タイトル?しらねぇな


朝の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
 冬休み前だからか、みんな浮ついている。
 ……いや、たぶん私が勝手にそう感じているだけだ。
私はいつもの席――いちばん後ろの窓側に鞄を置く。
 ここは、風通しがいい。
 人の声も、視線も、適度に遠い。
「雪菜、おはよー」
前の席の美咲が振り返る。
 彼女は朝から元気だ。羨ましい。
 嘘がつけない人間は、きっと生きやすい。
「おはよう、美咲」
そう返すと、美咲は満足そうに笑った。
 その笑顔を見ると、少しだけ胸がざわつく。
 ……私も、昔はあんなふうに笑っていたのかな。
席に座ると、窓の外の空がやけに白く見えた。
 雪が降る前の空気って、どうしてこんなに静かなんだろう。
 何かが始まる前の、深呼吸みたいな沈黙。
「ねぇ雪菜、今日さ、転校生来るんだって」
美咲が机に身を乗り出してくる。
 転校生。
 この時期に?
……珍しい。
「へぇ」
興味がないわけじゃない。
 ただ、期待すると裏切られる。
 それを何度も経験したから、反応が薄くなるだけ。
「男子らしいよ。どんな人かなぁ」
美咲は楽しそうだ。
 私は曖昧に笑って、教室の前の方を見る。
ざわざわとした空気が、少しずつ形を持ち始める。
 “誰かが来る”というだけで、こんなに騒がしくなるんだ。
 ……平和だな、この教室は。
チャイムが鳴る。
 先生が入ってきて、出席簿を机に置く。
「今日は転校生を紹介します」
教室が一瞬だけ静まる。
 その静けさが、妙に耳に残った。
扉が開く。
「阿佐見です。よろしくお願いします」
その声は、落ち着いていて、どこか淡々としていた。
転校初日の緊張感がない。
 ……慣れているのかな、こういうのに。
黒髪は整っていて、制服の着方もきれい。
 でも、きれいすぎるものって、逆に“作り物”に見える。
 私はそういうのに敏感だ。
阿佐見は教室をゆっくり見渡す。
 その視線が、私の方に一瞬だけ止まった気がした。
気のせいだと思いたい。
 でも、胸の奥がひどくざわついた。
「じゃあ、空いている席に座ってくれ」
先生に促され、阿佐見は歩き出す。
 足音がやけに静かだ。
 ……いや、私が過敏になっているだけか。
彼が座ったのは、私の斜め前。
 近い。
 近すぎる。
でも、彼は振り返らない。
 ただ前を向いて、机に手を置いている。
――なんだろう、この感じ。
初対面のはずなのに、どこか“既視感”がある。
でも、思い出せない。
 思い出したくないのかもしれない。
私は深く息を吸った。
 冬の空気は冷たくて、肺が少し痛い。
……大丈夫。
 ただの転校生。
 ただの、日常の一部。
そう思い込もうとした瞬間。
阿佐見が、ほんの少しだけ横を向いた。
 目が合った。
 気のせいじゃない。
そして、彼は何も言わずに前を向いた。
――なんで、そんな目で見るの。
私は知らない人に見られるのが苦手だ。
 嘘を見透かされる気がするから。
でも、阿佐見の視線は……
 “知っている人を見る目”だった。
そんなはず、ないのに。

四時間目が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。
 昼休み。
 みんなが一番“素”に戻る時間。
私は弁当を広げながら、窓の外をぼんやり眺めていた。
 冬の光は弱くて、校庭の影が長い。
 ……今日も寒いな。
「雪菜、今日部活あるんでしょ?」
美咲がパンをかじりながら聞いてくる。
「うん。まぁ、いつも通り」
“いつも通り”という言葉は便利だ。
 何も説明しなくていい。
 深く踏み込まれない。
「ねぇ、雪菜ってさ」
美咲が何か言いかけたとき。
