鳳仙花


二周目 高専にて
◇◆◇◆◇
「おい、どうしたその手」
 報告と軽い打ち合わせを終え、ほな任務行ってくるわとひらり翻された手。その先に異様な色が閃いたのを見咎め、ぎょっとして思わず手を伸ばした。
「は?なんやいきなり。触らんといて」
 術式を使わず軌道も描かず、ただ反射のように伸ばした手はあっさりと躱されて、本気で嫌そうな声音が降ってくる。庇うように胸の前に引き寄せ、重ねあわされたその手の先は、今気が付いたのが不思議なほど不自然に赤く染まっていた。
「その爪だよ。どうした、挟んだか」
「ん?……ああ、これ?かわええやろ」
 いぶかしげな顔で爪先に視線を落とした彼はしかし、すぐに得心がいったらしい。ぱっと破顔したかと思えば、今度は自ら見せびらかすようにして両の手を差し出してきた。鍛えられたしなやかな指の先、神経質なほどに切り詰められた爪がどれも赤く染め上げられている。
「どうしたよ、これ」
「べつ、どうもしとらん。ホウセンカやで」
 掬い上げるように掴んで引き寄せ、矯めつ眇めつ眺める。なるほど、怪我というには鮮やかで斑がなく、血というには明るすぎる。指先を怪我したり爪の中で出血したりというわけではなく、爪の上に色を乗せているだけらしい。
「……爪紅か」
「そ」
 よもやと思って爪を親指から順に押して確認してみるが、中指までいったあたりでべたべた触りなやと振り払われてしまった。動きは滑らかだし痛がるような素振りもない。怪我や病気を隠すためのものではなかったらしいと判断し、思わずほっと息をつく。
「え、なん?男の手捉まえて何が楽しいんや。キッッショ」
「いやあ?色気付いてんなあと思ったからよ」
「あの子らにやり方教えたったら、やりたい言うてね。俺が教えたげられるもんはこれくらいしかないさかい」
「――――、」
 茶化すような揶揄いに、思ったような温度の回答が返らず虚を突かれる。酒瓶でがんと頭を殴られたような衝撃が唐突に脳裏を襲った。ぽこぽこ怒るか、冷笑するか、そんなだと思ったのに。
 ――、これくらいしか。
 呪術師にとって、まじないや魔除け、修祓の方法は基礎教養だ。その身に刻まれた生得の術式は個々別物として特化しており本人にしか扱えぬものといえど、それが刻まれる基礎には数多の人々が紡ぎ、認識し、形にして積み上げてきた素地が存在する。
 爪紅はその基礎の一つだ。赤色は魔を退ける力であり、魔は爪の間から忍び込む。それゆえ鳳仙花の花や葉を使って爪を赤く染め、退魔を願う。本職にとっては児戯にも等しく、つたなく、粗削りで、原始的でいて――、そして最も原初の力を持つ『呪い』であった。
 それだけしか、教えられぬか。
 直哉は、禪院家から出たことがない。今はもはやないあの本家には、花嫁修業に来る女たちや武者修行と実績形成に来る男たちがたくさん詰めかけて、それぞれに仕事を持って一つの大きなシステムを構築していた。子供は放っておけば育つし、教育をお役目とする者から必要なことを学び、自分で仕事を持つ。呪術師として戦場を駆けるかどうかは別として、呪術界でなんらかの歯車になることはあの家の血を受けた時点で確定していると言って良い。
 お遊戯の代わりに呪力操作を、義務教育の代わりに呪いを、習い事の代わりに武術を。
 あの家で育ち、過ごした直哉は呪術師として必要な知識や技術だけを学んで作り上げられた。呪術師としてのキャリアはあっても学歴はなく、それに伴う経験もない。今高専にいる子たちに何か教えようとて、呪術以外はからきしだろう。あの家にいる頃はそれでなにも問題なかった。
 ――が、それだけ、か。
 しかし、謝るのは、違う。謝ることはできないし、するべきではない。あの家は、呪術界はそういうものであったし、あの家はずっとずっとそういう在り方を選び続けることで日本を、世界を、日常を守ってきた。そうでなければ、この世界は保たなかったから。それを継いで今なお殉死しようとしている直哉に謝るのはその覚悟を踏みつけにする行為だし、それを選んできた先人たちへの手酷い裏切りだ。
