残影月華


 はっ、はっ、はっ、はっ。
 断続的に空気が鳴る音がする。どこからだ、と思う前にひゅっ、と喉が鳴り、それでようやく音は自分の呼吸音だと気がついた。
 静かに身を潜めているつもりだった少女は慌てて口を押さえる。手はみっともなくかたかた震えていた。
(……なんで)
 視線だけを忙しなく動かす。東京の路地裏は、どこか饐えた臭いがする。
(なんで、こんなコトに)
 肩に引っかけた通学鞄を走る間落ちないように位置を変え、しゃがみこんでいた少女はもう一度立ちあがった。さらさらと動きに合わせて肩より長いまっすぐな黒髪が揺れる。それが視界を遮ることに気づいて、手首に巻いていた髪ゴムで部活でそうしているのと同じポニーテールにまとめている間、ぐるぐると同じ言葉が頭を回る。
(逃げなきゃ。とにかく逃げなきゃ)
 ちらりと空を見上げれば、重たく雲が広がっている空がビルの隙間から見える。どこかの店のレーザーライトが雲に反射して、曇天の夜空は奇妙な紫色に染まっていた。
 意を決して路地裏から一歩足を踏み出す。
 その右手に、奇妙な赤い痣が浮かびつつあることに気づかないまま。


 その日、少女の一日はまったくいつも通りだった。
 ありふれた普通の一日。高校生らしく授業を受け、部活に励み、放課後は仲のいい友人と割引クーポンを使いカラオケに行った。
 そんないつも通りが崩壊したのは友人たちと別れて駅に向かう途中、ふと駐車場に気を引かれたからだった。小さな月極駐車場が、なぜだか気になった少女はそこで足を止めた。
 十台も駐車できないような、小さな駐車場。両隣を雑居ビルに遮られ、場内の小さな照明だけが照らす屋根のないそこを、今日に限って何故か覗き込んでしまった。
「痛っ」
 急に右手に鈍く痛みが走る。薄明かりでもよく見えるよう目の高さに持ち上げた手の甲はぼんやりと赤くなっていた。
「……どっかぶつけたのかな?」
 思い返しても心当たりがない。まあいっか、と楽観的に片づけて、少女はもう一度何気なく駐車場の片隅を見る。小さく、でも確かに音がしたからだ。音の出所を確かめようと誰のものかも知らない、青い車の横に視線を向けた少女は、それを目にした瞬間ぞわ、と怖気を感じて動きを止めた。


 駐車された車が並ぶ間、その舗装の上に、人の足が横たわっている。
 ひとがたおれている、と思った瞬間に少女の足は助けようとそちらに向かって動いていた。
 それは彼女の持つ善性。人が持ち合わせ、そして時に失う、月の満ち欠けのような情動。
 ――きっとそれが、最後の分岐点だった。


