A.D.XXXX 絶対正史不動玉座 競馬場 一片の想いでは消せない栄光


 ハッと息を呑んで瞼を開く。唐突な覚醒に自身の状況が判断できず、身じろぎしたところで身体のバランスを崩した。
 慌てて伸ばした手が支えになるものを掴み、無様に転がらず済んだ。そこでリュージはようやく、自分が椅子に座っていたことに気づく。
 座り心地に覚えはないが、そこから見える景色は大いに覚えがあった。
「ここは……府中か?」
 眼下に広がるのは間違いなく府中競馬場だ。長い直線コースを見下ろすスタンドのちょうど真ん中あたり。無人のそこにリュージはただ一人座していた。
 まったく状況が呑み込めない。つい先ほどまで調教を終え、トレセンのスタンドで雑談をしていたはずだ。
 思わず身構えるのは数々の特異点に巻き込まれてきた習性か。
 不意に、誰もいないスタンドから歓声が上がる。まるでG1のような盛り上がりも、あたりを見回せど人の姿はない。
 場内へ視線を戻したリュージは大きく目を瞠った。
 競走馬が走っている。それも騎手を乗せて。一頭や二頭じゃない。これはレースそのものだ。
『さあ、横一線だ! 横一線!』
 聞こえてきた実況は、当時場内に流れていたものではない。それでも知っているものだった。
『大外キズナ! 大外キズナ!』
 かつてはあの馬群の中で見ていたレースを、こうして観客席から見るのは何とも不思議な気分である。
『キズナが捉えた! キズナ勝ったあああ!! 武ユタカ、ダービー五勝!!』
 ゴール、確定、と一際大きな歓声が上がる。
 項垂れながら引き上げていく同期の姿は何度も見たいものではない。しかし万雷の喝采を浴びユタカコールを受ける偉大な先輩は、いつ見ても素直な賛辞を送りたくなった。
 ふと違和感を覚える。たった今、見たのは正史のダービーだ。これまでの特異点は何かしらの改変が行われていた。
 それらを正史に戻すため奮闘していたのだから、ある意味でわかりやすかった。
 だがしかし今回はどうだ。何の改変もない特異点である。
 眉を顰めたリュージの視界が一瞬歪んだ。身体を強張らせた彼が次に目にしたのは、大きな池のある競馬場。
「なっ、いつの間に京都に…!」
 右回りへと変わった競馬場は、今はスタンドの改修工事に入ったはずの阪神のようだ。気づけばまたもファンファーレが鳴り、大きな歓声が上がる。
『出ない! 出ない! 六万大観衆からどよめき!!』
 大きく立ち上がったゴールドシップのスタートに、思わず目を覆って天を仰いだ。あれはあれで胸が痛くなる。
『ゴールドシップが沈んでいく! 先頭はラブリーデイ!』
 三連覇の夢は立ち消え、勝ったのはラブリーデイと後輩のユーガだ。これもまた変わらぬ正史。
 ゴールドシップに夢と懐を託した多くの観客が頭を抱えているが、グランプリを制した人馬には惜しみない祝福が送られている。
 それからリュージは観客席に座したまま、様々な競馬場における数多のレースを見た。中にはいつかの自分もいる。いずれも敗者にとって苦い記憶、後悔と呼べるそれが残るものだった。
 けれどそのどれも改変が為されていない。リュージはますます困惑した。
 方針が決まらないのでは動きようがない。そうしていくつかのレースを見ていく内に違和感を抱く。
 改変されていない正史のレースが行われるこの不思議な競馬場において、特異点を作るきっかけを抱きそうな騎手たちの表情だ。
 すべてではないけれど、近くで見ていた騎手の顔は覚えている。それらが微妙に違うのだ。
 悔しさや情けなさを噛み砕き飲み込んだような表情。負けた瞬間の熱ではなかった。
 ひとつの可能性へ至る。彼らは皆、今のリュージと同じ時間軸を生きている者ではないか。
 文字通り過去の追体験をしているのではないか。
「そんなん、まるでユタカさんのお仕置き魔術やないか」
 ようやくこの特異点の核心に至った気がした。
 愉快犯でそんなことをしているのだとしたら、とんだ悪趣味だ。
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、いまだ移り変わる競馬場のレースをただ眺める。特異点の性質がわかっても、目的はわからずにいた。
 誰が何のために、どうしてこんなことをしたのか。愉快犯であればいっそわかりやすいのかもしれなかった。
 最初に思い至った犯人像は、次第にリュージへ疑問を抱かせる。
 本当に誰かが苦しむ姿を見るためだけに特異点を作ったのか、と。
 ただのお仕置きだったとしても、そういったことを企みそうな騎手は揃ってレースに参加させられている。
 リュージが悩む間も景色は移り変わり、レースが続いた。結末は正史のまま、ただ勝者が讃えられる。
 レースに参加する騎手はやはりあの頃と違う顔をしていた。
 リュージは大きなため息を吐いて頭を抱えた。
「あかん。材料が少なすぎる」
 いくら推理をしようにも、点と点が離れすぎて繋がらないのではお手上げだ。
 一体どうすればいいのかと顔を上げたリュージは次の瞬間、息を呑んで驚愕に目を瞠る。驚きすぎて声を上げなかった自分を褒めてやりたいくらいには、少々パニックになりかけた。
 今さら何があろうと驚きはしないと思っていたが、ほんの少し下を向いている間に目の前へ人が二人も現れれば無理な話である。
 一人は明らかに獣の耳、リュージの見解では馬の耳が生えた少年。ぴこぴこと動きを見えているのでアクセサリーではないだろう。後ろ姿では男の子か女の子かは判別できなかったが、某馬耳の生えた娘のようだった。
 そしてもう一人は、どう見てもユーガである。
「まさか…お前に限ってそんなことせんと思っとったのに……」
 状況証拠が揃ってしまい呆然と呟けば、リュージに気づいたらしいユーガと馬耳の少年が振り返った。ユーガは小さく目を見開いた後、少年に視線を移す。
 向き合ってみても性別は判別できないほど中性的だった。
 視線を交わす二人には通じるものがあるのか、少年が無言の問いかけに頷きを返した。それに対しユーガは追及することなく、席を立ってリュージに向き直る。
「おそらく勘違いされてると思うので先に否定しておきます。ここは特異点ですが、俺は無関係です」
「へ?」
 端的に言い切ったユーガへ、予想を外したリュージから間抜けな声が漏れる。その様子にユーガが苦笑を浮かべた。
「じゃあ誰がこんな特異点を?」
「……『誰が』とは言い難いですが、特異点の中心はこの子たちですよ」
 この子たち、と指したのはユーガの隣に佇む馬耳の少年だった。
 しかしそこにいるのはどう見てもひとりの少年だ。とても複数形で呼ぶ間違いは起こしそうにもない。
 だが同時に、リュージはユーガがそんなミスを起こすとも思えなかった。
 リュージと目の合った少年が、おもむろに口を開く。
《どうして、勝った事実がなくなるの?》
 心臓を掴まれたような気分だった。
 淡々とした問いかけ。でもそれは、脳裏に過去修正してきた特異点を想起させた。
《どうして、ボクらの喜びはなかったことにされるの? ワタシたちだって精一杯がんばったのに。色んな人の想いに報いることができたのに》

