春の嵐


 ライムイエローのスマホをぺこぺこ叩き、ベッドへと放る。
 それからクシとドライヤーを拾いあげて、バスタオルを巻いたまま、カゲローは鏡台に座った。

 のどかな春先の午後。いつもは、こんな時間に風呂なんて使わない。
 しかし、静けさの後には嵐が来る。次に風呂にありつける日が遠ざかることを危惧して、この時期は早めに入浴を済ましておくのだ。

 ドライヤーの熱風にあおられながら、カゲローは急に言い出した。

「ヤッベェ……唐突に、しょう油ラーメンが食べたくなった」

 言い出したら即・行動。湯上がりの肌もそのままに、下着とキャミソールを身につけて、適当なジャケットを引っ張ってくる。

 首元や手首や足首に保護用のイガイガ毛をまいて、胸に紡錘形のボディバッグをさげ、スマホと財布を持ったら、カゲローのお出かけスタイルは完成だ。

「外は……ま、大丈夫でしょ。多分」

 窓から外を見ると、少しのチリ風が見られる程度で、あとは何の変哲もない穏やかな森の景色である。

 後ろ髪を両手で払うと、後頭部から伸びおりたオーラの翅(はね)がハルハルと揺れる。

「いってきまーす」

 ドアを開ける時、なんの気もなしに、そう言った。
 別に誰が残るわけでも、いつもの習慣というわけでもない。ただ、何となく言ったのだ。

 ねぐらにしてる木のウロから出てくると、表札にしている木の板がブッ飛んでいる。
 枝から落ちてなくてよかった。わざわざ木のふもとまで降りて、また家に戻るのも面倒だ。

 木の板のオモテをシッカリ向けて、木の板ドアにかけてやる。近く嵐で飛ばないように、リン粉をはいて接着した。

 アミー=メィ。表札に書かれた自分の名字を確かめると、いよいよカゲローは枝の先端へと歩き出す。
 歩く度にハルハルと揺れるオーラの翅が、透明な脈々模様を、次第にライムイエローにひからせた。

 枝の先へと近付くうちに、カゲローは何となく走り始める。
 別に必要なことじゃない。これも気分だ。

 ダイブ。太広い枝から、つま先が離れ、少女の細い肢体が宙を舞う。
 ひかった翅がバササと開き、明るいレモンイエローの髪が風になびく。

 カゲローの顔がほころんだ。空を切り裂き、風を全身に浴びる、この感覚がカゲローは好きだ。

 森のなかを飛び急ぎ、ウロ向かいの小川を目指していく。
 目標のラーメンは当然、『るり星』のやつだ。

「よう、カゲロー! そんなに急いでドコ行くんだ!」
「うん?」

 小川へとさしかかる頃、地上の草っ原から声がかかる。目をやると、そいつはシカヅノの親分だった。

「あんた達かあ。何、また相撲? もうすぐ嵐が来るってのに」
「だからこそ、だろうが! 嵐の前のひと勝負、漢の血が騒ぐぜ」

 キィキィと音を立てながら、シカヅノの親分が言った。
 湾曲して、とげとげしたアゴが唸る。

「どうだ、カゲロー。お前もやるか? 今日という今日は、負けねぇぞ」
「え~~っ。どうしよっかな~~……嵐も近いし!」

 腕を組み、にやけ流し目で言うカゲロー。
 しばらくして、土俵代わりの草原にて連勝記録を更新し続ける彼女へ、シカヅノの若い衆がアゴを唸らせ飛びかかった!