「ここ、いい?」
その声が割り込んできた。
顔を上げると、阿佐見が立っていた。
 弁当を持って、当たり前のように。
……なんで、こっちに来るの。
美咲が驚いた顔で私を見る。
 私も同じ気持ちだ。
「えっと……席、空いてるよ?」
美咲が答えると、阿佐見は軽く会釈して座った。
 私の斜め前。
 教室でも家でもないのに、距離が近い。
「転校初日って、どこに座ればいいか分からなくてさ」
阿佐見はそう言って笑った。
 その笑顔は、やっぱり整いすぎている。
……嘘だ。
 絶対に嘘だ。
 “どこでもいい”なら、わざわざ私の近くに来る理由がない。
でも、口には出さない。
 出せない。
「阿佐見くん、どこから来たの?」
美咲が話を振る。
 阿佐見は少し考えてから答えた。
「……ちょっと遠いところ」
曖昧すぎる。
 普通なら地名を言うはずだ。
 言いたくない理由があるのか、言えないのか。
私は箸を止めたまま、二人の会話を聞いていた。
「雪菜さんは、部活してるんだよね」
突然、名前を呼ばれた。
 心臓が跳ねる。
「……なんで知ってるの」
思わず口に出てしまった。
 阿佐見は少しだけ目を細めた。
「さっき、美咲さんが言ってたから」
美咲を見ると、
 「あ、ごめん、言っちゃったかも」
 と苦笑いしている。
……そうか。
 そういうことなら、納得できる。
でも、胸のざわつきは消えない。
「どんな部活?」
「……文芸部。人数少ないけど」
「へぇ。いいね」
阿佐見は興味深そうに言った。
 その声が、妙に自然で、逆に不自然だった。
昼休みが終わる頃、阿佐見がふと立ち上がった。
「雪菜さん」
「……なに」
「放課後、少しだけ時間ある?」
私は息を呑んだ。
 美咲も驚いている。
「別に、長くじゃなくていいんだ。ただ……」
阿佐見は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「学校のこと、教えてほしくて」
その言い方は、転校生としては自然だ。
 でも、どこか“狙っている”ようにも聞こえる。
私は迷った。
 断る理由はある。
 でも、断ったら――
また“嘘をつく自分”が増える気がした。
「……少しだけなら」
そう答えると、阿佐見は静かに微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、放課後に」
その瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。
これは偶然じゃない。
 でも、まだ“事件”じゃない。
ただの、日常の延長。
 ……そう思い込むことにした。


放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に軽くなる。
 みんなが一斉に立ち上がり、部活へ行く人、帰る人、友達と話し込む人。
 私はいつも通り、ゆっくりと鞄を持った。
……さて。
 約束、したんだよね。
 別に断ってもよかったはずなのに。
廊下に出ると、阿佐見が壁にもたれて待っていた。
 まるで、最初からそうするつもりだったみたいに自然に。
「来てくれてよかった」
その言い方が、妙に落ち着いている。
 転校初日で、誰も知らない学校で、どうしてそんなに余裕があるんだろう。
「……案内するだけだから」
私はそう言って歩き出した。
 阿佐見は一歩後ろをついてくる。
 距離が近すぎず、遠すぎず。
 “慣れてる”距離感。
――転校生って、こんなに馴染むの早かったっけ。
まずは階段を降りて、特別教室棟へ向かう。
「ここが理科室。実験のときに使う」
「へぇ、綺麗だね」
阿佐見はガラス越しに中を覗く。
 その横顔が、どこか“懐かしそう”に見えた。
……懐かしい?
