ヌオーと古代王 悲劇の王妃ハルモニア 


 征服王亡き後に起こった継承者戦争は、文字通り血で血を洗う凄惨な物であり、関わった者の多くが無惨な最期を遂げた。
その中でも異彩を放つのは、悲劇の王妃として描かれるハルモニアであろう。

 彼女は征服王の妻の一人で、女神エレオスの血筋を継ぐヌオーであったとされる。
その女神そのものと称される銀髪碧眼の美貌、高貴な血筋とヌオー由来の能力やコネを活用して、彼女は東方遠征において征服王の軍勢を支え、敵味方問わず数多くの人々を救ったとされた。
それゆえに得た、彼女の常軌を逸した人望が、征服王の母と、征服王の妻達から危険視され暗殺という最後を迎えたのだと後世に語られている。

 それが正しい選択だったかは不明だが、征服王の母も、征服王の妻達も全員が無残な最期を遂げたのは史実である。

 とはいえ、これだけでは、なぜ悲劇の王妃として彼女の名前が残ったのかという理由にはならないだろう。
なので、彼女は何者で、彼女と征服王との関係はどうだったのか、征服王の死後に彼女がなにをしたのかを解説していこう。

① ハルモニアとは何者か?
彼女の生誕年は不明である。
当時の記録では、女神エレオスが天界に去らねばならなくなった時に、人々の求めに応じて地に遺した六柱の娘達、その筆頭が彼女とされている。

 それが正しいのならば少なく見積もっても700歳近くになるが、さすがにそれは伝説にすぎないだろう。
とはいえ征服王相手ですら、客観的に評価しているとされる一級資料でさえ、この有様なあたりが、彼女が何者なのかの判断を難しくしている。

 ほぼ確実だとされているのは、彼女がギリシャで最も繁栄していた都市エフェソスの指導者階級で、その権威は絶大だったということである。
後に征服王が、エフェソスを攻略した際に無血で終わったのは、彼女が自身と引き換えに同盟が成立したからとされる。
信じがたい話だが、彼女一人が当時のエフェソスにあった、無尽蔵と称される財と同等の価値があったと征服王は判断したのだ。

 さて実在の都市エフェソスの場所を知っている方なら、疑問に思うだろうが、なぜ小アジアに分類されるエフェソスがギリシャの都市扱いなのかということだろう。

 それは単純に神話の時代から、エフェソスがギリシャ文化の中心地であり、神話の時代以後の大破壊の波にも耐え、当時のギリシャ都市の再建に貢献したからだろう。
そして、神話時代の建造物をほぼ全て残しながら、1000年以上にわたり、ギリシャ一の繁栄を謳歌していたのである。
とはいえ、ギリシア人にとっては、その事実はおおいに彼らの自尊心を傷つける話であった。事実、アテネとテーベの最盛期には、エフェソスに囚われている女神の娘達の救出を大義名分にしたエフェソス攻略が計画されていた。
征服王の父であるフィリッポス二世も、同じ理由でエフェソスの攻略を目論んでいたのが当時の文書に残されている。
 
 征服王が父のやり残した事業として、エフェソス攻略にのりだしたというのは自然な流れである。
だが、当時の資料の多くは、征服王が当初から彼女を求めてエフェソス攻略にのりだしたと伝えている。

② 征服王とハルモニア
 それらの資料には、こう続きがある。
征服王が、はじめてハルモニアと出会ったのは紀元前342年、13歳の時に両親とともに、外交でエフェソソスにおもむいた時である。
そのさいに、征服王が学友(プトレマイオスを筆頭とした“継承者”達)とともに、都内を視察していた際に、彼らの案内をしたのがハルモニアだったという。

 この時、征服王達はハルモニアの美貌と学識、その慈悲の心に魅了されたのだという。
また、エフェソスという都市の隅々まで視察したことが、征服王とその“継承者”達の都市計画に大きく影響を与えたとされる。

