Despite everything, it's still you (1)


人にとって大事な記憶など、多くを思い出せなかった。

家族。友人。故郷。幼子としての記憶はほぼ欠け落ちている。

理由はわからなかった。盈月の儀との間に、かなりの時間が経たっているはずなのに、古い記憶には残滓一つも脳裏に残されなかった。今尚記憶になっているのは、養父ーー師匠の弟子となり、剣を学びはじめる頃からだった。妹…カヤのことは覚えているが、それもそれからのことだった。師匠も、カヤも、血が繋がっていない。それ以前の親兄弟に関しては、全く覚えがない。きちんとした親がいたか、孤児であったか。俺は知る由もなかった。

幼き頃に残された鮮明な思い出は、ただただ剣に打ち込む日々だった。なぜ剣に執念を注いだのか。誰のために剣を磨くか。過酷な修行の果てに何がみえるか。そんなのを思い出せないまま、俺はただただサーヴァントとしての日々を過ごしていた。

だが、鮮明なもの以外には、たまに朧げな断片的なものが、夢に出ていた。正確に言えば、サーヴァントは夢を見ないはずだが、気が抜けて意識が朦朧とした際に広げる光景みたいなものだった。

そこにあるのは、宴会。刀と槍を片手に持つ侍崩れが集まって、騒ぐ、笑う、乱痴がまじあう狂喜乱舞。
周りには燃え盛る炎。燃料は、港にいる民家と店。木々が燃えるコゲ臭いの他にあるのは、よこだわる屍から流れ出す血の匂い。

その中心にいるのは、頭領格の男一人と、徳利を両手に持つ少年。

あざ笑うかのように、頭領は大声で何かを少年に話しかけた。だが、話は声をしない。聞こえない。少年の面影も、なぜか脳裏に写っていない。おかしい。その容姿は、俺はどこかできっと知っている。覚えている。

そう思ったところ、少年は目線を、形がない俺に向けた。

「!」

その目を見るとき、俺はいつも目覚めを迎えてしまった。

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「では、あらためまして、このたびの特異点の消滅、およびヤマトタケルさん、宮本伊織さん、由井正雪さんの加入を祝って、カンパイ!!!」

「ーーカンパイ!!!」

喧噪の源は、今の俺のすまい、カルデアの食堂。

マスター、藤丸殿の計らいで、セイバー、正雪、そして俺が正式にここのサーヴァントとして加入したことにより、カルデアの同志たちや暇を持て余しているサーヴァントたちと、歓迎会を開くことにした。

無論、参加している面々の中で、俺の知る顔はほんの一握りだけだ。もっとも、ここにいる大半の参加者は、俺らと親睦を深めるより、ただ酒盛りするために来たついで、という感覚を持つサーヴァントがむしろ主流、といったところか。

「……もぐ、もぐ。イオリ!このピザという焼きもち、ものすごくうまいぞ!チー、ス?という白くてねばねばしたものが、この前食べた米によく合う糸づく豆とよく似ている!早く食べないとお前の切りまでいただくぞ!」
「ああ、そうだな。わかった」

思った通り、セイバーは相変わらず食い意地を欲張るものだ。マスターが最初宴会の話を持ち上げたころから、やつはすっかり夢中だ。今朝なんと朝餉を白飯2杯までしかおかわりしなかった。「宴のために、備えなければな。」とのことらしい。

あまりの破天荒さで、あの場で思わず失笑して、ふくれっ面を返されてしまったが、落ち着いて考えたら、無理もないことだ。セイバーが生きた時代は、食物が豊かな時代とは決して言えないし、かつての盈月の儀でも、セイバーは俺のサーヴァントを務めた…らしく、俺の長屋に居座ることがあれば、俺から食事を出すことになったであろう。俺の台所事情を考えては、豪勢な食事を出すことはまずあるまいーーあいつにしては、よく「米と御御御付さえあればいい」と口走っているが、さすがに、古今東西の珍味がそろって食卓の前並べられたら、目を光らない道理もないことだ。