 この学校に来たの、今日だよね。
「前の学校でも、こういう感じだったの?」
思わず聞いてしまった。
 阿佐見は少しだけ間を置いて、
「……まぁ、似たようなものかな」
と曖昧に笑った。
似たようなもの。
 便利な言葉だ。
 言いたくないことを隠すとき、人はよく使う。
次に図書室へ向かう。
 放課後の図書室は静かで、紙の匂いが落ち着く。
「ここ、好き?」
阿佐見が小声で聞いてきた。
「……別に。静かなだけ」
「静かな場所が好きなんだね」
「そういうわけじゃない」
即答してしまった。
 図書室が好きだなんて言ったら、何かを知られそうで。
阿佐見はそれ以上何も言わなかった。
 ただ、棚の背表紙をゆっくり眺めている。
その視線が、妙に丁寧だった。
 まるで“探しているもの”があるみたいに。
「次、行くよ」
私は歩き出した。
 阿佐見は静かに後ろをついてくる。
廊下を歩いていると、ふと阿佐見が口を開いた。
「雪菜さんって、案内するの上手だね」
「……普通だよ」
「普通、か」
阿佐見はその言葉を、まるで味わうように繰り返した。
普通。
 私が一番嫌いで、一番欲しい言葉。
「文芸部って、この先?」
「うん。もうすぐ」
文芸部の前に着くと、扉の前で阿佐見が立ち止まった。
「ここが、雪菜さんの部活か」
「……そうだけど」
「入ってみてもいい?」
その言い方は、見学希望の転校生としては自然だ。
 でも、目が笑っていなかった。
まるで――
 “ここに来ることを知っていた”みたいに。
「別に、いいけど……」
私は扉を開けた。
 文芸部の部室は、いつも通り静かで、少し埃っぽい。
阿佐見は一歩中に入り、部屋を見渡した。
「……やっぱり、こういう場所なんだ」
“やっぱり”。
 まただ。
今日、彼は二回目だ。
 初めて来た場所に対して“やっぱり”なんて言う理由はない。
私は思わず聞いてしまった。
「……何が“やっぱり”なの」
阿佐見は振り返り、静かに微笑んだ。
「雪菜さんが、こういう場所にいるってこと」
心臓が、ひどく冷たくなった。
どうして、そんなことを言うの。
 どうして、私のことを知っているみたいな言い方をするの。
私の体は彼を恐れているのかもしれない、この時に初めてわかった。

阿佐見は部室の奥へゆっくり歩いていった。
 棚の本を一冊ずつ眺めるでもなく、触れるでもなく、
 ただ“位置を確かめる”みたいに視線を滑らせていく。
まるで、ここに何が置かれているか――
 知っている人の歩き方だった。
そんなはず、ないのに。
「静かだね、この部屋」
阿佐見がぽつりと言う。
「……文芸部だから」
「うん。でも、それだけじゃない気がする」
その言葉の意味が分からなくて、私は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「なんとなく、だけど……」
阿佐見は部屋の隅、古いロッカーの方をちらりと見た。
「ここ、前にも誰かが“隠れてた”みたいな空気がある」
心臓が一瞬止まった。
隠れてた。
 その言葉は、雪菜の“過去の嘘”に直結する言葉だ。
でも、阿佐見はそれを知らないはずだ。
 知らないはずなのに、どうしてそんな言い方をするの。
「……気のせいじゃない?」
自分でも驚くほど、声が硬かった。
阿佐見は振り返り、少しだけ首を傾げた。
「そうかもしれない。でも、こういう空気って、残るから」
“残る”。
 まるで、何かを知っている人の言い方。
私は机の端を指でなぞりながら、心の中で呟いた。
――やっぱり、この人は変だ。
でも、変だからといって、悪い人とは限らない。
 ただ、私の“過去”に触れそうな気配が怖いだけ。
「雪菜さん」