 そう考えて、声に出せぬ理由をはっと理解する。そうか、謝れぬのか。
 悲しいとも悔しいとも、なんだか違う。申し訳なさ、というと近い気もするが、それもまたどこか的外れだ。狭い世界から出てしまえば呪術など「それだけ」であることにようやく現実感が伴ったこと、そして直哉もそれを実感したのだろうこと。立ち止まるしかない寂莫とした郷愁のようななにかが胸の内に蟠り、静寂に耳が痛んだ。
「そういや、そろそろちゃうかな」
 なにも応えを返さぬ自身を不審に思ったか否か。直哉は大きな瞳を猫のようにくるりとさせてこちらを覗き込み、しじまの帳を破った。いつものごとく薄い笑みを張り付けているから、その奥の感情が読めない。
「な、にが」
「扇の叔父さんも捕まっとったし、そろそろパパも捕まるんとちゃうかな。」
「は?」
「手当たり次第に練習台捕まえとるから、爪が足らんのやって。知らんけど。あれ、ここの全員分塗り終わるまで終わらんのとちゃうか?ま、俺はパパが色気付くかどうかは興味ないけど」
 意味を捉え損ねているうちにほなまたね、と言うだけ言い残して、直哉は今度こそ身を翻した。開け放された窓を乗り越え、ひらりと校舎の外へ。おいここは二階だぞと注意しようと窓から身を乗り出した時には既にその姿はどこにもなく、外にはただ眩いほどの夏空が広がっていた。
 高専の子供たちにあー!みつけたー!と叫ばれるのは、もう少し後のこと。


 
2周目 安息の地にて
◇◆◇◆◇
 窓の外には、高く深く澄んだ青だけが広がっている。
 部屋の中は適温で、無味乾燥。ただ唯一鮮やかな彩りを見せる、アルミのサッシに切り抜かれた一面の青には一点の曇りもなく、高く遠く何処までも続いていた。ゆらりと立ち昇る陽炎に降り注ぐ蝉時雨の声。
「……爪、気になるんですか?」
 懐古に沈もうとしていた思索を、少年の声が引き戻す。部屋の中は無音で、ただ二人の息遣いだけがわずかに空気を揺らしていた。
「……え?」
「夏になってからよく、そうしているので。」
 そう、と示す少年の視線を追って、自身の手元に目をやる。軽く握りこんだような形になった手で、知らずのうちに親指の腹が爪を撫でていた。
「ああ……」
 切りますか?と少年が腰を浮かしかける。それにいいよと首を振って、窓の外へと視線を戻した。いつの間にか、この色を見て思い出す夏の景色がすり替わっている。近くて遠い、永遠を一瞬で駆け抜けたような、夏の日差しより鮮烈な記憶だ。
 後ろから少年が戸惑っているような気配を感じて、追憶から醒めて振り返る。予想通り彼は困ったように眉尻を下げ、心配ですと顔に大書していた。
「大丈夫、つらい記憶ではないからね。……日本の、親友のことを思い出してただけだよ」
 ちら、と周囲を確認したのち、とっておきの秘密を打ち明けるかのように声を落としてそう告げる。このことは、ここでは三人しか知らない。夏油自身と、一緒に日本へ行った伊地知と、ここにいる少年、乙骨と。これ以上、誰に知らせる気もなかった。
「そう、でしたか。」
 ならよかったです、と安心したような声が返ってくる。意図を汲んで吐息に混ぜるかのようにかすかに笑んで落とされた言葉に、こちらも頬を綻ばせて応えた。
 今の日本に残してきてしまった彼らを考えれば手放しで楽しかったね、そうだねとふわふわ浸っていられるものではないし、ここにいるしかない現状に焦りもある。今でも生死をかけたぎりぎりの死闘を繰り広げているはずなのだ。決して、呑気に構えていられる状況ではない。
 けれど。
 ――、直哉が、いるから。
 夏の空に紐付く記憶を鮮やかに塗り替えた、彼が居るから。夏油は一人ではないし、彼らも一人ではない。だから夏油は無闇に焦らず、自身が出来ることを着実に遂行し、機を伺って最善を尽くせば良いのだ。
「……どんな人でした?」
 言葉に出さずとも、伝わるものはある。声を落とした少年が、恐る恐る宝物を覗き込むようにそう聞いた。
「どんな」
「お強い人だとは、知っていますけれど。戦闘以外の話は聞いたことがないので」
