31.倒れた弟


 
 あの後、急に失神したラウダを慌てて病院へと運んだ。
『過労で溜まった疲れが心理的な衝撃に触れ、緊張の糸が切れたのだろう』との説明を受ける。容態も安定しているので心配はないとの医師の話に、ホッと胸を撫で下ろした。

 一応の安堵を得たところで、ラウダの通信端末から本社へと連絡を入れる。聞こえて来たのは馴染みのある声。秘書の代わりを務めてくれていたのはペトラだった。彼女はビジネススーツのまま、すぐさま駆け付けてくれた。半昏睡のまま眠り続けるラウダの負担にならないよう、病室の外に場所を移す。

『ジェタークの窮地を遅ればせながら知った俺は、バイト先に辞表を出した後、ラウダが出入りしているとの話を耳にしたので生家の方へ向かってみた。急に現れた俺に驚いたらしく、顔を合わせた途端にラウダが倒れてしまった』
長椅子に並んで座ると、俺は若干しどろもどろになりながらそう釈明した。
ペトラはこちらの顔をじっと見上げた後で、ホッと息を解くと『無事に帰って来てくれてありがとう。私が言いたい事はそれだけです、グエル先輩』と言った。

言葉を失う。お前だって愚痴や恨み言、嫌味の一つだって零したいだろうに__。

その気遣いが逆に胸に痛い。何も言えなかった。
ペトラは昼夜を問わず、自分がラウダの傍に付いて世話を見るから任せてほしいとの有難い申し出をしてきたが、せめて夜間は休んでくれ、親御さんも心配するだろうからと説得し、俺は頑として引き下がらなかった。

 あの苦いと語るのでは済まされない、脳裏を掠めるたびに、胃の中をひっくり返される吐き気を催す記憶を取り戻した日からずっと、少しでも眠りに付けば悪夢に魘される。それはあの日の地獄の光景、そのままだったりもするが、俺が生身で立ってる時もある。そう、記憶を取り戻した日から付き纏う、あの幻覚と同じ夢だ。

 どこからか、ぼたり、ぼたりと音がして、俺はふと我に返る。辺りの薄暗がりに視線を彷徨わせた後で手元に目を落とすと、手にはヒートナイフが握られている。それが真っ赤に染まっていて。その音が、手首まで伝い滴り落ちる雫の音だとはじめて気付く。
「ひいぃぃっ!!!!」
哀れな悲鳴を上げた俺は、腰を抜かして緋色のナイフを放り出し、先ほどからぬらぬらとして、非常に不快で気色が悪いと感じている顔の表面を、手で拭おうと拳を握る。それは頬の上をぬるりと滑る。驚いて思わず離した拳を見つめる。握った拳はペンキのバケツに突っ込んだような真っ赤な色で__。
よくよく見れば、腕も、手も、指先も、同じく深紅の色に染まっていて……、俺は全身に返り血を浴びている事に気付くのだ。
べったりと絡みついた血糊は、すでに乾き始めていて、それが染みになり、いくら擦っても、爪の先で引っ搔いても、僅かばかりも取れてはくれない。洗い流そうと必死になって濯いでいるところに、背後から父さんの声がする。
『…グエル……無事だったか……?』って。優しい声で。
俺はギョッとして、でも父さんが生きてた事にホッとして、勢い良く振り返る。
「父さんこそ、無事で良かっ__」
父さんはゴボリと音をこぼす。同時に開いた口から赤い塊が吐き出され、その赤で、胸は薔薇の花弁を散らしたように染め抜かれる。吐き出された一際紅い色が顎を伝って滴り落ちる。肩で大きく息をして、時折喉からひゅうひゅうとおかしな音をさせながら、俺を見て小さく笑い掛けようとする父さんは、途中でその表情を硬直させたまま固まってしまう。
まるで、そこで時が止まったように。何もかもが、そこで終わってしまったかのように。
腹から下は暗くて見えない。違う。昏いから見えないんじゃない。そこには無いのだ。何も__。
それに気付いた俺は__。声も出ないほど恐ろしくなって、大好きなあの人を置き去りにして、駆け出してしまう。時々躓きながら、情けなく、惨めな姿で逃げ回る。最後には這いずり回って。そして、毎回飛び起きるのだ、自分の絶叫に驚いて__。