 ――どうして、僕らの物語は否定されるの?

 男の子から女の子、そしてまた男の子と声色の変わる声は本当に複数人を相手にしていると感じた。確かにユーガの言う通り、ここにいるのは一人じゃない。
 少年は矢継ぎ早に問いかけた後、リュージの答えを待つでもなくユーガの腰に抱き着き顔を埋めた。随分と懐かれているようだ。
「何となくわかった。そこにおるのは、勝った馬たちの思念の集合体って解釈でええか?」
「さすがに場数を踏んでいるだけあって、理解が早くて助かります」
 耳を器用に避けつつ引っ付いている少年の頭を撫でながら、ユーガは遠回しな肯定を返した。
「おそらくは特異点が乱立した影響でしょうね。たったひとつを勝つということの難しさを越えた先で、手にしたはずの栄冠が奪われてきたんですから」
 ユーガの言葉にリュージは堪えるように目を閉じる。
 レース結果の歪んだ特異点をいくつも修正してきた。その度に聖杯へ願ってしまった者たちとも対峙している。
 彼らが抱えていた想いも、愛した馬たちのために流した涙も痛いほど理解できた。けれど特異点はいずれ歪みを広げ、世界を壊してしまうから修正してきたのだ。
 いつもそちらにばかり目が行きがちになるのはわかる。でもそうして生まれた特異点の影では、常に新たな絶望が生まれていることから目を逸らしていたように思えた。
必ず勝てる馬なんて存在しない。
 ひとつの勝利を手にする過程には、たくさんの努力と想いが詰まっている。それらを最後に受け取り、馬をゴールへ連れていくのがジョッキーの仕事。どれ一つ欠けてはいけない。
 競馬に絶対はないのだから。
 積み重ねてきたすべてが嚙み合ったとき、彼らは勝利を掴むのだ。
「誰かの夢が叶う時は、誰かの夢が破れる時。勝者は、ちゃんと讃えられるべきなんです」
『さあ、ヌーヴォレコルト先頭! ハープスター! ヌーヴォレコルト! ヌーヴォレコルトか! ゴールイン!!』
 あの日、場内や他場のモニターから流れていた実況と共に、大歓声が上がる。
 偉大な父の血から三冠という大きな期待を背負った少女たちの夢は、この府中で散った。
 噛み合わなかった歯車があったのだ。故に、頂点へは至らない。
 オークスという晴れ舞台で勝利を手にした人馬を喜びにあふれた陣営が迎え、観客はひたすらに拍手を送った。
 肩越しに振り返ったユーガはその光景を見つめながら、眩しげに目を細める。静かな横顔だった。
 彼は動かない。
 ただ切なげに震えた微かな瞳の揺らぎを、リュージだけが気づいていた。



