夢を泳ぐ


クラシックの登竜門。最終便ともいう。3月の中頃からの記憶はとても色濃く鮮明だ。
素直になれない喜びと、直面せざるを得ない苦しみが何度も胸を直撃した。

「コーヒーって。そんなにナーバスになってたのかしら。」
「『苦い』から?そんな自罰的な飲み物じゃないですよ、コーヒーは」
そうはいっても、顔をしかめながらそれを飲み込む。
香りは好きだ。苦いのももちろん。
ただ、フルーティーでは済まされない、棘のある酸味が舌を突き刺す。これだから安物は。

「さては」
ソーサーなんてめったに使わないので、置く加減がわからない。ふいに鋭い音を立ててしまい、何か口にするのをはばかるべき場面ですら
こう、口を突いて出た。
「ミドリさんは私のこと嫌いですね。」
「なんだかただでさえこじれていた話がさらに変な方向に向かっている気がしますわ…?」

「まあ、あっという間だった、よね。」

3月10日、弥生賞。
逃げをノープレッシャーで逃がしたくないが、仕掛けるタイミングは有利に持っていきたい第二集団の3人の戦い。
どれだけ歩度をずらしても食らいつかれて前を渡してくれない上に、ブラフで前に出したタイミングを逆用されて一瞬の先頭集団の雲の揺らぎを突き刺すことができず、やむなく後方に回避して直線勝負。
9着。勝ちウマ娘は飛び出したクイーンカード。2着はヒーローサイン。

3月16日、ペガサスジャンプステークス。
楽々と前を先行させていたはずだった。飛び方に粗があったとはいえ積極的に前に突っ込んで緩い飛び方を咎めようとしていた。
特別難しいこともしていないし、特別気負って負けたわけでもない。
負けに不思議の負けなしとは言うが、とても不思議な敗着だった。
4着。勝ちウマ娘はゴクラクユメミドリ。2着がカチドキシャウト。

3月23日、若葉ステークス。
マイルで太刀打ちができない自分にとっては、実質の最終便。
悲愴が、貫いた。

「テメェという女は何でもできる、結局10000しか走れない私という女とは違う」
「ああっ……私という女にベッタリついてくるテメェという女に」
「勝ちたいんだよっ!!勝たせろぉっ!!!」

ライバルが、いた。
「コンパスガイド」。大学生ウマ娘部門のハーフマラソン記録保持者。
ハーフマラソン……いや、10km以上の距離を「競争」の目的で走る競技人口は、典型男女のそれに遠く及ばない。
限られたライバルと、強固に結ばれた信頼関係の下で争う。
……年齢の違いもあろうが、たった1度を除いて先着することは叶わなかった。
当然、持ちタイムを塗り替えることもなく。一応自分もライバルとして数えられてはいるが、図抜けている相手だった。
ただし、10000m、つまりより距離が短く、陸上競技用トラックという厳しいカーブで原則を余儀なくされる環境においては、正面からぶつかる相手だった。
つまり、やること、成すこと。
すべては、彼女に向けてぶつけていたものだった。
ほかにもライバルはいるのに、強いライバルがいるのに、彼女は常に一番に私の名を挙げてはこう呼んでくれたものだ。
「あの子は大化けしますよ。」「いつ"覚醒"されて襲ってくるか堪ったものじゃない。」

恵まれていた。
初めて気が付いたのだ。

『あらあら凄い気迫』
『でも、気迫だけじゃレースは勝てませんから〜』

長距離を、ステイヤーを、いや、ステイヤーを超える「エンデュランス・レーサー」を標榜して門を叩いて、それはそれは注目された。
ライバルには、今までも恵まれていた。
でも、でも。
柵の中と外で一つだけ違いがあったとすれば、全霊を賭して戦う相手が、そのすべてを受け止めてくれていたことだろう。
数日前までは、柵の中にはそんな相手はいなかった。「独自路線」。無茶なマニューバーですべてを置いてけぼりにして、一人落ち着ける場所を見つけてしまっていた。
トラックに、ロードに、「上位互換」はいた。
待ち望んでいた、怖れと共に。芝を這う臆病な勇者の目の前に、「完全上位互換」候補が出てきた。

「……いやぁ、怖いです。」
「あら……随分夢見が悪いのね。」
全霊を傾けても、本質的なところで届かない。
あれほど熱くはならなかっただろう、もしも彼女が「長距離三冠」なら、「クラシック三冠」なら。
どれだけ望んでも、1600mへの挑戦権は得られない。

そう、それで、やっと気が付いたのだ。
コンパスガイドに、挑戦権は残されていない。私という女の牙城に手を突っ込んで、砂の上に立っていたそれを幾度となく崩してきた彼女の影はない。
セイリングデイズも、ヘイローオブユーも、ブランミストラルにミスターエルも。
"同じこと"はできない。

「逃げた。」「私という女は裏切ってしまったんです。コンパスガイドという盟友を、名バを。」
もくもくと、コーヒーカップから沸き立つ幻影を揺らしながら続ける。
「彼女の手の届かないところに行ってしまった。」
「東京マラソンで和解はしました。だけどもその溝は深い。」
「今更、あなたのレースを見て思い出してしまったんです。」
「……『マイルに逃げないで』って、言いたくなって。」
「『よそ見しないで』って、思っちゃって。」
「どんな気持ちなんでしょうか。自らのすべてをぶつけ、なお手の届かないところでも戦う相手を『ライバル』と認めるのは。」
悪夢にどっぷりじゃないですか、と静かに笑うゴクラクユメミドリに、言の葉の先がもたれかかる。とんだ明晰夢だよ。

「若葉ステークス。あの日、貴女に見てはいけない影を見てしまった。」
「パス子はここには来れない。それはもどかしいだろうと。彼女ならどうしただろうかと。」
胡蝶が静かにカップを揺らす。ええ、ええ。
「もう大丈夫。ミドリさんはミドリさんです。」

「……まったく。」
やっと、俗世間的な言葉を発してくれた。疑いの目が色濃かったが、それすら飲み込んでしまえるのだからこの御仁には魔力を感じるのだ。
「妬いてしまいましたけど、安心しました。」
はぁ。冷めたコーヒーを飲み干してなお電波塔は呆ける。
はぁ。
「アノ顔、しばらくは私にだけ見せてください。」
「溺れそうな顔。」
これはあくまで明晰夢だ。自ずからのめり込んだ夢で、その始末は自分次第。
やっと、幻影が解けてめくるめく"悪夢"とやらに出会えた。目覚めるにしろ、あの時のようにもうひと時抱きしめていたい。

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