シュヴァルグランが自分の胸をトレーナーに押し付ける話


「『スキンシップで、胸を押し付けて、彼にアピールしちゃおう』……?」

 それは、たまたま手に取った雑誌に書かれていた文言だった。
 ヴィブロスが僕の部屋に置いていった、いかにも僕らの年代向けな、普段なら絶対読まないであろう女性誌。
 どんなものなんだろうと魔が差して、とりあえず開いて、出て来たページが『彼氏の喜ばせ方』だった。
 ぱたん、と本を閉じて、大きくため息をつく。

「まったく、ヴィブロスも、こんなのを読んで」

 まあ、実際の目当ては、表紙にでかでかと書かれている『セレブの最新トレンド特集』なのだろうけれど。
 僕は机の上にその雑誌を放り投げると、ベッドに寝転がって、天井を見上げる。
 胸を押し付けてアピール、とはいうものの、そんなに良いものなのだろうか。
 確かに男の人は、大きい胸が好きというイメージがあるけれど。

「……トレーナーさんも、胸を当てられたら、嬉しいのかな」

 ふと、脳裏に、僕のトレーナーさんの顔が浮かび上がる。
 どうしようもなかった僕を見出して、導いて、夢を一緒に追いかけてくれた、トレーナーさん。
 優しくて、頼りになって、格好良くて、たまに可愛い。

 そんな彼だって────当然、男の人なわけで。

 僕が、胸を押し付けたりしたら、喜んでくれるのだろうか。
 むにっ、と自身の胸を軽く持ち上げた。

「こんな脂肪の塊、邪魔だって、思っていたけど」

 気が付けば、ヴィブロスよりも姉さんよりも、大きくなっていた胸の膨らみ。
 走ることにおいてはなんのプラスにもならないし、悪目立ちしてしまうしで、良いことなんてなかった。
 でも、これでトレーナーさんに喜んでもらえるとしたら。

「……へへっ」

 無意識に、笑みが零れる。
 もしもそうならば、大きくなって良かったなと思える気がするのだ。


  ◇


 そんな、ある日のことだった。
 トレーニングを終えた後、シャワーを浴びて、着替えて、トレーナー室に戻って来た時。
 
「あの、戻りました……トレーナーさん?」

 トレーナーさんは、窓際を向いて、立ったままタブレットを見つめていた。
 僕が来たことにも気づかないほど集中して、穴が開きそうなほどの熱心な眼差しを向けている。
 あれは、僕のトレーニングについて考えている顔だ。
 僕のことを大切に想ってくれる嬉しさ半分、僕に気づかない寂しさ半分。
 複雑な心境のまま、トレーナーさんのことを待とうとして────ふと、気が付いた。

 今が、チャンスではないかと。

 トレーナーさんは今、隙だらけの背中を僕に晒している。
 だから、今からこっそり近づいて、後ろから胸を押し付けるように抱き着くのは容易なはず。
 彼から見られることもなく、一気に攻めることの出来る、絶好の機会。

「……っ」

 ごくりと、息を呑む。
 心臓は球場での応援よりもバクバクと、大きく鳴り響いていた。
 落ち着け、僕、これはトレーナーさんに喜んでもらうため、喜んでもらうためだから……!
 自分に言い聞かせながら、僕の足は一歩、また一歩とトレーナーさんに近づいていく。
 そして誘われるように、彼に触れる寸前の位置まで、辿り着いた。
 熱くなりすぎてくらくらする頭、五月蠅いくらいの鼓動、鼻先に感じるトレーナーさんの匂い。
 大きく深呼吸を一つ、両手を大きく開き、僕は意を決して一歩踏み込んだ。

「……シュヴァル?」
「~~~~っ!」

 全身をトレーナーさんの背中に押し付けて、手を前に回して、ぎゅっと抱き着く。
 僕の胸が、彼の背で形を変えるのを、ダイレクトに感じてしまう。
 なんだか全てが恥ずかしくなって、僕は隠れるように、その背中に顔を埋める。
 脳に一気に飛び込むのは、汗の匂いが混じった、爽やかなトレーナーさんの香り。

 ────あっこれ、ダメだ、神経が甘く痺れて、頭が、おかしくなりそう……っ!

 僕は最後の気力を振り絞って、ちらりと、潤んだ視界でトレーナーさんの様子を確認する。

「……シュヴァル、どうかした?」

 トレーナーさんは、穏やかで慈しむような笑顔で、僕のことを見つめていた。
 なんだか、僕が想定していた反応とは、何か、違うような。
 すんと、頭の温度が下がり、冷静になってしまう。
 確かに、確かにトレーナーさんは嬉しそうな顔をしている。
 けれどそれは、なかなか懐いてくれなかった猫が甘えに来てくれたとか、そういう感じだった。

「トッ、トレーナーさんは、僕にこうされて、嬉しくないんですか……?」
「キミが素直に甘えてくれるようなってくれたのは、とても嬉しく思っているよ」
「……そっ、そうなんですか……そっか……へへっ」

 ────いや、へへっ、じゃないだろう僕。
 これは実質、僕の身体に女の子としての魅力がない、と言われていることと同義なんだぞ。
 何とか我に返ると、もやもやした気持ちが、胸の中に溜まっていく。
 ……いや、これは背中だから、ダメなんじゃないだろうか。
 背中の耐久力は正面の七倍って話を聞いたことがあるし、正面からならば、ちゃんと通じるはず……っ!

「……トレーナーさん」
「ん?」
「…………前から、抱き締めてもらっても、良いですか?」
「……今日だけ、だからね?」

 トレーナーさんは困ったような声色でそう言ってくれた。
 僕がそっと離れると、トレーナーさんはくるりと反転して、正面から向き直った。
 彼の緩んだ表情が、彼のほっそりとした身体つきが、彼の爽やかな匂いが、僕を誘う。
 ふらふらと一歩、また一歩と近づいて、ぽすんと頭から彼の胸に飛び込む。
 そして彼の背中に手を回し、僕の胸を押し付け────ようとして、気づく、気づいてしまう。

 ────トレーナーさんの胸って、意外と筋肉質で、逞しくて、大きいんだ……♪

 トレーナーさんは細身で、筋肉の薄い、柔らかい身体をしていると思っていた。
 でもそれは引き締まっているだけで、厚い筋肉のある、固い、男の人の身体を、トレーナーさんは持っていた。
 それと、匂いが、とても強い。
 汗臭くって、それでいて爽やかで、でも男らしい匂いが、とても濃い。
 嫌じゃ、ないけど。

「……すぅ……んんっ」
「……シュヴァル?」

 大きく息を吸い込んで、トレーナーさんを堪能すると、びくりと反応してしまう。
 耳は忙しなくピコピコと動き、尻尾はぶんぶんと激しく揺れ動き、僕はそれを抑えられない。
 身体はすり合わせるように勝手に身動ぎしてしまい、トレーナーさんはそれを心配そうに見つめた。
 トレーナーさんを喜ばせるどころか、心配させている。
 むしろ、僕の方が、喜んでしまっている。
 違う、まだ終わってない、いつか、姉さんだって言っていたじゃないか。

「顔が赤いし、目もとろんとしているよ、横になって休んだ方が良いんじゃないか?」
「って……ない……」
「えっ?」
「まだ……終わってない……」
「そもそも何が始まっていたんだ?」
「身体を離すまではッ……まだッ……負けてない……ッからァ~~……♡」
「何の話!?」

 僕はそのまま、意識が飛ぶまで、トレーナーさんにくっつき続けた。
 ……正気に戻った後、三日間ほどまともにトレーナーさんの顔が見れなくなったのは、また別の話。
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