 爪とか、なにか関係あるのかなって、と尻すぼみになっていく声に、あゝと合点がいく。彼について話したことは少ない。十年日本を存続させるべく最前線に立ち続けた呪術師で、日本呪術界の精神的な支柱で、親友。総括するとそれくらいだ。あのたった三月の間に、それまでの十年をすべて塗りつぶしてしまうくらい沢山の思い出を得たけれど、宝物のように胸の奥にしまい込んで見せたことがなかった。
「そうだねえ……、」
 あらためてとなると、どこから話せばいいやら。ただ楽しいという言葉だけにはとうていおさまりきらないあの濃密な日々が脳裏を過ぎる。
「…とっても口が悪い」
「え、」
「もうほんとに、これでもかってくらい嫌みと罵倒が天下一品でね。まあ、お育ちがいいのが分かる言葉選びではあるんだけど、組み立てられた内容はっていう。そのうえ口から先に生まれてきたってのはこういう事かってくらいにマシンガン」
「――、」
「自分が正しいと思えば相手が折れるまで煽るし、少しでも癇に障ろうものならくったくたになるまでやり込める。しかも、ちゃっかり理論武装してるからたちが悪い。」
「……、」
「だいぶ常識がズレてるし、ネジが2,3本は飛んでそうな考え方を当然みたいな言い方するし。…でもちゃんと、その言い分の通りには行動するんだよね。有言実行と言うには、ちょっと攻撃的すぎるんだけど。諸刃の剣を振り回すどころか刀身を掴んでるレベルで、一度これが正しいと決めたら自らの信条に殉死するのも厭わないような。……そういう、ひねくれてるんだか素直なんだか分からない、人間、だったよ。」
「……にんげん、ですか。」
「そう。……人間、だ。けっして、いいひとってわけではなかったよ。でも、地に足がついたというのがどういうことかをよくよく知っていた。意思と知力があればどんな難しい目標でも達成できると信じているけれど、人間は怠惰で想像力がないって冷たい目で見てる。それでいてそれを隠しもしないし、だけど偽善や欺瞞を口にするのは嫌ってた。」
「――――、」
 虚をつかれたような空気に、うすく笑む。そうだろう、自分だって病んでいるときにこんな人物に出会って立ち直れたと聞いたら宇宙を背負う。だが、あの沖縄の夏空の下の、あの出会いは。
「一緒に頑張ろうなって、言ってくれたんだ。細やかに気遣われたわけでも、休んでって言われたわけでも、世話を焼いてくれたりしたわけでもない。ただ、ずっとわだかまってた心の奥の、自分でもはっきりとは言えなかった思いを、そうやって分かって、みとめて、口に出してくれて。……彼はただずっと、彼の信じるままに前へ前へ走っていってただけなんだ。手を引いてくれたわけでも、立ち止まって待っていてくれたわけでもない。その距離感が……なんだろう。すごく、ありがたかったというか。守りたいとは思ってくれたようだけど、押し付けるようなことはなくて、、背中についてこいって感じでもなかったな。同じ道を選ぶなら、まあ並んで走ることもあるだろうなくらいの、そんな感じ。むしろ、ただ後をついてくるだけのものなんて唾棄されるべきくらいには思ってたかもね。人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行くなりって、自分と他人の境界をきっぱり分けて。自分がこうと思ったものは公言して憚らないけど、それに影響されたから、言われたからって寄りかかられるのは嫌っていたから」
 すり、と無意識に指の腹が爪の甲を撫でる。神経質なまでに整えられたそこにはもうあの頃を思い出すよすがは一片も残っていない。
「ああ、そう。爪はね。彼が、爪紅のやり方を教えてくれたんだ。ホウセンカの花と葉とミョウバンを使って、花の汁で爪を染める呪術だって。紅の名の通り、結構鮮やかな赤に染まるんだ。赤は魔を退ける色で、魔は爪の間から忍び込むからってね。気休め程度の、ただの古い呪いだけれどとは言いながら」
「…そういえば、夏油さん帰って来た時爪が赤かった気がします」
