夜ひそか、月さやか


 そこに居るのは誰か、と声がかかって伊織が振り向くと道場の薄闇にぼうと大きな蛍のような光が入ってきた。
 それは手燭の灯りで、持っていたのは伊織の養父であり剣の師となった宮本武蔵の世話人である女性、正雪だった。ほのかな光と共に彼女の色素の薄い髪が揺れる。
「誰かと思えば…伊織か。こんな夜半に何をしているのだ?皆もう寝静まったというのに」
「少し、眠れなくて」
 そうか、と短く応えてかすかに悲しげな顔をした正雪は道場へ入ってきた。ゆらゆらとした影がうすら伸びて、それが目に入った伊織は過ぎった記憶に顔を顰める。
「…眠れぬのなら、私が一緒に寝ようか」
「いい。いらない」
「ならば部屋へ戻りなさい。昼に起きているのだから夜は眠るものだぞ」
「…眠れない」
「堂々巡りか…何故、眠れないのか聞いてもいいだろうか」
 問われて伊織は背後を見る。開け放たれた外への扉の向こうの空は薄曇り、今は月が見えない。
「さっきまでは明るかったからだ。…月が出ている夜は、まだどうしても思い出してしまう」
 ぽつぽつと言葉を落とす。月の光を見て眠るとまだ褪せない記憶が伊織を容易にあの血塗れた湊の夜へと連れていく。誰かと共にいれば、その人間が次の瞬間には事切れている想像が止まらない。
 それならひとり、部屋の隅にでも転がって変わらない夜の音を聞いている方が余程楽だった。次の日は流石に辛いが、もはや武蔵に弟子入りした身ではそうも言っていられないしそのうち慣れると思っていた。
「その口ぶり…これが初めてではない、か。傍にいるのに気づいてやれずにすまなかった。…しかし、そうか。それなら私にもやりようはあるかな」
 一通り話し終わると伊織の話を聞くあいだ一言も発さなかった正雪が優しく言う。手に持った灯りを床に置き、道場の隅に片付けられていた木刀を持った。
 ちょうど雲が流れたのか、道場をしらじら月の光が照らす。
 淡い月光を何条も集めたような色合いをした正雪の束ねられた髪がゆらりと踊る。
 月の化身のようなうつくしい女がひとり、真剣な眼差しをして伊織を見据えて言った。
「剣を、伊織。一戦仕る」
「は?」
「来ないのか。ならばこちらから行こう」
 正雪が踏み込む。うっかり見惚れていた伊織が慌てて木刀を構えても、所詮はついこの間二天一流の道へ足を踏み入れた子供にすぎない。伊織は瞬く間に正雪によって床に転がされていた。容赦のない剣を食らい、肩としたたか床に打ち付けた背中が痛い。
「どうだ?」
「只管に背中が痛い…。急に何をするんだ正雪」
「強さと云うのは無形だ。故に直接確かめてみなければ実感できないものと云える。…武蔵殿の側に控えるのであればこれくらいは出来ねばな。ほら、これで問題はない。後、毎回云うが年上には敬意を持ちなさい。あなたの義姉でもあるのだから」
「問題とは」
「…人の話を…、まあいい。たとえ伊織が心配するような襲撃があっても、私は大丈夫だと云う事だ。…私は人より多少、頑丈に出来ていることもあるし」
 ほら、と伸ばされた手を自然に取る。ぐっと起こされ、木刀は没収された。その間も正雪の手は伊織の手のひらを優しく捕らえていた。柔らかくすべすべした手は伊織に比べると少しだけ冷たく、けれどすぐに同じくらいにぬくもった。
「さて、では寝ようか」
「…正雪は来なくても…」
「こら。そのまま意識を飛ばしても良かったのだぞ?それくらいは容易い話だ。今はまだ」
「今は?正雪は、俺は強くなれると思うのか」
「なれる。…ふ、私の目に狂いはない。きっと伊織は強くなる。私も、武蔵殿も敵わないくらいになるかもしれないな。ちゃんと眠れば、の話だが」
「ぐ。…そう来たか」
 きゅ、と不意をついて手に力を込めると、落ち着いて同じだけの力が返される。今はまだ、童の伊織より彼女の手の方が僅かに大きいようだった。
「そのうち夢など見なくなる。それまでは…少し、人を頼ればいい。私で良ければ、いつでも力になる」
「…本当に?」
「嘘だと思うなら試してみるといいのではないか?」
 ほんのわずか表情を緩めて珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべた正雪が伊織を見下ろす。武蔵は伊織という弟子に対して手心は加えないので、久方ぶりの子供扱いにどこか胸がくすぐったくなるような気持ちと、子供ではない扱いをして欲しいと思う不満めいた感情の両方を覚えた伊織はそのどちらもを満たせる言葉を探して目をさ迷わせた。
「じゃあ…、少しの間でいい。話に付き合ってほしい」
「承った。声が周りの迷惑になってしまうから、私の部屋へ来るといい。その代わり朝餉の支度は手伝ってもらうことになるが、構わないだろう?」
「ああ。…慣れてる」
 よく手伝っていた、と過去を振り返る言葉が自然に零れたことに伊織自身が一番驚いた。動揺して思わず傍らの女を見上げると、正雪は優しく微笑んでいる。


 結局その日はろくに話すことなく、言葉巧みに誘われた彼女の布団で眠ってしまった。懸念していた夢なぞ欠片どころか影もなく、そこには恐れも憤りも衝動も、伊織を追い立てるものは何もなかった。
 覚えているのは、頭を撫でる柔らかな手。
 もはや望んでも届くことのない、甘やかな月の夜の記憶。
 手紙ひとつ兄妹に残し彼らの前から通り過ぎていった女が伊織に対して残していったのは、そんなかたちのない思い出たちばかりだった。
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