 少女が一歩を踏み出すと、見えている光景の角度も変わる。
 靴程度しか見えていなかったその先が、見える。
 ぬちゃ、くちゅ、と粘着質な水音が聞こえた。
 東京の夜は暗がりであれど完全な闇ではなく、だから少女はその奥の『なにか』にも気がついた。
 気がついてしまった。
 倒れている人の向こう、頭の辺りにしゃがみこむようにして、ヒトの形をした黒い闇が蟠っていた。少女にはそうとしか形容できない。駐車場の照明にも、一台通り過ぎた車のライトにも照らしきれない黒い何かは、見ようによっては長い髪の人間にも見えた。
 けれど抱いた印象を遥かに上回る、人とは到底思えない違和感がある。ぞわぞわと背筋を這い上ってくる嫌悪感と、裏付けるような生臭い気配。絶対に相容れることはないと普段働かせることもない直感が示すおぞましい気配に、少女は思わず足を止め、その闇を凝視する。
 新宿御苑や代々木公園のような自然を優先した場所でもない限り、この街にはどこにでも光があり、たとえ路地だろうと地下だろうと暗くはあっても完全な闇は存在しない。
 なのにそこには闇があった。光が当たろうと何も映さないほどの黒が、のっぺりとしているのか刺々しいのかさえも判然としない闇が、少女に意識を向けた。目もない、口もない、なのに尋常ではない気配が指向性を持って少女を捉えたのを、肌を刺すような感覚によって教えられる。
 どっ、どっ、どっ、と心臓の鼓動が頭痛めいて頭の内で鳴り、嫌な予感に体が硬直する。見てはいけない、と頭の中で危険な予兆を嗅ぎ取ったまともな部分が叫ぶのに、指一本動かせない。
 心中にぶわりと恐怖が湧きあがり少女の思考が凍りついたちょうどその時、チチ、と切れかかった場内の照明が瞬いた。
「――っ!」
 瞬間、呪いが解けたように少女の時間が勢いよく動き出す。陸上部の少女は今まで培ってきた瞬発力で駐車場から弾かれるように駆けだした。
(何アレ、なにあれなにあれなにあれっ――!)
 がむしゃらに大通りへと足を向けた瞬間、駐車場で感じたおぞましい気配が背に刺さる。
(いる)
 確信した途端、危機を察知した本能が声にならない悲鳴を上げる。確かめようと思わず振り向いてしまいそうになる本能を理性で必死に押さえ、少女は逡巡した。
 右に行けば繁華街に繋がる、今も賑わう大通りへ出る。左へ行けば駅の反対方向、昼間は観光客が来るが夜は閑散とする川沿いの道へ出る。
「……ああ、もうっ!」
 どちらを取るかは決まった。自分の決意を声に出すと、まるで悪態にも似ていた。
 少女は左へと走る。人気のない、普段の自分が見たり聞いたりしたら「馬鹿?」と呆れて一言で切り捨てるような選択だった。
 それでも迷わなかった。交番に行っても、大通りで人に助けを求めても、アレはきっと駄目だ。
 直感が告げている。証拠に、全力で走って、スピードだって上げているのに背後からはずっと音がするのだ。ずる、ずる、と歩いているよりゆっくりな速度でついてくるそれからどうしても逃げられない。
 助けを求めてしまえば、あの月極駐車場に倒れていたような人が増える気がして仕方がなかった。身代わりを差し出せば助かるかもしれないと一瞬過ぎった考えもあったが、それは即座に切り捨てた。
 たとえ人を犠牲にして家に帰ったとしても、寝て次に目が覚めた時、少女はきっと誰かを踏み台にして生きる顛末に納得できないと思い、やり直したいと願う。その願い、つまるところ後悔は一生続いていくのだろう。なにせ自分のことだ。想像は容易い。
 昔から納得できないまま何かをするのは嫌いだった。どうせ選ぶなら、納得できる方がいいといつも思ってやってきた。
 それで一時的に後悔したって、納得できないままその後の日々を送るよりマシだ。
 大丈夫、こんな変なコト、しばらくしたら終わるはず。
 そう思って逃げて、逃げた先。

 ――予告もなく再び訪れた恐怖に今度こそ声も上げられなかった。

 路地裏にひとまず隠れ、なんとか気配から逃げた少女は高架下を疲労でふらふらになりながら歩いていた。大きな川にかかった橋を渡れば駅がある。そこから帰るつもりだったが、その直前で静かなばかりだった街の気配が変質した。
 周囲から音が遠ざかり、暖かい春の終わりだというのに奇妙に冷たい空気がまとわりつく。さっき必死に振り切ったはずのおぞましい気配が、もう一度少女をじっ、とどこかから見ていた。姿はないが、そう理解する。体の裏側を見られているような気持ち悪さがべとりとへばりついて取れない。じわじわと足先から悪寒が登り、少女の身体を犯していく。
 次いで生臭いような鉄錆のような形容しがたい臭いが強烈に鼻に突き刺さり、あまりの恐怖に気丈だった少女の心がついに折れ、その場にへたり込んでしまった。

――助けて
(……誰に?)