名前を呼ばれて、思わず顔を上げた。
「文芸部って、普段は何してるの?」
「あ……えっと、自由。読んだり、書いたり」
「雪菜さんは?」
「……読む方が多いかな」
「そっか。なんとなく、そう思った」
まただ。
 “なんとなく”で済ませるには、言い方が具体的すぎる。
私は視線を逸らし、窓の外を見た。
 夕方の光が弱くて、部室の埃がきらきらしている。
「……そろそろ、部活始まるから」
「うん。邪魔しないようにするよ」
阿佐見はそう言って、部室の隅の椅子に静かに座った。
 まるで、ここが自分の居場所であるかのように自然に。
私は胸の奥がざわつくのを抑えながら、机にノートを広げた。
――どうして、この人はこんなに“馴染む”んだろう。
初日なのに。
 私より、この部屋のことを知っているみたいに。
気のせいだ。
 気のせいであってほしい。
でも、心のどこかで分かっていた。
阿佐見悠は、偶然ここに来たわけじゃない。
その確信だけが心に静かに沈んでいった。

文芸部の活動が終わる頃には、外はすっかり夕方の色になっていた。
 冬の空は暗くなるのが早い。
 窓の外の校庭は、もうほとんど影だけでできている。
私は鞄を肩にかけて、部室を出た。
 廊下は静かで、足音がよく響く。
――今日は、長い一日だった。
転校生。
 昼休み。
 学校案内。
 文芸部。
全部が“偶然”にしては、重なりすぎている。
階段を降りようとしたとき。
「雪菜さん」
振り返ると、阿佐見がいた。
 部室を出た気配なんてなかったのに、いつの間に。
「帰るの?」
「……うん」
「じゃあ、一緒に行ってもいい?」
その言い方は自然だった。
転校初日で、帰り道が分からないのは普通だ。
でも――
 普通すぎることが、逆に不自然に感じる日もある。
「……別に、いいけど」
私は階段を降りた。
 阿佐見は一歩後ろを歩く。
 昼休みと同じ距離感。
校門を出ると、冷たい風が頬を刺した。
 冬の匂いがする。
「雪菜さんの家、この方向?」
「……まぁ、だいたい」
「だいたい、か」
阿佐見は小さく笑った。
 その笑い方が、どこか“懐かしむ”ようで、胸がざわつく。
しばらく無言で歩いた。
 沈黙が苦手なわけじゃない。
 むしろ、沈黙の方が安心する。
でも、阿佐見と歩く沈黙は――
 何かを待っている沈黙に感じた。
「雪菜さん」
「……なに」
「今日、案内してくれてありがとう」
「別に。頼まれたからしただけ」
「うん。でも、助かったよ」
その声は、妙に柔らかかった。
 柔らかすぎて、逆に距離が分からなくなる。
「明日も、よろしくね」
「……何を?」
「学校のこと、いろいろ」
阿佐見はそう言って、少しだけ前を向いた。
 夕焼けの光が横顔に当たって、表情が読めない。
――この人は、何を知っているんだろう。
聞きたいのに、聞けない。
 聞いたら、何かが壊れる気がする。
家の近くの交差点で、阿佐見が立ち止まった。
「ここで大丈夫。ありがとう」
「……うん」
「また明日」
そう言って手を軽く上げる。
 その仕草が、どうしてか“別れ慣れている人”のものに見えた。
私は家に向かいながら、心の中で呟いた。
――明日、何が起きるんだろう。
そんな予感が、冬の空気より冷たく胸に残った。

翌朝の教室は、いつもよりざわついていた。
 冬休み前だから……ではない。
 もっと“具体的なざわつき”。
「ねぇ聞いた?」「やばくない?」「誰がやったの?」
美咲が私の席に駆け寄ってきた。
「雪菜!大変だよ!」
「……何が?」
「ほら、これ!」
美咲がスマホを見せてくる。
 画面には、クラスのグループチャット。
『香帆の財布がなくなった』
「昨日の放課後に気づいたんだって!