父さん、ごめん。……俺が、全部悪いんだ。何もかも、全部俺が原因だ。
本当は分かってる。見えないんじゃない。見たくないから映らないだけ。認識したくないから、何も無いと、見えないと、俺が俺自身を誤魔化しているだけの事なんだ。
夢の中でまで、あなたを見捨て、置き去りにする自分が嫌いだ。大好きな筈なのに、その目を見るのが怖い。手を差し伸べて、今すぐ手当てをしてやるべきなのに、それすらせずに、裸足で逃げ出すだけの自分が心底憎い。死んでしまえと呟くほどに__。

 そんな悪夢に魘されて、寝汗に塗れて最悪な気持ちで飛び起きるよりは、可愛い弟の寝顔を眺めながら、夜明けを待つ方が幾分気持ちが楽だった。
畢竟、昼間はペトラ、夜間は俺がラウダの傍に付くことで折り合いをつけた。
医師からは心配ないとは言われていたが、眠り続けたまま中々目を覚まさないラウダに俺は内心肝を冷やした。口には出さなかったが、ペトラも同じ心境だったことだろう。


 最近俺の脳内は、悪夢の中だけでは飽き足らず、覚醒したままの状態でやけに色鮮やかな幻覚を作り出す。中々目を覚まさぬラウダを夜間に看つつ、日中は諸々の手続きなどを忙しなく捌く日々の中で、時折目にしてしまうのだ。この腕が、手のひらが、あの人の血で真っ赤に染まる幻覚を。
それが瞬間的にこの目に映る。悲鳴をあげそうになるのをぐっと堪え、嘔気を吞み込む。それから俺は、ポケットからそっと取り出すのだ。青く縁取りされた白いハンカチを。

 何故か制服のポケットに入りっぱなしだった見慣れぬハンカチは、微かな記憶を辿れば、学園内の敷地から出奔する数日前に、シャディクが誘い文句と共に手渡してきたものだった。あいつの性格を考えると、100%の善意からくる行動だとはとても思えなかったが、助けになろうと手を差し伸べてくれたのは確かな事だ。腹立ち紛れに一度は払い除けてみたものの、何だか悪い気がして、そっと拾って仕舞い込んだままだったのだろう。

 ……それにしても。俺のポケットは何だか不思議だ。見覚えのない物が色々紛れ込んでいることがたまにある。オルコットに渡されたメモなんかもそうだった。このハンカチもそうなのだが、学園に居た頃も何度か不思議な現象に見舞われた。例えば知らない内にポケットの中にクッキーが入っていたり。それが急に増えていたり。見覚えのないウサギの小さな人形が、何体か転がり出てきたこともあった。愛くるしい見た目をしているそれらは、捨てるわけにもいかなかったので、仕方なく寮の自室の机の隅に並べてみたりもした。
まあ、シャディクのハンカチがこの手の内にある経緯はどうであれ、取り合えず今はどうでもいい。兎にも角にも、この白色でなければ駄目なのだ。赤色も濃色も、この手にべったりと張り付いた血糊を拭き取れる気がしない。というより試してみたが、駄目だった。白地に青の縁取りが入ったこのハンカチでなければ、俺が作り出す鮮明な幻覚は、完全には消えてはくれないのだ。
 
 手のひらを丁寧に拭い取る。しっかりと、念入りに。己の手や腕をそうやって拭った後で、もう一度自分の両手を確かめる。大丈夫だ。肉の色をした手のひらを見て安堵する。そうやって、罪の象徴である幻覚を、無理やり目の前から消し去ってから、ようやくラウダの手を取れるのだ。その指先や手のひらを握ることが自分の中で許される。そして俺は、今夜もこうやってラウダの手を取り、弟が夢の中で不安や迷子になる事が無いように、しっかり握ったままで夜を明かす。