「ひとつ、聞いてもええか?」
「答えられるものでしたら」
 いつの間にか少年を挟んで横並びにレースを眺めていたリュージは視線を動かさず問いかけた。同じくユーガも前を向いたまま答える。
「お前は特異点に無関係だとして、なんでその子らと一緒におるんや?」
「簡単に言うと、巻き込まれたからですかねぇ」
 曰く、気づけばこの特異点におり、馬たちの嘆きを聞いたのだとか。聖杯に願わないと固く決意しているユーガにとって、その嘆きを無視することはできなかった。
 彼らに悪意はない。ただ悲しく虚しいのだ。だから自ら声を上げた。
 そこにいた、あの日の勝者の存在を忘れないで、と。
「それ以上を求める気はないようです。ですから、彼らの気が済めばこの特異点はやがて消滅します。俺は言わばストッパーらしくて、聖杯へ捧げた願いが彼らの意図しない方向へ行かないよう見届けるのが役目らしいです」
《僕らが選んだ。痛くても、ココにいる》
 黙したままだった少年がユーガの後に続く。選んだ理由を裏付ける光景はつい先ほど見たのだから、これほど説得力のある言葉もないだろう。
 ジョッキーの誰しもが傷を抱えている。時には痛みから逃れるため気づかないふりをするそれらに、目を逸らさず向き合っていけるほどの精神力を持つ存在は多くない。その中で聖杯に縋らないとなれば、本当に稀有だ。
 さて、ユーガがいる理由はわかった。ならば己は何故なのか。
「俺は?」
《ココにいて。まだ》
 答えたのは少年だ。どうやら彼らが望んだようだけれど、ユーガに対する理由とは違うようだ。
「リュージさんにはこれまでの特異点修正の功績がありますので、あちらに巻き込むのは躊躇われたようです。ただ放っておいたら、それはそれで修正しようと動くでしょうから、目の届く範囲に呼んだんでしょうねぇ」
 脅威がないからか比較的穏やかな語調で話す後輩に、リュージは何とも言えない微妙な笑みを浮かべた。
 少年の足りない言葉を補完し、意図を正確に汲み取るのはさすがと言うべきか。
 完全に少年へ付き合うつもりらしいユーガを、敵に回してまで動くのは分が悪すぎる。ここは大人しく彼らの気が済むまで待つしかないようだ。
 それからリュージたちは様々なレースを見届けた。
 二度挑んだ凱旋門の頂にオルフェーヴルは届かなかったし、その背に日本での相棒の姿はない。
 幻の三冠馬を夢見た菊花賞に、トウカイテイオーやドゥラメンテの姿はなく。
 二十世紀から続く最年少ダービージョッキーの記録も、更新されることはなかった。
 特異点に歪められた正史の勝利馬たちの嘆きが生んだ特異点。見届けていく内にリュージは此処の本質を理解した気がした。
 嘆きは嘆きのままにあらず。この特異点は、勝者がただ最高の称賛を受けるためのもの。
 吞まれてしまいそうな大歓声がそれを物語っていた。きっとお仕置きはほんのついでなのだろう。
 ついでというには少々きついものだが、この際置いておく。
《これが、さいご》
 少年の一言に二人の視線がよりターフへ集中する。
 曇り空の中京競馬場。最高速の電撃六ハロン。
 抜け出した黄色の勝負服を、緑の勝負服が華麗に抜き去っていった。
「なんというか、因果ですねぇ……」
「ま、そんなオチやろうと思ったわ」
 苦笑を浮かべる二人を交互に見上げた少年は、少ししてどこか満足気に笑い姿を消した。
 次の瞬間、リュージの手の中には聖杯が現れる。言葉通り、最後のレースが終わったようだ。
 いつしか静まり返った競馬場も、少しずつ光に包まれていく。
「帰るか」
「はい。迎えも来たようですしね」
 迎え、と聞き返そうとしたリュージの耳に、馴染みのある声が届いた。

 ――プボ~



 貴方の、喜びに流した涙が嬉しかった。
 あなたと共に駆けた時間が、宝物だった。
 この勝利は、君の愛に応えられた唯一の証。
 此処で確かに輝いた、キミとの物語は誰にも譲れない。
 たとえ、一番に想ってくれたアナタがこの背にいなくとも――。
お知らせ
実務でも趣味でも役に立つ多機能Webツールサイト【無限ツールズ】で、日常をちょっと便利にしちゃいましょう!
無限ツールズ

 
writening