最後の花弁も落ちてしまえば


「ねぇバクちゃん。知ってる?」
ある日のお昼休み。ご飯を食べ終えた私は、突然ライスさんに呼ばれてしまいました。
そのまま校舎の隅、使う人のほとんどいない階段のところまで連れて行かれます。
「……何をでしょうか、ライスさん。」
「やだなぁ、そんなに怖がらないで?」
身体を硬くして問い返す私に、ライスさんはくすりと笑みを見せました。いつものような、穏やかで優しい――ただ、瞳の光だけが蠱惑的に艶めく、捕食者の笑みを。
「フジさんに聞いたんだけどね、『相手の匂いをいい香りだと思える相手とは遺伝子レベルで相性がいい』って話があるんだって。」
そう言いながらライスさんは私に背を向け、階段をゆっくり歩き出しました。数段上ると、くるりとこちらを振り向き。
「おいで?」
そう言って、両腕を広げてきました。
「……何を、しろと。仰るのですか。」
「おいで?」
微かに脚を震わせる私に、ライスさんはまったく同じ調子で繰り返します。その声に、瞳に、逆らえるだけの理性は、これまでの日々を過ごし、学級委員長たる誇りも意地もとろとろに蕩かされ、甘く心を撫でられ続けてしまった私には残されていませんでした。
惹かれるように歩き出し、ライスさんのすぐ前へ。先ほど彼女が数段上った分、私の顔はライスさんのお腹の高さ。
「どうかなバクちゃん。ライスの香り、分かる?」
腕を伸ばせばライスさんのお腹に触れそうな距離で、私はそっと眼を閉じます。しかし、ライスさんの香り、と言えそうなものは特に感じられません。私が小さく首を振ったその時。ライスさんの両腕が伸ばされ。
「ライス、さっきの授業が体育だったからちょっと汗かいてるけど……いいよね。」
ぎゅっ、と私の後頭部を抑えると、そのまま力強く引き寄られ。私の顔は、ライスさんのお腹に埋められてしまいました。しっとりと湿った制服の布が、私を包んできます。
「ほら、しっかり嗅いで。いい匂いでしょ?バクちゃん、ライスの事だーいすきだもんね。」
私の耳を指先で弄びながら、甘い声で囁くライスさん。引き剥がそうと力を込めても、私の頭はびくともしません。
「無理だよそんなの。バクちゃんはスプリンターなんだから、ステイヤーのライスより力が無いに決まってるでしょう?」
そう言われても、『諦めるな』と微かに残った私の学級委員長たる矜持が声をあげてきます。
「……っ!」
「それでも逃げようとするの?バクちゃんはそんなに悪い子だったかなぁ。」
息を止め、満身の力を込めて首を後ろに引く私。しかし、ライスさんの言った通り、私の頭はどれだけ頑張っても一切動かず。
「ほーら、ほーら……諦めちゃえ、諦めちゃえ。ライスの匂いに、メロメロになっちゃえ。」
さわさわと撫でられる耳が、私の集中力を奪い。とうとう、止めていた息の限界が来てしまいました。
「もう……駄目、ですっ!」
がくりと前に倒れこみ、ライスさんのお腹に思い切り顔を突っ込んでしまう私。そして、空になった肺の中に――思い切り、吸ってしまいました。
「っ!」
「あは、今すっごい強い呼吸だったね。お腹がすーってしたよ?」
ほのかに甘くて、ぴりりとして。抗いがたく脳の奥を痺れさせる、ライスさんの魅惑的な香りに。
「……ぁ、あっ。」
あまりの感覚で、私の喉から情けない声が漏れました。がくりと膝をつき、震える身体をどうにか抑え込みます。
「バクちゃん大丈夫?ごめんね、いきなり嗅がせすぎちゃったかな。」
欲しい。欲しい。欲しい。もっと。もっと。こんなにいい香りは知らない。相性なんてぴったりです。ください。私に、あなたをもっとください。私はきっと、あなたに抱かれる為に生まれたのかも。
絶対に口にしてはいけない言葉。それを告げてしまえば、この「私」が終わってしまう、そんな言葉が、口から飛び出そうとしたの上で暴れまわります。
「……ライ、ス。さん。」
「大丈夫だよ。そんなにせつない顔しなくっても、ライスはバクちゃんと一緒にいてあげるから。」
きっと今の私は、人に見られれば心配されてしまうような弱々しい表情になっているのでしょう。そんな私にライスさんは跪くと、そっと耳に口を寄せ。
「これから、何回も、何回も、ずーっと嗅がせてあげるからね。バクちゃんが、ライスの事以外考えられなくなっちゃうまで、ずーっと。」
そしてライスさんに優しく抱きしめられたその時、胸の中で、何かの割れる音がした気がします。限界の限界まで抗っていた、学級委員長としての矜持。それとも、私の中に残っていた『サクラ』のウマ娘たる自負でしょうか。
でも、今はなんだかそれがどうでもいいのです。
「……はい。ライスさん。」
だって、今の私は『サクラ』であった時より、『驀進王』と呼ばれた時より、幸せなんですから。
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