「ああ、ホウセンカの葉を使うと色が落ちなくなって、完全に生え変わるまで赤色が残るんだよ。それでだろう。毎年ホウセンカが咲く時期になったらたくさん収穫してきて、女の子たちが高専にいた全員の爪を染めて。恒例行事のひとつになっていてね。イベント事を楽しめるような状況ではなかったけれど、それでもちょっとした楽しみを見つけてて。生きてるって感じがしたなあ……」
 瞼の裏に浮かぶ光景に、ふと言葉が途切れる。
「また…………、」
「…あ、」
「だめだよ」
 言わなかった言葉を補完しようとした乙骨をとっさに遮る。口にしたかった言葉だ。けれどそれは、音にしてしまってはならない気持ちだ。持っているだけでも、危ういかもしれないのだ。
「だめだよ。それは、言ってはだめだ。呪いになる。」
「夏油、さん……」
「私たちは望む望まざるにかかわらず、そうする力を持ってしまっているのだからね。知っている以上、言葉には気を付けなくては」
「……その、」
「でも、ありがとう。……本当はね、口にしてしまいたかったんだよ。分かってくれただけで、十分に救われた。君は優しいね」
「……今度、ホウセンカを探してみます。もしあったら持って帰りますから、僕にもやり方を教えてくださいね」
「…ああ、もちろん。楽しみにしているよ」
 はめ殺しの窓の外からおどけたような笑いを含んだ声が聞こえてくる。そろそろ、密会できる時間は終わりそうだ。乙骨はでは僕はこれでと折り目正しく礼をして、なんでもない顔をして部屋を出ていった。その賢さと察しの良さに感謝しながら手を振り、窓の外の青に視線を戻す。
 空は繋がっているというが、遠く離れた彼らにも同じ色の空が見えているだろうか。もうそろそろ鳳仙花の季節だ。祈るように爪甲を唇に当て、声に出さぬように、気取られぬように。
 願わくば――。
 




三周目 禪院家にて
◇◆◇◆◇
「……食うのか?それ」
 ぼうと地に落ちた深紅の花弁をつまみ上げて眺めていると、突然背後からそう声を掛けられた。気配も足音もなく突然のことで、飛び上がらんばかりに驚いて振り返る。
 そこにあったのは、梅雨も明け夏至も過ぎぺかぺかとまばゆく濃ゆい色の空と、その空を割るように聳え立つ黒い人影だ。中天の太陽はその頭に隠れ、後光のように白い光線だけを覗かせている。逆光で顔色どころか顔も拝めないが、直哉がその声を、その姿を取り違えることはない。
「……食べへんよぉ。甚爾くんお腹空いてはるの?」
 かすれたような低く深い声で問いかけてきたのは、直哉が憧れてやまぬ最強の従兄である。向こうから近づいてきて声を掛けるなど珍しいこともあるものだが、問いからするに腹を空かせているのかもしれない。花びらを手放して袂を探り、忍ばせておいた飴玉を2,3掴みだす。
「はい、あげる。ホウセンカは食べたらあかんよ、毒あるさかい」
 立ち上がってくるりと向き直り、ん、と飴玉を突き出す。まだ10にも届いていない自身と、成長期も終え大人の身体つきになっている甚爾とでは身長差が違いすぎる。今の自身では頑張って差し出したところで受け取ってもらえなければ渡すことはできないのだが。
「どく」
 ふうん、と。彼は立ち去るでもなく受け取るでもなく、第三の選択をした。直哉を避けるようにひょいと後ろに視線をやって、ホウセンカに興味を示したのである。えっほんまに食べる気やったん?と口にしかけたのをようよう引っ込める。耳のいい従兄には語頭のえ辺りは気が付かれてしまったかもしれないが。
 ――もしかして、出てった後に食べもん無かったら食べようとか思うとんのかな。
 “前回”の記憶の通りなら、甚爾はもうそろそろ家を出ていくころだ。前回直哉は任務に出ていて彼の禪院抜けを目の当たりにはしていないが、それはそれはすごいものであったらしい。御三家が御一家だけになってから8年かけて擂り潰された本家を、数刻のうちに半壊に持って行くというのだからその強さは推して知るべしというものだ。…任務に出ていた人もいるのだから全部ではないとか、継戦能力の話ではないとか、そういうのは無視するとして。
 まあそんな強靭で無敵で最強な天与の暴君ではあるが、同時に禪院本家産の男である。学歴は中卒どころか幼卒すらないし、一般社会への伝手やコネなんかも持ちようがない。圧倒的な力でもって家の軛を引きちぎり出ていったところで、外で生きていくにはそれとは別の力が必要だ。
