タイトル?しらねぇな
作成日時: 2025-12-31 20:49:21
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朝の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
冬休み前だからか、みんな浮ついている。
……いや、たぶん私が勝手にそう感じているだけだ。
私はいつもの席――いちばん後ろの窓側に鞄を置く。
ここは、風通しがいい。
人の声も、視線も、適度に遠い。
「雪菜、おはよー」
前の席の美咲が振り返る。
彼女は朝から元気だ。羨ましい。
嘘がつけない人間は、きっと生きやすい。
「おはよう、美咲」
そう返すと、美咲は満足そうに笑った。
その笑顔を見ると、少しだけ胸がざわつく。
……私も、昔はあんなふうに笑っていたのかな。
席に座ると、窓の外の空がやけに白く見えた。
雪が降る前の空気って、どうしてこんなに静かなんだろう。
何かが始まる前の、深呼吸みたいな沈黙。
「ねぇ雪菜、今日さ、転校生来るんだって」
美咲が机に身を乗り出してくる。
転校生。
この時期に?
……珍しい。
「へぇ」
興味がないわけじゃない。
ただ、期待すると裏切られる。
それを何度も経験したから、反応が薄くなるだけ。
「男子らしいよ。どんな人かなぁ」
美咲は楽しそうだ。
私は曖昧に笑って、教室の前の方を見る。
ざわざわとした空気が、少しずつ形を持ち始める。
“誰かが来る”というだけで、こんなに騒がしくなるんだ。
……平和だな、この教室は。
チャイムが鳴る。
先生が入ってきて、出席簿を机に置く。
「今日は転校生を紹介します」
教室が一瞬だけ静まる。
その静けさが、妙に耳に残った。
扉が開く。
「阿佐見です。よろしくお願いします」
その声は、落ち着いていて、どこか淡々としていた。
転校初日の緊張感がない。
……慣れているのかな、こういうのに。
黒髪は整っていて、制服の着方もきれい。
でも、きれいすぎるものって、逆に“作り物”に見える。
私はそういうのに敏感だ。
阿佐見は教室をゆっくり見渡す。
その視線が、私の方に一瞬だけ止まった気がした。
気のせいだと思いたい。
でも、胸の奥がひどくざわついた。
「じゃあ、空いている席に座ってくれ」
先生に促され、阿佐見は歩き出す。
足音がやけに静かだ。
……いや、私が過敏になっているだけか。
彼が座ったのは、私の斜め前。
近い。
近すぎる。
でも、彼は振り返らない。
ただ前を向いて、机に手を置いている。
――なんだろう、この感じ。
初対面のはずなのに、どこか“既視感”がある。
でも、思い出せない。
思い出したくないのかもしれない。
私は深く息を吸った。
冬の空気は冷たくて、肺が少し痛い。
……大丈夫。
ただの転校生。
ただの、日常の一部。
そう思い込もうとした瞬間。
阿佐見が、ほんの少しだけ横を向いた。
目が合った。
気のせいじゃない。
そして、彼は何も言わずに前を向いた。
――なんで、そんな目で見るの。
私は知らない人に見られるのが苦手だ。
嘘を見透かされる気がするから。
でも、阿佐見の視線は……
“知っている人を見る目”だった。
そんなはず、ないのに。
四時間目が終わると、教室の空気が一気に緩んだ。
昼休み。
みんなが一番“素”に戻る時間。
私は弁当を広げながら、窓の外をぼんやり眺めていた。
冬の光は弱くて、校庭の影が長い。
……今日も寒いな。
「雪菜、今日部活あるんでしょ?」
美咲がパンをかじりながら聞いてくる。
「うん。まぁ、いつも通り」
“いつも通り”という言葉は便利だ。
何も説明しなくていい。
深く踏み込まれない。
「ねぇ、雪菜ってさ」
