北海道を出てきた話


この記事は、Kumano dorm. #2 Advent Calendar 2020の10日目の記事です。


最近流行りの自分語りに便乗しようと思って書くことにしました。同ブロックの人たちがたくさんアドベントカレンダーに書いていらっしゃるので、占有率に加勢したいと。家族構成について書くか、卒論のテーマを決めたきっかけについて書くか、何にするにしても結構な自分語りができる気がするので決めかねていたのですが、この原稿を書きながら(いきなりパソコンで打ち始めるとまとまらなくなりそうだったのでノートに手書きで書いて、改めてパソコンで入力しています)、昔文字を書くことを強制されたことを思い出して、そのことについて書くことに決めました。

私は長らく、言葉を話せない子どもでした。場面緘黙と言うのですけど(そう呼ぶということは大学2回の時に知った。後述)、普段家庭や親しい友人との間では何の問題もなく話せるけれども、学校や職場では声を出せなくなる、酷い場合では体を動かすことが出来なくなるというものです。一応精神疾患の一つで、心理学の授業でちらっと取り上げられますが、なにせメジャーではないので、心理学の授業をとっていたとしても記憶に残っているという方は少ないかもしれませんね。しかし私が場面緘黙を知ったのは授業ではなくて、寮生活をする中ででした。
私が場面緘黙だった期間は小2~中3くらいまでだったので、大学に入ってからはその頃のことを思い出すこともなく、克服できたものと思っていました。そんな中での2018年6月のある日(特にやばかった時だけ書く日記があるのですが、その中に記述が残っていました)、食堂北部で同期の友人と話しているところに、おそらく寮外の留学生が来て、話しかけてきました。日本語:英語=7:3くらいで、時々英語になりながら頑張って話していました。でもその留学生というのが個々人の考え方や思想について掘り下げてくる方で、投げかけられた質問に対して瞬時に答えられなくなる時がきました。その時に、あっまずい、これは終わった、何も出来ない、という場面緘黙だった時のどうやってもこの先言葉を発せなくなる感覚が全身を支配したのがわかりました。場面緘黙では、間髪を入れたら終わりなのです。それ以降何をしても(しなくても)、自分への注目は強まるばかりなので、強い視線の中口を開くことは不可能になります。それでも私の返答を待っている留学生の方と、元々話していてずっと同席していた友人に怪訝そうに見られているので、なんとか言葉を発したい(でもそれが不可能なことは知っている)、早くこの場を切り抜けたい(でも自分にはどうすることもできない)という思いで、焦りと絶望感だけが脳内をぐるぐるしながら、留学生の方が諦めて立ち去ってくれるのをひたすら待っていました。そのまま数分が経過したでしょうか(よくある言い方ですが、まさに永遠にも感じられる時間でした)、留学生の方が「どうして会話をしてくれないんだ」「外国人だからってバカにしてるのか」と激しい怒りを露わにして去っていきました。私はまず一番に、開放されたことに安堵しながらも、友人に見られてしまった羞恥と、自分がこの先も場面緘黙の性質を抱えたまま生きていくしかないことへの絶望で、とにかく人の目に触れない所に逃げないといけないような衝動に駆られ、AM3時のシャワー室に行って泣きました。寮に入って変われたような気がしていたけれど、何も変われていなかった。