食べることに至ると、なんともまあ欲に忠実なことだ。

「……」

宴席のこの喧噪は、どうも慣れない。

師匠のと何年ともに生活してきたが、師事し始めたころから死ぬまで、彼が宴席をしたことが一度もなかった。

宴の経験といえば、妹…カヤが小笠原家に養子入ったときの酒宴、一度きりぐらいか。大勢の下人がそろって、酒と騒ぎの力を借りて、普段話せない言の葉、話せると危うい本音をことごとくはいて、蓋をかけた欲と我を暴き出す。いわば、獣に戻されることが許されるひと時だ。

理由は自分もよくわからないが、俺は初対面の人と出会うたび、その人の考え方、動き方、しぐさと癖、をよく観察して、理解しようとする癖がある。いや、把握しなければならないとさえも思う。

だが、あの宴になると、人は獣になってしまう。獣には、理解しようとも仕方がない。たったの一度とはいえ、宴会とはそれ以来ずっと敬遠してきた。幸い、貧乏な身なりで、そもそも機会自体が少ない。

無論、今回はマスターの厚意もあり、セイバーの期待もある。俺もただ宴に苦手意識があるだけで、拒むほど毛嫌いすることもない。酒も、普段は飲まないが別に下戸ではないし、暴き出すものがいれば見世物として割り切ればいい。ならばここは流れに従って、おとなしく首を縦に振ることが最善である、と判断した。

だが。

「私は…参加してよいのか?」

三人の中で、もっとも難色を示したのは正雪だった。

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「イ~オ~リ~、ちゃんと飲んでいるか?~~」
「こらセイバー。無理やり酒を注がないでくれ。まだ半分しか飲んでないぞ。」
「うっ、るさいな。疾く飲み干さないと、君の…ヒック!長屋の秘密を暴くぞ~」
「なんだそれは…」

セイバーーーヤマトタケルは、数がはるかに勝る敵を倒すために、敵の大将たる兄弟二人を酒宴の席で酔わせて、不意をついて見事討ち取った、という逸話は、記憶に残っている。それが正しければ、彼は少なくとも下戸ではない…はずだが、いま眼前にいる麗人は、どちらかというと討ち取られる兄弟の方に近い。

「もう、アナスタシアさん。タケルさんにウォッカを飲ませるなんて!」

「あら、何か問題でも?私が知っている限り、これは水みたいなものですから、酒宴の騒ぎを落ち着けるにうってつけの飲み物だと思いますが?」

どうやら、このうおっかー、という酒が、相当に強い類のものらしい。アナスタシア殿は当初、俺とセイバー二人にそれぞれ一杯注ぎましたが、興が乗ったセイバーは、俺の杯まで奪って一息に飲み込んでしまった。それで結果、いまの体たらくだ。

「すまないマシュ殿、セイバーがご迷惑を。」おれもセイバーを止めたかったが、奴はすでに隣の卓にいる巴御前殿に絡んでいった。追いかけるには、ほかの酔っぱらったサーヴァントたちをくぐる必要があって、正直面倒で、やりにくい。

それを見て、マシュ殿は酔ったセイバーを真っ先になだめにやってきた。セイバーほどのつわものを、これほどきれいに捌かれるとはとは恐れ入った手腕だ。今度、セイバーの扱い方の勉強に、話を聞いてみるか。「伊織さんのほうが絶対うまいです!」としか答えない気もしなくもないが。

「気にしないでください。今日は皆さんを祝うですから、伊織さんはなにも気にしなくで楽しめばいいですよ!」
「そうか。すまない、助かる。」

せっかくの酒宴とはいえ、いくらなんでもはしゃぎすぎだ。正雪に見習ってほしいものだ…

ん?