――助けて
(誰もいないよ)

――助けて!
(どうにもならないんだ、もう)

 本能が叫ぶ悲鳴にどこか遠くなった思考がぼんやりと諦めから否定を返し、少女は力なく頭を垂れる。
 まるで空気に質量が発生しているようだった。重たい気配が徐々に少女に近づいてくる。
 俯く少女の近くに空気から直接染み出してくるように闇が蟠った。
 完全な暗闇のない街中にあってさえ、それはどこまでも光を返さない闇でしかなかった。街は明るくとも、空にあって光るはずの月は曇天に隠れてどこにも見えない。

 照らすまではいかない薄く広がる人工の光が、ずるりずるりと這いずる何かを浮かび上がらせている。
 頭上に導きの光はなく、地を覆うような白けた明かりだけが、異常をその場に現わしている。
 月にもならない、埃で濁る拡散しきった光だけが少女を鈍く照らしている。

「……やだ」
 ついに眼前に近づいた闇が、ざわりと体を震わせる。ぼろぼろと崩れるように消えた闇の後に残るのは巨大な絡繰人形だった。遊女のような面をしたそれは、人にはない三対の腕を少女に向けて振りかざす。
 間近に迫る、終焉の予兆に少女は弾かれたように顔を上げた。途端に目に入った光景に本能が脳に向かって引き絞られるような恐ろしさを訴える。
 眼前の化け物がつるりと無機的なその面を、ぬらりと光る牙が並ぶぞっとする有機的な相貌へ変化させた瞬間、ついに恐怖が心中で閾値を越えて飽和した。
「いやだぁぁぁああああっ!」
 ぶつん、と少女の中で何かが切り替わる。頭の中で何かの回路が繋がるような感覚と、右手を灼く確かな熱と痛みに、目が覚めた心地がした。そうだ、ここでどうにかなってしまうとしても。
(何もしないで死ぬのは、嫌だ――!!)
 鞄の中から見つけておいた、ただ一つの武器であるハサミを化け物に向かって突き出す。
 些細な抵抗。鼠が虎に爪を立てる以下の、ささやかな反抗。
 なんの効果もない僅かの足掻きの刹那、少女の周囲に突然青い光が噴きあがった。時間にして数秒にも満たない、けれど召喚という儀式にとっては充分な時間。
「……えっ?」
 光が収まると少女の前にはいつの間にかひとりの男が立っていた。時代錯誤な暗い緑色の和装に、こちらも東京の街中では目にしない、浅草の祭りでさえ見ることのないしっかりした草履。
「――怪異か。ならば話は後にした方が良さそうだな」
 頭の後ろで束ねられた髪が動き、男が声を発した。見知らぬ横顔が振り返り、少女を安心させるように小さく頷いてみせる。
「では、参る」
 静かな声と共に男が軽く腰を落とす。直後、鋭く細い光が閃き、あれほど恐ろしかった化け物がまるでビニール人形のように容易く両断される。
 その白刃の軌跡は、晴れていた昨夜に何気なく見上げた空に浮かんでいた細くほそい繊月のよう。
(昨日の月が落ちてきた、みたい――)
 日本刀もろくに知らない少女は、男の研ぎ澄まされた剣閃をただ見たままに、そのように評したのだった。
 化け物が黒い灰に変わり、音もなく空気に消える。
 高架上を絶え間なく走る車、どこかの店から流れてくるかすかな音楽、それまで遠かった馴染み深い日常の音がラジオのチャンネルを開くように戻ってきて、少女は安心から大きく息を吐いた。
「貴殿。それは武器のつもりか? ……鋏とは、刃を重ね合わせて断ち切るものだ。そう閉じていては傷にもなるまい」
 男の指摘に突き出したままの手の先を見る。突き刺して怪我をしないように丸められた刃先と、ぴったり閉じられたままのハサミにようやく意識が向いた。確かにこれでは穴を開けられたとしてもテスト用紙がせいぜいだろう。俄かに羞恥芯が湧きあがってきて、慌てて震える手ごと後ろに隠した。
「だが、危機に立ち向かおうとする姿勢は良いと思うぞ。見上げた根性だ」
「ど、どうも……? ていうか、どちらさま……」
 未だへたり込んだ少女の問いに、腰に差した長物に手を置いて和装の男はふと笑ったようだった。
「俺か?俺はサーヴァントだ。……故に、まずは確かめねばならないな」
 偶然近くを自動車が走り、男と少女を束の間だけヘッドライトが激しく照らす。呆然とした少女と、穏やかに笑う男が高架を支える太い柱に影絵となって奇妙な姿を描いた。
「――問おう」
 日常の中、非日常が影のように形を成す。
「貴殿が、俺のマスターか」
 都会が形作る白けた明るい夜の中で、ひとつの運命が動き出した。


