第1節 2つの痛み(前編)


「……………………」
おかしい、どう考えてもおかしい。
眉間にシワを寄せながら机上へ置いた書類に再度目を通す。しかし書かれている内容に変化はなく、ただ淡々と事実が記されているだけだ。
それでも受け入れられずに更に何十回と繰り返し目を通すが流石に諦めた。
「精密検査でも分からないとなるとどうすれば……。頭痛の原因が判明しないことには対処なんて出来ませんよ、全く」
――頭痛。それは数週間前に突然現れた。
最初はチクンと少し痛む程度のものだったが日に日にその痛みは激しくなり、昨日はしばらくしゃがみ込んで動けなくなる程だった。
原因が分かっていれば対処は出来るが、なんの予兆もなく不規則なタイミングで発生するためタチが悪い。
色々と思考が絡み合い思わず「はぁ」とため息をついていると。
「お疲れさんユーガ。……重い空気漂ってるなあ、どないしたん?」
背後から声が聞こえてきたので軽く振り向いて俺は声の主を確認する。……実際は確認するまでもないのだが。
もちろんその声は気心の知れた先輩――和田さんの声だった。

「お疲れさまです和田さん。これ見てください、酷くないですか?」
「書類?」
「ええ。先日から悩まされてる頭痛についての診断書です」
ソファーから腰を上げて書類を軽く押し付けるように渡すと少し怪訝な顔をされたが、視線はすぐさま書類に向けられる。
――その後、ひと通り目を通した和田さんは素っ頓狂な声を上げた。
「なんやそれ、どこも異常ないってかい」
「そうなんですよ……。あれだけ激しい痛みを伴っているのにおかしくないですか? ありとあらゆる検査を受けたのに、どこにも異常がないなんて」
『検査の結果 異常なし』――普段なら喜ばしい事だが今回に限ってはそうも言えない。
今までに経験のない頭痛だ、むしろ異常が見つからないほうが不自然だろう。
「確かに……この前も辛そうやったもんなあ。ずっと頭抑えて苦しそうにしてたから中内田先生らも心配してユーガに調教乗せへんかったもんな」
「あれは申し訳なかったです。頭痛が原因で馬や関係者に迷惑かけたくないのに……不甲斐ないです」
馬や関係者に迷惑をかけたくないからこそ、体調には一際気を使ってきたのにこんな事になるとは。自分が情けない。
「レース中に発症したら嫌やな。痛みで集中出来へんから成績にも直接関わってきそうやし。ユーガはその腕と成績を見込まれて数多の依頼が入ってきとるから、そういう面でもモロに影響でるやん」
「それユースケにも言われましたよ。『お前は競馬界の一等星なんやからそれで成績落とすのは嫌やな……影響力大きいわ』って。俺が一等星かどうかは置いておくとして、自分の持てる力を出し切れずに負けて依頼が減るのは本意ではないですね」
「だからこそ早よ頭痛の原因が分かったらええんやけどな」
「本当ですよ、原因が分からないと対処のしようがないですからね。それに最近は頭痛に加えて幻聴が聞こえたり、よくない夢を見たりすることも増えましたし」
そう言うと和田さんは驚いた表情を見せた。
当然だ、幻聴と夢に関してはいま初めて話したのだから。
ユーイチさんにもユースケにもミーくんにもまだ伝えていない事実をなぜ和田さんへ初めに話したのか――それは『このタイミングで話した方がいい』と直感的に察したからだ。

「大丈夫……じゃないよな状況的に。その幻聴や夢はどんな感じなん?」
「幻聴はとにかく俺に対する恨みや憎しみが凄いですね。『お前だけ幸せに生きるなんて絶対に許さない』『俺が欲しかったもの全て持っているお前が憎い』……みたいな感じで。そこまで誰かに恨まれるようなことしましたかね? 幻聴とはいえ気になりますよ」
「恨みや憎しみ、か。仮に誰かの恨みが幻聴という形になってるとしたら相手も相当やな。だとしても誰がそこまでの恨みを抱いてるんや?」
顎に手を当て首を傾げる和田さんを見つめながら俺も思い当たるふしがないか思考を巡らせる。
『調子に乗ってる』『生意気』……数え切れないほどの言葉を言われてきた自覚はある。
だが、ここまで明確に恨み言を言われた経験は少なくとも自分の記憶にはない。
そもそも聞こえてくる幻聴はパドックでの野次やネットでの小言とは違う性質だ。人気馬を飛ばしたから、下手な騎乗をしたからといった理由からくる感情ではない。
ただひたすらに俺へ対する〖怒り〗と〖恨み〗と〖嫉妬〗だけで構成されている。
〖川田ユーガの事が嫌いで憎くて仕方ない〗
それだけ、ただそれだけなのだ。