冒頭で述べた、文字を書くことを強制されたこと、これはまた別の話で、小5の頃、算数の時間に、みんなでお菓子の箱を持ち寄って、その形が何であるかを答える(発表する)ということがありました。立方体の箱なんてほとんど存在しないので、直方体と答えておけばいいことはわかりきっていました。その発表というのが、教室の端から順に児童を当てていって答えさせるというもので、おそらく私のような積極的に発言しない児童にも発表させる機会を与えようという魂胆だったのでしょうが、私はその方式が大嫌いでした。それまでの学年では無言を貫くことが容認されて、口パクでも言ったことにしてもらえたのですが(場合によっては私の順番をとばしてくれた、国語の句読点音読とか)、小5の担任は新卒の22歳で、そういう子どもの扱いに慣れていませんでした。無言の私に、「この形は何?わかっているんでしょ?」「あんたが答えないせいで他のみんなが迷惑しているんだよ。みんなの時間を奪って楽しいの?」と矢継ぎ早に怒鳴って、その間私は黒板と床の中間くらいを見つめながら、その言葉全部そのまま先生に返したいなと考えていました。それと、私の心の中に存在する私は外の世界から隔離されて穏やかでいられるのに、外側の私はどうして攻撃に晒されていなければいけないのだろうと思っていました。心の中にだけずっと居たい。外の世界は怖いことだらけなので、私一人で静かに暮らしていたいのに。
算数の時間は、私が怒鳴られ続けるだけの時間として終わり、怒りの冷めやらぬ先生は私を教卓に呼び出し、口で答えられないのなら文章で書きなさいと言って、作文用紙を押し付けてきました。これが、文字を書くことを強制されたこと。しかしながら当時の私はなぜ自分が話せないのかを理解していなかったので、わざわざ答えなくても答えは明白なので答える必要はない、とか書いていました。その後担任によりいっそう嫌われたことは言うまでもないですね。

場面緘黙であったのは小2~中3くらいだと述べましたが、なぜそこで終わることができたのかには、成績が大きく関係しているものと見ています。小学校から中学校は持ち上がりで、中学受験なんていうものがこの世に存在するということは冗談抜きで高校入学後に知ったほどには学力社会とは無縁でしたが、高校入試を見据え始めるとさすがに勉強ができる人間が一目置かれるようになりました。おそらく私はそこで自信をつけて、中学を卒業する頃には他の人と変わらないくらいに喋れるようになったのでしょう。勉強ができたのは幸運でした。そうでなければ良くてひきこもりくらいにはなっていたのではないかと思います。

日常会話ができるようになったとはいえ、小中は休み時間に友人と話すということもできず、一日何も言葉を発することがないまま帰宅するということがざらにありましたので(なお、そのストレスのせいか家でも機嫌が悪くあまり口を開かなかった)、高校以降急激に人とコミュニケーションを取れるようになるはずもなく、高校の休み時間はずっとスクフェスしてました。

そういう過去があるので、大学に入って、熊野寮で幾度かSCさせていただいたり、居心地悪く感じない場所ができたことは望外の僥倖でした。自分にも何かできることがあるかもしれないという希望を感じられたり、一緒にいて楽しい友人(先輩も後輩も同期も、そういう枠組み抜きにして相対せる人も)ができたりしたことは、私の根っこを強くして、寿命を伸ばしてくれたように感じています。3月で寮を出てしまうこと、自分すごくもったいないことをしようとしている、という自覚があります。なんとなく楽しそうだからと入ることにした寮でしたが、こんなに大切な場所になるとは。

今まで友人も家族もそれ以外の知り合いも、全て私を(好き放題に)評価して身動きをとれなくする枷でしかなかったので、ずっと早く離れることだけを望んできました。そういうわけで定職に就くことも恐怖でしかなく、中高の進路相談で語ってきた将来の夢は旅人でしたし、京大に進学が決まった時には4年間帰らないからと親に告げて出てきました(従兄弟の結婚式のために帰ってしまったけれど)。それくらいには自分を知る人との接触は避けたかったし、新たに私を知る人が増え周囲を囲まれる状況に陥りたくなかった。場面緘黙とは周囲の人に自分がどう思われるかに過敏になって行動が取れなくなるものなので。ですので道内に進学するなんてもってのほかで、逃げるようにして北海道を出てきました。北海道に悪い印象があるのではなくて、私にとって人目が気になる場所であるというだけなので、皆さんは北海道にたくさん行っていただければと思います。