  でね、誰かが拾ったって言ってるんだけど……」
美咲は声をひそめた。
「その“拾った人”が、誰か分からないんだって」
拾ったのに名乗らない。
 それはつまり――
嘘をついている人がいる。
胸がざわつく。
 こういう嘘は、日常の中に普通にある。
 でも、普通だからこそ、私は苦手だ。
そのとき。
「雪菜さん」
阿佐見が、いつの間にか隣に立っていた。
「……おはよう」
「財布の件、聞いた?」
「……うん」
阿佐見は教室を一度見渡し、静かに言った。
「これ、嘘だよね」
「……何が?」
「“拾った人がいる”って話。
  本当に拾ったなら、名乗らない理由がない」
その言い方は、断言に近かった。
「雪菜さん。
  昨日、文芸部の前で言ってたよね」
「……何を?」
「“隠れてた人がいたみたい”って話」
私は息を呑んだ。
そんなこと、私は言っていない。
 言っていないのに――
 阿佐見は“知っている”。
「この学校、嘘が多いね」
阿佐見はそう言って、微笑んだ。
その笑顔は、昨日よりもずっと“本物”に見えた。
 でも、それが逆に怖い。
「雪菜さん。
  一緒に探してみない?」
「……何を」
「嘘をついている人を」
その瞬間、私は悟った。
これはただの“財布紛失”じゃない。
 もっと大きな何かの、最初の一歩。
そして――
 阿佐見悠は、最初からその一歩を待っていた。

阿佐見の「嘘をついている人を」という言葉が、
 教室のざわめきの中で、やけに静かに響いた。
まるで、私だけに聞こえるように。
「……どうして、そう思うの」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
 聞かれたくなかったのかもしれない。
 誰に、というわけでもなく。
阿佐見は、少しだけ目を細めた。
 笑っているようにも、考えているようにも見える曖昧な表情。
「理由は、あとで話すよ。
  今は……雪菜さんと一緒に見たいんだ」
“見たい”。
 その言い方が、妙に引っかかった。
まるで、
 私がどう反応するかを知っている人の言い方だった。
「……別に、私じゃなくてもいいでしょ」
そう言ったつもりだったのに、
 声が少し震えていた。
阿佐見は、すぐには答えなかった。
教室のざわつきを一度見渡してから、静かに言った。
「雪菜さんじゃないと、意味がないんだ」
心臓が、ひどく冷たくなった。
意味がない?
 どうして私なの。
 どうして、そんなふうに言えるの。
聞きたいのに、聞けない。
 聞いたら、何かが壊れる気がする。
「……とりあえず、香帆さんの席に行ってみよう」
阿佐見はそう言って、自然に歩き出した。
 まるで、最初からそうするつもりだったみたいに。
私は一瞬迷ってから、後を追った。

香帆の席の周りには、数人の女子が集まっていた。
 心配しているというより、
 “事件の中心にいたい”という好奇心の方が強いように見える。
香帆は、机に突っ伏すようにして座っていた。
 泣いているわけではないけれど、
 目の奥が赤い。
「……大丈夫?」
美咲が声をかけると、香帆は小さく頷いた。
「財布、ほんとにないの。
  昨日、帰る前に気づいて……」
「拾ったって言ってる人は?」
「……分かんない。
  チャットで“拾った”って言っただけで、
  誰か名乗らないの」
香帆の声は震えていた。
 その震えが、妙に胸に刺さる。
――嘘のせいで、誰かが傷つく。
それは、私が一番よく知っていることだ。
阿佐見は、香帆の机の上を静かに見つめていた。
何かを探すように。
 何かを思い出すように。
「……雪菜さん」
小さく呼ばれて、私は顔を上げた。
「昨日、文芸部の前で言ってたよね。
  “隠れてた人がいたみたい”って」
「……言ってないよ」
「うん。知ってる」
知ってる?