「うーん……いくら考えても分からんなあ」
「すみません、大切な時間をこんな事に費やしてしまって」
「ええよええよ、元はと言えば俺が勝手に始めたことやし」
暫くすると苦笑を浮かべながらお手上げと言わんばかりの素振りを和田さんは見せた。
幻聴が聞こえる俺自身にも分からないのだから和田さんが分からないのは至極当然だし、むしろこんなことに時間を割いてくれたのが申し訳ない気持ちになる。
だけどこんなにも考えてくれて寄り添ってくれる存在がいるのはありがたいとも思う。
改めて人との巡り合わせに感謝しかない。
「ちなみに夢はどんな感じなん?」
「夢ですか? 夢はいつも同じ人物が出て、くる…………」
「? どないしたんユーガ、急に押し黙って」
「……っ、ぁ、痛い……っ!!」
夢について話をしようとすると頭に突然激しい痛みが襲ってきた。一度認識した痛みはズキンズキンと絶え間なく頭を巡る。
その激しい痛みに耐えきれず両手で頭を抱えてしゃがみ込む俺を見て、焦りながら和田さんが駆け寄ってきた。
「また痛むんか!?」
「……ええ、もう慣れましたけどね……っ」
「アホ、そんな辛そうな顔しといて慣れとるわけないやろ! てか慣れたらあかん! ……とりあえずそこのソファーで横になって安静にしとこ。立てるか? 歩けるか?」
「はい……すみません……」
また迷惑をかけてしまった。
数週間前からずっと皆に迷惑をかけてしまっている状況が心苦しい。
迷惑をかけてはいけないと思っているのに、言うことを聞かない自分の身体が恨めしい。
「は……っ、痛い……っ、苦しい……」
「……ごめんなユーガ。こうやって傍にいて見守ることしか、寄り添うことしか出来へん……俺もユーイチ達も歯痒い思いでいっぱいや」
「……和田さんやユーイチさん達が負い目を感じる必要はないですよ。体調管理出来ない自分が悪いんですから……謝るのは俺のほうです、迷惑かけてしまってごめんなさい」
「…………ユーガはもう少し俺らを頼ってもええんちゃうか? 何でもかんでも1人で抱え込むのはしんどいやん」
「え……?」
どうしたのだろう、いきなり。
発言の真意が分からず思わず聞き返す。
「あの、今のはどういう意味ですか」
「そのまんまや。ユーガは真面目でストイックが故に1人で色々抱え込みやすいやろ?」
「……抱え込んでるように見えますか」
「そう見える時もあるっちゅう話」
「…………なんですか、それ」
ジトッとした目つきで見つめる。
激しい痛みゆえに普段より目つきが悪くなっていることは想像に容易い。
それな俺を見て「まあええよ、それもユーガらしいわ」と言って和田さんは苦笑を浮かべた。
なんか腑に落ちないが、きっと心配してくれているのだろう。
「それにな」と真剣な顔付きになった和田さんは言葉を続ける。
「それにな、レースの時はライバルでもそれ以外の時は〖仲間〗やんか。ユーガだって誰かが怪我したり辛そうにしてたら心配してくれるやろ? その優しさをもっと自分にも向けてあげてほしいし、今回みたいに苦しい時は誰かに頼ってほしい……と思うのはワガママやろか?」
優しい声色でそう呟きながら、和田さんがそっと頭を撫でてくる。

「……ワガママじゃないと思いますけど、なんで頭を撫でるんですか? いい歳した大人ですよ俺」
「んー……今のユーガ見てたら昔の息子たち思い出してなあ。しんどそうな時にこうして頭撫でてあげたら安心したかのように眠るんよ」
「……それって遠回しに俺が子どもっぽく見えるって言ってません?」
少し不服だ、もうすぐ40代になろうというのに子どものように見られるのは。だがあまりの激しい痛みで全身に力が入らず、手を避ける気にもなれないので仕方なく撫でを受け入れた。
…………どれほどの時間が経っただろうか。
頭の痛みがゆっくりではあるが治まっていくのを感じる。きっと、当時の息子さんたちも温かい和田さんの手に落ち着きを覚えていたのだろうか。触れるだけで安心感を持たせる、まるで魔法のような手に。
「どや、ちょっと落ち着いてきたか」
「……ええ……それになんだか眠たくなってきました……」
「寝ててええよ、今日はもうやること全部終わったやろ?」
「だけど…………」
「ええからええから。早くユーガには元気になってほしいし、俺らのこと茶化してもらわなアカンやろ?」
そう言って微笑んでくれる優しさに胸が締め付けられる。
どうして、どうしてこんなにも優しいのだろう。
和田さんだけじゃなくユーイチさん・ユースケ・ミーくん・戸崎さん・ユタカさん・キワム・タケシ・カズオ・津村・吉田くん・丹内……他にも多くの人が優しく接してくれる。嫌われたっていいと思ってありのままで生きている俺を受け入れてくれる人がこんなにもいる。
人の顔色を窺って生きてきたが、受け入れてくれる人たちは心の底から俺を想ってくれているのだと感じる。
――そんな事を考えている間にも段々と意識が微睡んでいく。
ここはお言葉に甘えて寝てしまうのもいいか。
微睡みながら心の中で和田さんに『ありがとうございます』と謝意を表し、ゆっくりと瞳を閉じた。
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