さて、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。本当に自分語りしかしていませんね。不幸自慢大会にならないようにとは意識していましたが、基本ネガティブなので無理でしたね。それでも、分量的にも心象的にも抑えた鬱々エピソードの数々(女性に苦手意識があるとか、第一次・二次鬱期とか)がまだありますので、時にはどんより暗い気分になって打ちのめされたい願望がおありでしょう皆様には快くお裾分け致しますよ。リカバリーサービスも付けますので、どうぞお気軽にお声掛けくださいね。それでは、これまでとこれからの皆様の人生が明るいものであったとしても暗いものであったとしても、それぞれの幸せを見つけられますように。



■追記
蛇足になるかもしれませんが、そもそも私がこのほぼ埋まっているアドベントカレンダーの空いている過去の日付を使ってまで書くきっかけとなった、談話室での議論とそれについて考えて出した答えのようなものを記しておきます。これに触れずに不幸自慢だけ語るのは不誠実で良くないので。

この場に記す許可をとっていないので要約すると、アドベントカレンダーで自分語りを読むのは興味深いけど、自分は語れるような波乱に満ちた人生を送ってこなかったから引け目を感じる、というような事でした。なるほどそういう考え方もあるのだ、と思いました(すみません語彙力をください)。正直なところ、贅沢な悩みであるように思えるし、苦痛と二人三脚で歩いてきたような身としては、何度転生しても手にすることが望むべくもない境遇に思えますが、そんな境遇であっても他者との比較の中で、自己のアイデンティティを形成する要素の不足に劣等感を抱いてしまうというのは、共感はできなくとも理解し得ないものではありません。

この悩みに対する、私の回答のようなもの。幸福になることは、不幸になることよりもはるかに難しいです。逆に言うと、不幸になら簡単になれます。もちろん生い立ちを弄ることは出来ませんので、これから先の人間関係や学業、仕事でという制約はありますが。つまり何が言いたいかというと、とりあえずその悩みは一旦保留にして、これから先で不幸な経験もたくさんできることに期待しよう!ということです。というか、不謹慎ですが今家族が生きているなら、その中で自分が一番先に死なない限り家族との死別を経験することになるし、今家族がいないならその時点で不幸な経験はきっといっぱいしているし。そんな経験は誰にだって訪れる、といって不幸な経験に特異性を求める必要は全くないんです。他者との比較ではなくて、自分が今までどう感じてきたかが大事です。
それと、前向きな人は前向きな経験を、後ろ向きな人は後ろ向きな経験を想起しやすいという法則があります(状態依存効果。正確には若干違いますが)。私は後ろ向きな性格のため後ろ向きな経験ばかり思い出しがちで前向きな経験がぱっと出てきませんが、全くなかったはずはないので、同様に先の悩みについても、前向きな経験ばかり思い出しがちなだけで、程度に差はあれ後ろ向きな経験(抑圧とか)も少なからずあったのではないかと思います。

いずれにせよ、ずっと幸福な人生でいられることはないと思います(超ネガティブ発言)。焦って不幸を欲しがらなくても、いつか不幸の方から迎えに来ますよ(超ネガティブ発言その2)。
それでもやっぱり悩んでしまう時は、私がいつでも不幸にしてあげますよ。これ、対面の議論の場で言うとものすごくプロポーズみあるな?と思って言わなかったのですが、文字にしてしまえば大丈夫でしょう。
なんかアドベントカレンダー本文と追記で言っていること真逆になってしまっているようにも感じますが、別に矛盾はしてないですよ。
私は短絡的な人間なので、手っ取り早い手段が目の前に転がっていたら、それを選んでしまいます。具体的にどう不幸にしてあげるべきかわからないし、そもそも私は皆様に幸せになってほしいと思っているのでできるだけ易しめ不幸に留めてあげたいところです。こんな不幸マイスターみたいなことを言っておきながら、私自身は最近不幸になりきれていないので自重するべきです。

追記も長くなりました。結局言いたいことは、ただ幸せを望む人にも、幸せになるために不幸を探し求める人にも、私は力になりたいですよという話です。
卒論を逃避して書くアドベントカレンダー、めちゃめちゃ筆が走りました。さあ、私は幸せになれるのか。