美咲が何か言いかけたとき。
「ここ、いい?」
その声が割り込んできた。
顔を上げると、阿佐見が立っていた。
弁当を持って、当たり前のように。
……なんで、こっちに来るの。
美咲が驚いた顔で私を見る。
私も同じ気持ちだ。
「えっと……席、空いてるよ?」
美咲が答えると、阿佐見は軽く会釈して座った。
私の斜め前。
教室でも家でもないのに、距離が近い。
「転校初日って、どこに座ればいいか分からなくてさ」
阿佐見はそう言って笑った。
その笑顔は、やっぱり整いすぎている。
……嘘だ。
絶対に嘘だ。
“どこでもいい”なら、わざわざ私の近くに来る理由がない。
でも、口には出さない。
出せない。
「阿佐見くん、どこから来たの?」
美咲が話を振る。
阿佐見は少し考えてから答えた。
「……ちょっと遠いところ」
曖昧すぎる。
普通なら地名を言うはずだ。
言いたくない理由があるのか、言えないのか。
私は箸を止めたまま、二人の会話を聞いていた。
「雪菜さんは、部活してるんだよね」
突然、名前を呼ばれた。
心臓が跳ねる。
「……なんで知ってるの」
思わず口に出てしまった。
阿佐見は少しだけ目を細めた。
「さっき、美咲さんが言ってたから」
美咲を見ると、
「あ、ごめん、言っちゃったかも」
と苦笑いしている。
……そうか。
そういうことなら、納得できる。
でも、胸のざわつきは消えない。
「どんな部活?」
「……文芸部。人数少ないけど」
「へぇ。いいね」
阿佐見は興味深そうに言った。
その声が、妙に自然で、逆に不自然だった。
昼休みが終わる頃、阿佐見がふと立ち上がった。
「雪菜さん」
「……なに」
「放課後、少しだけ時間ある?」
私は息を呑んだ。
美咲も驚いている。
「別に、長くじゃなくていいんだ。ただ……」
阿佐見は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「学校のこと、教えてほしくて」
その言い方は、転校生としては自然だ。
でも、どこか“狙っている”ようにも聞こえる。
私は迷った。
断る理由はある。
でも、断ったら――
また“嘘をつく自分”が増える気がした。
「……少しだけなら」
そう答えると、阿佐見は静かに微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、放課後に」
その瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。
これは偶然じゃない。
でも、まだ“事件”じゃない。
ただの、日常の延長。
……そう思い込むことにした。
放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に軽くなる。
みんなが一斉に立ち上がり、部活へ行く人、帰る人、友達と話し込む人。
私はいつも通り、ゆっくりと鞄を持った。
……さて。
約束、したんだよね。
別に断ってもよかったはずなのに。
廊下に出ると、阿佐見が壁にもたれて待っていた。
まるで、最初からそうするつもりだったみたいに自然に。
「来てくれてよかった」
その言い方が、妙に落ち着いている。
転校初日で、誰も知らない学校で、どうしてそんなに余裕があるんだろう。
「……案内するだけだから」
私はそう言って歩き出した。
阿佐見は一歩後ろをついてくる。
距離が近すぎず、遠すぎず。
“慣れてる”距離感。
――転校生って、こんなに馴染むの早かったっけ。
まずは階段を降りて、特別教室棟へ向かう。
「ここが理科室。実験のときに使う」
「へぇ、綺麗だね」
阿佐見はガラス越しに中を覗く。
その横顔が、どこか“懐かしそう”に見えた。
……懐かしい?