 じゃあ、どうして――
阿佐見は続けた。
「でも、あの場所には“誰か”いたんだよ。
  雪菜さんが知らないだけで」
胸の奥が、ぎゅっと縮まった。
どうしてそんなことが言えるの。
 どうして、そんなふうに断言できるの。
阿佐見は、香帆の机の端に置かれた小さなキーホルダーを指先で示した。
「これ、昨日は……ここになかったよね」
香帆が驚いた顔をした。
「え……なんで分かるの?」
阿佐見は答えなかった。
 ただ、静かに香帆を見つめていた。
私はその横顔を見ながら、
 胸の奥に広がる違和感を抑えられなかった。
――阿佐見悠は、知りすぎている。
財布のことも。
 文芸部のことも。
 私のことも。
そして今、
 “昨日ここに何があったのか”まで。
まるで、
 全部、最初から知っていたみたいに。

香帆の席の周りは、まだざわざわしていた。
 誰もが“事件の中心”にいたいだけで、
 本気で心配している人は少ない。
そんな空気の中で、
 阿佐見だけが、妙に静かだった。
「……雪菜さん」
小さく呼ばれて、私は顔を上げた。
「昨日の放課後、文芸部の前にいた人。
  たぶん、この件に関わってる」
「……どうしてそう思うの」
聞きながら、自分の声が少し震えているのが分かった。
 怖いのは“事件”じゃない。
 阿佐見が、知りすぎていることだ。
阿佐見は、香帆の机の端に置かれたキーホルダーを指先で軽く触れた。
「これ、昨日はここになかった。
  香帆さんの机の上じゃなくて……床に落ちてた」
香帆が驚いた顔をした。
「え……なんで知ってるの?」
阿佐見は答えない。
 ただ、静かに香帆を見つめている。
私はその横顔を見ながら、
 胸の奥がざわざわと波立つのを感じていた。
――どうして、そんなことまで知ってるの。
香帆は不安そうに唇を噛んだ。
「……じゃあ、誰かがここに来たってこと?」
「うん。
  しかも、香帆さんの席を“探した”人だ」
探した。
 その言葉に、教室の空気が少しだけ変わった。
「なんで……?」
香帆の声は震えていた。
阿佐見は、少しだけ視線を落とした。
 まるで、言うべき言葉を選んでいるように。
「財布を“拾った”って言った人は……
  本当は拾ってない。
  拾ったなら、ここに来る必要はないから」
私は息を呑んだ。
――確かに。
拾ったなら、届ければいい。
 わざわざ“探す”必要なんてない。
でも、阿佐見の言い方は、
 “推理”というより“確認”に近かった。
まるで、
 最初から答えを知っている人の言い方。
香帆は不安そうに私を見る。
「雪菜……どうしよう……」
私は何も言えなかった。
 慰める言葉も、励ます言葉も、
 全部“嘘”になりそうで。
そのとき。
「放課後、少し時間ある?」
阿佐見が、私にだけ聞こえる声で言った。
「……どうして」
「現場を見たいんだ。
  昨日、誰がここに来たのか。
何を探したのか。
  そして……どうして“雪菜さん”が気づかなかったのか」
胸が、ひどく冷たくなった。
どうして私が気づかなかったのか――
 そんなこと、私が一番知りたい。
でも阿佐見は、
 まるで“答えを知っている側”の人間みたいに言う。
「……分かった。放課後」
そう答えた瞬間、
 阿佐見は静かに微笑んだ。
その笑顔は、昨日よりもずっと柔らかくて、
 でもどこか、痛みを含んでいるように見えた。
まるで――
 私がこれから知ることを、
  阿佐見だけが先に知っているみたいに。


放課後のチャイムが鳴ると、
 教室のざわめきは一気に軽くなった。
私は鞄を持って立ち上がる。
 阿佐見は、もう廊下にいた。
 まるで、私が来るのを知っていたみたいに。
「行こうか」
その言い方は自然なのに、
 どこか“待っていた”響きがあった。
私は頷き、二人で廊下を歩き出した。
昨日と同じ廊下。
 同じ光。
 同じ匂い。
でも、今日は違う。
 “事件の現場”として見ると、
 空気が少しだけ重く感じる。
「ここだよね、昨日の場所」
阿佐見が立ち止まる。