***


「じゃ、わたしちょっとコンビニに行ってくるので、そこにいてね」
「承知した」
 ん、と頷き此度の儀において宮本伊織のマスターとなった少女はコンビニなる店の中へと消えていった。伊織の上背より大きく、また澄み切った硝子扉の向こうに行ったマスターから意識を外さず、視線だけを周囲に向ける。通っていく人間が物珍しそうにちらちら視線を寄越すが、それに反応はしなかった。
 二刀は消している。マスター曰く「じゅーとーほー違反だって警察が来ちゃうから隠しといた方がいいよ」との助言があり、従った形だ。
(……なんと賑やかな時代だろうか)
 夜も更けてきたというのに、吉原もかくやと言わんばかりの鮮やかな賑わいが常らしい街の中、伊織は少しばかり眩暈のする心持ちだった。ありとあらゆるモノが混ざったような複雑な匂いは慣れるしかないが、それをマスターに告げれば総髪を揺らしながら首を傾げ「匂い?なんの?そこのカレー屋さんかな」とまったく気にしたことのない反応が返ってきたから、認識の乖離を感じずにはいられない。
(宵の口どころか夜半に女人がひとり歩いて咎められず、また危険も意識しないとは、平和な時代ではある)
 ふと意識に引っかかるものがあり、再度コンビニへ視線を向ければマスターが伊織を見ていた。目が合うと安心したように表情を緩め、背中を向けさっと奥へ消える。怪異に立ち向かえる胆力を先刻褒めたが、やはり荒事など知らぬ娘だ。ここに来る道すがら、ずっとその小さな手の震えが収まらなかったのを知っている。
 せめて見知った店の中で気分を切り替えることができればいいのだが、と黒い総髪のマスターを思い遣りつつ、伊織はひとり思考する。
 あの少女とパスは繋がっている。彼女の声無き必死の呼び声が己に届いたことも、理解している。
 ただ、なぜ自分がそれに応えたのか、現界してから伊織はずっと考えていた。
(この身は――術師。キャスター霊基だ。セイバーには成らなかった)
 天下の大剣豪に養子として迎えられたとは言え、伊織は単なる地方の領知に住み、家老として主君に仕えた一介の侍にすぎない。荒事の記憶もあるにはあるが、たかが地方の一戦だ。
 確かに英霊として座に刻まれた際にあらゆる道を辿った己自身を観た。中には剣を極めんとし、剣として死んだ己や、魔術を利用し剣へ活かさんとした者もいて、英霊と成る為全ての記録と合一した己はその縁から術師という枠を聖杯に嵌められたのだろうと推察する。
 聖杯戦争に参加する上で、ある程度の下駄は聖杯によって履かされている。だがそれでも足りないだろう。古今東西、世に名高く物語に謳われし英雄豪傑に武者でもない自分が並び立つとは到底思えない。
 だから、本来ならば召喚の呼び声になど応えなければよかったのだ。少しの間、言の葉を交わすうちにマスターたる彼女の資質は見た。心に宿る善性も。少女ならば、伊織がわざわざ立たずとも、我こそが力を貸さんと声を上げる英霊はごまんといるだろう。伊織自身も、ただの呼びかけには応じるつもりはない者として人理に刻まれていた、ような気がする。現界した今はやけにぼんやりとしているが、確か己はそう在ろうと決めたはずだ。
 なのにこうして英霊として地を踏んでいる理由。少女を助けるためか、
(あるいは。果たすべき目的のため――か)
 己の願望のために、少女を犠牲とする。それは余りにも信義に悖る行いだろう、と顎に手を置き伊織は唸った。
「あの、キャスター? どしたの大丈夫?」
 真新しい白い袋を手に、マスターが駆け寄ってきた。血の気が引いていた顔も随分と血色がよくなり、総髪だった髪はさらりと流されている。はいどうぞ、と渡されたのは柔らかい材質の瓶だった。瓶の腹に巻かれた名札らしいものには『ほうじ茶』と書かれている。