この学校に来たの、今日だよね。
「前の学校でも、こういう感じだったの?」
思わず聞いてしまった。
阿佐見は少しだけ間を置いて、
「……まぁ、似たようなものかな」
と曖昧に笑った。
似たようなもの。
便利な言葉だ。
言いたくないことを隠すとき、人はよく使う。
次に図書室へ向かう。
放課後の図書室は静かで、紙の匂いが落ち着く。
「ここ、好き?」
阿佐見が小声で聞いてきた。
「……別に。静かなだけ」
「静かな場所が好きなんだね」
「そういうわけじゃない」
即答してしまった。
図書室が好きだなんて言ったら、何かを知られそうで。
阿佐見はそれ以上何も言わなかった。
ただ、棚の背表紙をゆっくり眺めている。
その視線が、妙に丁寧だった。
まるで“探しているもの”があるみたいに。
「次、行くよ」
私は歩き出した。
阿佐見は静かに後ろをついてくる。
廊下を歩いていると、ふと阿佐見が口を開いた。
「雪菜さんって、案内するの上手だね」
「……普通だよ」
「普通、か」
阿佐見はその言葉を、まるで味わうように繰り返した。
普通。
私が一番嫌いで、一番欲しい言葉。
「文芸部って、この先?」
「うん。もうすぐ」
文芸部の前に着くと、扉の前で阿佐見が立ち止まった。
「ここが、雪菜さんの部活か」
「……そうだけど」
「入ってみてもいい?」
その言い方は、見学希望の転校生としては自然だ。
でも、目が笑っていなかった。
まるで――
“ここに来ることを知っていた”みたいに。
「別に、いいけど……」
私は扉を開けた。
文芸部の部室は、いつも通り静かで、少し埃っぽい。
阿佐見は一歩中に入り、部屋を見渡した。
「……やっぱり、こういう場所なんだ」
“やっぱり”。
まただ。
今日、彼は二回目だ。
初めて来た場所に対して“やっぱり”なんて言う理由はない。
私は思わず聞いてしまった。
「……何が“やっぱり”なの」
阿佐見は振り返り、静かに微笑んだ。
「雪菜さんが、こういう場所にいるってこと」
心臓が、ひどく冷たくなった。
どうして、そんなことを言うの。
どうして、私のことを知っているみたいな言い方をするの。
私の体は彼を恐れているのかもしれない、この時に初めてわかった。
阿佐見は部室の奥へゆっくり歩いていった。
棚の本を一冊ずつ眺めるでもなく、触れるでもなく、
ただ“位置を確かめる”みたいに視線を滑らせていく。
まるで、ここに何が置かれているか――
知っている人の歩き方だった。
そんなはず、ないのに。
「静かだね、この部屋」
阿佐見がぽつりと言う。
「……文芸部だから」
「うん。でも、それだけじゃない気がする」
その言葉の意味が分からなくて、私は眉をひそめた。
「どういうこと?」
「なんとなく、だけど……」
阿佐見は部屋の隅、古いロッカーの方をちらりと見た。
「ここ、前にも誰かが“隠れてた”みたいな空気がある」
心臓が一瞬止まった。
隠れてた。
その言葉は、雪菜の“過去の嘘”に直結する言葉だ。
でも、阿佐見はそれを知らないはずだ。
知らないはずなのに、どうしてそんな言い方をするの。
「……気のせいじゃない?」
自分でも驚くほど、声が硬かった。
阿佐見は振り返り、少しだけ首を傾げた。
「そうかもしれない。でも、こういう空気って、残るから」
“残る”。
まるで、何かを知っている人の言い方。
私は机の端を指でなぞりながら、心の中で呟いた。
――やっぱり、この人は変だ。
でも、変だからといって、悪い人とは限らない。
ただ、私の“過去”に触れそうな気配が怖いだけ。
「雪菜さん」
名前を呼ばれて、思わず顔を上げた。