思わず、飲みかけの酒杯をまたおろして、周りを見回した。

「いない…」

宴の主役は三人なのに、いつのまにかその一人が姿を消したというのか。

「あ、伊織さんも気づいたんですね。」玄関近くにいる声が、宴会の喧噪を潜り抜けて耳に届いた。

「…マスター?」

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「今考えてみれば、最初からそのつもりだったよね。伊織さんとタケルさんがおとなしく上座まで上がってもらったのに、彼女だけが心地よくないから固辞しちゃったけど、単に逃げやすい一心でそうしちゃったかな。」食堂の入り口のすぐそばにつられて、藤丸殿は少し目を落として、語りかけた。これは相当落ち込んでいるな。

「正雪さん、罪滅ぼしのつもりでここに来た、と召喚のときからずっと話しているから、なんとかもうちょっと肩の力を抜けさせたく、この宴をやろうとしたけどな~。」手で首の後ろを掻きながら、彼は本音を吐き出した。

ああもちろん、伊織さんとタケルさんをもてなす気持ちはほんとうだよ?と、彼はなぜか俺の機嫌を取る言の葉にした。「ただ、まぁ正直、優先する目的はなくもなかったかな?はは。それはいまおじゃんになっちゃったけど。」

正雪が乗り気ではなかったのは、最初から明らかだった。カルデアにいる方々や、サーヴァントたちと面識程度の交流があるようだが、誰に対してもどこか距離を置いているのは誰もが感じられる。加えて、なにかしら難題や嫌がられる仕事が出てくると、彼女はいつも率先して取りかかろうとする。丑御前が危険人物として監視するということになった際も、誰よりも彼女が真っ先に名乗り出した。さすがに彼女だけに任せるのは危険すぎて、俺とセイバーのほか、頼光殿をはじめとした他数名も同行することになったが。

その献身的な姿勢や己の都合を度外視する態度を見ると、やはり、特異点での出来事に、いまもまたうしろめたさを感じているのは間違いないだろう。思い詰めているところを柔らかくしようとする試みの一つが、今回の宴会のわけだ。いまのところ効果が皆無であるが、マスターの努力はだれにも目に見える。俺もそれに称え、協力すべきことであろう。

「貴殿が気を病むことはない。セイバーも俺も、貴殿と、カルデアの温情と厚意に大変感謝している。正雪も、自身について思うところこそあるかもしれないが、きっと、貴殿の計らいに悪く思わないはずだ。」

「そう…なのか?それならうれしいな。」今度は片手で頬骨を掻くと来たか。照れているときの動きだな。

「だが確かに、正雪がどこか一人で行ったのか気にかかるな。乗り気ではないとはいえ、マスターをも無断で出ていくのは、意外だな。」
「心配なのか?正雪さんのこと。」
「心配、か…」

思わず手を顎にあてた。

考えたこともなかった。

「君の言う通り、普通の正雪さんならきっと無理をしても俺らに付き合っているだろう。だがそれでも彼女は逃げ出した。つまり、この宴会の場は、彼女にとってそれだけ耐え難いところだ。やっぱり、急ぎすぎたのかな?とほほ。」
「少なくともセイバーは楽しんでいる。俺も、悪くない…いやむしろいい心地だ。礼を言わせてもらう。」
「そういわれるだけで助かるよ。」苦笑いを浮かべながら、藤丸殿は深いため息をついた。
「お互い、正雪さんを心配している同士だ。…いまから抜き出して彼女を探そうか!」
「…マスターがそれでよければ、従者は従うまでだ。」

正雪を心配しているかは、正直、よくわからない。していいかもわからない。たしかに、いままでのふるまいと現在マスターの困りようでは、彼女のことが気かがりだ。だが、彼女とて考えなしに動いているわけではあるまい。俺たちよりずっと古参でありながら、マスター以外誰とも馴れ合うことをしないサーヴァントも多くいる。思い込みが正雪より激しいサーヴァントも、正直ここにきていやほど見てきた。だがそれでも、だれもが問題なくここで暮らせて、働いている。