 私は無意識に息を呑んだ。
「……うん」
阿佐見は、ゆっくりと周囲を見渡した。
 その視線は、まるで“記憶をなぞる”ようだった。
「雪菜さん。
  昨日、ここに来たとき……何か違和感はなかった?」
「……別に。いつも通りだった」
「そう。
  “いつも通り”って、便利な言葉だよね」
その言い方が、胸に刺さった。
阿佐見は、文芸部の扉の前にしゃがみ込んだ。
 床を指先で軽くなぞる。
「ここ、見て」
私は覗き込む。
床に、薄く擦れた跡があった。
 誰かが靴で踏んだような、
 でも“立ち止まった”ような跡。
「……これ、昨日はなかった」
「どうして分かるの」
聞いた瞬間、
 阿佐見は一瞬だけ目を伏せた。
「分かるよ。
  だって、昨日の雪菜さん……
  ここを避けて歩いたから」
心臓が跳ねた。
「……なんで、そんなことまで」
「見てたから」
その言葉は、
 優しいのに、どこか怖かった。
阿佐見は立ち上がり、
 部室の隅にある古いロッカーの前に立った。
「昨日、ここに“誰か”いた」
「……どうして言い切れるの」
阿佐見は、ロッカーの取っ手を軽く触れた。
「ここだけ、埃が落ちてる。
  誰かが触った跡だよ」
確かに、取っ手の周りだけ埃が薄い。
「でも……それだけじゃ」
「雪菜さん。
  昨日、君はここを見なかった」
「……見てないよ」
「だから、気づかなかったんだよ」
その言い方は、
 まるで“雪菜の過去”を知っている人のようだった。
胸の奥がざわつく。
「じゃあ……誰がここにいたの」
阿佐見は、少しだけ間を置いてから言った。
「“拾った”って言った人だよ」
私は息を呑んだ。
「じゃあ……その人は、
  財布を探してたんじゃなくて……」
「うん。
  “何か別のもの”を探してた」
阿佐見の声は静かだった。
 静かすぎて、逆に怖い。
「雪菜さん。
  この事件……
  財布よりも大事な“何か”が隠れてる」
その言葉が、
 冬の空気より冷たく胸に落ちた。

文芸部の前の廊下は、放課後の光に照らされて、
 どこか薄暗く見えた。
阿佐見は、ロッカーの前に立ったまま動かない。
 その横顔は、何かを思い出しているようで、
 でも、どこか“覚悟”のようなものも感じられた。
「雪菜さん」
静かに呼ばれて、私は息を呑んだ。
「昨日、ここにいたのは……
  “拾った人”じゃないよ」
「……じゃあ、誰?」
阿佐見は、少しだけ目を伏せた。
 その仕草が、胸に刺さる。
「“落とした人”だよ」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「……香帆が、落としたってこと?」
「違う。
  “落としたふりをした人”」
胸の奥が冷たくなる。
「どういう……こと?」
阿佐見は、ロッカーの取っ手を軽く押した。
 ギィ、と古い金属音が響く。
中には、何もない。
 でも、埃の薄さが不自然だった。
「ここに、何かが入ってた。
  財布じゃない。
  もっと小さくて……もっと大事なもの」
私は息を呑んだ。
「じゃあ……その人は、
  財布を“拾った”んじゃなくて……」
「“隠した”んだよ」
阿佐見の声は、静かだった。
 静かすぎて、逆に怖い。
「香帆さんの財布は、最初からここにはなかった。
  でも、“何か”はここにあった。
  それを隠した人が、
“拾った”という嘘をついた」
私は震える声で聞いた。
「……なんで、そんな嘘を?」
阿佐見は、ゆっくりと私の方を向いた。
その目は、
 私の過去を知っている人の目だった。
「雪菜さん。
  嘘ってね……
  “誰かを守るため”につかれることがあるんだよ」
心臓が止まりそうになった。
その言葉は、
 私の“過去の嘘”に直結していた。
「……誰を、守るため?」
阿佐見は、ほんの少しだけ微笑んだ。
 その笑顔は、痛みを含んでいた。
「香帆さんじゃない。
  “拾った人”でもない。
  守られたのは……
  “別の誰か”だよ」
私は喉が固まって、声が出なかった。