「文芸部って、普段は何してるの?」
「あ……えっと、自由。読んだり、書いたり」
「雪菜さんは?」
「……読む方が多いかな」
「そっか。なんとなく、そう思った」
まただ。
“なんとなく”で済ませるには、言い方が具体的すぎる。
私は視線を逸らし、窓の外を見た。
夕方の光が弱くて、部室の埃がきらきらしている。
「……そろそろ、部活始まるから」
「うん。邪魔しないようにするよ」
阿佐見はそう言って、部室の隅の椅子に静かに座った。
まるで、ここが自分の居場所であるかのように自然に。
私は胸の奥がざわつくのを抑えながら、机にノートを広げた。
――どうして、この人はこんなに“馴染む”んだろう。
初日なのに。
私より、この部屋のことを知っているみたいに。
気のせいだ。
気のせいであってほしい。
でも、心のどこかで分かっていた。
阿佐見悠は、偶然ここに来たわけじゃない。
その確信だけが心に静かに沈んでいった。
文芸部の活動が終わる頃には、外はすっかり夕方の色になっていた。
冬の空は暗くなるのが早い。
窓の外の校庭は、もうほとんど影だけでできている。
私は鞄を肩にかけて、部室を出た。
廊下は静かで、足音がよく響く。
――今日は、長い一日だった。
転校生。
昼休み。
学校案内。
文芸部。
全部が“偶然”にしては、重なりすぎている。
階段を降りようとしたとき。
「雪菜さん」
振り返ると、阿佐見がいた。
部室を出た気配なんてなかったのに、いつの間に。
「帰るの?」
「……うん」
「じゃあ、一緒に行ってもいい?」
その言い方は自然だった。
転校初日で、帰り道が分からないのは普通だ。
でも――
普通すぎることが、逆に不自然に感じる日もある。
「……別に、いいけど」
私は階段を降りた。
阿佐見は一歩後ろを歩く。
昼休みと同じ距離感。
校門を出ると、冷たい風が頬を刺した。
冬の匂いがする。
「雪菜さんの家、この方向?」
「……まぁ、だいたい」
「だいたい、か」
阿佐見は小さく笑った。
その笑い方が、どこか“懐かしむ”ようで、胸がざわつく。
しばらく無言で歩いた。
沈黙が苦手なわけじゃない。
むしろ、沈黙の方が安心する。
でも、阿佐見と歩く沈黙は――
何かを待っている沈黙に感じた。
「雪菜さん」
「……なに」
「今日、案内してくれてありがとう」
「別に。頼まれたからしただけ」
「うん。でも、助かったよ」
その声は、妙に柔らかかった。
柔らかすぎて、逆に距離が分からなくなる。
「明日も、よろしくね」
「……何を?」
「学校のこと、いろいろ」
阿佐見はそう言って、少しだけ前を向いた。
夕焼けの光が横顔に当たって、表情が読めない。
――この人は、何を知っているんだろう。
聞きたいのに、聞けない。
聞いたら、何かが壊れる気がする。
家の近くの交差点で、阿佐見が立ち止まった。
「ここで大丈夫。ありがとう」
「……うん」
「また明日」
そう言って手を軽く上げる。
その仕草が、どうしてか“別れ慣れている人”のものに見えた。
私は家に向かいながら、心の中で呟いた。
――明日、何が起きるんだろう。
そんな予感が、冬の空気より冷たく胸に残った。
翌朝の教室は、いつもよりざわついていた。
冬休み前だから……ではない。
もっと“具体的なざわつき”。
「ねぇ聞いた?」「やばくない?」「誰がやったの?」
美咲が私の席に駆け寄ってきた。
「雪菜!大変だよ!」
「……何が?」
「ほら、これ!」
美咲がスマホを見せてくる。
画面には、クラスのグループチャット。
『香帆の財布がなくなった』
「昨日の放課後に気づいたんだって!