 さて、この出会いから8年後の紀元前334年に征服王は小アジアを制圧した。
その中に、エフェソスも含まれており、ハルモニアと婚姻を結んだのも同年だったという。
二年後には娘ポリュクセナ(命名者は王母オリュンピアス)が誕生している。

 この娘は紀元前327年に王母オリュンピアスの強い要請で、マケドニアに送られた。

 この時期のハルモニアの逸話としては、テーベの復興および大規模な氷菓作りが有名である。

① テーベの復興
征服王は、自身に対し徹底抗戦をしたテーベを、紀元前335年に完膚なきまでに破壊しつくした。
この際に生き残った者は、ほぼ全員奴隷とされたが、そんな彼らを買い取ったのがハルモニアだった。
彼女は自身と同名の先祖の縁で、彼らに助け舟を出したのである。

   一時的にエフェソスに引き取られた彼らだったが、紀元前334年にテーベの復興の許可を征服王より得たハルモニアは、テーベの復興事業に多額の投資を行った。
  伝説では定期的にハルモニアはテーベの視察を行い、住民を慰撫したという。
  この逸話は、ハルモニアが女神エレオスの地上代行者だという認識をギリシャ全土に
及ぼし、皮肉にも彼女の死の遠因ともなった。

② 大規模な氷菓の製造
 これは、おそらくはただの伝説だが、当時の記録には多く残されている話である。
東方遠征は過酷であり、ただでさえ血の気の多いマケドニアの将兵が気が昂って虐殺や略奪に及ぶ可能性は非常に高かった。
そこでハルモニアは、女神エレオスより授かった権能によって、当時は王侯貴族しか食べられなかった氷菓を月に一度、全将兵に提供したのだという。

常識的に考えれば不可能な話である。
なぜなら征服王傘下の東方遠征軍は4万近い数の将兵で構成されており、その数の氷菓を月一で用意して全員に配給するなど、大帝国ペルシアでさえ不可能だっただろう。

 だが当時の日誌には『今日はハルモニア様から、氷菓とワインが支給される。 毎月訪れる、この日のために私たちは生きている』や『ハルモニア様が東方遠征時に我々のために振舞ってくれた氷菓。それに匹敵する物は、残念ながら槍も持てない老骨になり果てた今でも味わえなかった。……あの方の氷菓を再現しようとした者は数多いたが誰も紛い物さえ作れなかった。今でも忘れられない、ただの兵卒にすぎない私の名を口ずさみながら評価を私に手渡してくれた、あの方の微笑が。もしも、あの方の微笑がもう一度見られるのならば、私は地獄に堕ちても構わない』
という内容の物が残されている。
記録によると、新雪のような綺麗な白色で、口に乗せると程よい甘さと冷たさが舌を通じて身体中に染み渡ったとされる。

 ハルモニアと征服王の夫婦仲は良好だったが、部下や捕虜の処遇や占領政策などで激しい口論をすることもあったという。
また、負傷した者達への治療には積極的に参加し、その手際の良さはアスクレピオスもかくやであったのだとか。

 征服王の怒りを抑えられるのは、ハルモニアだけというのが多くの将兵が共有していた見解であり、事実、彼女のとりなしで、パルメニオン、フィロタス、クレイトス等は命拾いしている。
また彼女のとりなしで数多くの都市が略奪や虐殺を免れた。

 ただ紀元前326年に東方遠征を断念したあたりで、征服王とハルモニアの夫婦仲に亀裂が生じる。
ハルモニアが行く先々で歓迎される姿への嫉妬や、征服王の統治に口を出すことへの不満がたまったからだとされるが詳細は不明である。
どちらにせよ紀元前325年末に、スサで行われる予定の合同結婚式に対して、「将兵の心が離れるからやめましょう!」「異文化の取り込みは段階を踏まないと、激しい反発を招くから、もう少し時間をかけましょう」と提言したところ、征服王は激怒し彼女の頬を打った後、マケドニアで頭を冷やすように命令したという。

