神社にて


丘の頂上の神社から人の気配を抜いた夕暮れの空間に、トレセン学園の制式ジャージを着たウマ娘が一人走り寄ってきた。自主練習の直後ということを、いくらか高くなった体温と額の汗が物語っている。
「ふー……さてさてー、到着~」
トゥウィンクル・シリーズのOP級のウマ娘だから、中央トレセン学園所属のウマ娘の中でも、彼女はかなりの上位層にいる。事実としてはそうなのだが、その事実を前提としたところで、条件戦上がりたてのウマ娘なんて世間の人の大半は知らないだろうし、マニアに絞っても認識する人はそう多くないのは確かである。
桜の木が横に並ぶ石道を通って、社務所を左手に見る本殿の前に歩み寄る。
ジャージのポケットに入れていた小銭入れを取り出し、開き、10円玉を一枚取り出す。片手にとって、小銭入れのチャックを閉め終わるや否や、それを眼前の賽銭箱に投げ入れた。小銭入れをポケットに入れなおし、二礼二拍手。そのまま拝むような形になってから、誰ともなく呟いた。
「昨日はクロさんが無事にレースを終えることができました。先々週のミダレさんも無事に走れました。そういうわけで今後もよろしくお願いしますね~」

自分が割かし運が良いことを、ヤソヤノスズランは感覚的に意識していた。
生まれたころから大きかったようで、その後も健康に育っている。転んで膝に怪我ができても、それで脚そのものが使えなくなることはない。風邪を引くことがあっても、後遺症を残すほど困難な病気はしない。精神的にも、ここまでは生きていく上で明確な難儀を感じたことはない。
加えて、総じて優秀な肉体を持つウマ娘の中でも、自分はもう一か二段階優秀な能力を持っているようで。門戸は存外広くとも道は険しい中央のレースにおいて、前述した少なくない良績を挙げていた。
身体という前提に加えて、環境にもまず問題がなかった。環境がもたらした理不尽さのために、自分の進む道を外れなけばならないほどの変動を来す、そんな世界観を押し付けれらながら生きてきて、生きている人が大勢いることは知っている。自分はその理不尽さに憤りがある。
その憤りはしかし、発生した理不尽を被った者に自分を重ね合わせるが故の物ではないことも自覚している。

幸運だけで生きてきたのか?と言われれば、それはそれで語弊だとも思う。自尊心を捨てて生きれるほど自分は強くない。ここに来たのは自分の勇気の結果で、この立場にいるのは自分の努力の結果。それは確かだろう。
けれど自分以上の熱意を持ってここにやってきて、けれども自分より……露悪的な表現を用いれば、下の世界で勝ち抜くための努力をしなければならない、この場のスタートラインに立つまでの道で立ち止まり続けている。自分がこの世界以外の分野ではそうであるように、そのくらいの才覚しかないような子たちが大勢いる。そういう時、心が痛むというほどではない──そんな表現をすれば逆に失礼が過ぎて笑ってしまう──が、いくらか天の分配というものに不公平さを覚えないでもない。

自分は良い結果を残したい、という願望が彼女にはある。今後挑むであろうオープン戦で、リステッドで……できれば、重賞級で。そのための尽力を欠かしたくないとも明確に思う。
才能に恵まれたものの義務としての努力と表現してみると、よく言えばノブレス・オブリージュの派生、悪く言えば傲慢だといえるだろう。それでも、多大な天与と良縁を得たことは彼女の人生上の事実として、それを有効的に生かすために努力したのが自分であったこと、そしてそれが正しかったということの証明として、彼女は勝ちが欲しかった。強者の驕りだし、そもそもお前はそれほどの強者なのか?と言われれば閉口するしかないだろうが。

自分や親しい他者が天運に支えられている、そういう心中の感覚の結果だろうか。自主トレの終わりや休日になると、よくこの丘の上の神社に来ていた。
今日までの一定の無事平穏があればそれを報告し、感謝する。逆に問題が起きたときも報告し、自分で対応策を実施することは大前提として、そのうえでこの後が上手く進むように祈る。ついでにいくらか今後の願望を伝える。
自分のことだけではなく、他人の分もついでに報告し、願っておくようにしている。願った分自分だけ恵まれるのはあまりいい気分ではない。自分が得れる天運の分け前が決まっているなら、少しでもそれを他人に分けたいな、と意識する。チームトレーナーの現役時代の諸々の話を知って、チームメンバーの出走する障害レースを見てから、その気分は余計強くなった。近しい人を中心に幸運が持続し続けてほしいという当たり前の感情を、スズランは尊重したかった。

「それで、今後に関しては…」
俗っぽい具体的な望みなら自分にもいくらかある。大金も栄誉も良縁も時間も健康も何もかも欲しい。けれどもそいつらを正直に神頼みするのは、願掛けだとしても些か強欲な気がする。しかし欲求は欲求だ、生きる限り消えないし消したくもない。人のために祈ることだけで祈りの枠──そんなものがあるのかは知らないが、なぜか人生において神に願えることには制限があるのだと、彼女は曖昧に考えていた──を自分の願えた分まで全て使いつぶすのは流石に癪だ。
深く願うことへの逃避に、自他の幸運を求める明確な思いとの折衷を込めた考えとして、いつも同じような願い方をしていた。
「こう、みんながなんだかんだ全体的にいい感じに進みますように~」

一礼して、本殿に背中を向ける。
ふと空を見ると、夕焼けの見どころはもう去り、夜の足音が視覚から聞こえてくるのを感じる。尤もその様を見なくとも、この場所での要件が終わっているのは既定の路線だ。
夕風が身をなでると、風情のない空腹感が唐突に脳を刺す。これは単なるエネルギーの欠乏の知らせというよりは、時間とそれがもたらす風景がそうさせるのだろう、そういう変な感覚を覚えた。
「んじゃ、帰りますかねぇ。夕飯何選ぼっかな~」
つぼみがまだ同居している桜を通り抜けて、彼女は丘を降りる階段に向けて、空間を歩き去っていった。


書いてる途中に知ったんですが、お賽銭の10円玉って「とおえん」、「遠縁」と読めるからお賽銭としては縁起が悪い……って考え方を知りました。自分はガッツリ10円玉使ってたので、その癖でスズランも10円玉使ってます。大事なのは気持ちだってフォローもあるらしいけどね。
お知らせ
実務でも趣味でも役に立つ多機能Webツールサイト【無限ツールズ】で、日常をちょっと便利にしちゃいましょう!
無限ツールズ

 
writening