事前に伊織と正雪に面識があったら3


 次の日も俺は孔明堂に訪れていた。昨日の件を話したら、カヤがもう一回行くべきだと目を輝かせた。授業内容と講師が女人であった事を話しただけなのだが……。
 まったくなにを邪推したかは知らないが、残念ながらカヤにとってそう面白い話でもあるまい。
「あと、これ先生によろしくって渡してね」
 だが、お土産を持たされた手前行かざる得なくなった。カヤめ、最近俺の言い訳を手折る事に長けてきている。
 道中、助の進の依頼をこなして、再度神田へ。
「……ん? これは」
 屯っていたごろつきを倒した後に気付く。手の甲の痣が濃くなっている。これでは何かの模様のようだ。
 昨日と同様、塾に入る。正雪は俺を見て、酷く悲しそうな顔をした。一瞬ではあったが、その泣きそうな顔を確かに見た。
 けれど、授業は順調に進んだ。先ほどの事は気のせいだと思えるくらい。何事もなかった。
「——伊織殿」
 授業後、静かな声で正雪に呼び止められる。
 窓から夕焼けが見えた。もう時期に夜が来る。
「あぁ、丁度良かった」
「丁度良い? なにが——」
 正雪の目が鋭くなる。
「あ、いや、妹から差し入れだ。……決して下心がある訳ではない」
 恐らくはそう捉えられたのだと判断した。正雪は麗人だ。授業前にもそのように声を掛ける塾生を見た。
「——あ? 妹御? 伊織殿には妹御がいるのか?」
「あぁ。俺には過ぎた妹だがな」
「……そうか。そうだな。普通は家族がいるものだな……」
 痛々しいまでに正雪は顔を歪めた。
「………」
「正雪?」
「——わかっている」
 正雪はなにかに応えるようにそう呟く。けれど、ここには俺と正雪以外はいない。
「伊織殿」
 真正面から正雪は俺を見据えた。宝玉のような翠色。
「すまない。だが、せめて、腕一本で日常に返す」
 正雪は刀を抜いた。意識は困惑しているが、俺の身体は咄嗟に刀に手をかけ——、

 正雪の身体を抱いて、横に飛んだ。

 瞬間、凄まじい轟音が響いた。黄昏に染まっていた日の光が、部屋を染め上げる。先ほどまで俺たちがいたところは屋根ごと落ちて、崩壊している。そして、屋根ごと降ってきたのは黒づくめの男。
 パラパラと落ちてくる破片を払い退けて、身体を起こす。その下には正雪。
「伊織殿、……何故? 私は、貴殿を……」
「済まない。話は後だ」
 正雪を背に二刀を構える。
「よう。召喚前の奴を抱き込むつもりか?」
「何の事だ?」
「てめぇじゃねぇよ。ランサー!」
 声と同時に目の前を黒い炎は舞い上がった。反射的に身を引いたが、前髪がチリチリと焦げた。
 そして続け様に、炎纏った白髪の女が躍り出た。見目は美しいがその手にする長物は無骨そのもの。振るわれる長物——槍は刀を容易く弾くどころか、俺の身体まで投げ飛ばす。
「ぐはっ……!」
 壁に叩きつけられた肺腑を強打する。あの槍に貫かれないだけマシであるが、そう何度も保つまい。
 打ち合うにしても射程と炎が厄介だ。この部屋の中ではまともに立ち回れない。
 人間業ではない。この炎もそうだ。普通の技ではない。
 女は無表情のまま、俺を殺すだろう。

 俺はまだ——、

「伊織殿っ!」
 正雪は悲鳴のような声をあげる。

 ——死ぬ訳にはいかない!

 俺の決意に応えるように手の甲が輝いた。

「——察するに、きみが私の喚び人か」

 冷めるような月明かりの下、彼もしくは彼女は、淡々とした声でそう言った。
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