 なお、征服王はハルモニアにマケドニア行きを命令した翌日には、「許すから、戻ってこい」と伝令を通じて伝えたが、ハルモニアは返信もしなかったという。

 マケドニアに来たハルモニアは、ギリシャ統治が破綻寸前だったことに驚愕し、王母オリュンピアスに配慮しながらも、ギリシャの結束強化に乗り出した。
この時、王母オリュンピアスは自身には靡かなかったアテネ等の都市国家がハルモニアには恭順したことや、彼女の血筋の高貴さや美貌に激しい嫉妬心を抱きつつあったという。

 ハルモニアは征服王の領土を奔走し、帝国のインフラ維持に努めた。
なお、征服王との夫婦仲はへファイスティオンの葬儀の際に修復され、その時に第二子を授かったという。
だが、この出来事が征服王の妻の一人であるロクサネに警戒と嫉妬心をもたらし、後の暗殺につながるのである。

 ハルモニアと征服王の離別は唐突であった。
紀元前323年6月10日に征服王は急死した。
その時ハルモニアは戦没者遺族の慰問をしていたという。

 なお、征服王の遺言である『最強の者が後を継げ』という遺言に対してハルモニアは
『……あなたったら、最後の時まで血迷ったこと言わなくても良いのに。
というか最強の者ってなあに? 
血の気の多い人たちを集めて、殺しあいさせて最後に残った人に帝国を託すの?
あなたの大好きなアキレウスやヘラクレスは戦士としては偉大でも、統治者としては微妙だったでしょうに?
……夢は終わりよ、あなた。
あなたの築きあげた帝国は砂の城、あの立派な将兵達の誰にも帝国を維持できる人はいない。
統治の崩壊は夢も希望もない、地獄のような内戦につながる以上は、あなたの帝国は分割するわ。
無論、軋轢も生じるし、争いも起きるだろうけど無秩序よりは、そのほうがまだマシ。
……でも、夢は終わったことを、あの方達は理解してくれるかしら?
いや、理解させるのが私の最後の仕事になるのでしょう」
と辛辣に評している。

 その後、“継承者”達で開かれたバビロン公会議で帝国の分割を提言し、“継承者”達を困惑させた。
ただ、彼女が彼らに提出した帝国統治の破綻を示す資料は、瞠目に値するほどに正確な内容で、ハルモニアが神であることを“継承者”達に再周知した。
それと同時に、女神である彼女を求める“継承者”達の野心に火をつけてしまった。

 これが王母オリュンピアスとロクサネがハルモニア暗殺を決意した瞬間だっただろう。

 ハルモニアは精力的に帝国全土を巡り、この後に訪れるだろう混沌の時代への対策を行った。
また王母オリュンピアスとロクサネに自身が野心を持っていない証明に、第二子を預けたりしたという。
ハルモニアは子育てをまともに出来ないことを気に病んでいたが、やるべき事さえ終われば、ただの母親になれると淡い期待を抱いていた。

 結局のところ、それは夢想でしか無かったことを彼女は最後の瞬間に思い知らされることになった。

 紀元前321年、トリパラディソスの軍会の直前に、ハルモニアはロクサネに屋敷に招待された。
ハルモニアはロクサネの子アレクサンドロス四世と娘達が、無事に成長していることを喜び、警戒心が薄れていた。
そして毒を混入されたワインを飲み、疲労と酩酊と毒でフラフラになったところを、オリュンピアスがハルモニアを殺すべく特注した短剣で刺され絶命したのである。
彼女は死にゆく最後まで、夫の帝国の末路と娘達、そしてオリュンピアスとロクサネ、その息子アレクサンドロス四世の行く末を案じていたという。

 ハルモニアの死は、血で血を洗う“継承者”戦争の始まりの合図となり、征服王の残した帝国全土に地獄絵図を広げる惨禍となった。

 なお、ハルモニアとイスカンダルの間に生まれた娘は、第一子が紆余曲折の果てにイタリアへと渡り、後のローマ皇帝達の祖先になったと伝えられる。
第二子は、ハルモニアを襲名しエフェソス太守になったという。
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