「これは」
「えっと、お礼……かな。今でもよくわかんないけど、助けてもらったのはホントだし。ごめんねこんな安いので」
「いや、忝い。マスターからの品ならば有り難く拝領しよう」
 伊織の言葉に、意味を掴みかねたのかぱちぱちと目を瞬かせたマスターは、白い袋から青い札が貼られた同じ形の瓶を取り出した。薄く白い液体が入ったそれの上部を捻ると、ぱきりと小さく音がして蓋が外れる。なるほど、と顔には出さず仕組みに感心していると、一気に飲み物を煽ったマスターが大きく息を吐いた。
「っあ~~~スポドリさいこー。生き返った気がするぅ……。はー……じゃあ、行こっか。まだ話すことあるって言ってたよね? マスターとかなんとか、わたし全然わかんないし」
「ああ。俺に解ることであればなんでも答えよう」
「その格好、どうにもならない? さっきの剣ぱぱっと片づけたみたいに」
「……すまん。霊体化はできるが、替えの着物はない」
「いや着物じゃなくてね……。うーん、なら公園にでも行くしかないかなあ。このまま歩いてたら警察の人に肩ポンされそう。うちに帰り遅くなるってメッセージ送っとこ」
 迷惑がかからぬよう霊体化についてさりげなくほのめかしてはみたが、やはり受理されないようだ。姿が見えないのはマスターをひどく不安にさせてしまうらしく、試した際は数分も持たず再度実体化を要請された。恐らく未だ先刻の恐怖体験が尾を引いているのだろう。
 ともあれここは土地に慣れた町民に従うのが上策と、伊織はさりげなくマスターの死角を庇うように立ち、彼女の後を追って歩き出した。
「ね。キャスターって言ったっけ。……それ、本名?」
「いや、違うな」
「だよね。見た目バリバリ日本人だし。時代劇の人みたいだし。これでマッツとかモーガンって言われたら逆にびっくりするもんね。やっぱり本当の名前は教えてくれないの?」
「すまないな。先刻も云ったが、真名というのは知られればそれ自体が弱点となるもの。故に、理由なくおいそれと晒す訳にはいかない」
「むぅ……」
「そう膨れるなマスター。呼び辛いならなんとでも好きに呼ぶといい。俺は構わん」
「あのね、そういうことじゃなくてさぁ……。まあいいけど……。ていうかね、わたしとしてはその呼び方もちょっと遠慮してほしいっていうか」
「ん?」
「気づいてない? さっきからマスターって呼ばれてなんか丁寧に扱われてるとうわなんのプレイしてんだろあの子って視線がわたしにめっちゃ来てんの。もうすっごいんだけど」
「……いや」
 確かに視線が向けられているのには気づいていた。しかし敵意も害意もなく、ただの好奇であったので放置していた。伊織は自分が現代に置いておよそ特異性の塊であることには気づいていたので、そんな人間を連れまわす女性は当然人目を惹くだろうと予想済だったのもある。
 流石にその物珍しげな視線についての主の認識と、それをここまで気にするのは予想外だった。
「だからせめて、名前呼んでくれるように自己紹介くらいはしたいなって。あとさっきのはね、助けてくれた人の名前くらいはさ、知りたいっていうのもあったんだけど」
「そうか……」
「あ、でも言いたくないならマジで無理しなくていいんだよほんと! これはわたしの自己満足的なアレだから! 人に名前を聞くんならそもそもわたしの方が先に名乗れってもんでしょう! わたしの名前くらい今のご時世調べたらどうせすぐわかるけどさ」
「そうなのか」
「そうなんです。そういうとこは嫌な世の中なのです」
 うんうんと頷いたマスターはこほんこほんと大仰に咳払いして足を止めた。静まり返った住宅街の街灯の下で、少女は伊織を見上げる。
