小説・銀河鉄道の夜(浅野浩二)


電車の中で居眠りをしている人は、夢とうつつの間の状態であり、眉を八の字にして、苦しそうな顔して、コックリ、コックリしてる。女の人だった。OLらしいが、英会話のテキストブックを持っている。きっと、海外旅行へ行くためだろう。となりには、50才くらいの、会社の中堅、(か、重役かは知らない)の、おじさんが座っている。とてもやさしそうな感じ。また、おじさんは、この不安定な状態をほほえましく思っている様子。彼女は、きっと今年、短大を卒業して就職したばかりなのだろう。まだ学生気分が、抜けきらない。おじさんは、きっと、東京から大阪の支社へ単身赴任してきてまだ日が浅い。(ということにしてしまおう)でないと物語が面白くならない。とうとう、彼女は、おじさんに身をまかせてしまった形になった。彼女の筋緊張は完全になくなって、だらしなくなってしまった。口をだらしなく開け、諸臓器の括約筋はゆるんだ状態である。脚もちょっと開いている。(とてもエロティック)おじさんは、いやがるようでもなく、かといって少しも、いやらしい感じはない。(ゆえに、この不徳はゆるされるのダ。)おじさんには、東京の郊外に家もあり、妻子もいる。子供は娘が一人で、東京の短大に通っている。(ということにしないと話がおもしろくない。)だから彼女は、おじさんの一人娘と同じくらいの年令なのである。この電車は、次の駅(A駅)で降りる人が多い。彼女も、そこで降りる人かもしれない。それで、おじさんは、彼女を少しゆすった。
「もし、おじょうさん。」
彼女は、よほど、深いねむりに入ってしまったらしく、数回ゆすった後に、やっと目をさまし、首をおこした。彼女はまだポカンとした表情で、半開きの口のまま、ねむそうな目をおじさんに向けた。おじさんが微笑して、
「だいじょうぶですか。次、A駅ですよ。」
と言うと、彼女は、やっと現実に気づいて、真っ赤になった。おじさんのやさしそうな顔は、彼女をよけい苦しめた。彼女はうつむいて、
「あ、ありがとうございます。」
と小声で言った。彼女は、ヒザをピッタリとじて、英会話のテキストをギュッと握った。彼女は、まるで裸を見られたかのように、真っ赤になっている。おじさんは、やさしさが人を苦しめると知っていて、彼女に、ごく自然な質問をした。
「英会話ですか?」
彼女は、再び顔を真っ赤にして、
「ええ。」
と小声で答えた。
「海外旅行ですか?」
つい、おじさんの口からコトバが出てしまう。彼女はまた小声で
「ええ。」
と答えた。
「ハワイでしょう。」
「ええ。」
この会話は、おじさんの自由意志、というより、ライプニッツの予定調和だった。この時、彼女の心に微妙な変化が起こった。きわめて、自然な、そして、不埒ないたずらである。彼女は早鐘をうつ心とうらはらに、きわめて自然にみえるよう巧妙に、コックリ、コックリと、居眠りをする人を演じてみた。そして、とうとう、おじさんの肩に頭をのせた。おじさんは、少しもふるいはらおうとしない。安心感が彼女をますます、不埒な行為へいざなった。彼女は頭の重さを少しずつ、おじさんの肩にのせて、さいごは全部のせてしまった。そして、おじさんにべったりくっついた。でもおじさんは、ふりはらおうとしない。彼女は生まれてはじめての最高の心のなごみを感じた。
(こんな、やさしい、おじさんと、ずーとこーしていられたら・・・)
いくつかの駅を電車は通過した。そのたびに人々のおりる足音がきこえた。しかしその足音もだんだん少なくなっていった。彼女は目をあけなかった。でももう車内には二人のほか誰もいないことは、わかった。電車はいつしか、地上の線路から浮上し、暗い夜空へ、さらにもっと遠くの銀河へと向かって行った。そして、そのまま、二人をのせた電車は、星になった。二人は現実世界では、行方不明ということになった。だが、ゆくえは、ちゃんと誰の目にも、見えるところにある。夏の夜に、よく晴れた夜空を注意してよく見て御覧なさい。多くの星の中に小さな、やさしそうな光をはなってる星が、見えることでしょう。
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