 直哉は、甚爾の家出を止める気はない。甚爾の強さを認められぬ家人たちは馬鹿だと思っているし、他者の強さを、自身の弱さを認められないのは罪だと思っている。だからこそてっぺんに立って、甚爾の強さから目を逸らせず、認めるしかない状況にすれば馬鹿どもも少しはマシになるかと思っているのだが。
 それと、甚爾が禪院に居続けることとは関係がない。むしろ、甚爾は禪院ではやりにくいだろう。禪院が彼を認めようと認めまいと、それは変わらない。
 禪院は軍隊だ。二級以上なら一人で祓除に赴けるとしている呪術界において、家の中に隊を用意し集団で祓除を遂行する、ある種の異端児である。準一級以上と銘打たれ、実際に実力者でなければ所属できない炳の隊員ですら、躯倶留隊を率いて祓除することの方が多いくらいだ。
 禪院は軍隊だ。そして、足並みを揃えて同じものを見て、同じように戦うのが軍隊だ。甚爾には、その戦いは窮屈だろう。
 ……それにもとより、甚爾には戦いに身を投じる義務などどこにもないのだから。
「……せや。甚爾くん、暇しとるなら一緒に爪紅でもして遊ぶ?」
「……は?」
「爪紅。魔除けになるんよ。ホウセンカの花と葉を潰して汁で爪を赤く染めるん。ミョウバンとか混ぜたら水にさらしても落ちんのやけど、少し遊ぶ程度やったら花だけ使おうか」
 うん、それがいい。口に出して尚しっくりくる。“前回”皆にやり方を教えたら、毎年の恒例行事になったそれ。女子達は少しでもお洒落がしたかったのだろうし、ついでに皆を少しからかってやろうという魂胆だったのだろうが、そこには確かに祈りが含まれていた。
 直哉は別に、自身になにかが救えると思っているわけではない。甚爾のことにしても、この日本の行く末にしても。自分なら皆を救えるなどという幼稚な全能感も、記憶があれば今度こそ大丈夫などという誇大な楽観も、もとより持ち合わせてはいないのだ。自身に出来るのは、現状を正しく冷徹に認識し受け入れ分析し、自らに足りないものを理解して前へと進み続ける選択をすることだけ。直哉はむしろ、自己肯定と保身にかまけて素直にそうすることができぬ阿呆どもを軽蔑しているし、今の自分にはなにもかもが足りぬことをはっきり自覚している。
 ……だからこそ、せめて。あの時と同じように、同じ方法で、祈れればと。ふと、そう思ったのだ。
「…ふふ、懐かしなあ。意外ときれいに染まるんよ、これ。まあ、甚爾くんはおまじないに護られんでも最強やし、呪いなんて効かへんやろうけどね」
 もう一度鳳仙花に向き直り、目についた手頃な位置の花を摘まんで引きちぎる。赤い花弁は意外としっかりくっついていて、ぶち、という手ごたえと共に抗議するようなさわさわという葉ずれの音を返してきた。同時におい、と、不機嫌なような、戸惑ったような声。
「あれ。せやったら“お呪い”も効かんのかな。流石は甚爾くんやね!因果に支配されることも、呪いに搦めとられることもないんやね。なにに縛られることもない、完全な自由ってすごいねぇ。強いお人って流石やわぁ!……でも、護法も無効なんはちょっと寂しいねぇ」
 遊ぼう、とはいえど、本当に無邪気に遊べるとは思っていない。この家には人の目が多すぎるし、互いに面倒ごとを抱えている。そも、彼にとってはこの交流自体迷惑でしかないだろう。だが、甚爾の自由を認め、彼の選ぶ道行をなんであれ祝福し祈りたい人がいることを、知っていてほしかったから。
 くるりと振り返り、まだそこに居てくれた甚爾と正面から視線を合わせる。抜けるような輝かしい青の下、陰の中で昏い瞳が今ばかりはこちらを向いた。甚爾がこれから出ていくことを知っていることも、日本の滅びの未来も、彼には悟らせられない。何からも自由な彼をわざわざ巻き込むことは許されないから。それでも、どうしても。
「な、一緒に遊んでや?」





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