「じゃあ、改めまして。なんかよくわかんないものからわたしを助けてくれて、ありがとう。――わたしの名前は、雪乃。宮本雪乃って言います」
 その大きな目に角度のせいか薄らと蒼みがかった色を見つけ、伊織は過日、己の傍らに添っていたひとの眼差しを思い出す。
 胸の中、最早確信に近い予感があった。
「ええと……よろしくお願い、します? どしたの?」
「あ、ああ。――時に、不躾な問いになるが。貴殿はその……先祖に、二刀を扱う武士はいなかっただろうか」
「なんとかの武士? えー……全然わかんない。日本史興味なくて」
「いやすまん、問いを変えよう。では、先祖に高名な人物が居たとかそういった聞き覚えはないだろうか。平たく云えば、そう、有名人だな」
 きょとんとした主は人差し指を顎に当て、目を閉じる。考え込んだ彼女はややあってぱちんと両手を打ち鳴らした。
「あっ! 小さい頃おばあちゃんちに偉い大学の先生とか言う人が家系図見せてくれって来たことある! 先祖になんか……ええと、なんか凄い有名人がいたとかで、名前は確か……ムサシ? そう、ムサシって言ってた!」
 はは、と意識せず笑声が漏れた。今まで悶々としていた疑惑、疑念が一挙に晴れる。
「武蔵。武蔵か。……成程。であれば確かに、誰をおいてもまず俺が出るのが筋と云うものか」
「知り合い?」
「知り合い、だな。ああ、とても良く知っているとも。武蔵――新免武蔵は我が師にして、養い親の名前だ。そしてこれは詫びになるが、先刻の言の葉を撤回しても構わないだろうか」
「ん? んん……なんかよくわかんないけど、どうぞ?」
「真名に関しては、確かに隠しておくのが上策だ。だが、貴殿にだけは伝えておくべきだと思う。改めて名乗ろう。俺はサーヴァント、クラスを術師……キャスターとして現界した者。そして真名は――宮本伊織と云う。以後よろしく頼む」
 マスターが大きな瞳をますます見開く。驚きに彩られた目が、恐怖ではなく驚愕に震える指が伊織に向けられた。お互いの使う言葉に若干の理解の隔たりはあれど、流石にそこは察したらしい。
「宮本……えっ、宮本? 私と同じ!? マジで?」
「そうだ」
「……ええと、じゃあ……もしかして、いやもしかしなくても……あなたがご先祖さま、だったり?」
「十中八九、そうだろうな。死して後に子孫に巡り会うとは数奇な運命もあるものだ」
 ええーっ!と住宅街に響き渡る少女の声を聞きながら納得と決意を静かに胸へと仕舞い込む。己が声に応えた理由は、思い悩む必要もない単純なものだったことに密やかに安堵する。そして同時にこれからの道程を思い、困難な道になるだろうと予測した。しかし退く気は微塵も無い。
(確かに険しい道ではあるが――ともあれ、俺が成すべき事は決まったな)
 聖杯に懸けるユメなど思いつかないとした、己の子孫。
 それは、奇しくも聖杯そのものに願いのない己と同じ。
 先程まで吐き散らかしていた弱音を残らず殺す。斬り捨てる。最早この身に弱気(じゃっき)など許されずと在り方を定め、雑念を排除した。
 令呪の宿った経緯からして聖杯戦争に何も分からず巻き込まれたらしい憐れなこどもに、伊織がしてやれることはただひとつだ。
(俺は――マスター、おまえを必ず、このいくさからあるべき日常へ返そう。呼び声に応えたのはその為だ)
 然して己の運命は定まった。ならば後は目的に向かい唯進むのみ。
 この夜を越え、必ずや朝陽の元へ主を送り届けよう。
 静かな篝火にも似た決意を内心に秘め、伊織は未だ賑々しく騒ぐ子孫を落ち着かせるべく口を開く。
 夜はまだ深まるばかりで、明けは見えない。
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