ベポは?」
「おれの振りをしてる海兵と屋敷に居る。何かあれば海兵と逃げろと言いつけてる」
「海兵!?」

ベポを案じるシャチに返事をすると二人は目を丸くした。なぜ驚いているのかも大方察し、ローは誤魔化すように更に報告を続けさせる。

「キャプテンの分の解毒剤は手に入れられた。割れたらヤベェから下に」
「良くやった」
「そんときに一人、手を組んだやつがいる」

ペンギンの報告にローの眉が怪訝そうに顰められる。

「何を勝手に……」
「あ、海賊団としてじゃないぞ。でも何回か助けられてるんだ」

ローの視線を受けて二人が慌てて手を振る。

「アンプル取ってきてくれたんだけど、目に何か薬液掛かって瞳孔散大が収まってない。あと銃創が二カ所。応急処置しかできてない。……加えて上部消化器官が悪いみてェで僅かだけど吐血が見られた。診てあげてほしい」
「はァ──わかった」

二人がそこまで言うのは珍しいことだった。
ローが慈善事業を好まないことなど百も承知の上でそれを頼むならばローにもう否やはない。
ローも手を組んだ詳細も何も聞かずに二人の案内に従って地下に潜って行く。
まるで滝を下るような地下水流に飛び込んで降ると言われたときは一瞬身構えたが、意を決して彼らに身を任せた。
ローは身動きがとれない地下水流の中を二人に抱えられながら潜っていく。
今更彼らの泳力に不安はない。
それだけの信頼があった。
地下水流から地底湖へ。
そこは上の清潔な工場とは打って変わったおぞましい工場の片隅だった。
防水布の包みから持たされた救急箱を取り出して包帯やガーゼを取り出す。
二人から詳しい容態を軽くヒアリングし、案内されるまま水車小屋らしき場所まで身を隠していく。


その先で誰が待つのかなど、ローはまだ知る由もない。
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