彼女は割り切りができる方の人間であって、いまのままでも、戦闘の連携に支障をきたすことは考えにくい。放置しても別段問題はあるまい、と思う。

それに、彼女は露骨に俺のことに思い入れがある。いや、正確に言えば、昔知っている俺に、だ。そんな俺に、心配できる筋なのか。心配しても、逆に困らせたりしないのか。記憶がない分、ここらへんもはっきりしない。

だが、いままでの記憶を辿ればーー

「うーん~君と正雪さんは同期でカルデア入りだし、生前同じ時代を生き抜いた仲だ。彼女の心配をすることは普通だと思うよ。君は、このままでいいのなら別に止めはしないけど、俺はまだあきらめないからな!」
「…」

「正雪さんはすごい人だ。あんな目にあっても、まだ人のために役に立ちたいとしか考えてないなんて。そんな立派で正しい思いを持つ人間が、少しだけでも報わらせたい。報われない道理もない。あってはならないことだ。だから俺は」

マスターは腕を握りしめた。決意に満ちた目で。

「なんとしても、彼女をここにいていいと思わせたたいのだ。」
「…そうだな。正しきことだ。正しきことは成さなければな。」

正しきこと。よきこと。それを成すことが、己の目的であることは一度もない。
だが、それでも、成すべきことだ。いまカルデアのマスターがしているように。

「わかった。正雪を探そう。」

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真っ白く、道の果てまで続く灯火が、カルデアの味気なく、白い色付けをした廊下をより一層青白さをつける。誰一人もいない大道が、俺は一人で、目的地をわからないまま、歩き続けている。

「まさか出発の途端、モルガン殿とバーヴァン・シー殿と鉢合わせするとは…」

おかげて、マスターは彼女たちの相手を余儀なくされ、俺は一足先に正雪を探しにいくことになった。だが、普段のあの二人がマスターへの絡み具合を考えると、今夜はまず食堂から出されることはないであろう。実質、俺一人でなんとかしなければならないことになった。

これほど都合の悪いことが起きるのは、カヤが誕生日祝いを称して、引き回されて御徒町を歩き回って、鍛錬の時間を丸一日失った以来だ。確かにあの時見た歌舞伎はなかなかのものであったが、失った時間と銭を比べれば…

「っと。いかん。正雪を探さなければ。」気を取り直して、彼女が行きそうな場所を思い当たった。

カルデアは広大だ。幽霊長屋の全部をもってしても、それの一割にもならない。まして、俺が召喚されてまたまもなく、道順をすべて覚えているわけがない。そんな状況下で独自で人探しなど。

「普通に考えて心当たりもなければ無理難題だなーーん?」

そう思った矢先、目先に一輪の強光が入ってきて、思わず手を目の前にあてた。

硝子窓だ。特定の区画以外では、ここは密封されたカルデアの中で唯一、外を見渡せる場所らしい。ここに来てからずっとセイバーとマスターに振り回されて、ここに歩いたことこそあったものの、止まってゆっくリ見渡す機会は、これではじめてだ。

「眩いな。」

澄み渡る青白さ。冷え切った、きわめて純粋な鋭さ。暗闇の真ん中で、丸く大きく照らし明かす一輪の満月。

どうも月を見ると、感傷に浸かることになりやすい。かつての俺もこの月を見て、なにを思っていて、この虚ろの身にも名残を残したということなのだろうか。

正雪がこの廊下を通っていれば、きっと同じ月を見ていただろう。

彼女なら、それを見て何を思ったであろう。
「…」

「かつて貴殿に光を見た。」
「あの澄み渡る、きわめて純粋なーー」

「…光、か。」

立ち止まって月光をしばらく浴びて、気づいた。「彼女はあの時、月を見たな。」

頭の中で一つ推論を早速立てた。「どの道当てもない。賭けてみるか。」

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由井正雪という人間は、「清廉潔白」の四文字を服に着ているようなものだ。これから死合う相手に対しても、必ず名乗る。兵法者として名乗ったわりに、策こそ弄じるが、最後には必ず正々堂々と勝負に挑むことを好む。大剣豪でありながら、あらゆる姑息な手をためらわず使う師匠とは大違いだ。(もとい、俺が知っている師匠の逸話では、マシュ殿によると「汎人類史のほうの武蔵」に近く、ここにいた師匠とはまた違うらしい。)