 中等部に入った頃から外面を繕うことを覚えたらしいラウダは、その顔つきも態度もガラリと印象が変わった。それまでとは打って変わって、刺々しい表情や態度で対外的に接するようになった彼は、ある日俺に向かって話があると、改まった態度で切り出した。
何を言うかと思えば__。
『兄さん、今まで守ってくれてありがとう、僕はもう大丈夫だから。これからは守られるだけじゃなくて、僕も守りたいんだ、兄さんを』とそんな事を言い出した。
目を丸くして、言葉が出なくなる程驚いた。そのような言葉が弟の口から出るとは、露とも思っていなかった。
だが、そう言われて嬉しくないかと言えば、それは__。ただ、面映ゆかった。だから、『残念だったなラウダ、俺は兄さんなんだぞ。それは一生変わらないからな!』などと、よく分からない返答をして煙に巻いた。
それからのラウダは、言葉の通りに強くなろうと努力を続けて来たようだ。自分を守り、他者をも守るため。レスリングやプロレス、護身術。体力づくりと称し薪割りを日課にしたりして、上半身裸になって庭先で斧を振り回す姿に、俺は若干引いたりもした。

 確かにラウダは幼少時の線の細い少年時代から比べれば、逞しくなったと思う。外見も、言動も、体力的な面からも。
グループ経営のMS特化型高専、アスティカシア学園への進学が決まったおり、ラウダは俺に倣って自分もパイロット科を選択すると言い出した。それに対して、父も自分も異を唱えなかったのは、目の前のラウダなら、その道も叶うと思ったからに他ならない。
それでも、こうやって眠っている間のラウダは、幼い頃のぽやっとした面影を今もどこかに残していて、柔らかな表情を見凝めていると、胸が締め付けられるほど愛くるしい。
そんなラウダがやっと目を覚ましたのは、生家で倒れたあの日から、もうすぐ一週経つかと思われた日の深夜の事だった。


「ホッとしたんだと思います」
そうかな。持ってた荷物、全部床にぶちまけてたし、吃驚したのは確かだろうが…。
「ラウダ先輩、説明だ、責任だって__毎日のように各方面から責められてましたから__」
うん、知ってる。おおよそ全部、隣で聞いてたボブとして。

 それもそうなのだが、なんか記憶を失くしてる間に只ならぬ関係に持ち込まれて、取り返しのつかないことになってる気がするのだが…。いや、そもそもあいつは俺を兄だと知らなかったわけだし、俺もあいつを弟だと知らなかったのだから、コレはセーフの部類なはずだ、そうだろう? いわゆる『認識なき過失』ってやつだ。
待てよ? あいつ、『思い出さなくて良かったのに』とか言ってたな…ってことは、兄と知ってて俺に手を出してたってことなのか__?
『未必の故意』、あるいは『確定的な故意』とかなのか?
いやいや、そんなはずは…いくらなんでも…。まず、そもそもなんで兄に手を出そうとするんだよって話だし…深く考えると頭が爆発しそうなので、如何わしい記憶の一切には、しっかりと蓋をして仕舞い込み、これ以上は考えないものとする。
確かに俺は、もう逃げないと心に誓った。そう決意はしたが、それとこれとは話が別だ。この場合、逃げて正気を保つのも大事なことだと思うのだ。これから始まるであろう、多忙な生活に備えるためにも。

「お父様の事、悲しむ暇もなくて__」
そうだね、俺最低だよね。生きてちゃいけないよねこんな奴、ホントごめんね。
「あ、御免なさい、お父様の事__」
様子を伺うように仰ぎ見るペトラに他意はない。分かってはいるのだが、こちらの心が耐えられない。さり気なく、だが意図的に目を逸らして俺は言う。
「……(父の事は)聞いている……」
まだこの顔を追ってくるその視線から、逃れるように立ち上がる。
「……ラウダには随分辛い思いをさせてしまった。昨夜意識を取り戻した時に少し話した。それで、代表は俺が正式に引き継ぐ事にした。お前にも余計な苦労を掛けてしまった。今まで本当に悪かった。それから、ラウダの事__。隣でずっと支えてくれてたのはお前だったんだよな、きっと心が救われていたことだと思う、改めて礼が言いたい。本当にありがとうな」
「いいえ、そんな__」