でね、誰かが拾ったって言ってるんだけど……」
美咲は声をひそめた。
「その“拾った人”が、誰か分からないんだって」
拾ったのに名乗らない。
それはつまり――
嘘をついている人がいる。
胸がざわつく。
こういう嘘は、日常の中に普通にある。
でも、普通だからこそ、私は苦手だ。
そのとき。
「雪菜さん」
阿佐見が、いつの間にか隣に立っていた。
「……おはよう」
「財布の件、聞いた?」
「……うん」
阿佐見は教室を一度見渡し、静かに言った。
「これ、嘘だよね」
「……何が?」
「“拾った人がいる”って話。
本当に拾ったなら、名乗らない理由がない」
その言い方は、断言に近かった。
「雪菜さん。
昨日、文芸部の前で言ってたよね」
「……何を?」
「“隠れてた人がいたみたい”って話」
私は息を呑んだ。
そんなこと、私は言っていない。
言っていないのに――
阿佐見は“知っている”。
「この学校、嘘が多いね」
阿佐見はそう言って、微笑んだ。
その笑顔は、昨日よりもずっと“本物”に見えた。
でも、それが逆に怖い。
「雪菜さん。
一緒に探してみない?」
「……何を」
「嘘をついている人を」
その瞬間、私は悟った。
これはただの“財布紛失”じゃない。
もっと大きな何かの、最初の一歩。
そして――
阿佐見悠は、最初からその一歩を待っていた。
阿佐見の「嘘をついている人を」という言葉が、
教室のざわめきの中で、やけに静かに響いた。
まるで、私だけに聞こえるように。
「……どうして、そう思うの」
自分でも驚くほど、声が小さかった。
聞かれたくなかったのかもしれない。
誰に、というわけでもなく。
阿佐見は、少しだけ目を細めた。
笑っているようにも、考えているようにも見える曖昧な表情。
「理由は、あとで話すよ。
今は……雪菜さんと一緒に見たいんだ」
“見たい”。
その言い方が、妙に引っかかった。
まるで、
私がどう反応するかを知っている人の言い方だった。
「……別に、私じゃなくてもいいでしょ」
そう言ったつもりだったのに、
声が少し震えていた。
阿佐見は、すぐには答えなかった。
教室のざわつきを一度見渡してから、静かに言った。
「雪菜さんじゃないと、意味がないんだ」
心臓が、ひどく冷たくなった。
意味がない?
どうして私なの。
どうして、そんなふうに言えるの。
聞きたいのに、聞けない。
聞いたら、何かが壊れる気がする。
「……とりあえず、香帆さんの席に行ってみよう」
阿佐見はそう言って、自然に歩き出した。
まるで、最初からそうするつもりだったみたいに。
私は一瞬迷ってから、後を追った。
香帆の席の周りには、数人の女子が集まっていた。
心配しているというより、
“事件の中心にいたい”という好奇心の方が強いように見える。
香帆は、机に突っ伏すようにして座っていた。
泣いているわけではないけれど、
目の奥が赤い。
「……大丈夫?」
美咲が声をかけると、香帆は小さく頷いた。
「財布、ほんとにないの。
昨日、帰る前に気づいて……」
「拾ったって言ってる人は?」
「……分かんない。
チャットで“拾った”って言っただけで、
誰か名乗らないの」
香帆の声は震えていた。
その震えが、妙に胸に刺さる。
――嘘のせいで、誰かが傷つく。
それは、私が一番よく知っていることだ。
阿佐見は、香帆の机の上を静かに見つめていた。
何かを探すように。
何かを思い出すように。
「……雪菜さん」
小さく呼ばれて、私は顔を上げた。
「昨日、文芸部の前で言ってたよね。
“隠れてた人がいたみたい”って」
「……言ってないよ」
「うん。知ってる」
知ってる?