「ウオ~! 新必殺、森の春溶け雪なだれ!」
「何のっ! 翅闘術"くらましリン粉"!」

 怒涛の勢いでアゴのラッシュを仕掛ける若い衆に、カゲローはリン粉の煙幕を吹きかける。

「わぁ! み、見えないよう!」
「スキあり! カゲロー必殺、からす投げ! おおおおっ」

 立ち込めるリン粉の煙へと突撃、若い衆の影を掴むと、カゲローは翅を開いて一気に急上昇。
 シカヅノ達が見上げるほどに高くまで飛ぶと、クワガタを抱えたまま身をよじり、回転。遠心力の勢いつけて、小川へ向かってブン投げた。

 ボシャーン! アップ、アップ。
 若い衆が両手を突き上げ、シカヅノ達が救助に向かう。

 カゲローが地上に降りてくると、びしょ濡れの若い衆がタオルを片手に、小さくうなった。

「ハヒ~! まいった、まいった。おれの負けだ」
「ようし、カゲロー。次はオレと……」

 ズイ、とアゴを突き出す親分に、くのいちの格好をした森の民が近付いてくる。
 ノコギリ・シカヅノ連合団の若きオニワ番、フシ奈々である。

「親分、嵐が来る。もう戻らないと」
「何? クッ……ノコヅノの親分は嵐が来ようと関係ねぇ、と言いたいとこだが。若い奴らが飛ばされてもな……」

 少し迷った様子を見せて、それから親分はカゲローに向き直った。

「また来いよ! ムシのオレ達と張り合える森の民なんて、お前ぐらいなんだからな」
「すまないな、カゲロー。時間があれば、また親分と遊んでやってほしい」

 ハンケチを手に、涙で別れるノコヅノ団。カゲローは笑顔で手を振ってやり、小川へ向かって飛び立った。

 穏やかな小川のせせらぎを後ろに越えて、ついにカゲローは川向こうの街へと到着する。
 足もとに草が生い茂り、高層樹木がいくつも立ち並ぶ大都会だ。

「やあ、いつもは賑やかな街だけど。さすがに嵐の前は閑散としてるな……ははは」

 本来なら行き交うムシや森の民で溢れかえる都会なだけに、広い往来を我がもの顔で闊歩するのは気分がいい。
 いくつもの戸締まりした1番ウロに挟まれて、カゲローは草原のジュウタンに踏み出した。

「……ん?」

 いくらか歩いた頃、奇妙なガクつき音が聞こえた気がして、はたとカゲロー立ち止まる。
 まさか、嵐が? ありえない。それなら、こんな程度の音で済むはずがない。

 血の気も引いて、辺りを見回す。
 すると、往来の向こうからバタバタと音を立てて、鋼鉄のバッタがやって来た。

「マジかよ……!」
「食料ヨコセ~ッ。ハァ、ハァ……」
「先触れか。年々、メンツがおかしくなるな」

 嵐の前には、たまにある。
 気の急いた何匹かが、弱って、どこかに顔を出すのだ。

 もちろん、弱っていようと嵐は嵐。
 見かけたムシや森の民は、通報あるいは処理が義務づけられており、間違って補給や保護などしようものなら罪に問われるほどのトラブルなのである。

「マジかぁ~……見逃してくれないかな。ラーメン食べに来たんだよ」
「食料、肉、にく! ニク……」

 ぼやきながらも拳を握り、腰を少し落としてカゲローは構えた。
 クワガタ達には使わない、本気の翅闘術の構えだ。

「食にく、よこセェエエエ!」
「遅いっ」

 ヨダレをほとばしらせ、キバむき出しに跳びかかる鋼鉄バッタ。
 いかにバッタといえども、普通の迷い先触れは疲労の極致。本気のカゲローの速さをとらえられるものではなかった。