そんな彼女を駆り立てたのは、至極、単純な夢ひとつだけだった。

世をただすこと。歪をなくすこと。己の一片もない、ただ他者を助ける、聖人ごとき考えだ。

彼女のその気高さは、きっと人々をひきつけて、魅了させ、己が駒を集められる強みであろう。

だが同時に、どの時代においても、その高潔さは、腹に一物あるものにとっては、きっととてつもなく目障りな、致命的な弱さであるはずだ。

その証明の一つが、死してなお夢を捨てきれず彼女が、伯爵という外道にそれを利用され、丑御前の甘言に踊らされ、空想樹の根源に化してしまったことだ。その光景は、まさに地獄絵図そのもの。人として、断じてあって許されないものだ。

だが彼女は、これほどまでにない辱しめを受けながらも、その在り方を一切変えたりしなかった。誰に対しても礼儀正しくもてなし、サーヴァントとしてもマスターの補助をなんの嫌味もせずただただ力を入れた。実際、彼女の作戦れぽーとは、マスターから言うにはすごく優秀だったらしい。盈月の儀では敵同士だったセイバーと俺も、己を欺いた丑御前も、彼女は変わらず気丈に振舞う。その高潔さと無垢さに揺るがるほどのものは、何一つもない気がする。「泥より出づるも染まらず」とは、言い得て妙だ。

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そういう人間ほど、心奪われたものに対して、純粋に近づこうとする。

そういう人間ほど、理解しやすくて、行動を予測しやすい。

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「見つけた…!」

カルデアの最上階の廊下。外部に向けて、見渡せる場所。

宴会場より最も遠く、歩くと紫煙三服もかかる場所。

居住室が少なく、照明があまりづけず、うす暗い場所。

ーー月にもっとも近く、明るく見える場所。

そこで、彼女がわいんぐらすという酒杯を片手に、静かに盈月を眺めていた。

「!」

月を見上げるその目は、何を思うのであろう。

かの日、浅草寺での決戦の直前まで、彼女は同じ目をしていた。

虚ろく、感情を必死に押し殺しながら、隠しきれなく物憂げが滲みだす目線。

絶望に押しつぶれそうでありながらも、なんとか希望にすがるように、必死に戦おうとする姿。

いったいなにを味わってしまえば、あのような目をしてしまうのであろう。
なにを持って、その執念を持ち続けるのであろう。

「…探したぞ。」

「…」

月光に照らされた白い総髪は、あかりが少ないせいか、いつもよりきらやかに感じる。耳飾りに垂らしている赤い帯も、鮮やかな浅葱色の羽織も、どれも暗闇の中で、その凛とした姿をよりまぶしく映る。だが夜での抜き出しにしては、これ以上向いていない装いはない。

逆に言えば、隠すつもりも必要も毛頭なく、むしろ見つけられてもかまわない、彼女の磊落さを物語っているようなものだ。

ーーいや。ただなりふり構わず人だかりを離れたいのかもしれない。

「…マスターは?」思いもまだ整えておらぬうちに、彼女は目を月に釘付けるまま、話しかけてきた。

「…ほかのサーヴァントの相手をしているところだ。まず来るまい。」

「そう、か。心配をかけたな。すまぬ。」

正雪は変わらず俺と目を合わなく、手元にある杯に目線を移った。深紅色の葡萄酒は月光の下で、妖艶な光を放ってしまう。まさしく、あの夜見た盈月の器みたいな色だ。

「申し訳ないと感じているなら、なぜ抜き出したのを教えてくれ。」

「…深いわけがない。少し酔ったので、人のないところで風を浴びせに来ただけだ。」

たしかに、彼女の頬は少し赤に染まっていて、声もわずかながらいつもより少し甲高い。完全に嘘偽り、というわけではなさそうだ。ホムンクルスであろうとも、酒には酔うというのだな。