じゃあ、どうして――
阿佐見は続けた。
「でも、あの場所には“誰か”いたんだよ。
雪菜さんが知らないだけで」
胸の奥が、ぎゅっと縮まった。
どうしてそんなことが言えるの。
どうして、そんなふうに断言できるの。
阿佐見は、香帆の机の端に置かれた小さなキーホルダーを指先で示した。
「これ、昨日は……ここになかったよね」
香帆が驚いた顔をした。
「え……なんで分かるの?」
阿佐見は答えなかった。
ただ、静かに香帆を見つめていた。
私はその横顔を見ながら、
胸の奥に広がる違和感を抑えられなかった。
――阿佐見悠は、知りすぎている。
財布のことも。
文芸部のことも。
私のことも。
そして今、
“昨日ここに何があったのか”まで。
まるで、
全部、最初から知っていたみたいに。
香帆の席の周りは、まだざわざわしていた。
誰もが“事件の中心”にいたいだけで、
本気で心配している人は少ない。
そんな空気の中で、
阿佐見だけが、妙に静かだった。
「……雪菜さん」
小さく呼ばれて、私は顔を上げた。
「昨日の放課後、文芸部の前にいた人。
たぶん、この件に関わってる」
「……どうしてそう思うの」
聞きながら、自分の声が少し震えているのが分かった。
怖いのは“事件”じゃない。
阿佐見が、知りすぎていることだ。
阿佐見は、香帆の机の端に置かれたキーホルダーを指先で軽く触れた。
「これ、昨日はここになかった。
香帆さんの机の上じゃなくて……床に落ちてた」
香帆が驚いた顔をした。
「え……なんで知ってるの?」
阿佐見は答えない。
ただ、静かに香帆を見つめている。
私はその横顔を見ながら、
胸の奥がざわざわと波立つのを感じていた。
――どうして、そんなことまで知ってるの。
香帆は不安そうに唇を噛んだ。
「……じゃあ、誰かがここに来たってこと?」
「うん。
しかも、香帆さんの席を“探した”人だ」
探した。
その言葉に、教室の空気が少しだけ変わった。
「なんで……?」
香帆の声は震えていた。
阿佐見は、少しだけ視線を落とした。
まるで、言うべき言葉を選んでいるように。
「財布を“拾った”って言った人は……
本当は拾ってない。
拾ったなら、ここに来る必要はないから」
私は息を呑んだ。
――確かに。
拾ったなら、届ければいい。
わざわざ“探す”必要なんてない。
でも、阿佐見の言い方は、
“推理”というより“確認”に近かった。
まるで、
最初から答えを知っている人の言い方。
香帆は不安そうに私を見る。
「雪菜……どうしよう……」
私は何も言えなかった。
慰める言葉も、励ます言葉も、
全部“嘘”になりそうで。
そのとき。
「放課後、少し時間ある?」
阿佐見が、私にだけ聞こえる声で言った。
「……どうして」
「現場を見たいんだ。
昨日、誰がここに来たのか。
何を探したのか。
そして……どうして“雪菜さん”が気づかなかったのか」
胸が、ひどく冷たくなった。
どうして私が気づかなかったのか――
そんなこと、私が一番知りたい。
でも阿佐見は、
まるで“答えを知っている側”の人間みたいに言う。
「……分かった。放課後」
そう答えた瞬間、
阿佐見は静かに微笑んだ。
その笑顔は、昨日よりもずっと柔らかくて、
でもどこか、痛みを含んでいるように見えた。
まるで――
私がこれから知ることを、
阿佐見だけが先に知っているみたいに。
放課後のチャイムが鳴ると、
教室のざわめきは一気に軽くなった。
私は鞄を持って立ち上がる。
阿佐見は、もう廊下にいた。
まるで、私が来るのを知っていたみたいに。
「行こうか」
その言い方は自然なのに、
どこか“待っていた”響きがあった。
私は頷き、二人で廊下を歩き出した。
昨日と同じ廊下。
同じ光。
同じ匂い。
でも、今日は違う。
“事件の現場”として見ると、
空気が少しだけ重く感じる。
「ここだよね、昨日の場所」
阿佐見が立ち止まる。
私は無意識に息を呑んだ。
「……うん」
