EPOCALC's Hidden Basement 1


ようこそ、裏ブログへ。
イニシエのインターネッツにあったと言われる隠しページでござります。
ここはいつもの記事にはしにくいこと(哲学等音楽じゃないマニアックなこと)
についてたらたら書いているページです。
今回は最近話題の「反出生主義」について。

インターネット、現実を問わず
周りの人々が病んでいるのかなんだか知らないが、
「反出生主義」という考え方を有難がっている。
なになに、と思って調べてみるとこれが非常に面白い。

知らない方のために簡単に説明すると反出生主義とは
「人生とは苦痛の連続である。
苦痛しかないならば生まれてくるのは不幸だ。
だから新しい生命を生み出すべきではない」
という考え方である。

なんだかニーチェが激怒して馬を蹴り上げるレベルで反ニーチェ的で
「存在に救いはない」という状態で生きろ、という考えであるが、
これの凄い点は今のところ反証不能と言われている点である。
実際、どんな反論も反出生主義者たちは一言で論破している。

でも、個人的にはこの論には一点怪しいところがあるように感じる。
「非存在」と「存在」を比べている点だ。
反出生主義者曰く、「非存在より存在の方が苦痛である」という。
しかしながら、この世にいるすべての人物がもうすでに「存在して」しまっているので
安易に誰も経験していない「存在していない」状態と比べるのはどうか、と思う。
仮に「経験」と「非経験」を比べているのだとしても、
「完全なる非経験」を誰も知らない。
これは、Windows使ったことない人がApple最高!というのに似ている。
Appleの方が実際良いかもしれないが、Windowsを使ったことがないのに何が言えるのだろうか?

あ、これは単なる論理の指摘であって、論への否定ではないので注意。


反出生主義はこの通り一見おかしな考え方だが、
これについて「人間の温かみがない」だとか「自然じゃない」と断じるのは浅薄かもしれない。
以前構造主義が出てきた際、実存主義サイドから同じような批判が噴出したと聞く。
今の反出生主義を取り巻く環境は、それに似た何かを感じるのだ。


僕は思う。反出生主義は「真の意味でのポスト構造主義」の序章ではないか?
構造主義は「西洋文明」についてのみ論じるマルクス主義の人たちへ
他の文明と同等に西洋文明を捉えることにより生まれた。
反出生主義は、前述のとおり少し欠陥があるような気がするものの
「存在」と「非存在」を何とかして比べられないだろうか?という考えである。
つまり、反出生主義も構造主義のように「生」「存在」を前提として論じてきた従来の哲学人たちへ
生と同等に「死」「非存在」を捉えよ、という考えを生み出すではないだろうか。
なんだか言いたいことが良く伝わっていないような文章になってしまった。
僕の思考力、語彙力が足りないのもあるが、
ソシュール的な誰かが現れればもうちょっとうまく書けるのかもしれない。

そのもうワンステップに何が必要か、と言われれば、
「蘇生可能な死んだ状態」に置かれた哲人であろう。
レヴィ=ストロースが構造主義を生み出せたのは
ブラジルに実際に行き、そこの民族について学者として研究したことが大きいと言われる。
レヴィ=ストロースほどの哲学者が異文化に触れられたこそ、西洋文明からの脱却が図れたと言える。
仮にレヴィ=ストロースのような賢者が死を体験し、再び蘇生する経験をしたならば
その人は何を思うのだろうか。

思えば、人間は「死」を理解しようとして哲学や宗教を生み出したのだ。
あの世については、よく「為政者が人々を黙らせて支配するための仕組み」として取り上げられるが、
そもそもは「己が非存在になるへの恐怖」から発生するものではないのか。
地獄に落ちたものは幸いである。なぜなら存在するから。
現代でも「臨死体験」が熱心に研究されるのはそれと同じ動機づけに他ならない。


しかし人間は「反出生主義」を端に発し、非存在を克服しようとしているのかもしれない。
ともなれば絶望に達し、希望も何もない人も恐れることはない。
もうすぐ元反出生主義者の「真の」ポスト構造主義者があなたを助けてくれるから。
存在と非存在が同質であると、きっと教えてくれるだろう。

まあ結局は、生きている限りにおいて

楽しまずんば、これいかん。(伊達政宗)

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