「ただそれだけなら、そんな遠いところまで来る必要もなかろう。」

「…月を、見たくなった。」そう言って、彼女は器を軽く揺らして、一口中身を啜った。

「もっと近い場所でも月を見渡せるだろう。それだけではあるまい。」

「…」

無言。目先まで上げた酒杯は、彼女はただじっと見つめている。整えた顔立ちにこの物憂げな眼差しは、まさに絵になる光景だ。北斎殿が見れば、今すぐにでも絵を描き始めるであろう。

「本当のわけを聞かせてくれないか。正雪。貴殿が話すか話すまいか、俺からとやかく言うつもりはないが、俺でよければ、話し相手ぐらいは務まれると思う。話せば、心が軽くなることもある。…と、カヤに昔言われたことがある。」
「…ふ」

すると、彼女はあきれたように笑い、ようやく振り返った。

「人明月を攀ずること 得べからず
 月行いて却って   人と相隨う

貴殿のことを言っているな、宮本伊織殿。」

詩句か。

「『把酒問月』という、唐土の詩人、李白の詩だ。詩仙と呼ばれるほどのつわものであったが、いまのは彼の詩の中ではそこまで有名ではない。」
「そうか。勉強になるな。」
「…さて、せっかくここまで出張って私を探しに来てもらったのだ。私も、それ相応の実を申すべきであろう。」

「…私は、歓迎される義理もなければ、されたくもない。そういう立場でカルデアに来ているわけではないとわきまえている。歓迎されるべきなのは、特異点を阻止した貴殿と、セイバー…ヤマトタケル殿だ。ゆえにわたしは、マスターの厚意には拒めなかったが、隙を見て歓迎の場を離れた。それだけのことだ。」

思った通りの回答だ。

「正雪、それは違う。マスターはそんなこと…」
「思っていないであろう。彼らしい優しさだ。だが、分別はきちんとつけるべきだ。」

彼女の目線は全く動かない。澄んだ薄緑の瞳は、まるで大業物のように、俺を貫き通すと錯覚してしまうほどまっすぐだ。決意と、信念を込めた眼差しだ。

「私は望まぬままとはいえ、歪をもたらした根源、正されるべきものなのだ。私が夢見た正しき世、目指すべき世とは、正しきものが称えられる、尊ばれる世だ。歪は、この世から消え去るべき膿だ。唾棄されるべき邪悪だ。私がすでに歪になってしまった以上、ここでできるのは贖罪しかない。いまカルデアにいる日々は、うたかたのひと時、と割り切っている。ならば、深く交わることは、単に歪を広めるもので、お互いを傷つけることだ。距離をつけたほうが正しいと思わぬか?…いや、貴殿は思うまいな。」

余人から見れば痛ましい告白であろうはずなのに、いまの正雪は顔色一つすら変えていない。涙も一つ流さず、変わらぬ目で、達観したような表情で、当たり前のように語っている。美しい理想を思うその目は、己の在り方を曲がることすら知らない。まさに竹のようだ。

だが、その純粋無垢なありようは、偏執と未練にもなるだろう。

「…正雪、貴殿の考えはわかった。」
「…」

無言。こちらが言葉足らずなのに気づくだろう。

「だが今の言の葉、マスターとセイバーが聞いていたら憤慨するだろう。自分を卑下するなと。俺も、正直正雪が責められるべきと思わない。先刻の件で貴殿を責める人がいれば、逆にその人に非があると感じる。貴殿が、過剰に自分を責める筋合いがない。」
「…迷惑をかけたことは事実だ。妄念を捨てきれず、甘言に踊らされ、無様を晒した。その挙句、情けまでかけられては、伯爵とやらが私にしたことより百倍も屈辱だ。」