阿佐見は続けた。
「雪菜さん。
  昨日、君がここを通ったとき……
  “誰か”がこのロッカーにいた。
  でも君は気づかなかった。
  気づけなかったんだ」
「……どうして」
「だって、その人は……
  “君が一番、見たくない人”だから」
胸が、ひどく痛くなった。
「……誰?」
阿佐見は、静かに言った。
「雪菜さんの“過去の嘘”に関わった人だよ」
世界が一瞬、止まった気がした。
その瞬間、
 廊下の向こうから足音が聞こえた。
軽い足音。
 聞き慣れたリズム。
私は振り返る。
そこに立っていたのは――
美咲だった。
「……雪菜?」
その声は、いつもと同じなのに、
 どこか違って聞こえた。
阿佐見は、私の横で小さく息を吐いた。
「ね。
  “拾った人”じゃなかったでしょ」
私は震える声で言った。
「……美咲が……?」
美咲は、驚いたように目を見開いた。
 でも、その目の奥に――
 罪悪感の影が見えた。
「違うの、雪菜。
  私は……私は……」
阿佐見が静かに言った。
「美咲さん。
  昨日、ここで何を探してたの?」
美咲は唇を噛んだ。
涙が滲む。
「……ごめん……
  雪菜のせいじゃないの……
  私が……守りたかったのは……」
その声は震えていた。
「……阿佐見くん、だったの」
世界が、音を失った。

美咲は、ロッカーの前で立ち尽くしていた。
 泣きそうな顔で、でも泣かないように必死に堪えている。
その姿が、胸に刺さった。
「……美咲。
  どうして、こんなことしたの」
声が震えていた。
 怒りじゃない。
 悲しみでもない。
ただ――
 理解できない痛みがあった。
美咲は唇を噛んだまま、
 ゆっくりと私の方を向いた。
「雪菜……ごめん。
  でも、私……どうしても、守りたかったの」
「誰を?」
美咲は、阿佐見を見た。
その瞬間、
 胸の奥がひどく冷たくなった。
「……阿佐見くん、だったの」
阿佐見は驚いたように目を見開いた。
 でも、すぐに静かに目を伏せた。
「美咲さん……
  どうして、僕を?」
美咲は震える声で言った。
「だって……
  あなた、知ってるでしょ?
  雪菜の“過去の嘘”のこと」
私は息を呑んだ。
美咲は続けた。
「雪菜は知らないけど……
  あの嘘のせいで、雪菜は全部失った。
  友達も、居場所も……
  自分のことも信じられなくなった」
胸が痛い。
 でも、止められない。
「でもね……
  あの嘘って、
  本当は“雪菜を傷つけるため”じゃなかったの」
美咲は涙をこぼした。
「“阿佐見くんを守るため”につかれた嘘だったの」
世界が、音を失った。
阿佐見は、静かに目を閉じた。
 その表情は、痛みを抱えた人のものだった。
「……知ってたの?」
私の声は、かすれていた。
阿佐見は、ゆっくりと頷いた。
「うん。
  僕は……全部知ってる。
  雪菜さんが、僕の代わりに傷ついたことも。
  君が何も知らずに、ひとりで苦しんだことも」
胸が締めつけられた。
「じゃあ……
  どうして言ってくれなかったの」
阿佐見は、私をまっすぐ見た。
 その目は、優しくて、痛くて、
 どこか泣きそうだった。
「言えるわけないよ。
  “君が傷ついたのは僕のせいだ”なんて……
そんなこと、言えるわけがない」
私は息を呑んだ。
阿佐見は続けた。
「だから……
  せめて、君が“嘘に負けないように”って思った。
  小さな嘘からでいい。
  一緒に解いていけば、
  いつか……君が自分の過去の嘘にも向き合えると思った」
その言葉は、
 優しさでもあり、
 罪悪感でもあり、
 祈りのようでもあった。
美咲は泣きながら言った。
「だから私……
  阿佐見くんがまた巻き込まれないように、
  財布を“拾ったふり”をしたの。
  本当は……
  阿佐見くんが疑われそうだったから」
私は震える声で言った。
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