阿佐見は、ゆっくりと周囲を見渡した。
その視線は、まるで“記憶をなぞる”ようだった。
「雪菜さん。
昨日、ここに来たとき……何か違和感はなかった?」
「……別に。いつも通りだった」
「そう。
“いつも通り”って、便利な言葉だよね」
その言い方が、胸に刺さった。
阿佐見は、文芸部の扉の前にしゃがみ込んだ。
床を指先で軽くなぞる。
「ここ、見て」
私は覗き込む。
床に、薄く擦れた跡があった。
誰かが靴で踏んだような、
でも“立ち止まった”ような跡。
「……これ、昨日はなかった」
「どうして分かるの」
聞いた瞬間、
阿佐見は一瞬だけ目を伏せた。
「分かるよ。
だって、昨日の雪菜さん……
ここを避けて歩いたから」
心臓が跳ねた。
「……なんで、そんなことまで」
「見てたから」
その言葉は、
優しいのに、どこか怖かった。
阿佐見は立ち上がり、
部室の隅にある古いロッカーの前に立った。
「昨日、ここに“誰か”いた」
「……どうして言い切れるの」
阿佐見は、ロッカーの取っ手を軽く触れた。
「ここだけ、埃が落ちてる。
誰かが触った跡だよ」
確かに、取っ手の周りだけ埃が薄い。
「でも……それだけじゃ」
「雪菜さん。
昨日、君はここを見なかった」
「……見てないよ」
「だから、気づかなかったんだよ」
その言い方は、
まるで“雪菜の過去”を知っている人のようだった。
胸の奥がざわつく。
「じゃあ……誰がここにいたの」
阿佐見は、少しだけ間を置いてから言った。
「“拾った”って言った人だよ」
私は息を呑んだ。
「じゃあ……その人は、
財布を探してたんじゃなくて……」
「うん。
“何か別のもの”を探してた」
阿佐見の声は静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
「雪菜さん。
この事件……
財布よりも大事な“何か”が隠れてる」
その言葉が、
冬の空気より冷たく胸に落ちた。
文芸部の前の廊下は、放課後の光に照らされて、
どこか薄暗く見えた。
阿佐見は、ロッカーの前に立ったまま動かない。
その横顔は、何かを思い出しているようで、
でも、どこか“覚悟”のようなものも感じられた。
「雪菜さん」
静かに呼ばれて、私は息を呑んだ。
「昨日、ここにいたのは……
“拾った人”じゃないよ」
「……じゃあ、誰?」
阿佐見は、少しだけ目を伏せた。
その仕草が、胸に刺さる。
「“落とした人”だよ」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「……香帆が、落としたってこと?」
「違う。
“落としたふりをした人”」
胸の奥が冷たくなる。
「どういう……こと?」
阿佐見は、ロッカーの取っ手を軽く押した。
ギィ、と古い金属音が響く。
中には、何もない。
でも、埃の薄さが不自然だった。
「ここに、何かが入ってた。
財布じゃない。
もっと小さくて……もっと大事なもの」
私は息を呑んだ。
「じゃあ……その人は、
財布を“拾った”んじゃなくて……」
「“隠した”んだよ」
阿佐見の声は、静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
「香帆さんの財布は、最初からここにはなかった。
でも、“何か”はここにあった。
それを隠した人が、
“拾った”という嘘をついた」
私は震える声で聞いた。
「……なんで、そんな嘘を?」
阿佐見は、ゆっくりと私の方を向いた。
その目は、
私の過去を知っている人の目だった。
「雪菜さん。
嘘ってね……
“誰かを守るため”につかれることがあるんだよ」
心臓が止まりそうになった。
その言葉は、
私の“過去の嘘”に直結していた。
「……誰を、守るため?」
阿佐見は、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑顔は、痛みを含んでいた。