決意を新たに視線を上げた。一つ息を吐いて拳を握る。捌ききれない事柄が、まだまだ山程控えてる。
全部俺のせいなんだ、俺の責任だ__俺がやらなきゃ。ラウダへの贖罪も、会社の事も。
全部、全部ちゃんとしなきゃ。

俺は本来、生きてちゃならない存在だ__。
生きた亡霊、生きる屍。それが今の俺だ。
生き残るべきだったのは間違いなく俺じゃない、父さんの方だったんだ。
俺の罪は一生消えない。
だから今__。
いま、ここで全てを捨てると決めた。
今まで俺が生きて来た軌跡。その全てを、だ。

将来の夢、初恋の人、学生生活、同寮の友人達とは悪ノリもしてきた。ホルダー、寮長、ジェタークの跡取り息子、諸々の肩書は誇りでもあったが息苦しくもあり、それを尊大な、または突っ撥ねた態度を取る事で、周囲や自分をも誤魔化しながら精一杯その務めをこなそうと演じて来た。ミオリネには散々手を焼かされた。躍起になっても上手くいかない事も多かったが、押し並べて印象を語れば、学園生活の3年近くの期間はそれなりに楽しかったと言えるだろう。

それらの全てを、まるっと捨てると決めた。そうでもしなきゃ、俺は、俺を許せない。
いや、どこまでいっても、きっと俺は俺を許せないだろうが__。
誰も彼も、許してなどくれないだろうが。
それでも、俺がやらなきゃなんだ__。

まずは学園に、寮の皆に謝りに行こう。それが済んだらラウダの回復を待ち、正式に引継ぎの手続きだ。

唇を引き結び、その一歩を今踏み出す。足は枷を引き摺るように重たく感じた。
「グエル先輩__」
「__?」
馴染み深いその声に、いつもの癖でつい振り返ってしまう。安堵した様子のペトラが、目じりを下げて泣き顔みたいな顔で微笑みかける。
「おかえりなさい__」

俺はほんの少しだけ、口角をあげようと試みる。それがきちんと笑顔になっていたのか、自分でも分からなかった。
返事はあえてしなかった。
『ただいま』なんて言えるはずもない。そのような言葉を口に出来る資格など、疾うの昔に、あの忌まわしき日に失った。
今の自分は " 死に値する罪と果たすべき贖罪 " それ以外の何物も、持ち合わせてはいないのだから__。



 彼がボブからグエルに戻ってしまった衝撃と、兄によって突然宣告された『学園に戻れ』との言葉のショックで倒れた僕は、ボブを担ぎこんだあの日とは逆に、兄さんによってグループ内の総合医療センターに担ぎ込まれたらしい。
意識を取り戻した時、僕の傍にはボブと同じ優しい微笑みを向ける兄が居て、温かな手のひらで僕の手は包まれていた。ホッと息を解いたのも束の間に、兄さんは柔らかな笑顔を浮かべたまま、冷酷な一言を言い放った。
「お前には、ちゃんと卒業して欲しい」

それを聞いた僕は、徐ろに患者衣のままベッドから立ち上がる。足は裸足だ。鎖骨の辺りまで大きく開いたガウンや手術着ような服の作りが悪いのか、兄の__、グエルの発する言葉のせいか、胸の辺りまでゾクゾクと底冷えがした。

「待ってよ、『お前には』ってどういう事? 兄さんの卒業はどうなるんだよ!? そんな事言って、自分の事はまた置き去りなのか!?」
咄嗟に兄の首元辺りを両手で掴んで詰め寄った。嫌でも目に入ってくる海老茶色。伸縮性の良い、滑りの良い上質な布地だ。

兄さんときたら、いやに手際が良いじゃないか__。

僕が寝てる間に急遽仕立てでもしたのだろうか、見慣れた色のビジネススーツに身を包み、まるで決定事項のように振る舞おうとする様相に、思わず苛立ちが込み上げる。髪までキチンと束ねて撫で付けて、しっくり馴染んで似合う様が殊更憎い。