 襲ったのだから、口に挟まるハズの肉が無く、アレと首をかしげるバッタ。
 その鋼鉄の横面に、カゲローの肘鉄が突き刺さる。

「ガァアアアッ!?」
「翅闘術"ムシ爪"!」

 続いて、空中ソバット・キック。いずれも鋼の斬撃音を伴い、バッタの装甲が裂かれ、紫オイルの血が噴き上がった。

「アギャあああああす!」
「翅闘術、"リン粉けだま"!」

 遠く吹き飛ばされ、コンビニの木へバッタが激突する。即座にカゲローは追い打ちを放った。

 黄リンの粉をおお玉にまとめ、バッタへと無造作に投げつける。
 当然、バッタは起き上がりざまにリン粉の玉へ噛みついた。

「くいものォ──ッ!」
「……砕!」
「くいもッ、ウギャァアアア!」

 大爆発!
 黄リンは空気の温度に触れるだけでも、強力な発火を起こすのだ。
 もはや勝負はついた。背を向けて、歩き出すカゲローへ、

「食わせロ、食いもんンンン~!」

 ──爆炎を突っ切り、バッタがヨダレ牙で躍りかかった。
 振り向きもせず、カゲローが言う。

「──翅闘術、」

 鋼鉄のバッタの胴体が、見えない杭に貫かれる。
 何が起こったのか分からない顔のバッタには、杭の切っ先が最初に来たのが、先にカゲローに蹴られた位置だと、理解することもなかった。

「──あエッ?」
「"ムシ牙"」
「ウゲッ。ぐあ~!」

 ガシャン! 食いもん、よこせ。食いも、ん。
 無機質な断末魔を背後に、目もくれずカゲローは歩を進める。今日はラーメンを食べに来たのだ。

 少しばかり歩いたところ、まだ閉まっていない自動ドアの1番ウロを見つける。
 ついている。カゲローは一目散に駆けつけ、ガラスのドアへ飛びついた。

 ギリギリセーフだ。カゲローがウロへ入ると同時に、警報音が鳴ってシャッターが閉まり始める。
 嵐は、すぐそこまで来てるようだ。カゲローは、よく磨かれたモールの床へと足を踏み出した。

「それにしても、森は数年で形を変えるな……。ウロのなかにショッピング・モールがある景色に、未だ慣れん!」

 無人の食品売り場とドーナツ・チェーン店を素通りし、ついでにアクセサリー・ショップのキリン・シャッターを見物していく。

 いつもと違うモールの姿に、不謹慎ながらワクワク気分。

 「おやすみダヨ!」とパフェ片手にサングラスをかけたキリンのペイントに見送られ、カゲローは1番ウロすみっこのラーメン店の前まで来た。

 『らあめん るり星』。気取った文体の看板の真下、食品サンプルが並ぶガラスケース横の入り口を、カゲローは声をかけながら入っていく。

「こんにちはー」
「へイらっしゃイ! って、何ダ。カゲローカ」

 レジ横、座ってスマホを弄っていた森の民がパッと笑顔を浮かべ立ち上がり、それからまたすぐにシケた面に戻り椅子に座った。

 当たり前だが、店内に客は一人も見かけない。
 嵐が来て、帰れなくなりそうなのにラーメンを食べに来るバカなんて、いるはずもない。看板娘のテントウムシも、あの元気な声を聞かせてくれることなく、普通に欠勤だ。

「閉まってるヨ」
「でも開いてる」
「カゲローにハ閉めてんダ。お前、まさカ泊まるとカ言い出さないよナ?」

 店主のキリ子がゲンナリした。
 彼女とはプライベートな付き合いが何度かあり、その度にカゲローはラーメン以外の借りをたくさん作っているのだ。

 やれ、ジュース奢ってくれだの。やれ、メシ奢ってくれだの。ドライブに誘った挙げ句、危うく事故りかけたり、シャンプーを忘れたから借りる、キリ子は寝相が悪いからソファをくれ……などなど、悪事の枚挙にいとまがない。

「キリ子~。今晩、泊めて♡」
「分かってたヨ、クソ! 布団、薄いのしカ無いからナ。注文ハ?」
「炒飯、ラーメンセットで。餃子もお願い」

 カウンターの丸席に腰をかけると、強化ガラスの窓向こうが良く見えた。
 外は嵐で荒れ狂い、鋼鉄体の影が所せましと暴れている。

「……あっ、からあげとライスも頂戴。夜明かしだから、キリ子も食べよ」
「余計なオ世話ダ! 夕食はモウ、済ませタ!」

 ぷりぷり、むくれながらウーロン茶を用意するキリ子。ふくれ面でも付き合ってくれるようで、カゲローは何だかおかしくなる。

「何ガおかしイ!」
「んーん、何でも」

 春先の、嵐荒れの夜のことだった。


おわり
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