「香帆さんじゃない。
“拾った人”でもない。
守られたのは……
“別の誰か”だよ」
私は喉が固まって、声が出なかった。
阿佐見は続けた。
「雪菜さん。
昨日、君がここを通ったとき……
“誰か”がこのロッカーにいた。
でも君は気づかなかった。
気づけなかったんだ」
「……どうして」
「だって、その人は……
“君が一番、見たくない人”だから」
胸が、ひどく痛くなった。
「……誰?」
阿佐見は、静かに言った。
「雪菜さんの“過去の嘘”に関わった人だよ」
世界が一瞬、止まった気がした。
その瞬間、
廊下の向こうから足音が聞こえた。
軽い足音。
聞き慣れたリズム。
私は振り返る。
そこに立っていたのは――
美咲だった。
「……雪菜?」
その声は、いつもと同じなのに、
どこか違って聞こえた。
阿佐見は、私の横で小さく息を吐いた。
「ね。
“拾った人”じゃなかったでしょ」
私は震える声で言った。
「……美咲が……?」
美咲は、驚いたように目を見開いた。
でも、その目の奥に――
罪悪感の影が見えた。
「違うの、雪菜。
私は……私は……」
阿佐見が静かに言った。
「美咲さん。
昨日、ここで何を探してたの?」
美咲は唇を噛んだ。
涙が滲む。
「……ごめん……
雪菜のせいじゃないの……
私が……守りたかったのは……」
その声は震えていた。
「……阿佐見くん、だったの」
世界が、音を失った。
美咲は、ロッカーの前で立ち尽くしていた。
泣きそうな顔で、でも泣かないように必死に堪えている。
その姿が、胸に刺さった。
「……美咲。
どうして、こんなことしたの」
声が震えていた。
怒りじゃない。
悲しみでもない。
ただ――
理解できない痛みがあった。
美咲は唇を噛んだまま、
ゆっくりと私の方を向いた。
「雪菜……ごめん。
でも、私……どうしても、守りたかったの」
「誰を?」
美咲は、阿佐見を見た。
その瞬間、
胸の奥がひどく冷たくなった。
「……阿佐見くん、だったの」
阿佐見は驚いたように目を見開いた。
でも、すぐに静かに目を伏せた。
「美咲さん……
どうして、僕を?」
美咲は震える声で言った。
「だって……
あなた、知ってるでしょ?
雪菜の“過去の嘘”のこと」
私は息を呑んだ。
美咲は続けた。
「雪菜は知らないけど……
あの嘘のせいで、雪菜は全部失った。
友達も、居場所も……
自分のことも信じられなくなった」
胸が痛い。
でも、止められない。
「でもね……
あの嘘って、
本当は“雪菜を傷つけるため”じゃなかったの」
美咲は涙をこぼした。
「“阿佐見くんを守るため”につかれた嘘だったの」
世界が、音を失った。
阿佐見は、静かに目を閉じた。
その表情は、痛みを抱えた人のものだった。
「……知ってたの?」
私の声は、かすれていた。
阿佐見は、ゆっくりと頷いた。
「うん。
僕は……全部知ってる。
雪菜さんが、僕の代わりに傷ついたことも。
君が何も知らずに、ひとりで苦しんだことも」
胸が締めつけられた。
「じゃあ……
どうして言ってくれなかったの」
阿佐見は、私をまっすぐ見た。
その目は、優しくて、痛くて、
どこか泣きそうだった。
「言えるわけないよ。
“君が傷ついたのは僕のせいだ”なんて……
そんなこと、言えるわけがない」
私は息を呑んだ。
阿佐見は続けた。
「だから……
せめて、君が“嘘に負けないように”って思った。
小さな嘘からでいい。
一緒に解いていけば、
いつか……君が自分の過去の嘘にも向き合えると思った」
その言葉は、
優しさでもあり、
罪悪感でもあり、
祈りのようでもあった。
美咲は泣きながら言った。
「だから私……
阿佐見くんがまた巻き込まれないように、
財布を“拾ったふり”をしたの。
本当は……
阿佐見くんが疑われそうだったから」
私は震える声で言った。
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