「俺はいい……今は会社の方が大事だ、落ち着いたら改めて、その時に考える」
胸倉を掴まれた兄は、少し驚いたような顔を見せた後で俯き気味にそっぽを向いて、こちらの視線を受け流そうとする。その様子に猶更カッとなる。
「その時にって…、何も考えて無いのと同じじゃないか!! いつもいつもそうやって、自分ばかり犠牲にするなよ!! そんなの、さすがに賛成なんて出来ないよ!! 」

急に立ち上がって大声を張り上げたせいか、頭が少しフラついて、足元がよろけてしまい兄の大きな手に抱き留められる。耳元で聞こえる「大丈夫か?」の言葉は思いっきり無視をした。確りしろ、こんなんじゃまた頼りないと思われてしまう。歯を食い縛って足を踏ん張るが、肩に置かれた均整の取れた筋肉質なその腕は、僕をベッドに押し戻そうと力を込める。

「少し落ち着け。お前は疲労が溜まってるんだ。意識が戻った後も無理はさせるなと言われている。医者の話では過労からくるものだそうだが、ゆっくり休めば回復するそうだ。これからは、俺がちゃんとするから、会社の事もお前の事も全部、俺が確り守るから__」
兄は僕を寝台に寝かしつけようと、軽く肩を叩いて宥め賺す。
その腕を僕は乱暴に振り払った。
「ちゃんとしようと言うのなら尚更の事、二人で協力し合わなければ駄目じゃないか!! 父さんはもう、いないんだから!!」

ハッとしたようにその表情が硬くなった。眉根が寄った眉間には、深い縦皺が刻まれてゆく。苦虫を嚙み潰したように顔を歪めた後で、兄さんはゆっくりと口を開いた。

「父さんの葬儀……顔も出さずに…悪かった……」
「そんなことを言ってるんじゃない、別に責めてるわけじゃないんだ、僕が話し合いたいのはこれからのこと__やりようはいくらでもあるじゃないか、何も兄さんが一人で無理しなくったって、CEOの仕事は二人で交互にやりくりすれば、時間は掛かっても二人揃って卒業出来る、だから__」
そこまで口にした時、病室のドアがノックで数度叩かれた。

「はい、 少しお待ちください」
兄が先に返答し、病室のドアに歩み寄る。扉の向こうで『周辺から騒がしいとのコールが…、何かありましたか?』との看護師の声が聞こえる。兄は少しだけ扉を引いて、空いた隙間から僕が意識を取り戻した事を説明し、そして少しばかり情緒が乱れているようだと小声で付け加えている。
いや、それはあなたの言葉のせいだろ。
看護師は当直の医師を呼んでくると言い残して、足音は遠ざかって行った。

「__だそうだ。今、先生が体の具合を見に来てくれる。ほら、ベッドに戻れ。話はまた後だ」
「でも__」
「病院に迷惑を掛けるな。話は改めて聞く。だから今は体を休めろ、な?」
唇を噛み締めたまま、拳を握って棒立ちしていた僕は、戸口から戻って来た兄の腕に肩を抱かれ、大きな手で背中を優しくさすられる。情けないことにそれだけで、激した感情がするすると氷解していく。僕は促されるまま、仕方なしにベッドにこの身を横たえる。
「__分かったよ。でも兄さん、僕は納得してないからね」

 様子を見に来た医師らに意識の回復を喜ばれ、軽く打診や聴診を受けた後、点滴を打たれると途端に眠たくなってくる。おおかた兄さんの一言で、余計なものまで加えられたのだろう。閉じていく瞼に全力で抗いながら兄を見遣って、この手を優しく包むその手をギュッと握った。

あなたって人は__、僕の意見をいつも無視して、要らぬ先回りや勝手ばかり__。

抗議のつもりのそれを、兄さんは不安の現れと受け取ったのか、一瞬困ったような顔をした後で、この手を力強く握り返して僕の頭を優しく撫でた。

全く、もう__。この人には敵わない。
微睡みが迫る中、視界はあっという間に暗くなった。
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