まったく動じない。このままでは押し負かされそうだが、ここからどうやって粘るか。

「…すまない。そのつもりはなかった。どうか、マスターを恨まないでほしい。」

俺は申し訳なさを顔に出してように、わずかに頭を下げた。すると、正雪は俺の声をさえぎるように話した。

「知っている。貴殿も、セイバー殿も、マスターも、私なんかのために特異点で多大な危険を冒してまで、私を助けようとした。あまつさえ、いまではなにからなにまで気を回してくれたのだ。感謝こそするが、恨むなんてもってのほかだ。」

恨み言が一つもない。由井正雪という人物の器は、つくづく見事なものだ。

ーー彼女は俺を恨む理由を持っているはずなのに。

「…正雪は、俺を恨まないのか?」

首を上げて問いを投げた途端、彼女は目を丸くして、眉をひそめた。警戒をするかのように一歩引いて、問いかけた。

「…なぜ、私が貴殿を恨む理由があると思うのだ?」

「記憶もなにもないうつろな俺からの推測ではあるが、」俺はわざとらしく肩をひそめて、彼女に仕掛けた。

「貴殿が妄念に囚われたのは、俺のせいではないかと思った。」

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「…」

「…」

いつもと変わらぬ、カルデアの食堂。

黙然と食事するサーヴァントと、歓談しているカルデアの職員たち。
その隅に、二人のサーヴァントがいた。
目の前には五人分のおむすびが並んでいて、普段なら目の前のものが瞬く間に平らかるところだが、だれも手を動かすことはなかった。
ふたりはただ、目の前の炭水化物に目を向けて、だれも口をあかずにいた。

「それで、頼みとは?」

薄紫色の三つ編みをしたサーヴァントが、あきらめたように率先して口を上げた。

「…すまぬ。仲直りに手伝ってもらえないか。」

情けなく頼みを語り出したのは、俺、宮本伊織である。
そして、今俺の向こうに座っているのは、かつての俺のサーヴァント、ヤマトタケルもといセイバーだ。

「イオリ。キミ、そういう相談には私が適任と思ったのか?」いままでもっとも長い溜息をしたセイバーは、俺を無視して目の前のむすびを齧じはじめた。
「わかっている。だが、ほかに相談相手がない。」
「わかっているだなんて失礼だな。マスターやダ・ヴィンチ殿のほうがよかろうに。」
「新参者の分際で、自分の落とし前をマスターにつけさせるのは恐れ多い。二人とも多忙の身でもあるから、できれば手を煩わせたくない。」
「私の手は煩わせてもよいというのか。」
「ああ。セイバーしか頼めないから。」
「そ、そういう言い方は卑怯ぞ。イオリ。」

不機嫌そうに顔をぷいとそむけて、セイバーはだらだらと不満を漏らした。

「そも、相手も仲違いの理由はわからないなら、どうやって手助けをすればいいかもわからぬ。まずはキミから経緯を説明するのが道理であろう。」
「ああ、順を追って話す。昨夜、俺と正雪がいなかったことが知っているか?」
「抜き出したことか?知っているとも…む、まさか仲直りの相手とは、ショウセツのことか?!」

正雪の名が出た途端、セイバーの顔で一気に緊張感が湧いてきた。カルデアに来てから、セイバーは彼女にやたらと気をかけていると感じたか、案の定ここも食い下がるだろうな。

「…ご名答だ。正雪が宴会を抜き出して、俺が彼女を探す手筈になったが、そこで二人で話して、彼女を怒らせてしまった。」

「!!」さっきの剣呑さがまるでうそのようにすべて吹っ飛び、立ち上がりする勢いで俺に顔を近づき、俺に詳細を仰いだ。
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