😱💦…「フランシスコ・ザビエル」は、かなりヤバイ奴…


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ザビエルは偉人?それとも殺人鬼? ザビエル公園。大阪府堺市 | 東洋精器工業株式会社
https://www.toyoseikico.co.jp/blog/3299/
カトリックの布教活動を行ったザビエルは、日本では偉人になっています。しかし、ザビエルには殺人鬼という恐ろしい顔がありました。インドのゴアで改宗ユダヤ人を次々に火あぶりにしました。


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隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン
https://www.fben.jp/bookcolumn/2020/03/post_6073.php
日本での布教に生涯を捧げたポルトガル人イエズス会宣教師であるルイス・デ・アルメイダは、実は隠れユダヤ教徒「マラーノ」の家系に属していた。知りませんでした…。
隠れキリシタンを導いたイエズス会宣教師のなかに隠れユダヤ教徒(マラーノ)がいた…


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ユダヤ28~ザビエルと日本人女性の奴隷売買 - ほそかわ・かずひこの BLOG
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/fb5671d14a8186352752f36f1e076892

●ザビエルと日本人女性の奴隷売買
 
15~16世紀の世界では、ヨーロッパ文明のポルトガル、スペインが、世界を二分する勢いだった。
これらのカトリック教国は強力な王権のもとに海のルートを開拓し、各地に植民地を拡大した。
そして各地の産品を運び、大きな富を獲得していた。
この二国によって、「近代世界システム」が形成される地理的・経済的条件が作り出された。

ポルトガル・スペインの植民地政策は、キリスト教の宣教と結びついていた。
その方法は、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送って征服し、植民地化したのである。
そこにもユダヤ人の関与があった。
 
日本には、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが渡来した。
ザビエルは、ポルトガル系の改宗ユダヤ人だった。
単に宣教師であるだけでなく、日本との貿易の開拓者でもあった。
ザビエル渡来の3年後に、ルイス・デ・アルメイダが来たが、これも改宗ユダヤ人で、ポルトガルを出て各地の仲介貿易で巨額の富を築き上げていた。
日本に来ると、イエズス会の神父となり、キリスト教の布教をした。
その活動は、植民地支配への階梯だったと見られる。
 
アルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいた。
徳富蘇峰は、『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録を載せた。
「キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし」と書いている。
キリシタン大名が送ったローマ法王のもとに派遣した天正少年使節団は、次のように報告している。
「行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない」と。
火薬1樽で50人の娘が売られたと伝えられる。
 
豊臣秀吉は宣教師の活動の危険性をいち早く見抜き、主君の織田信長に注意を促した。
秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。
従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じた。
 
徳川幕府は、キリスト教の宣教を防ぐため、いわゆる鎖国政策を取った。
清の他にオランダだけと交易したのは、オランダはプロテスタント国家であり、キリスト教の布教を行わずに経済的利益を求めたからである。
 
数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた。
この歴史的蛮行は、白人キリスト教徒が行っただけでなく、改宗ユダヤ人が加わっていたのである。

●東ヨーロッパ等への移動

 十字軍以後のヨーロッパでのユダヤ人迫害の波は、ユダヤ人の一部を東へと追い立てた。13世紀末から16世紀にかけて、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン等の西欧諸国でユダヤ人追放が続いたが、彼らの多くは発達の遅れていた東ヨーロッパへ向かった。その結果、16世紀には、西方キリスト教圏でのユダヤ人社会の中心は東ヨーロッパに移った。

 とりわけポーランドは、ユダヤ人にとってヨーロッパで最も安全な国と見なされるようになり、アシュケナジム系ユダヤ人の中心地帯となった。ユダヤ人の高度な知識と技能、国際的なビジネスネットワークに目を付けたポーランドの王や貴族は、アシュケナジムを彼らの領地へ招いた。ユダヤ人はこうした王侯貴族に管理人あるいは代理人として仕え、彼らの代わりに領地に住み、その経営にあたった。

 ポーランドをはじめとする東ヨーロッパは、西ヨーロッパ各地で迫害を受け、追放されたユダヤ人が大挙して移住・定着した場所だった。その結果、中世以後20世紀前半まで、東ヨーロッパがアシュケナジム系の文化の中心となった。

 西ヨーロッパでは、ユダヤ人はキリスト教に改宗した者も、つねにキリスト教徒から疑われ、多くの新キリスト教徒が虐殺された。そのため、彼らは安住の地を求めて世界各地をさまよった。その行き先は、イスラーム教圏や北米や中南米等へと広がった。

●オスマン帝国はユダヤ人を迎え入れた

 ユダヤ人の一部は、当時イスラーム文明の中核国家だったオスマン帝国に向かった。ローマ帝国の分裂、西ローマ帝国の滅亡後、東ローマ帝国すなわちビザンチン帝国は、ローマ帝国の正統を維持していた。しかし、1299年に建国されたオスマン帝国によって、1453年に滅ぼされた。

 オスマン帝国は、その後、中東から北アフリカの大部分を支配下に置き、キリスト教諸文明の強力な対抗者として繁栄した。旧ビザンチン帝国のギリシャ語を話すユダヤ人を取り込み、また大部分がアラビア語を話す中東のユダヤ人社会を包含した。15世紀末、スペイン・ポルトガルからユダヤ人が追放されると、彼らを温かく受け入れた。

 オスマン帝国は、ヨーロッパ文明より軍事技術や農業技術では優れていたが、商業・貿易・法律的知識では劣っていた。スルタンたちにとって、これらすべてに優れているイベリア半島からのユダヤ人移住者は願ってもない人材だった。

 裕福で国際感覚に優れたセファルディム系ユダヤ人は、地中海を舞台に活躍し、スペイン、ポルトガル、イタリア、オランダあるいはフランスに在住するマラノたちとも協力し、貿易や外交に携わった。ユダヤ人はレヴァント地方、エーゲ海、アドリア海の至るところで貿易を営んでいた。ユダヤ商人の乗っていない商船はほとんど見当たらないほどだった。彼らの言語能力や国際的な人脈は、オスマン帝国にとって非常に有益な存在だった。

 ユダヤ人は、帝国の保護を受けるとともに、帝国の発展に忠実に努めた。16世紀半ばまでには、多くのユダヤ人が医者、財政家、外交官、政治家として活躍し、帝国の高官となる者もあった。

■追記
 本項を含む拙稿「ユダヤ的価値観の超克」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion12-4.htm

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