タキオンがイヤホンで音楽を聴く話


「君がイヤホンを着けているとは珍しいね」

黒鹿毛の耳がぴくりと揺れ、ソファに座っていたカフェが振り返る。そして怪訝な表情でこちらを睨みつけた。

「……なんですか」

 心外だった。私は彼女の飲むコーヒーに薬を盛ったり、被験体になるよう持ちかけたりなんてことはまだしていない。ただ、イヤホンを付けた彼女を見て独り言を呟いただけだ。睨まれる謂れは全くないのだ。そんな考えが浮かんだがそっと元の奥底に沈め、疼いた好奇心を満たすために彼女へ一つお願いをした。

「カフェ。どんな曲を聴いているのか、私にも教えてくれないかい?」


 そう言って私は手を差し出す。この場合の「教えて」とは「聴かせて」と同義であり、一種の賭けだった。
 というのも彼女は私を警戒しているのか、私物を触らせることを往々に拒否する。また、私から渡された物を触ることもまるで爆発物を扱うかのように行う。だから私は、今回のこれも膠も無く断られるのだろう、と予想していた。

「……どうぞ」

 しかし彼女は、渋々といった様子ながらも着けていたイヤホンの一方を外し、差し出された手に乗せた。
 だから呆気に取られる。カフェとはそれなりに長い付き合いだと思っているが、こういうところは今だ慣れないままだ。

「ありがとう。では────」


 彼女の気まぐれに感謝してイヤホンを耳に挿す。
 すると、女性の落ち着いた歌声が耳に流れ込む。ゆったりとしたテンポと、柔らかく暖かい陽射しを思わせるメロディ。
 懐古の念が、既視感と共に胸へ立ち込める。はて、自分はこの曲を聞いたことがあっただろうか。

 湧いた思考の糸を張り巡らし、側頭葉から記憶をたぐり寄せる。

 深く、遠く、埋め固められた幼少の井戸。そこから汲み上げられる大きな手の温もり。

 いつかの感覚と共に、それは再び姿を現す。





───そうだ、母が歌ってくれたあの子守唄。





「…………あなたでもそんな顔ができるんですね」

 その言葉を皮切りに、意識が現実へ戻される。どうやら聴き耽っていたようだ。
 もう少しこの歌を聴いていたいと思うも束の間、私は聞き捨てならない言葉の意味を彼女に問いかける。

「……そのままの意味ですよ」

 カフェはそう言って開かれた窓に顔を向け、私も釣られて振り向く。
 外では薄青い月が、粛々と穏やかに夜空を照らしていた。
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